http://www.mmjp.or.jp/shine/ 1999年3月2週号 通算第609号 shine@japan.email.ne.jp

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  図書返却は3月10日までに

 学期のはじめに貸出図書と図書返却用封筒が送られていると思います。(3月に入ってから受講を始められた方には今学期はお渡ししていません)

 貸出図書の返却期限は、3月10日です。図書返却用封筒に図書を入れてそのままポストに投函してください。

  通信でも無料体験学習ができます

 今年から、担当の先生が通信の生徒に毎週作文を返却するようにしました。

 この結果、通信の生徒でも体験学習を受けることができるようになりました。

 ご兄弟やお友達で、体験学習を希望される方がいましたら、言葉の森をご紹介ください。

  今週3.2週のヒント(再掲)

  小1・2年生 3.2週 ●自由な題名

 小学1・2年生の人は、書くことを見つけておきましょう。

  小3・4年生 3.2週 ●給食のこと

 小学3・4年生の人は、お父さんやお母さんの時代の給食の話を聞いてみると参考になると思います。

  小5・6年生 3.2週 ●レオナルド・ダ・ヴィンチの(感想文)

 小学5・6年生の人は、お父さんやお母さんに似た話を取材しておきましょう。

 創造とは、いろいろなことを試してみることから生まれる、という話です。ゲームの攻略でも、攻略本を読んでそのとおりに進むよりも、自分でいろいろと試行錯誤をしてうまく行ったときの方が感動が大きいと思います。それは、創造が感動的なものだからです。現代社会は、能率を優先して、正しい答えをすばやく覚えるような勉強をしがちですが、自分でいろいろと間違えたり試したりしてみる方が、長い目で見ると人間の成長に結びつくようです。似た話は、すぐに答えを見たり聞いたりせずに自分でいろいろ試してみた、という話で。

 ことわざは、「35、かわいい子には旅をさせよ」「51、虎穴に入らずんば虎児を得ず」「145、禍(わざわい)を転じて福となす」「必要は発明の母」「人間は考える葦である」「失敗は成功の元」など。

  中学生 3.2週 ●百年以上家具を(感想文)

 安っぽい工業製品ではなく百年使える家具のような「木」の生き方に学ぼうというテーマです。短期的な視野でなく長期的な視野を、と考えてもいいですし、使い捨てで環境破壊を引き起こすものでなく環境と調和するものを、と考えてもいいでしょう。

 昔話は、「金の卵を産むニワトリ」「サルカニ合戦(柿の種とおむすび)」などが思いつきそう。

  高校生 3.2週 ●ロボットは(感想文)

 ロボットに心があるかどうかという話です。心とは人間の共感する心によって生まれると言ってもいいでしょう。新興宗教で手帳を買わせたり壷を買わせたりするところがありますが、それは手帳や壷に心があると見てしまう人間の弱さをついたものなのでしょう。福沢諭吉は、神社の御神体を石ころと取り替えて試してみたそうですが何のバチも当たらなかったと自伝に書いています。逆に、今はゲームのボタンを押す感覚で簡単に暴力をふるうような人も増えています。これは人間相手にも心を想像できなくなったことを示しているでしょう。

 昔話は、お姫様の涙によってカエルから王子に戻ったという話や、逆に王子の愛によって眠りからさめたお姫様とか……。

  来週、3.3週のヒント

  小1・2年生 3.3週 ●自由な題名

 小学1・2年生の人は、書くことを見つけておきましょう。

  小3・4年生 3.3週 ●ふいに、わたしは(感想文)

 学校でも、男の子と女の子が同じ場所で別の遊びをしていて、おたがいに「じゃまだぞ。どけよ」「そっちこそ、向こうでやりなさいよ」なんて言い合うことがあるでしょう。

 または、急に大きい声でどなられたりすると、おどろいて何と答えていいかわからなくなってしまうことなどもあります。

 うそをつくつもりではないのに、うそをついたと思われた、という悲しいにた話がある人もいるかもしれませんね。

 いろいろなにた話を考えてみましょう。

 しかし、それにしても「ひばしやほうきをもって、すっとんでくるおばさん」というのは迫力(はくりょく)がありますね(笑)。みなさんのうちの近所には、そういう元気なおばさん、いるかな。

