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1999年2月1週号 通算第604号 shine@japan.email.ne.jp言葉の森新聞
文責 中根克明(森川林)
2.1週のヒント(再掲)
小3〜6年生 2.1週 手作りで何かを作ったこと
図工の時間に何かを作ったことや、家で料理を作ったことなどが中心になると思います。でも、インスタントラーメンを作ったなんていうのは、手作りにはあまり入らないかもしれませんね。雪のふるところに住んでいる人は、雪だるまやかまくらを作ったことなども書けるでしょう。
小5・6年生のことわざは、「12、急がば回れ」「44、怪我の功名」「71、過ぎたるは及ばざるがごとし」などが使えると思いますが、自分の感想の部分に合わせて考えていきましょう。
「手作りで何かを作ったこと」という題名で書きにくい場合は「節分」という題名で書いてもいいでしょう。
中学生〜社会人 2.1週 芸術と点数
美術や音楽に点数がつけられるか、というのがテーマです。作文に点数がつけられるか、ということもあわせて考えられそうです(つけているけど^^;)。
芸術に点数をつけられないというひとつの理由は、芸術はもともと評価されるものではないということがあります。ピカソなども登場したばかりのころはほとんどの人から酷評されました。「どうして顔が横を向いているのに、体が正面を向いているんだ」とかね。
芸術に点数をつけられないもうひとつの理由は、芸術は本来楽しむためのものだからということがあります。音楽の成績が5でも1でもかまわないから、要するにカラオケなどで音楽を楽しむことができればいいのだという考えです。反対理解としては、技術的な進歩は、それなりの指導と評価によって達成されるということになるでしょう。
昔話ではありませんが、雪舟が子供のころ涙でネズミの絵をかいたなんて話は使えそうです。よく登場する「桃太郎」ですが、芸術はその人の個性を発揮するものだというところから、犬とサルとキジに共通の点数をつけることはできない、などと結び付けてもいいと思います。
2.2週のヒント(予告)
小3・4年生 2.2週 何かを育てたこと
小5・6年生 2.2週 チョウチンアンコウは
日本の近海には、まだ不思議な生物がたくさんいるのですね。科学がこれだけ進歩しても、まだ深海魚などをうまく飼育できないというのは不思議な気がします。
似た話は、飼っている生き物のことなどが書けそうです。カエルや鳥などの小動物や昆虫は、自然界の中では何億年もたくましく生き続けているのですが、それを人間が飼育しようとすると、とたんに弱々しい生き物になってしまいます。自然と同じ環境を人工的に作るのはまだむずかしいのでしょう。
中学生 2.2週 中学生
シンプルな生活で生きるほうが心豊かに生きられるというのがテーマです。自動ドアとか自動販売機とか、考えてみるとなくても別に不自由しないものが身の回りにたくさんありそうですね。
イソップ童話に「シカとライオン」の話があります。豪華な角を自慢し、華奢な脚を嘆いていたシカがライオンに追われ、やぶの中で角が枝にからんで動けなくなってしまうという話です。知っているかな。
手に触れるものを何でも金に変えることを望んだ王様もいました。逆に貧しい人たちに自分の目の宝石などを次々に与えていった王子の像もありました。
昔話や童話をよく知らないという人は、毎度おなじみの「桃太郎」や「浦島太郎」でがんばってみましょう。犬やサルやキジがわずかなきび団子で桃太郎の味方になったのは、きび団子というモノそのものの価値でなく、やはり桃太郎の心意気に引かれたからでしょう(なんとでも言えるもんだなあ)。竜宮城でのタイやヒラメの舞踊りも過ぎ去ってみれば空しいものだ、というふうに引用することもできます。
高大社 2.2週 魏志倭人伝によると
「時」は時計の針で表される単なる座標なのではなく、それ自体が生きたひとつの「もの」なのだ、というのがテーマです。かけがえのない「時」は、人によって違います。現代の社会では、決められた定刻どおりに事を進ませるのでなければ文明人とは呼べません。もし電車やバスの運転手が、「夕焼けがあまりにもきれいだから今日の運転はやめよう」などと言ったら乗客は怒り出すでしょう。(インドでは、牛が動くまでバスを停めておくこともあるらしいのですが)
