http://www.mmjp.or.jp/shine/ 1999年1月3週号 通算第602号 shine@japan.email.ne.jp

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  12.1週の作品提出が遅れた人の進級の点数

 12.1週の作文は、12月18日までに講師から事務局に到着したデータをもとに集計しましたので、作品の提出が遅れた場合、賞状の集計データの中に入らなかった場合があります。それまでよくがんばって書いていたのに、その12.1週の作品の提出が遅れたために全体の点数が低くなってしまった人が何人かいたようです。12.1週はテストという扱いでしたので、いい作文を書くために12.1週だけ提出が遅くなったという人もいたようです。(12.2週の作文の方が先に来て、12.1週はあとから提出したという人もいました)

 今学期は、このように提出が遅れる場合を考慮して集計の締め切りを遅くしていたのですが、次の学期からは、もう一週間ほど、集計の日数に余裕を持たせていきたいと思います。

 また、点数の集計には、清書の週の点数や国語テストの点数も入っていますので、清書や国語テストもわすれずに出すようにしてください。

  1.3週のヒント

  小3・4年生 1.3週 小学校一年生の(感)

 うそをつくつもりではないのに、つい言葉のはずみで「となり村の水車小屋へ、米を一ぴょうついてもらいに……」などと言ってしまうような経験(けいけん)は、みなさんにもあるでしょう。一年生の子供が、となり村まで米をはこんでいくなんて、とうていできそうもないのにね。

  小5・6年生 1.3週 ソクラテス(感)

 知らないことを「知らない」というのは大事なことです。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生(末代)の恥」などということわざをお母さんやお父さんから聞いたことがある人もいるでしょう。お兄さんやお姉さんがいる人は、「ソクラテスか。それは『無知の知』って言うんだよ。そんなことも知らないのか。はっはっは」と自慢されたりするかもしれません。おっと、知っているつもりがいちばん危ないんだった。

  中学生 1.3週 ラレルは(感)

 言葉は、効率のよさを求めて歴史とともに変わっていきます。その変化の背後には、多くの人の支持があります。普段の生活でも、「見れる」「食べれる」「来れる」という言葉はごく普通に使われています。長文の筆者は、言葉の本質は保守的なものだという考えから、「見られる」「食べられる」「来られる」という正しい言葉を使おうと主張しています。言葉にかぎらず、新しいものと古いものの対立はほかにもいろいろありそうです。

 昔話などの似た話は、「ラレルという言葉」という取り上げられた題材に近いところでさがそうとしても見つかりません。「新しいものと古いものの対立」という、より抽象化された主題に近いところでさがしていくのがコツです。そうすると、古いものを捨てようとした「○○○○山」などの話が思いつきそうでしょう。童話では新美南吉の「おじいさんのランプ」なども似ていますね。

  高・大・社 1.3週 現在、子供の(感)

 問題のある子供がいた場合、専門家は専門的な知識によって、「それは学習障害です」とか「それは自閉症です」などとレッテルをはって済ませてしまいがちです。しかし、肝心の子供を救うのは、そういう専門家の知識ではなく、生身の人間の接触であることが多いものです。

 学校でも、ベテランで知識や経験の豊富な先生のじょうずな授業よりも、新任の先生の試行錯誤の熱心さの方が、子供に与える影響は大きいということをよく聞きます。みなさんにもそういう経験はありませんか。

 子供の問題にかぎらず、広く人間の問題としても考えられそうです。

 話はやや飛躍しますが、先生(森川林)がファイナルファンタジー4に熱中していたころ、最後のゼロムスとの戦いの場面で、倒れた主人公セシルに、仲間の祈りの声がとどく場面があります。「パロムが祈った」「ポロムが祈った」などその祈りの声が次々に届くと、なんと倒れたセシルがもう一度立ち上がってしまうのです。あれは感動的でした。