  小5・6年生 3.3週 月ができた原因(感想文)

 科学は決して完成したものではなく、これからも新しい考えが出て古い考えが否定されることがある。自分の考えをどんどん科学界にぶつけていこう、という話です。学校で勉強をしていることは、すでにほとんど確実になった知識ばかりですから、昨日まで正しかったものが今日から間違いになるということはあまりありません。日本一高い山は昨日までは富士山だったが今日からは円海山になったというようなことがしばしばあったら大変です。しかし、日本一古いお金は「和同開珎(わどうかいちん)」ではなく「富本」だったというようなことはこれからもありそうです。言葉の使い方でも、昔は「つずく」が正しい書き方でしたが今は「つづく」が正しくなっています。ヨーロッパの中世のころは「太陽が地球の周りを回っている」が正しい答えでしたが、今、理科でそういう答えを書いたら×です。最近では、太陽系の水・金・地・火・木・土・天・海・冥のうち、冥王星が惑星からただの小惑星に格下げされるかもしれないという話題がありました。

 理科や社会の知識で、今、小学生のみなさんが学校で習っていることと、お父さんやお母さんが小学生のときに習っていたことが違うというような例を聞いてくるといいでしょう。

 ことわざは、「142、例外のない規則はない」。「52、塞翁が馬」なども使えそう。

  中学生 3.3週 科学における発想と(感想文)

 科学の本などを読んだり、数学の証明問題を解いたりしていると、世の中にある知識はすべて「これがこうだから、こうなって」と論理的な思索の結果生まれてきたような印象を持ちがちですが、偉大な発明や発見のほとんどは偶然の思い付きによるもののようです。ニュートンの万有引力の発見も、X線の発見も、狂犬病ワクチンの発明も、どれも偶然見つけられたものばかりです。

 結果という外側だけを見ていると、外側がすべてであるかのように思いがちですが、実はその内側に見えない本当の原因があるということです。論理よりも直観、数値のデータよりも実感というふうに主題化してもいいでしょう。

 似た例を探してみると、「孔雀の真似をしたカラス」などが使えそう。また、「花咲かじいさん」が飼っていたシロを使って自分も大判小判を掘り当てようとした欲張りじいさん。「こぶとりじいさん」の真似をしてこぶを二つももらってしまったじいさん、なども考えられそうです。

  高校生 3.3週 井戸端園の(感想文)

 お茶は、花に栄養をまわさないことによって葉に栄養を蓄積するような仕組みにしているようです。チューリップでも、いい球根をとるためには、花が咲いたとたんに花のところだけ切りとってしまわなければなりません。

 話は飛躍しますが、人間でもあまり若いうちから花を咲かせてしまうと肝心の蓄積が足りなくなるということが考えられそうです。

 そうすると昔話は「ウサギとカメ」などかな。(^^ゞ

 

  絵も入って楽しい作文になりました

 インターネットから作文を送る人は、この2月から絵も一緒に送れるようになりました。このくわしいやり方は、次学期の教材の「学習の手引」に載せる予定です。

 文章だけの作文にくらべると、絵が入った作文は、ぐっと楽しい印象になります。

 自分で絵をかく時間がない人や、まだ描き方がわからない人は、アイコン集というページに123種類のアイコン(小さな絵)を載せていますので、そこから絵を持ってくることもできます。

 

あおべ(中3)てな(中2)あなつ(中2)うみ(中1)

 

ふり(小6)こち(小5)あたゆ(小5)あすよ(小5)

 

(これらの絵はいずれも作文と一緒にかいたものです。ホームページ上ではカラーで見られます)