小学校の勉強などを見ていても、せっかく熱中している図工を一時間で仕上げて、次は算数などという勉強の仕方が多いと思います。子供は、座標としての時ではなく生きた時を生きているので、こういうこまぎれの時間割に慣れるまでが大変です。
時計を持たない動物は、おなかがすいたら食べて、眠くなったら寝ています。ロビンソンクルーソーは、漂流してたどり着いた島で、まず日付がわかるようにカレンダーを作りました。ここが人間の大人と動物の違うところです。子供はまだ動物に似ているので、大人からいつも「早くしなさい」「次はこれで」「その次はさっさとあれをして」と言われ続けています。ピーターパンやドラえもんなどは、そういう子供の世界の感覚をよく表していると思います。
昔話実例の参考資料(今学期中保存)
昔話実例の参考資料です。中学生以上の人は、実例を書く際の参考にしてください。(提供は、ミルクティ先生です)
☆マークは、昨年7月の資料から新しくつけくわえられたものです。
◆昔話(日本)五十音順
一寸法師 |
浦島太郎 |
姥捨て山☆ |
海の水はなぜしょっぱい☆ |
おむすびころりん |
かぐや姫 |
隠れ蓑☆ |
かさ地蔵 |
かちかち山 |
かもとりごんべえ |
きき耳ずきん |
金太郎 |
こぶとりじいさん |
さるかに合戦 |
三年寝太郎☆ |
舌きり雀 |
十二支のはじまり |
大根とにんじんとごぼう |
たのきゅう☆ (たのきゅうという名前の役者が化け物につかまったが、変装の特技を見せたら食べられずにすんだという話) |
つるの恩返し |
ねずみのすもう |
ねずみの嫁入り |
はちかつぎ姫☆ |
はなさかじいさん |
ふるやのもり☆ |
むじな(のっぺらぼう)☆ |
ものぐさ太郎☆ |
桃太郎 |
わらしべ長者 |
◆童話・児童文学(外国)五十音順
青い鳥 |
赤ずきんちゃん |
アラジンと魔法のランプ |
アラビアンナイト |
アリとキリギリス |
アリとはと☆ (おぼれかけていたのをたすけてくれたハトにアリが恩返しした話) |
うさぎとかめ |
牛とかえる☆ (牛の大きさを教えようとしておなかがこわれたカエル) |
おいしいおかゆ |
王様の耳はロバの耳 |
王様をほしがったカエル☆ (神様に王様をねだったカエル達。木の棒の王様に不満をいったらヘビをなげこまれ全滅という話) |
王子とこじき☆ |
狼少年☆ |
おおかみと七匹の子やぎ |
大きなかぶ |
親指姫 |
織り姫と彦星 |
カエルになった王子☆ |
ガリバー旅行記☆ |
北風がくれたテーブル掛け☆ |
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北風と太陽 |
金のおのと銀のおの☆ |
金の卵を産むめんどり☆ |
幸福の王子 |
小人のくつ屋☆ |
三匹のくま☆ |
三匹の子ぶた |
三匹のやぎのがらがらどん☆ |
ジャックと豆の木 |
白雪姫 |
シンデレラ |
つるときつね☆ (きつねが皿にスープを入れてつるにごちそうしたら、次は仕返しされたという話) |
てぶくろ |
長靴をはいた猫 |
ニルスのふしぎな旅☆ |
人魚姫 |
眠り姫 |
ねずみのそうだん☆( 猫に鈴をつけようという話) |
白鳥の王子☆ |
はだかの王様 |
ハメルーンの笛吹き |
ひきょうなこうもり☆ |
フランダースの犬☆ |
ブレーメンの音楽隊 |
ヘンゼルとグレーテル |
マッチ売りの少女 |
三つのねがい |
みつばちマーヤの冒険 |
みにくいアヒルの子 |
ピノキオ |
ライオンとねずみ☆ (ねずみの恩返しの話) |
光る表現コーナー
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堂地さん(あてい/小2)の作文より(スズラン先生/1.3週)「かんげいこ」海に入って、ぼくは、おなかぐらいまで入って、先生はかたぐらいまで入っていました。すごい人は、口ぐらいまで入っている人もいました。評:さすが、寒稽古ですね。気合が入っていましたね。
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ペンギンさん(しろ/小2)の作文より(かつみ先生/1.1週)年こしそばにおさしみ、ハンバーグにスパゲッティもりだくさんでおなかがはれつしそうになった。 評:たくさん食べたんだね。食べ過ぎにはご注意あれ!!