 昔話では、王子様の口づけで目覚めるお姫様とか、お姫様の愛情でカエルから人間に戻る王子様とか、人間の熱意がものごとを動かす例がいくつかあると思います。

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  ミスプリント

 小1の1.2週の漢字の問題で「さしすせそ」となるところが「さしすてと」となっていました。

 中学生の長文の8ページ上の段左から16行目「学生を待たせて」が「学生を持たせて」となっていました。

 ミスではありませんが、「そっ啄の機」の「啄」の字がパソコンの辞書によっては「」となり「、」が入らない場合があります。正しくは「啄」ですのでご了承ください。

  子供は認められることを望んでいる

 いまの子供たちは、勉強に関して大きなストレスの中におかれています。スポーツでは、たとえ負けたとしても精一杯がんばったからいいんだよ、という励まし方もできますが、勉強については、こんな成績じゃだめじゃない、と単に批判するだけの反応になってしまいがちです。

 子供がミスをしたときの親の心構えは、口を開く前に心の中で「君はとてもいい子で、お母さん(お父さん)は君のことを大好きなんだよ」と言ってみることだと思います。

 子供は批判の言葉そのものに傷つくのではなく、その言葉が言われたときのニュアンスに傷つくのです。

 暗い顔でためいきまじりに「もうちょっとがんばらなくちゃどこにも行けないわね。はあ」と言われるよりも、明るい顔で「なんだ、こんな成績じゃだめじゃない。ようし、明日からがんばろうね」と言われる方が、子供にとってはずっとうれしいはずです。

 成績をすぐに上げることはできませんが、明るい気分は決心次第ですぐにでも伝えることができます。人生という長い視野で考えると、暗い顔で勉強がそこそこできることよりも、多少成績が悪くても明るい顔で生きている方がずっと価値があることだと思います。

  音読の効用

 音読の効用がいろいろなところで見直されてきています。特に、国語、英語、古文など語学に関する分野では、音読の効果は顕著なようです。

 言葉の森でも、長文の音読をまじめにしている子は、(1)文章を書くのが速くなる、(2)文章の流れがリズミカルになる、(3)学年よりも上の語彙を自由に使える、などの力が自然についてきます。しかし、この長文音読の効果が実感をもって感じられるようになるまでにはかなり時間がかかりますから、長文音読の自習はやはり小学校低中学年の時期から始めるのがいいようです。

 子供たちが文章を書いているときに陥りがちな表記のミスにはいろいろな種類があります。しかし、このミスを一つずつ指摘して直していくことはあまりいい勉強の仕方ではありません。たとえば、「そしてやそれからが多すぎる文」「てんやまるが正しく打たれていない文」「主語と述語がねじれている文」「同じ言い回しばかりで単調な文」などは、指摘されても子供にとってはすぐには直せないことが多いのです。

 しかし、これらのミスは、長文の音読をしているうちに自然になくなっていくものです。理屈での説明は理解を早める効果はありますが、文章力を上達させる根本はあくまでも慣れです。これは、ピアノでも水泳でもサッカーでも、技術を習得する練習にはすべて同じように言えることだと思います。

  昔と比べて減っている勉強時間

 先日、朝日新聞(1999.1.11)に、高校生の勉強時間が昔と比べて減っているという記事が載っていました。それによると、高校2年生一日の学校外での勉強時間は1979年の1日97分から1997年の1日72分に減っているということです。

 小中学生の勉強時間は、たぶん20年前に比べて大幅に増えていると思いますが、逆に高校生の勉強時間は驚くほど減っているのです。しかも、昔は塾や予備校に通う人はむしろ少なく、家で勉強をしていた人の方が多かったはずですから、家庭における勉強時間が大きく変わっているということだと思います。

 同じ調査によると、高校生の勉強時間の減り方には家庭環境の差が大きく、減り方の大きい家庭と小さい家庭に二極分化しているようです。

 話は変わって今、小中学校で先生の授業が成り立たない学級崩壊という減少が各地で起きています。また、大学では授業中の学生の私語で授業ができないというところが増えています。

 これらを重ねあわせてみると、家庭でのテレビ視聴の時間が勉強の時間を圧迫し、あわせて子供たちの集中力をなくしているという事情が考えられそうです。

 テレビやマンガが頭を悪くするということは、まだ正式な調査はありませんがほぼ確実なことだと思います。豊かな社会の豊かさにおぼれないようにするためには、豊かさの享受に自ら制限を設ける自律心が必要なようです。

