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  4月の森リンベスト5から
   ババーン君の作文(小3以下の部)
   一休さんの作文(中1の部)
  M君からのメール
言葉の森新聞 2004年5月3週号 通算第839号
文責 中根克明(森川林)

http://www.mori7.com/mori/
4月の森リンベスト5から
ババーン君の作文(小3以下の部)
 4月の森リンベスト5の小3以下の課題の部で、ババーン君が1位になりました。ババーン君は小4ですが、3月から始めたので、まだ1学年下の課題で取り組んでいます。ふだんは手書きで書いていて、清書のときだけパソコンで書き直したのだと思います。
 字数は627字、点数は強力語彙65点、重量語彙62点、素材語彙78点で、総合点は70点でした。70点というのは、小4の部でも1位となる点数でした。
 その作品を紹介します。
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 普通の登校は歩きが多いだろう。また、都会のほうへ行くにつれて地下鉄や電車で学校へ登校する人も多くなる。
 でも、歩き、地下鉄、電車のほかにもバスがある。この登校の方法少なくもないと思うが、多くもないと思う。
 ぼくの場合はバスだ。
 歩いての登校の人は、
「・・バスってさあ、歩かなくてもいいからいいよな〜」
って平気な顔してそんな事を言えるけど、もし自分のバスに乗り遅れたとしたら、全身の血の気がぬけて、その場にくずれてしまいそうな気がする。電車も同じく、乗り遅れたら終わりだ。
 ぼくの地域名は荒川口という小さな地域で、学校までは歩いて1時間20分、自転車で30分くらいのきょりだ。
 と中の道はくねくねと曲がっていて、周りは山、川、時々田畑で、隣村(笑)からは、少し家が建っている。
 最初、つまり1〜3年生の頃のバスは新潟交通のバスに行きも帰りも乗っていたが、今は町のバスだ。この話で今一番気になっているのが、色だ。
 ぼくと同じバスに乗る人には分かると思うが、色が古くさいのだ。
 外側の色は、白とねずみ色のみ!!それに比べて他のバスはどうだろう。他のバスは、きれいな色や、絵がたくさん書いてある。ぼくは、
「これじゃあく別じゃないか!」
と思ってかわいそうに思えた。
 もしもぼくがしゃべれるバスだったら、(それじゃあトーマスじゃぁないか)
「もっとはでな色にして!!」
と、一日中叫んでいるかもしれない。

気に入った作文
@:のんのんさん 
  題も内容も楽しいよ〜(〜〜)
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(最後の3行は、ほかの人の作文に対する感想です)