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イルルさん(てや/小2)の作文より(もとばと先生/1.1週)(たこあげをしていると)ちかくにさんぽにきていたいぬがあがっているたこをおいかけてワンワンいってよろこんではしり回っていました。・・・たこはどんどん空高く上がっていきました。ひこうきがとおったときはきょうそうしてるようでした。評:とてもくわしくたこあげのようすが書けましたね。
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西原さん(ふま/小2)の作文より(はるな先生/1.1週).......おもちをとりだしました。ぼくのかおの2ばいもあります。そして、のばすと、4ばいぐらいありました。おもちをまるめて、ほかほかのをたべました。できたては、やっぱりおいしいとおもいました。(講評):おもちのおおきさを、自分のかおにおきかえて、せつめいしたので、たいへんわかりやすいですね。つきたてのおもち、本当においしそう!
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島邑さん(ねさ/小3)の作文より(ゆり先生/1.2週)ドキドキという言葉は、いろいろなことにつかうことができます。たとえば、だれかにおこられるとか、あと一つは、きゅうに名前をよばれたりすると、すごくドキドキして立つにもたてません。評:おこられるとき、びっくりしたとき、きんちょうしたとき。いろいろなドキドキがあるよね。
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信長さん(あえほ/小4)の作文より(かつみ先生/1.3週)ノートの空きが無くなりノートを買うお金もないので文房具屋にアルバイトにいきました。そして終わったのは夜深くめをあかくしてもむりでした。 評:目を赤くしても…というところが、昔話を読んでいるようで(つまり物語り的ということ)いいね。このような表現は、使えるところがたくさんあるので、どんどん使ってみてね。
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磨田さん(あさあ/小4)の作文より(スピカ先生/1.3週)もし時間を止められたら、すぐに宿題をやると思います。評:宿題を忘れてしまったときのあせった気持ちがよく表現できているね。
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ふるばさん(あすら/小4)の作文より(みち先生/1.3週)じゅ業が終ると、まるでねずみのように、教室から体そう庫まで走っていきます。評:ぴったりのひょうげんで、姿がみえるようです。
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岡根さん(あその/小4)の作文より(もとばと先生/1.3週)(話をおもしろくするためにうそをついたけれど)でもふかくついきゅうされるとばれるのであまりこういううそはつかないようにします。うそはあるていど人をよろこばせるけどあまりいうと、はんたいにダメージをあたえてしまうので、ほどほどにしたほうがいいとぼくは思います。評:うそはやっぱり最後には困ってしまうということが理解できていますね。
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ミッキーさん(けく/小4)の作文より(かつみ先生/1.3週)まるで赤ちゃんと大人みたいにうんと違います。 評:いとこのうそを、楽しんであげられる大人の美紀ちゃん。たまには、本気で、うそつかないでよーーっていってみたら??(どうなるかな)
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こずっちさん(さへ/小4)の作文より(ゆり先生/1.3週)頭の中には宿題のあらしがすごいのです。宿題、宿題、宿題・・・・・・。とどよーんとくもった空から宿題雨がふってくるようなカンジ。評:自分の気持ちをお天気にたとえて表現したんだね。