  早目に過去問を

 中学2年生、高校2年生は、そろそろ受験勉強に入る心構えをする時期です。

 例年、受験生を見ていると、志望校の決定が遅く、したがって過去問も受験間際になってから取り組むという生徒が多いのに驚かされます。

 塾や予備校の指導は一斉指導ですから、ぎりぎりまで一般的な勉強をさせて、最後の仕上げに過去問に取り組ませるという指導をしがちです。しかし、これは、受験ということに関して言えばきわめて能率の悪い勉強の仕方です。

 高校受験ではそれほど大きな学校による差はありませんが、大学受験では学校ごとの出題傾向の差はきわめて大きいものです。過去問をやらずに受験勉強をするのは、地図を見ないでまず何しろ行けるところまで行ってみようというような旅行の仕方と同じです。

 今の時期に過去問をやればできない問題があるのはあたりまえですが、その問題に取り組んでみることで、自分がどこに弱点を持ち、どの分野に重点を置いて勉強をしていけばいいかがわかってくるのです。

 

  郵便ポストより

 パソコンで書いてインターネットから送られたパソコンは、郵便ポストというページに最新40件が掲載されています。

 その中の作文のいくつかを紹介します。インターネットに接続できる人は、作文を書き出す前に、同じ学年のほかの人の作文を読んでみると参考になると思います。書いた人のページに、感想を書くこともできます。

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他面鏡

 私という存在があることほど、不思議なことはないのではなかろうか。自分の個人情報の大半は、自分で定めたものではない。それでも、その私としての生涯を貫かなくてはならない。私の不思議を判らせるのは、児童文学が優れているといえる。自分の人生とは、物語なのだ。

 私は、物語を見て感動するのは、その物語はある側面では自分の鏡になっているからだと思う。他者の目から自分の側面を見ることによって、共感を抱き、自分という存在の持つ物語が他者の物語を共有していることを認識する。私は小学4年生ごろ、「死」について考えたことがある。この頃は「私」という概念ができてきくる頃だというが、ちょうどそれが原因だったように思う。死について考えているうちに、死ぬことによって自分という存在がどうなるのかということを考えた。死ぬことで、自分を自分という認識ができなくなり、何も感じる事ができなくなる状態というのを想像してみた。それはひたすら恐ろしかった。私の生活には不満点が多いが、それでも自分が死に、不満点を無に帰すことは恐ろしいのだ。

 「五龍亭」という本がある。あまり有名ではない小説だ。内容は、ファンタジーの世界で、ある森の中の酒場に十何人かの人間が集まり、昔話をしたり、最近の話をしたりして、自分の人生観を話すという物だ。この中に、ジャノメという泥棒がいる。彼によると、「死は恐ろしくない。むしろ悪くないが、死ぬことによって自分という存在が嘘になるのは恐ろしい」そうだ。だから、彼はなにか大きな事をやり、後世に「生き」続けようとするのだそうだ。

 この話を読んだ時、私は、彼のなかになにか自分と通じるものを感じた。生は時に苦痛であるが、その苦痛すらも、自分の持つかけがえのない財産であり、価値であり、理由であり、物語なのだ。

 文学に限らず、優れた作品には感銘を受ける。それは共感であり、ある意味最も正確にして不正確に写る鏡である。作品の登場人物は作られた人物だが、人間性にリアリティを持たせるため、ある程度は現実味を帯びている。その人間性の中に、共有される生き方、共有される観覚、共有される感覚がある。その、さまざまな面のある鏡に写るのは、時には人生の意味かもしれないし、死の意味かもしれないし、ひょっとしたら小さな笑顔の意味かもしれない。芸術作品とは、他面鏡である。

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・・・眠いっす!(--;)/(ぉぃ)

ぺ〜吉 ● ukiより ● 課題コード08412 99/01/13 20:27:40

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ポイ捨て

 車の窓から空缶が放り投げられる。画面が切り替わり乗用車のドアが開きたばこの吸い殻が道路に捨てられる場面が映し出される。それを見ていた少年が言う。「自分の家の前でも捨てるのかなあ……。」

