1998年6月4週号 通算第575号 言葉の森新聞 住所 234横浜市港南区港南台4-7-29-A201 電話 0120-22-3987 ファクス 0120-72-3987 留守電 0120-64-3987 http://www.mmjp.or.jp/shine/ (Yahoo!で"言葉の森"と検索してください) 6月4週は清書です 第4週は、清書です。担当の先生のアドバイスを参考にしながら、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選んで、水色の罫線(けいせん)の原稿用紙(以下、清書用紙と呼びます)に清書してください。送るときは作文と同じように自習用紙にはさんでお送りください。 今回、返却した作文は、4月から5月にかけて書いたものです。新しく教室に入ったばかりの人は、返却される作文がない場合もあります。また、返却された作文の中に清書するようなものがない場合もあります。そのときは、清書用紙に直接、自由な題名で作文をていねいに書いて送ってください。 清書の仕方は、課題集の中の「学習の手引」に書いてあります。原稿用紙の一枚めの左上に小さく自分の生徒コードを書いておくことをわすれないようにしてください。名前を載せてほしくない人は、表には名前を書かずに裏に書いてください。また、清書用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。 この清書は、全員の分を8月から9月にかけて発行する「広場」に掲載し、インターネットに掲載し、そのあと新聞社に送ります。(新聞社に送るのは希望した人のみ) 6月から7月にかけて電話面談 6月から7月にかけて、電話面談で生徒のみなさんの勉強のようすを担当の先生がご説明します。 また、電話面談以外でも、指導に対するご質問やご相談があるときには、いつでもご遠慮なく教室までお電話くださるようお願いいたします。 夏休み中の授業について 帰省や塾の講習で通常の授業を受けられない場合 言葉の森の授業は、夏休み中もほぼ平常どおり行ないます。(くわしくは課題フォルダの中にある予定表をごらんください)。 生徒のみなさんは、夏休み中は田舎に帰省したり塾の講習に参加したりと普段とは違う生活を送る方も多いと思います。このため、通常の授業を受けられない場合は、次のようにしてください。
ただし、勉強は同じように継続していくことが大事ですので、できるだけ欠席にせずほかの日にふりかえるかたちで勉強を続けていくようにお願いします。 ふりかえや欠席の連絡は、自習用紙の連絡欄に書いてくださっても結構ですが、急ぎの場合は教室の留守番電話(0120-64-3987)に録音するか、教室に直接電話(0120-22-3987)をしてお知らせください。 光る表現 ■ ゆりりんさん(あいち/小2)の作文より(めもま先生/月日608)うぐいすと、きつつきとわからないとりのなきごえがしました。木もゆれてて、しぜんとなかよくできました。(ものすごーくステキな日曜日だったね。心も体も元気になりそうだね!) ■ あやさん(あえふ/小2)の作文より(めもま先生/月日608)「いちばんたのしかったことは、人の足が、わかめにみえてまるでうみににてました。」(細かったり、長かったり、太かったり、短かったり、白かったり、毛が生えていたり・・・。色々なわかめがあって、楽しそうな海の底ですね。) ■ ハッピィーさん(せさ/小2)の作文より(真弥先生/月日611)ビーだまみたいのがうえにあがって、まるのかたちが二じゅうになっていて私のほうにちかよってくるようでした。(中略)私とお母さんは花火がきれいなので一こともしゃべりませんでした。[評]臨場感たっぷりで、感動が伝わってくる表現ですね。
■ 栞さん(つて/小2)の作文より(ひかり先生/月日610)私は、折り紙がとくいです。みんなからたのまれておっていましたが、もうだんだん疲れてきたとき友達が「てつだってあげようか?」ときいてくれました。がんばっておりました。とてもつかれました。先生が来て「たくさん! すごくじょうずにおれたね。」といってくれました。とてもうれしかったです。 「評」みんなの分を頑張っておってあげた様子、つかれてきたときに友達がかけてくれた温かい言葉、しあげたときの先生の一言で、つかれもふっとんだようすがよくつたわってきます。 ■ デジモンさん(てつ/小2)の作文より(ミルクティ先生/月日616)めだかとカニはたまごをうんでいたけど、なくなってしまいました。それは、先生が、「あんまり見すぎると、たまごをそだてないぞ。」