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柳沢さん(なお/小4)の作文より(スズラン先生/1.2週)「うおー。たのしみー。」と、私は、さわぎました。いよいよ体験学習がせまってきました。あす、行く予定です。評:嬉しさが大きいことが伝わってきますね。
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ホームズさん(なか/小4)の作文より(スズラン先生/1.2週)まるで、長身で体格ががっちりしていて、バランスのよい、けれど、筋肉質の、マッチョマンのようでした。評:大口径の天体望遠鏡の姿がわかりますね。
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星野惇さん(のと/小4)の作文より(ゆり先生/1.3週)ねる前や帰ってきたときにカバンの中を見ないなんてと思いました。じゃあ、いつも時間わりをそろえないのかなあと思いました。この人は、カバンを見る習かんをつけとけばよかったのです。評:そうだねえ。人間だれでもわすれることはあるんだから、わすれても思い出して宿題をすれば、うそはつかなくてすんだんだよね。
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ミッチーさん(あこは/小5)の作文より(ミルクティ先生/1.3週)「もう、分からないのはない?」「え? うん、もうだいじょうぶ。(え〜でも本当はあるけれど、はずかしいからいいや、やめた)」「あらそう、じゃあね。」「あっあ…。」僕は、あの時にちゃんと聞いておけばよかったなと思った。これは「聞くは一時のはじ聞かぬは一生のはじ」だと思った。ちょっとこうかいしている。(略)みんなもこんなけいけんは、あるんじゃないんですか。やっぱり、聞くのは、勇気がいるけれど、がんばってやってみようと思った。<評>自分の体験を会話を使ってうまく感じを出して表現できたね。自分の話だけで終わらせずに、読み手に語りかけているところも工夫しているよ。
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高橋さん(あたゆ/小5)の作文より(あかね先生/1.3週)(ソクラテスの話を読んで)この話は知っているふりをしてもしょうがない? ということだけど、ことわざに「嘘も方便」とあるがどっちが正しいのかはっきりさせたい。私は、ソクラテスの言っている方が正しいと思っている。(評)「嘘も方便」ということわざとソクラテスを比べるなんて、ユニークな発想だね。
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ユウッチさん(ちき/小6)の作文より(ミルクティ先生/1.2週)前もって考えていると、いい意見がぼくだけでなく、ほかの人からも飛ぶようにすごいいきおいで出てくる。「ハイ、ハイ、ハイ」という言葉で教室じゅうがうまる。<評>学級会の議題とみんなの考えていたことがピッタリ合ったときに、意見が教室にあふれて出てくる感じが、うまく表現できているよ。
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和樹さん(あきあ/中1)の作文より(スピカ先生/1.3週)今から五十年後の(国語の)教科書には「昔は『ら』を入れていた」と書いてあるかもしれない。評:ら抜き言葉が”正式に”認められている未来を想像してみたんだね。表現としてもおもしろいし、主題にもきちんと重なっているね。
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紫電改さん(うの/中2)の作文より(スズラン先生/1.2週)児童文学の本というのは、ある意味で、心の教科書みたいなものである。評:年齢に関係なく、得ることが多いものですね。
郵便ポストより
パソコンで書いてインターネットから送られたパソコンは、郵便ポストというページに最新40件が掲載されています。
その中の作文のいくつかを紹介します。インターネットに接続できる人は、作文を書き出す前に、同じ学年のほかの人の作文を読んでみると参考になると思います。書いた人のページに、感想を書くこともできます。