 これはテレビのコマーシャルであるが、この「自分の家の前でも捨てるのかなあ」という一言にはぽい捨てに象徴される重要な問題が含まれているように思われる。吸い殻を道路に捨てた人を注意するときっとこう言う答えが返ってくるだろう。「私が何をしようと個人の自由だろ。」ジュースの缶に「缶はくずかごに捨てましょう」と言ったことが書いてあるが注意を促す以上の強制力は持たない。それはぽい捨てという行為が全く個人的行為であるからである。戦後権利という力と共に個人の領域はどんどん拡大していった。個人の権利が増えていくと言うとよいことばかりのように思えるが、自分は自分、他人とは関係ないと言った態度が生まれてきたのも事実であろう。ホテル家族やプリッグ症などは「私」の拡大による弊害を象徴的に表しているように思われる。そしてまた「ぽい捨て」も例外ではないだろう。「私」が拡大するにしたがって忘れられてきたものに「公」という考え方がある。この「公」をもう一度見直していくことが大切であろう。

 ではどうすれば良いのか。それは「自分の家」を出ることである。我々はつい私的な空間に閉じこもりがちである。私的な空間は誰にも気兼ねしなくてよいし自分の自由なことも出来る。しかしこのような環境の中では「公」という感覚は生まれてこない。以前読んだ文章の中に次のようなものがあった。「現代の既婚女性が美しくないのは、核家族化の中にあって日々目にするのが夫と子供だけだからである。以前は妻という立場は共同生活の中での公人であったから、自分が美しく見えるよう気を配っていた。」内容の是非はともかくとして「公」という感覚が昔よりも薄れたというのは事実であろう。定期的に私的な空間から出て、他人と目と目を合わせコミュニケーションを取ることによって自然に「公」という感覚や、「公」の為にすべき事というのは分かってくるであろう。

 確かに「公」の拡大ばかりが行われると、戦前の日本のように没個的な社会というのが生まれる可能性がある。しかし「公」の欠如した結果共同体としての秩序が乱れてきているのが現在の状況であろう。どちらも極端な形で機能するものではない。我々のちょっとした努力で「私」と「公」の共存させるのがこれからの課題であろう。「空き缶はくずかごに捨てる」「たばこの吸い殻は責任をもって処理する」…たったそれだけの努力である。

○○○○ ● ayoより ● 課題コード10411 99/01/12 19:31:41

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ポイ捨て

 今町の外に出て飴の袋とたばこの吸い殻を見つけてきなさいと言われてもそう難しい事ではないだろう。そのぐらい日本にはゴミがたくさん落ちていることは事実である。町でなくても電車の中で電車がカーブした時に空缶がころころと転がってきて邪魔だったという経験もあるだろう。しかしなぜ日本にはそんなにポイ捨てが多いのだろうか?それは日本人一人一人が「私一人くらいなら」と思っているからだと思う。

 どうやったらポイ捨てがすくなくなるのか?まず一つに世間の人達一人一人がポイ捨てした人を叱るべきである。私もポイ捨てをする大人をよく見掛けるが、恐いのでやめてしまうし、まして同年代の人に注意なんかしたら「は?なにこいつ、ホざいてんじゃねーよ。」と言われるだろう。しかし、大人だったらどうだろう。もちろんやくざのあんちゃんなんかに注意したら殺されてしまうかもしれないが(?)、普通の大人どうしで注意しあえば少しは反省するだろう。子供(若者)に注意したら、「うるせーな!」と言われるかもしれないが、その人が大人になって判断力が着いた時、自分が子供のときポイ捨ての注意をされたなあと思いだしてまた子供達に注意を呼びかけるのではないかと思う。そしてそういう風にポイ捨ての注意をする事が次の世代へと受け継がれて行けば、時間はかかるがポイ捨ても少なくなるのではないか。今の世代は「自分は直接手を下さないけど、注意もしない」という、「他人の事はどうでもいい」と言う人が多いからポイ捨てが多いのではないか。

 昔話の「浦島太郎」で、太郎は子供に虐められいるカメを助けた。その時叱られて始めて子供達はカメを突付いて遊ぶことはそんなにもいけない事なのかを知ったと思う。そして知られざる「浦島太郎続編」には大人になった昔の子供達が出てきて、悪い事を見て見ぬふりをしないで「だめっ!」としかっているシーンが出てくる事だろう。

 電車がカーブしたときに空缶がころころと転がってきて邪魔だ。そんなことは誰だって不快に思うだろう。みんなが不快に思わないですむように、まず大人が注意してそれを子供が次の世代に受け継いで行けば本当にみんなが心から嫌な思いをせずにポイ捨てがなくなるのではないか。「真によいことは、新聞に大きな騒ぎを起こすことなく、小さく始まる。」ということばがあるように、私たち一人一人が注意しあえば本当に町がきれいになる日が来るのである。