と、いったのにみんなじろじろ見るから、たまごはなくなってしまったんだと思います。評:どうして、たまごがなくなったのか?…先生の言ったことや、みんなのようすを思いだして、かんがえたことをしっかり書けたね。 ■ プリンさん(あえは/小3)の作文より(スズラン先生/月日611)(ホットケーキを焼いている場面の文から)形がかたまってくると、「ピチ、ピチ」と音をたてます。まるで雨上がりに、水たまりをふんだような音です。その音が聞こえてきたら、ひっくりかえします。評:おいしそうなケーキができそうな音ですね。 ■ ミュウさん(あおえ/小3)の作文より(めもま先生/月日608)「カエルは、あんまりいい声じゃありません。みんなには、『ゲロゲロ』などとしか聞こえませんが、きっと、カエルは、『ねえこんどあそぼうよ。』とかに聞こえるのでしょうか。わたしは、こんなことを考えました。」(カエルとお友だちになる夢をみてしまいそうですね。楽しい夜だなぁ。) ■ ポルシェさん(あおと/小3)の作文より(とも先生/月日610)ご飯まえに自分で作ったたまごやきのおりょうりを少し食べたら、ほっぺたがおちそうなほどおいしかったです。ちゃんとくっついているかな、とかがみを見にいってしまいました。…評:ちゃんとくっついてた?? ■ 千陽さん(あすえ/小3)の作文より(ひかり先生/月日610)一番大変だったのは、ホットケ−キをながしこむところです。たべるとおいしくって「おいしい!」といいました。うちの家族もみんな「おいしい!」といってくれました。うれしかったです。 「評」卵を使ったお料理ということで、早速実際にホットケ−キをつくってみんなに「おいしい!」といってもらってうれしかったようすが、素直に書けている文章です。 ■ ケッピーさん(そゆ/小3)の作文より(ひかり先生/月日611)先に牛乳を「ちょろちょろ」と入れ次に塩を「ぱっぱっ!」とふりかけます。卵を入れておはしで「かちゃかちゃ」混ぜて焼くと「じゅうじゅう」とおとがします。フライパンの上にレモンの様な黄色のスクランブルエッグが広がりました。私はきれいだな−とおもいました。 「 評」音や色や動作を上手く入れて表現しているので、手に取るように読む人につたわってきます。 ■ 知里さん(ちこ/小3)の作文より(ミルクティ先生/月日616)『私が作った目玉焼き』しっぱいしても弟がおなかすいてるときは、たべてくれて、こんなことをいってくれました。「しっぱいしても、なんとかたべれるから。」と言ってくれました。私は、(目玉焼きしかつくれないから、もっといっぱい、たまごりょうりをつくれるようになりたいな。)と思いました。評:弟のために目玉焼きをつくるなんて、やさしいお姉さんだね。会話と思ったことで、じょうずにまとめられました。v(^^) ■ 康平さん(てい/小3)の作文より(スズラン先生/月日608)きゅうりを切っていると…中略…いきおいをつけると「ドンドン」と、まないたの音ときゅうりの「サクサク」という音がまざったのがわかりました。評:きゅうりを切るいい音が聞こえてきそうです。 ■ 康平さん(てい/小3)の作文より(スズラン先生/月日615)カタツムリににんじんをあげると赤いうんちをして、緑色のをあげると緑色のうんちをします。おうちのほうはつるつるしてて、体のほうはぬるぬるしていてきもちわるいと思いました。評:カタツムリを良く見ていましたね。 ■ 香織さん(ねは/小3)の作文より(ひかり先生/月日610)難しいところは、卵をわるところです。なぜかというとぐっちゃになるからです。お母さんは「心がはいっとらんとダメなんよ」といっていました。たべるととってもおいしかったです。するとお母さんは「自分で作るとおいしいでしょう!」といいました。そこへすぐ、お父さんがかえってきたので「ごめんね。お父さんがもうすこしはやかったらいっしょにたべられたのにね。」というと、おとうさんはがっかりしていました。でも「今度日曜日にまた、つくるよ!」というとすぐお父さんは元気を取り戻しました。 「評」おかあさん、かおりちゃん、おとうさんの会話をとうしてその人柄がよく分る、又ほのぼのとした温かい家庭のようすがよくわかる文章です。