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レッテル
よく学校で髪の毛を染めている学生を見ると『不良だ』とか『おちこぼれだ』と言う人がいる。確かに、それらの学生は人よりも勉強ができなかったり、すぐ手を出してしまうタイプかもしれない。しかし、そんな彼らにすぐ『不良だ』とか『おちこぼれだ』というレッテルをはるのは間違いではないか。世の中、好きで『不良』や『おちこぼれ』になる人はいない。家庭の問題、友人関係、思春期における精神の不安定さ、、様々な原因が存在する。私たちの社会ではレッテルを貼ることで物事を簡単に整理しようとする傾向が強い。安易な『レッテルはり』は非常に危険であるという事を私たちは認識する必要がある。
私の高校時代の友人に『生徒会長』というあだ名の付いている人がいた。もちろん彼が生徒会長をやっていた、という理由もあるのだが『まじめそうな雰囲気』が『生徒会長』というあだ名、つまりレッテルを付けやすくしていた。クラスで何か物事を決める時、何も関係ないのにすぐに『生徒会長』としての意見を問われる。少しふざけた事をすると『生徒会長がそんな事やっていいのかよ』と言われる。もし私が彼だったら、そんな窮屈な生活は耐えられないだろう。
よく週刊誌や新聞に『あの清純派タレントが』とか『美人女子学生殺傷事件』という文句を見かける。この『清純派』や『美人』というレッテルはマジック・フレーズのようなもので単なる事件でも、これらのレッテルをはることで、あたかもショッキングな事件のように聞こえてしまう。確かに本当に『清純派』で『美人』かもしれないがマスコミの本質は真実を報道することなのだから普通に考えれば、これらのレッテルは必要の無いはずだ。その中には商業主義という名の元に事実の歪曲を平然としているのも少なくない。
『レッテルをはる』という行為は非常に危険である。レッテルは一度はったら、それを剥がすのは容易ではない。中には、そのレッテルで一生、苦しんでしまう人もいるだろう。『外見は、その人の中身を表す』という文句があるが私は、そうは思わない。『その人の中身は、その人自身しか分からない』と私は思う。
風間 吉見(大) ● kotoより ● 課題コード14413 99/01/29 10:24:46
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現在、子供の
現在における「子供」に関する問題は、ますます深刻化している。一昔前ではほとんどありえなかった、未成年の刃物やその他の凶器による犯罪も後を絶たない。そういった問題を専門家が理論的に分析した結果についてはよく報道されているが、「子供」と言われているうちでも特に心情が不安定な青少年に関する問題は、人間同士の接触不足による心の不満がもとでおこるのだから知識で分解できるようなものではない。むしろ、余計な知識を持たない素人の方が子供をひとりの人間として見ることができるのではないだろうか。
学校や予備校で授業をうけていても、「合格請負人」といったニックネームがつきそうで授業中も公式ばかり使ってくる教師よりも、新任でまだあやふやなところは目立っても懸命に自分で考え出した方法で講義する教師の授業の方が、生徒の立場から見ると強く印象に残っているといえる。論理的説明が主流になっている世の中だが、やはり人の心を動かすのは論理ではなく人の心なのである。
「白雪姫」では眠りに落とされてしまって、小人たちがどんな手を尽しても目を覚まさなかった姫が、王子の口づけで目を覚ました。童話だから科学的根拠はまったくないが、人の心が人を動かしたということを端的に表している例であるといえる。
私達には、生きてゆくためにある程度の知識は必要である。しかし、専門家が持っているようなレベルのものまでは要求する必要もないし、実際に要求されることもないのだ。「過ぎたるは及ばざるがごとし」というように、なまじ多くを知り過ぎているとその物事について頭の中で何かしらのレッテルを貼ってしまい、ありのままの姿を見ることができなくなってしまう。ことさら子供というのは人間であり、人間は多種多様なのだから一口にぐれた子供と言っても親の気を引くためにわざとぐれたという子や、なんとなくやってみたかったという子もおり、同じ不良でもそれぞれに理由があるのだ。それを「不良イコール根から悪い人間」というような変なレッテルを貼ってしまうから、子供達も反発したくなるのである。近年カウンセリングが注目を浴びつつあるが、その関係者だけでなく私達それぞれが、知識だけにとらわれない素直な視点を持つようにするべきなのである。