篠原さやか ● aobeより ● 課題コード09411 99/01/11 18:57:10

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本当の豊かさ

 毎年1月15日になると色とりどりの和服を着た若い女性をよく目にする。一生に1度の成人式に胸を踊らせ、しかしちょっと大人になったような気持ちで出かけていくのだ。こんな華やかな着物と20歳になった若い人を見ると、こちらまで華やかな気分になれる。しかし近頃この成人式で頂いたお土産を飲み会などで捨てていく人が急増しているのだ。せっかくもらった新品の物をなにも使わずに捨ててしまう。欲しい物はすぐに買ってしまう。これは日本人が裕福で贅沢であるという世の中の現われではないだろうか。

 確かにお金は大切だ。自分の欲しい物はすぐに買えるし、いらない物はなにも思わずに排除できる。昔の子供は欲しい物が常にあったというが現代の子供はあまり欲しい物がない。ということからも分かるだろう。「なにがほしい?」と聞かれても「お金」と答えてしまうのが現代の子供の実状ではないか。やはりどの子供または大人にとって、お金とはあればあるだけ欲しくなるものなのである。

 しかし、お金以外のもので大切なものはある。それは心。貧しいおじいさんが雪の降った寒い夜におじぞうさんにかさをかぶせてあげたという「かさじぞう」の話を読んでも分かるように貧しくても心が豊かであれば生活を楽しむことができるのだ。かえって心が豊かな方が人間的にも好かれるだろうし、救われることも多いだろう。

 よって生活するためにはある程度のお金は必要だがお金よりもまず心を養うことが第一であるということを忘れてはいけない。色とりどりの和服を着るということは一見華やかであるが、それにともなって心も華やかにならなければいけないのである。

りさ ● aisuより ● 課題コード08411 99/01/09 17:18:29

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            青い空

 「カランッカラカラ」こんな音と共に前を行く人の手の中から、オレンジ色のアルミ製の筒が落ちた。ポイ捨てだ。私はその缶の横で立ち止まり、しばらく(といってもほんの数秒だが)見ていたが、それを拾うでもなく、その場をやり過ごしてしまった。それを見て見ぬふりをしなかったのは青い空だけだったのかもしれない。実際、ポイ捨てをしてる人を見て、「これ落としましたよ。」とか言う人は少ない。それだけ、ポイ捨てに関心が薄いのではないのだろうか。では、ポイ捨てに関心を促すにはどうしたら良いのだろうか。

 一つは、シンガポールのように罰金を設ける方法だ。例えば、缶をポイ捨てしたら罰金三万円、などである。こうすれば、どう考えてもポイ捨てはしないだろう。なんせ、ゴミ箱に捨てていないというだけで三万円払わなくてはいけないのだから。この場合は必然的に道端のゴミは消えていくだろう。

 もう一つは、ポイ捨てに関心を促すために、自覚させる方法である。ここで私がごみを捨てたら……と考えさせるのである。この方法は、とても大変である。なにせ、全ての人間に自覚させるような説得力のある者が必要となる。当然、そんな人間はざらにいない。もしかしたら、世界中探しても、1人いるかいないかかもしれない。しかも、もしそんな人がいても、必ず、「ケッ、うるせーやろーだぜ」とか言う奴もいるだろう。それだけ難しいのである。

 では、どちらの方法がいいか?と聞くと、たいていの人が後者の方というだろう。この理由は二つある。

 一つは、前者の方は無理強いしている傾向があるからである。罰金を払いたくないからしょうがなくポイ捨てを無くする、というのは、あまりにも人間として情けない。それに、その罰金制度で一時そのポイ捨てが無くなったとしても、必ず、他の犯罪などの取締りが遅れる。ポイ捨てをしている集団がいたから、銀行強盗の警察要員がいなかったでは冗談にもならない。それに、自覚が無いから、他の小さな事も気にならなくなってしまう。そんな事にいちいち法律などを作っていたら、何百万という規則が出来てしまう。そんな、一挙手一投足を規則に縛られた人間に何の需要があるだろうか。