■ 博基さん(ふた/小3)の作文より(はるな先生/月日607)どんどんあるきました。ぼくはつかれました。こんなにいっぱいあるくとは思いませんでした。ぼくは「お父さんつかれた!」といいました。お父さんは「もうちょっと」といいました。やっと、すし屋にいけました。・・・・・(評)おとうさんと、おすしをたべにいって、かなり歩いて、たどりついた一軒目のお店は、おやすみで、戸がしまっていて、しかたなく、べつのお店にいくまでの、遠い道のりを、あるくのに、石川君がかなり、バテたようすが、強くつたわってきました。 ■ チビ太郎さん(ああは/小4)の作文より(洋子先生/月日612)フライパンに卵を流しいれたとき、フライパンは、たまごの海です。流しいれたときに出た音は、海の音のようです。(どんな音だったか書き入れておくともっと読む人にわかるよ!)、たまごが一面にひろがったら、たまごをおはしでつつくと小さいなみが来た感じ———巻くときは、大波がきたようでした。(だしまき卵をつくったときの作文です。とてもたとえがユニ−クで上手ですね。先生もウンウンそんな感じがするねとうなずきながら読みました。) ■ 美和さん(あきき/小4)の作文より(めもま先生/月日601)「家でお母さんが作ってくれた、たまごやきは、ほっぺたがおちるぐらいおいしかったです。だから世界一おいしいたまごやき。」(「〜です。〜だ。」ではなく、「世界一おいしいたまごやき。」と題名と同じ文章で作文を結んでいるところが、何とも余韻がステキですね。本当にお母さんの卵焼きがおいしいのだなぁ、ということがうまく書けていますね。) ■ こずっちさん(さへ/小4)の作文より(めもま先生/月日606)「ふんわりしているオムライスに、つめたいケチャップソースをかけました。わたしは、口にいれるのがもったいないほど形が整っていて、やっとおはしできって、口の中へいれました。口の中で、ごはんとたまごがとろっと、とけていきました。(わぁ、おいしそう!!) ■ 瑞季さん(つろ/小4)の作文より(みち先生/月日604)私は、めだまやきをはじめて1人で作りました。はじめは、「ドンくさい私にできるかな」と不安におもいました。けど、「心の中できっとできる!!」と自分をはげましました。〜〜〜。自分でもはじめてにしてはけっこういいと思いました。たくさんハプニングやこまったことがあったけど作ってよかったです。評、心の中の動きを上手に書きあらわしています。がんばりやさんですね。 ■ しっぽさん(ほし/小4)の作文より(スズラン先生/月日609)「もうすぐー、もうすぐ出番だぞぉ。」私は、目の前に引いてある白いラインを、目がいたくなるほど見つめました。心ぞうのドックンドックンという音が、はっきりと聞こえるようでした。評:スタートラインに立ったときのようすがよくでていますね。 ■ SAPPHIREさん(ああす/小5)の作文より(ミルクティ先生/月日616)4月〜6月の作文の題名:『人間としての真実』『マラソン・徒競走、一、二』『不思議になったらすぐ調べる』『自分で作るともっとおいしい?!』『人が喜ぶ手紙はどれだ』評:題名のつけ方に、工夫が感じられます。どんな内容かなぁと読む前にワクワクしますね。(^o^) ■ エガさん(てせ/小5)の作文より(スズラン先生/月日611)めだまやきは、満月みたいになるんだけど、これじゃあまるでつぶれたトマトみたいだった。評:黄身の形で目玉焼きのイメージもかわってくるね。 ■ 良貴さん(との/小5)の作文より(めもま先生/月日601)「僕は、今回のテーマが『たまごを使った料理』と書いたのをみて、はっきり言って、『困ったな。〜〜』と、思い不安になりました。〜そんなときに、お母さんに、『今週のテーマは料理しないとダメだから一しょにやって、目玉焼きを作ろう。』と、言われて、苦しみから解放されたように心が軽くなりました。」(すごーく困って、お母さんのあたたかい言葉にホッとした気持ちがうまく書けていますね。)「僕は、今回のテーマが『たまごを使った料理』と書いたのをみて、はっきり言って、『困ったな。〜〜』と、思い不安になりました。〜そんなときに、お母さんに、『今週のテーマは料理しないとダメだから一しょにやって、目玉焼きを作ろう。』と、言われて、苦しみから解放されたように心が軽くなりました。」(すごーく困って、お母さんのあたたかい言葉にホッとした気持ちがうまく書けていますね。) ■ 良貴さん(との/小5)の作文より(めもま先生/月日608)「ぼくあての、じゅくからのダイレクトメールは知らない人がぼくだけに出しているのではなく、たくさんの人に、同じ物をだしているので、ぼくあてに来ても、ぼくとは関係がないような気がします。それを読んでも、見ても、見なくても、どうっていうことはないように、思います。手紙ってどうして『手紙』と言うのだろうと思っていました。でも、この文章を読んで、手で書くから手紙なのかな、と思いました。手でえんぴつや、ボールペンで、心をこめて相手に書くから手紙と言うのかな。〜(中略)〜ぼくがぼくの友達や、知り合いに、ぼくの手で書くこと、それが手紙なのだと思いました。」(素晴らしいことに気づきましたね。川村君からお手紙をもらった人はきっとうれしいでしょうね。)