小原貴仁(高2) ● iuより ● 課題コード11413 99/01/23 17:54:04
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今の日本がすべきこと
助動詞ラレルは受け身、尊敬、自発、可能と四つの意味を持った言葉である。その中の可能においてら抜き言葉は頻繁に使われている。このら抜き言葉は永く批判の的になりながらも次第に多く使われるようになってきたのである。しかし、言語というものは保守的なもので、そう簡単に言語を代えることは認められない。実際に友達と話していても、ら抜き言葉はたくさん使われ、「来れる」を「来られる」という人はめったにいない。しかし、日本語的には認められていないので、国語のテスト等では、きちんと使いわけている。だが、慣れていないものだからまちがえてしまうのが現実だ。
このことから、今の世の中は新しいものをどんどん取り入れる姿勢が必要だということが考えられる。時代は急速に流れている。その、流れに対応できるかが、この世の中の目標とすべきものなのではないか。例えば流行語があてはまる。昔流行った言葉を今使ってもしらけるだけだ。
このことは「おじいさんのランプ」からも読み取れる。ランプは古いもので、今の時代は電気が必要だということを、みのすけが認めた場面と、ら抜き言葉を認めるかは、同じように考えればいいものなのではないか。
確かに、昔の伝統を守りつづける事も必要だ。しかし、今の世の中をみると、洗濯板が洗濯機に変化したり、ほうきが掃除機に変わったりしている。周りのものが次々に変化していくなかで、言葉が変化するのは許されないということはどういうことだろうか。言葉も時代によって使いやすい様に変化していく事が今の世の中では必要だと思う。
助動詞ラレルを、いかに使いやすく変えていく事が、今の日本がやるべきことではないだろうか。
りさ(中2) ● aisuより ● 課題コード08413 99/01/23 17:38:06
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手作りという名の幻想
好きなときに好きなだけ機械でものが作ることができる現代の日本で、手作りで作るものが見直されている。しかし、一昔前なら日本昔話に出てくる弥平さんとかが使っているようなどじょうすくいの道具が今では工芸師の手によって、特産物や、超高級民芸品として街に出回っている。こんな時、これは誰が何のために使うのかと不思議に思わずにはいられない。確かに、手作りは良いイメージがあるが、「手作り」だからこそ手が抜かれているのではないかと私は思うのである。
ツルの恩返しでは、お爺さんに助けてもらったツルが夜な夜な自分の羽を使ってお爺さんのために心を込めて布を織っていたという話だが、手作りといっても相手が分かって作っているのと、わからないで作っているのでは、心の込めようが違うと思う。だからこそ手が抜かれているのではと思うのであり、それなら機械が手を休めずに作ったものの方が良いと思う。また、それとは別に「趣味としての手仕事」がは流行りだしているのは、趣味なら相手を思って作る事ができるからなのかもしれない。
機械が作るものも、中にはお人形の目が違うなど欠陥があったりするが、それが手仕事にしたところで、どうにかなるわけではないが、手仕事にも手仕事であるから悪い事があるわけだし、機械に頼ってしまった方がいいのかもしれない。
あずさ(中3) ● asunaより ● 課題コード09413 99/01/23 17:30:56
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「新旧」は違えど「努力」は同じ