 もう一つの理由は、自覚する事に注目してみよう。温故知新の信念にもとずいて、昔話「浦島太郎」の前半を思い出してみよう。浦島太郎(以下太郎)は子供達にいじめられている亀を助けた。このとき、太郎は亀が竜宮上に連れていってくれるなんて夢にも思っていなかっただろう。つまりこのとき、太郎は自ら無益な(といっても太郎がこの時損益を考えていたとは思えないが)労働をしたのである。では、なぜ亀を助けたのだろうか。それは「亀にも命があるから、いじめてはいけない」という自覚と、「このまま子供達にいじめをさせてしまったら、将来が危ない」という自覚だろう。それに対して子供達は、あまり自覚が無い。だから亀をいじめてしまったのだろう。こんなことからも、自覚の大切さがわかる。

 確かにポイ捨てにこれほどまで言う事もないといえば無い。しかし、こういう小さい事を、「小さい事だからどうでもいい」という発想のもとに、自覚の「字」の字も見えないようでは、大きな事も「どうにかなる」と思って、自分だけやり過ごしてしまう。これは、とてつもない問題である。こういうことを考えていると、「何をやってもいい」という発想になりかねないからである。全てに見て見ぬふりをしない青い空を、このまま下界が見ることも出来ないほどの汚い空にするわけにはいかないのである。

小林拓馬 ● nekiより ● 課題コード07411 99/01/08 21:20:05

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はまっちゃう!!

私には、

「これだ!」といえる宝物が1つあります。

それは、「パスワード謎ブック」という文庫本です。この本の内容は、マコト・みずき・飛鳥(あすか)・ダイ・まどかの電子探偵団の5人が「謎ブック」という本の中にすいこまれてしまい、「恐竜大陸」や「ロボットシティー」などというへんてこりんなところへ行き、最後はどーなるやら・・・・・という話です。(本の中からどうやって出られたかはもちろん読んでからのお楽しみです。)題名の通り、問題はたっぷりあります。では、ちょっと問題を出してみます。「この沼には七匹のカエルが住んでいる。ケロ太・ケロ助・ケロ吉・ケロ丸・ケロ坊・ケロ子・ケロ代だ。このうち、子供はだれか?」答えは子供はいません。(カエルの子供はオタマジャクシ)・・・とまあこんな感じの問題がいーっぱい載っています。5人は簡単にといてしまったらしいけど、もし私が電子探偵団だったら、

「ケロ代だあっ!」

と答えてしまうと思います。

あと、私がこの本を宝物の一部に入れたが理由は、問題がいっぱい載っているし、「パスワードシリーズ」の中でもいっち番おもしろかったからです。本を読み終わったらしばらくは読まない、という私でも2,3回は繰り返し読めたほどです。

私は最近、本を読み回数がおとろえてきているので、これからもそれなりにがんばりたいです。

馬場 尋子 ● asiyuより ● 課題コード04411 99/01/08 15:09:09

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  光る表現コーナー

秦さん(あつて/小1)の作文より(あかね先生/1.1週)

 そして、たたかうと(けんは)またおれました、ぼくがだいくやさんだったらなおしてあげたのに、とおもいました。(評)たたかいをたのしんでいる(?)ようすがよくつたわってきます。

福田さん(わら/小1)の作文より(あかね先生/1.1週)

 ぼくは、(あきたのおばちゃんのおうちから)かえるときないてしまいました。ああまたお手つだいしたいなあとおもいました。(評)なごりおしいきもちが、ほんとうによくつたわってきます。

しょうたさん(あたの/小2)の作文より(もとばと先生/1.1週)

 (山道で)わき水にもみじをおとしたらはやくながれました。わき水をさわったらまるでこおりのようにつめたかったです。評:わき水がとてもすんできて流れがはやくつめたいようすやながれのいきおいがよく表現できましたね。

ひろみさん(あちや/小2)の作文より(とも先生/1.1週)

 (スキー場でかまくらを作ったときのこと)わたしが入ると足が出てしまうぐらいの小さなかまくらだけど、なかはあったかくてきもちよかったです。・・・評:「〜ぐらいの大きさ」をしっかり使って書いているね。小さくてもあったかいかまくら、いいなぁ。