■ 惣さん(やき/小5)の作文より(洋子先生/月日609)卵焼きは、いろいろな道具を用意しなければならないし、最後まで集中しておかないとせっかくできあがったたまごやきをこがしたり、こぼしたりしてもったいないということがわかった。(卵焼きを作った作文で山上君は、お料理には、だんどりと集中力が大事だということがわかったそうです。だんどりが悪いと時間ばかりかかってしまうし、気をぬくとこがしたり、ふきこぼしたり、ほんとうに真剣勝負ですものね。そこにきがついたなんてすごいね。将来、御料理の名人になれそうですね!) ■ あおぞらさん(やわ/小5)の作文より(とも先生/月日610)「星の王子様」では、自分の国は自分で守らなければならないということ、本当のお母さんからいじめられ続けた「にんじん」からは、いじめる人の悲しみもわかってあげて、それに負けない強い自分になっていこうということを学びました。又、「モモ」からは、今の社会が失おうとしているものはなにかということ、「クリスマス・キャロル」では、お金と欲深い心だけでは人間は幸せになれないということを読みました。「最後の授業」では、あたり前のことがあたり前でなくなった時、あたり前のことの大切さに気づくのだということを知りました。…評:他のみんなもこれらの本を読んだことがあるはず。みんなどんなことを学んだかな? ■ おさるさん(はる/中1)の作文より(はるな先生/月日607)それから、先生が「だから、6月1日に遠足に行けたら、行くということを、考えていますよ」・・・・・・・私の心の中で、小さなしおれていた花がパッと開いたようだった。、、、、、(評)遠足の当日も、予備日までもが、雨だったとは、(-_-;)、まったくついていませんよね。でも、{6月1日の決行予定}ときかされたときの、はずむように、うれしいきもち!それを、たとえをつかって、たいへんうまくかきあらわせました。三度目の正直で、やっと、その日が、いいお天気になって、本当によかったですね。 ■ ペー吉さん(うき/中2)の作文より(ミルクティ先生/月日611)現在は未来のための準備時間ではないと思う。未来は未来としてしかそこに存在しない。未来のために現在を犠牲にするのではなく、今を生きることが大切なのだ。「人が旅行するのは、到着するためでなく、旅行するためである」という言葉もある。人が生きるのは、未来のためではなく、現在の瞬間を生きていくためだと、私は思う。評:名言を引用した結びに、説得力がありますね。 ■ 蜻蛉切さん(そお/中2)の作文より(ミルクティ先生/月日609)未来とは、想像のつく時間とつかぬ時間の二通りが定義できる。そして、その二通りのどちらに対しても対処できるように現在を生きていく必要があるのだ。が、それだけでよいのか? 「明日がわからないからこそ人生は楽しいのだ」というように突飛な出来事に当たって思うままにふるまってみることもまた大事なことなのではなかろうか? 評:中2の「総合化の主題」「名言の引用」という●項目を、簡潔な文章で、かつ、印象的に書けていますね。 ■ くみこさん(さく/中3)の作文より(ミルクティ先生/月日611)「自分が考えるように生きなければならない。そうでないと、ついには自分が生きたように考えるようになってしまう。」という言葉がある。自分で考えるように生きないと、必ず後悔が残る。本当に今自分がやりたいのか、または自分がやりたいことにつながって自分が楽しめているのか、それを考え、今をもっと楽しまなければいけないのだ。私も親に流されてしまいがちだが、はっきりと自分の考えを持って今を楽しむ達人になりたいと思う。評:名言を引用しながら、最後は自分の生き方に結びつけて主題を書いたところが、うまいです
「幸福な家庭はみな同じように……」 (未来教育フォーラムより転載)「幸福な家庭はみな同じように幸福だが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」と、トルストイは言いました。同じことは、さまざまなものごとにあてはまるようです。 「健康な人はみな同じように健康だが、病気の人はそれぞれに病気である」(あたりまえじゃ) 「勉強のできる人はみな同じように勉強ができるが、勉強の苦手な人はそれぞれに苦手である」 勉強のよくできる人に共通する特徴というものがあります。生活習慣がきちんとしている。目標意識が強い。いい意味での執着心がある。などなど。