「ラレル」という助動詞には、四つの使い方がある。それは受け身、尊敬、自発、可能である。この四つの仕事を、「ラレル」は実にうまくこなしてくれる。しかし、それを使う人間のほうが面倒くさくなって、「ラレル」の四つの働きのうちの一つ、可能を「ラレル」の「ラ」を抜いて、「レル」に変えてしまった。このことは二十世紀日本語の重大問題の一つに違いない。「別に『レル』でもエエやん。」と思うかもしれない。しかし、言語というものはその本質においてうんと保守的なものである。そこで、そう簡単には言語多数決の原理だの言語経済化の原理などを受け入れれない。おっと失敬、受け入れられないのである。
こういった新旧の対立は何も「ラレル」という助動詞に限ったことではない。物事が進化する限り避けられないことである。私にもそんな経験があったような気がする。それは今からおそらく三年ほど前——私が柄にも似合わず時代の流れに乗って、「ミニ四駆」と言う未知の領域へ人類の歴史を刻もうとしたその時であった。私が親に、「これ買ってちょ」と、総額約600円の品物を出すと、親は「あんた他にも色々もってるくせに、まだ買うつもり!?」とすでに時代遅れのものをさも最近購入したかのようにいってきた。そこで私もまけじと、「あれはもう超古いんだよ。」と、それほど古くないものをさも懐かしい過去を思い出すかのように言い返した。そして、約一分三十秒ほどの壮絶な口論の末、私の情熱が親の金銭感覚をわずかに上回り、ついに購入に至ったのだった。これも一種の新旧の対立ではないだろうか。
また、もう一つほど例を挙げると、地動説と天動説の対立が挙げられる。昔々は、天動説と言う説が通説で、地動説を唱えると死罪になるほどだった。そうして死んでいったものは、数え切れないほどだった。しかしそれから幾年月たっていき、天動説に矛盾が見つかっていき、今はもう地動説が絶対不動状態になっている。まぁ、絶対とは言えないが、天動説よりは、とても有力になっている。こんどは、温故知新の信念にもとづいて、(これは、「旧」を尊重することかな)昔話「姥捨て山」を取り上げてみよう。あれは、古い考えを捨てろ、と言っていたのが、古いものも大切だということにきづく、ということである。この物語がいわんとしていることは、新しいことも大切だが、古いことから学ぶことも多いと言うことである。
「温故知新」と言う言葉がある。この言葉を、私は頻繁に作文の中に取り入れている。学ぶことは新しいことからだけではない、ということである。新旧でどちらがいい?と聞かれたら、ほとんどの人は「新しいほうのほうがいい」と答えるだろう。そりゃあ旧より新のほうがいいだろう。しかし、古いほうを徹底的に無くす、というのはちょっと間違いだと思う。今新しいことをやろうとすれば、大変な努力が要る。それは、昔の人も同じなのだ。つまり、古い考え方と言うのは、それよりも古い人達の途方もない努力の末に築かれているのであろう。だから、それから学ぶことはないと断定して、徹底的に無くす、ということは、決して良いこととは言えないのである。「ラレル」という助動詞に四つの仕事を任せたのも、そんな努力の末にできたのではないのだろうか。
小林 拓馬(中1) ● nekiより ● 課題コード07413 99/01/23 17:11:33
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最近の教育の専門家達は、子供に「レッテル」を貼って、済ませるが、本当に子供達を救うのは、専門家の知識や意見ではなく、生身の人間の接触である事が多い。
私は小学校の時、いわゆる「落ちこぼれ」の部類に入っていた。その時の事は昔の事で記憶があいまいなのだが、たしか放課後、別のクラスの先生が私の事を「あんな落ちこぼれ生徒は初めて見た」と言っているのを聞いた事があった。その時は言われてもあまり腹が立たなかったが、あとで考えてものすごく腹が立った。しかし、それだけで済まされていたら私はこんなところで小論文を書いていなかっただろう。
問題は、子供達にどのような「レッテル」を貼れば良いのかではなく、どのような対処をすれば良いのかということである。そして、「レッテル」を貼られ、非行少年になった子供を救い出すのは、むしろ専門エージェントの権威を持たない人、俗に言う「裸の人間」なのである。この「裸の人間」によって多くの子供が救われている。
浪速のペガサス(高3) ● suraより ● 課題コード12413 99/01/23 16:49:19
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