 これは、「学校へ行く道」という題名課題で書いた作文だと思います。この題名は説明文的な内容になることが多く、長く書くのはなかなか難しいものです。それを627字まで書いたのは、説明の途中に自分の思ったことを入れて内容をふくらませることができたからです。また、そのことによって、素材語彙も豊富になっています。「しゃべれるバスだったら、(それじゃあトーマスじゃあないか)」などというところは、思わず笑ってしまいました。
 楽しくのびのびと書いていることが感じられ、読む方も楽しくなってくる作文です。
一休さんの作文(中1の部)
 中1の部では、キティさんと一休さんが78点で同点1位でした。(しかし、森リンの得点は毎日少しずつ変化しているので、今後差が少しつくこともあると思います)
 一休さんの作文の字数は1076字、点数は、強力語彙92点、重量語彙86点、素材語彙70点で、総合点は78点でした。強力語彙の点数が高いのは、よく考えて書いているからです。素材語彙の点数をもっと高くするためには、今後社会実例の材料を増やしていくようにするとよいと思います。
 よく考えて書いていると感じられるところは、例えば次のようなところです。
「『雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物である』という名言があるが、普通には、いらないと感じられている雑草も多面的にみたら素晴らしい植物かもしれない。事実と真実は違っているのである。」
 名言を引用するだけでなく、それを自分なりに消化して書いているところが立派です。
 課題は中1の4.2週「ふだん私たちは、コインを(感)」です。
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 コインは「円型である」と、一般の人は誰でも疑問なく知っている。しかし、コインは「長方形である」とは、一般の人にとって理解しにくいことである。人間の認識一般はある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい言語表現に反映してあらわれる。一面性から「もの」を見ているために、その「もの」の真相がよく見えなくなっているのである。これと深い関係にあるのが「レトリック」である。レトリックとは、物事をもっと別の視点から見て、もっと別の展望がありうるのではないかと、多様的に探求する努力のことである。だから、レトリックは発見的な認識への努力に近いのである。レトリック感覚は、新しい視野を獲得するのにも、相互理解のためにも、必要であるだろう。(要約)だから僕は多面的に「もの」を見た方が良いと思う。
 「もの」を多面的に見た方が良いという理由の第一は、「もの」の真相がよく見えてくるからだ。小学校の担任の先生はとても怒りやすかった。教室にゴミ一つ落ちていると、その周辺の人に、「そこのずんだれ!!」(ずんだれとは、「だらしない」という意味の長崎弁である。)と怒鳴り散らす。また、机が少しでもずれていると、「そこの鼻たれ!!」(鼻たれとは「鼻水をたらした汚い子」という意味でどこの方弁でもない、ただの悪口である。笑)と叫ぶ。しかし、その先生は性格に合わず花が大好きだった。「将来、花屋になりたかった」と言っていた程である。また、食事の時に毛を抜いていたり、授業中に靴のかかとを踏んでいるのである。この先生は、多方向に見ると、まるで「日本の政治」のように奥が深い人である。(体験)このように一見、真面目そうな人も意外な面がある。
 「もの」を多様的に見た方が良いという理由の第二は、自分と相手が理解しあえるからである。友達とは違い、親友というのは、お互いをよく知り合ってこそなれるものである。僕の親友は一面的に見たら真面目な子と思うが、多面的に見ると「へえ、けっこうおもしろい奴だ。」と見なおすのである。僕も意外なところを見られてしまったが、「怪我の功名」、おかげでこの子と分かり合うことができたのである。
 確かに一面的に見て早く相手を理解しようとするのも大切であるが、多面的に見て「人間」「もの」の真実を極めることが、やはり重要なのではないかなと僕は思う。「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物である」という名言があるが、普通には、いらないと感じられている雑草も多面的にみたら素晴らしい植物かもしれない。事実と真実は違っているのである。
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M君からのメール
 言葉の森の昔の生徒で、今は社会人になっているM君から突然メールがありました。インターネットで何かを検索しているときに、たまたま言葉の森にぶつかり、懐かしくなってメールをくれたそうです。
 M君は、今から19年前、言葉の森がスタートしてまもなくの生徒で、当時小学3年生でした。栄光学園中学に合格し、中学生のときにいったん中断しましたがその後再開し、高校卒業まで元気に勉強していました。せっかく勉強した小論文は使いませんでしたが、東大の文一に合格し、今は弁護士をしているそうです。
 メールによると、M君が大学合格の報告に来てくれたときに、私は、「法学部を出て弁護士になるという決まったレールを走るのはつまらない。ベンチャーでがんばれ」と言ったそうです(笑)。M君は、その言葉を覚えていて、次のように書いていました。「自分は特技がテストだというあまり魅力的でない道を選択したが、いつかもっと高い目標に向かっていきたい」と。私は、これを読んで、M君の謙虚さと若者らしい前向きな姿勢に爽やかな感じを受けました。
 日本の社会は安定志向が強いので、いい大学を出れば、それにふさわしい安定した仕事につくのが当然のように周囲が思っています。そういう周囲の漠然とした期待に反して、自分の好きなことを始めるというのはきわめて難しいというのが実情です。しかし、こういう安定志向の風土が変わらなければ、日本の社会は今後ますます沈滞していくように思います。
 楽天社長の三木谷浩史氏は、一橋大を出て日本興行銀行に入りハーバードビジネススクールでMBAの資格を取る勉強をしているうちに、アメリカの同世代の若者たちの起業志向にカルチャーショックを受け、大企業で勤め続けることに疑問を感じ独立しました。
 私たちが今このように豊かな社会で暮らしていけるのは、過去に社会の前線で戦った無数の人たちがいたからです。もちろん、徒手空拳で最前線に行くことはできません。優秀な能力を持った人が、屋台引きから始めるとしたら、そのためにすり減らす能力の無駄の方がはるかに大きいでしょう。だから、学校を出たあとは、実際の社会で何らかの仕事につき、自分の能力を高めていく必要があります。しかし、その社会でそのまま安定した生活を送ることが目的ではありません。社会で身につけた知識や技能を武器に、もっと危険な最先端に行くことが、それらの優秀な人たちに社会が求めているものなのです。
 M君は、ビジネス・ローヤーという現在の仕事が充実していると書いていました。実際に、仕事の中で日々多くのものを身につけているのだと思います。そこで身につけたものを生かし、将来単なる職業としての弁護士ではなく、社会に新しい価値を付け加えることのできる創造する弁護士となって活躍してほしいと思います。
 ひるがえって言葉の森を考えてみると、言葉の森が単に作文を上手に書かせるとか、受験に合格させるとかいう目的にとどまっていたのでは、社会に何も新しい価値を付け加えることにはなりません。それは、八百屋さんや魚屋さんがあるのと同じように、作文教室があるということにすぎないからです。言葉の森があることによって社会の何かが変わったと言われるような仕事をしていくことが、私たちに求められていることだと思います。それは、もちろん八百屋さんや魚屋さんとして仕事をしている人たちについても同様ですが。
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