(もちろん、中には、生活がだらしなくて、いつもいいかげんで、点数なんて全然気にしない「天才」なんていう人もいるかもしれませんが、それは大人になってからの例外で、小中学生の場合には、そういうケースはまずないと言っていいでしょう) 逆に、勉強の苦手な人は、それぞれに異なる原因をかかえているようです。それぞれに異なる原因を持っているので、対策もそれぞれに異なるものが必要になります。しかも、その原因の多くは自覚されていないことが多いようです。 健康や勉強以外に、もっと大きく、実は人生の成功や不成功についても同じことが言えるのではないかと思います。うまくいかない人は、それぞれにうまくいかない原因を持っています。しかも、それは自覚されない生活習慣のようなかたちでその人の人生に組み込まれています。 人はみな、幸福で、健康で、勉強ができて、人生に成功する権利があります。逆に言えば、不幸で、病気がちで、勉強が苦手で、いつも失敗ばかりの人生を望むような人はひとりもいません。 これらの、人生にいちばん大切なことをトータルに研究する学問分野が、人文科学の中にあってもいいと思うのですが……。将来、だれか研究してみないかあな。 地球も「病は気から」 (未来教育フォーラムより転載)知識は実感も変えるようです。 以前は、平らな土の上を歩いているような感覚で散歩をしていましたが、地球や宇宙の本を読んでいるうちに、途中から地球という星の上を歩いているという感覚を持つようになりました。最近はなぜか、地球という大きな生き物の上を歩いているという感覚で散歩をしています。 人間と同じように地球もひとつの生き物で、草木が地球の一部として生えているように、人間もあるいは地球の一部として地上を歩いているのかもしれません。 今、地球は病んでいます。それは絶滅する生物の種の加速度的な増加が示しています。この地球を救うものは何でしょうか。人間の病気にあてはめて考えてみることがひとつのヒントになりそうです。 ヒトはなぜ病気になり、なぜ治るのでしょうか。病は気からと言うように、明るい前向きの気持ちでいるときは病気になりにくいということは多くの人が認めることです。また、病気を治すのに薬や手術はひとつのきっかけになりますが、健康を回復する根本の要因は内部の自然治癒力にあるということも多くの人が知っています。 とすると、地球が明るく前向きな気持ちで太陽の周りを回れるように、私たち人間が、地上のすべての人や生き物が幸福に暮らせる世界を作る責任を持っていると言えるのかもしれません。 花はなぜきれいに咲くのか (未来教育フォーラムより転載)花はなぜきれいに咲き、鳥はなぜいい声で歌うのでしょうか。(えーっ、カラスもいい声なの、なんてつっこみはいれないこと) 同じことは、ヒトにも言えます。なぜ人間はきれいな服を着るのでしょうか。 これを、虫を呼ぶためとか異性をひきつけるためという理由で説明するのは、ものごとの一面だけを見る見方です。もうひとつの根本的な理由は、きれいになるのがうれしいからだということです。花も鳥も虫も人も、美しくなることがうれしいから美しくなろうとしているのです。「美」は、「利益」とは別に存在する、世界を貫くひとつの大きな原理です。 作文を書くときにも同じことが言えます。人はなぜ文章を書くのでしょうか。そのひとつの理由は、美しい文章を作るのがうれしいからだ、というところにあると思います。
消費者の時代から生産者の時代へ (未来教育フォーラムより転載)資本主義は膨大な生産力を生み出しました。地球上にはまだ飢えに苦しむ貧しい国々が残っていますが、それは経済の問題というよりも、もはや政治の問題になりつつあります。現在、この膨大な生産力が生み出した膨大な富は、貧しい人々を潤す方向には向かわず、巨大なマネーゲームの中だけで循環してバブルを準備しています。 人類がこの富をより人間的にコントロールできるようになったあとにやってくる社会は、消費者の社会ではなく生産者の社会です。 人間は、消費者であるときには一面的な満足感しか得られません。生産者であるときに初めてトータルな満足感を得ることができます。 あるモノを、買う人と売る人とがいたとき、生き生きとしているのは売る側の人の方です。同様に、あることを、教える人と教わる人とがいたとき、生き生きとしているのは教える側の人の方です。講演会でいちばん生き生きとしているのは講演している人であり、講演を聴く人はときどき居眠りをするぐらい退屈しているものです。 生きがいのある人生とは、作り、売ることが主になった人生であり、決して使い、買うことが主になった人生ではありません。エジソンは、電球を作る研究をしているとき二日間寝ずに仕事をしたことがあったそうですが、これは創造することが喜びであるからできることであって、これがもし二日間寝ずにテレビの娯楽番組を見るということであったら、ギネスブックに載るという目標でもないかぎり決してできはしないでしょう。 