堂地さん(あてい/小2)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 (熊本城の中で)とくにすごかったのは、昔のじゅうです。ぼくの手をひろげたぐらいの長さです。評:大きさが良くわかりますね。

平沼さん(すよ/小2)の作文より(まや先生/1.1週)

 ラッキーというのは、のらのミケねこです。ラッキーは人なつっこいやつです。この前、『カッパエビせん』をあげたらなみだを一つぶながしておいしそうに食べていました。 【評】遊んでいる筆者とのら猫の様子が、なんだか目に浮かぶようです。

ハッピィーさん(せさ/小2)の作文より(まや先生/1.1週)

 もし、あの犬が本ものだったら、大じにそだてるな。 【評】大事にしている犬のぬいぐるみのことです。"もし…だったら"という言い方で、とてもうまく気もちを表現していますね。

まほうつかいさん(とみ/小2)の作文より(洋子先生/1215週)

 おいもは、まるでレストランのコックさんがやいたおいもみたいでした。(評:学校の農園でみんなが育てたおいもだからなおさらおいしかったでしょうね。たとえがうまく書けましたね。)

ヒトカゲさん(あたや/小3)の作文より(みち先生/1210週)

 なんとおさらをだいたい五十まいぐらいもっていたのです。すごくバランス力があると思いました。——(中略)——それに、もっとすごいことがおこりました。「うわー、すげーぎょうれつだー」なんとすしやがうまるほどぎょうれつでした。もうすごいぎょうれつだったので、お兄ちゃんとお母さんがダイクマに行きました。もう、一時間ぐらいまちました。評:お店の感じがよくつたわってくるようです。

けろっぴさん(あちえ/小3)の作文より(ゆり先生/1.1週)

 ピカチュウを、サンタさんに、もらった時のうれしさは、まるでジャンボ宝くじで、五千万円当たった時のようだった。評:宝くじ五千万円とはすごいたとえだね。ケロッピさんのうれしさがそれほど大きかったんだね

カイリュー2さん(せほ/小3)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 なぜ、宝物にしたかというと、自分のお金ではらったからです。評:気にいったものを、自分のおこづかいで買ったうれしさがでていますね。

堀田さん(ちこ/小3)の作文より(ミルクティ先生/1225週)

 「戦争は、もういやだよ」私は、戦争には、反対します。もし戦争なんかに勝ったって平和を勝ちとったわけじゃないし、なんか日本人は、戦争に勝ったら、いばることが多くなるよかんがするからです。(略)私が日本で一番えらい人なら「戦争はいいことないんだから早めにやめて、勝ったっていばらないようにしなさい。」と言うと思います。私が、戦争についていやなのは、世界の広さで、勝った方が、広くなるというのがおかしいと思います。なんで、力ずくで国をひろくするのかな〜と思います。<評>3年生で、戦争について、これだけしっかりした意見が書けたのには感心したよ。

ポケモントレーさん(あしふ/小4)の作文より(はるな先生/1019週)

 ぼくは、朝、目をあけてみるとさむけがしました。まどをあけてみると、ゆきがふっていました。まるで、さとうのように。 外に出て雪をふんでみたら、サクサクという音がしました。かき氷をかんだような音がしました。(講評):雪が降っているようすや、雪景色を、たとえをつかって、大変じょうずに表現できましたね。実感がよくこもっています。

ふるばさん(あすら/小4)の作文より(みち先生/1205週)

 「名人ちは、こんなものだ!」と、まるでゴジラのように大きなブラックバスをもっている人が長いさおをもって写真に写っていてぼくもああいうのをつってテレビにでてみたいと思ったからです。女の子のお母さんが、アイシュタインの所におわびに行くと、アイシュタインは、まるで神様のようにいろいろなことを女の子に教わっていると言っているのは、すごいと思いました。:評:ほんとうにすごいと思ったのですね。神様というひょうげんが古林君らしさですね。

コナン3さん(あたも/小4)の作文より(みち先生/1210週)

 ちゅうせんでしょうぶをきめてまけてしまったというにがい思い出があるチームです。——(中略)——二、三年でも、ばかにしてはいけないとおもいました。評:野球の試合をとおして学んでだことですね。

 

ふるばさん(あすら/小4)の作文より(みち先生/1213週)