しかし、もちろん今の社会の仕組みのままで、生産が喜びとなるわけではありません。今の社会は、生産者の人間的な成長や喜びを考慮しないむしろ非人間的な努力の上に高い生産性(低いコスト)を実現しており、その高い生産性の恩恵を消費というかたちで社会に還元しているからです。つまり、「仕事は給料のために仕方なくやって、本当の人生は休日の消費にある」という仕組みになっているのです。 将来実現されるべき理想の社会はこれとは逆の社会です。つまり、「仕事は楽しいからやっており、休日の消費はほかの人の生産を助けるためにやる」という社会です。 この社会の具体的なイメージはこうです。生活の必需品は機械的な大量生産で人手をかけずに安価に(または無料で)まかなわれており、必需品以外のより個性的で芸術的な消費は、街の多数の小売店や小工房によってまかなわれています。すべての人が自分の店や工場を持ち、人に雇われて不本意な労働を強制される人はいません。この社会での唯一の義務は、自分で作ったり売ったりするばかりでなく、ほかの人の作ったものも買わなければならないということです。これを義務感という感覚なしに行なうために、所有している時間が長いほど富の価値が減少していくという仕組みがデジタルマネーで作られているでしょう。つまり、お金は、野菜や魚と同じ生鮮品として流通しているのです。経済を循環させる血液がお金であることを考えると、現在のお金の性格は循環することよりも滞ることに傾きがちだという弱点を持っています。 この時代には、教育のかたちも大きく変わります。先生が生徒を一方的に教えるというスタイルはほとんどなくなり、パソコンの中に入った教科書をもとに、生徒どうしが教え合うというかたちが主流になります。このときの学習の雰囲気は、ほとんど遊びと同じような生き生きとした主体的なものになるはずです。もちろんそのころの教科書は、今のように先生が教えることを前提としたうすっぺらで無味乾燥なものでなくもっと充実したものになっています。また教科書そのものがインターネットにつながっているでしょうから、ある教科が苦手な子はいくらでも易しい方へさかのぼることができ、逆にある教科が得意な子はいくらでも難しい方へつきすすむことができるようになっているでしょう。 こういう時代に大事なことは、「人の上に立つこと」ではなく「自分のしたいものがあること」です。きれいな花を見るためにより見やすい位置に登ることではなく、自分が今いる場所で花として咲くことです。そういう未来がすでに始まりつつあります。 インターネットの世界では、今、無数のホームページが生まれています。このホームページを利用して自分の好きなことを自由に発信できる環境が整っています。資本や組織がなくても個性とこだわりだけでだれでも自由に商売ができる環境が生まれつつあるのです。アクセス数は、現在一方通行的に表示されるだけですが、このアクセス数を投票権と見なすようなデジタルマネーの仕組みができれば、情報のやりとりにマネーの流れが対応するようになり、情報の質と量は加速度的に高まるでしょう。このマネーの流れが定着すれば、それを現実社会のお金と対応させる仕組みももちろんできるようになります。それは、商品券や図書券やパチンコの賞品がお金と換金できることと同じにです。この流れが更に広がれば、やがて、現実社会のお金よりもインターネットでのマネーの方が主になる逆転現象も起きてきます。やがて、お金の本質が紙幣や小銭などの外観にあるのではなく、その投票権としての性格にあるのだという理解が定着してくれば、政治の世界もマネーの世界に取り込まれるようになるでしょう。 現在の政治は、数年に一回の選挙だけで、その間の有権者の声はほとんど無視されています。選挙のときだけぺこぺこして選挙が終わればふんぞり返るという今の政治家の姿勢と同じことを街の小売店がやれば、間違いなくその店は衰退していきます。それは、小売店は日々モノを買ってもらうというかたちで日々投票されているからです。政治における投票が、日常的にお店でキャベツや大根を買うように手間をかけずに日々行なわれるようになれば、言葉の真の意味での民主主義が実現するようになります。そうなれば、政治も本当に政治にふさわしい人によって担われるようになり、社会の進歩はここでも飛躍的に加速されるでしょう。 いま、私たちはこういう激変の時代の前夜に生きているのです。
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