 レースをする人をまっていると、はぎわら君のサイクロンマグナムがばくそうしていました。それをみたぼくは、まちきれなくなって、はしらせると、はやかったので、はぎわら君と勝負をしました。——(中略)——ぼくは家の中でちょびちょびやるよりもおおぜいで外で、ミニ四くをおもいっきりやるほうがとってもたのしいと思いました。評:比べてみるとよくわかりますね。

こずっちさん(さへ/小4)の作文より(ゆり先生/1.1週)

 お父さんにも、お母さんにも、お姉ちゃんにも、そして、わたしにも、欠点はあります。でも、わたしには、美点しか見えないような気がします。評:こずっちさんが家族を大切に思う気持ちがよく表れているね。

たまごさん(せろ/小4)の作文より(もとばと先生/1.1週)

 (宝物のスヌーピーの人形は)色は本当は白なのだけれど、よごれて少し、ねずみ色っぽくなっています。人間で言うと、せぼねのところと、うでの先、耳のふちの毛がぬけていて、はげています。鼻の頭は、丸い黒いものがついていたのだけれど、今はありません。こん色のオーバーオールを着ていて、赤いポケットがついています。ポケットはびりびりにやぶれてしまったので、おばあちゃんがのりでくっつけてくれました。オーバーオールの真ん中も、ほつれてしまったので、それは、私が糸でぬいました。評:とてもくわしく観察できていますね。

清原さん(ねる/小4)の作文より(洋子先生/1215週)

 「えっ、六千八百円も。じゃあ、消費税もあるから七千円ね。」と、母さんがしぶしぶと七千円をわたしました。(評:しぶしぶというところにおかあさんの気持ちがうまくでていましたね。大切に使ってね!)

しっぽさん(ほし/小4)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 (テディベアを見て)毛はつやつや光る栗色で、目も、これ以上おおきかったら、かわいくない、これ以上小さかったら、またかわいくない、本当にちょうどいいほどの大きさなのです。評:かわいらしさが、どーんと伝わってきますね。

のいちごさん(あつゆ/小5)の作文より(スズラン先生/1223週)

 挨拶をしてくれた人は、気持ち良く挨拶したのだから、私達も、心をこめて、言おうと思った。評:お母さんに注意された出来事から、挨拶の大切さを考えたことがわかりましたよ。

佐藤さん(らる/小5)の作文より(ミルクティ先生/1225週)

 「あいさつ」学校の中でもいろいろなあいさつがある。それは、たぶんみんな仲がいいからだとぼくは思う。休みとかの前の日に「さようなら」とかいうが、それも「またこんどあおうね」のたんしゅくばんだとぼくはおもう。<評>短縮版(たんしゅくばん)という言い方がおもしろい! なかよしの友だちどうしは、かんたんなあいさつでも、いろいろな気持ちを伝え合うことができるんだろうね。

○○○○さん(うい/中2)の作文より(ひまわり先生/105週)

 挑戦しないで失敗するより、挑戦して失敗した方がより多くのことを学べ〜(評)「謙譲の美徳」に対する意見になっていますね。

紫電改さん(うの/中2)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 (ポイ捨て)「立つ鳥あとを濁さず」という言葉もあるように、自分も鳥のように通った道に責任を持ち、汚さないことが必要である。評:人の振り見て我が振り直せということもありますものね。

GT-Rさん(えや/中2)の作文より(スズラン先生/1.1週)

 「俺一人ぐらい、やったって平気だな!?」なんて甘い考えをしている人が多いから、日本からは「ポイ捨て」という嫌なことが消えないのだ。評:一人一人の自覚が大切なんですよね。

さやかさん(あおべ/中3)の作文より(みち先生/1228週)

 「日本では自慢は良く無いのだ」——(中略)——「フォーブス」の調べによると世界の憶万長者ベスト3はアメリカとなっている。その裏にはアメリカの「自分の良いところを伸ばす」教育方針の影響があるのではないか。評:データ集の中から上手に関連づけています

玲子さん(あそわ/高1)の作文より(ひまわり先生/1.1週)

 ポイ捨てがない未来は自分達で作らなければ生まれない。それには、世の中の「まっいいか」を自分達の手で減らしていかなければいけない。(評)「まっいいか」という言葉がポイ捨ての原因となっている無責任さを象徴していますね。