 画像の広場<http://www.mmjp.or.jp/shine/gazou.html>

 

  光る表現コーナー 1999年3月2週号

高光さん(あつわ/小1)の作文より(とこのん先生/2.2週)

 チューリップは、草むらで生まれて一年たった春、女の子が一人やってきて、チューリップをスコップでぬいておうちのかだんにうえました。 評:チューリップの童話(どうわ)がこれからはじまるのね。なんだかわくわくするような書き出し。すばらしい想像力(そうぞうりょく)です。

小池さん(あとふ/小1)の作文より(ミルクティ先生/2.2週)

 つぎにオレンジのシャーベットを、かってたべました。グレープフルーツのちゅうぐらいのおおきさでした。わたしは、まるまるふとったみかんのシャーベットを、ペロリとたべてしまいました。まるでおつきさまみたいだなとおもいました。<評>オレンジのシャーベットのおいしさを、文でじょうずに書けたね。おつきさまみたい、というたとえも、おもしろいね。v(^o^)

ニルスさん(あそな/小2)の作文より(スズラン先生/2.2週)

 パンジーの花を外に出しました。・・中略・・花は、ぼくの手をグーにしたぐらいでした。花の色もこくなっていました。口をパッとあけたようでした。評:パンジーの花が春らしくかがやいていましたね。

えりさん(あなふ/小2)の作文より(とこのん先生/2.2週)

 (豆ごはんを食べいるとき「おいしいでしょ」と言われて)わたしは、「うん。おいしい。」と言いました。そしてわたしは、豆ごはんをおかわりしました。 評:おかわりするぐらい、とてもおいしかったんだね。先生も食べてみたいです〜

宇佐美さん(とあ/小2)の作文より(みち先生/2.3週)

 外にでてみると雪の中に足あとがすごくたくさんありました。わたしは、心の中でお兄ちゃんの足あとだなとわかりました。評:そうぞう力をはたらかせたところにふくみのあるあたたかさをかんじます。

まほうつかいさん(とみ/小2)の作文より(洋子先生/2.2週)

 豆は、とてもおいしかったです。だから、もしわたしがもうおばあちゃんになっていたら、豆がいっぱいたべられていいなとおもいました。——中略−—でもまだじゅうぶん、じゅうぶん、またないといけないことです。だって、おばあちゃんは、八十四歳です。私は、(八歳)あと七十六年ぐらい待たなければなりません。でも、そんなにはやく年取ってもいやです。(評:年の数だけ豆を食べることになっておばあちゃんとの年の差にあらためて驚いた様子。豆は、たくさんたべたいけれど年は、とりたくないし——ひろみちゃんの気持ちがよくでていますね。)

まささん(あうこ/小3)の作文より(みち先生/2.3週)

 ぼくは、カレーよう日という日があったらいいと思います。いっしゅう間に一かいも、朝、昼、夜と一日中食べられるからです。ほんとうにそんな日があったらいいなあ。評:本当にすきなんだという気持ちを伝えられましたよ。

パフィーさん(あおけ/小3)の作文より(ゆり先生/2.3週)

 「どこどこ、でておいでー。」と、いいながら、さがしているのは、しゅるいは、チンチラ、名前は、マミオで、男の子のネコです。(中略)毛は、白くふさふさしていて、目は、青っぽい色で、早く、さわりたくなりました。評:お友だちの家のネコをはじめて見たときのワクワクする気持ちがよく表れてますね。

吉田さん(あこて/小3)の作文より(みち先生/2.3週)

 (やっとゲームができた)いもうとは、とびはねてました。まるで、うさぎみたいでした。

サボテンさん(あさお/小3)の作文より(ゆり先生/2.3週)

 もし、わたしが代田君だったら、源ちゃんがかんちがいをしていたら、「ちがうって。べんとうをわすれたの。」とキッチリと言うと思うけど。いや、ぜったい言うべきだね! 評:そうだね。そうすれば先生にうそをつくことも、げんこつをもらうこともなかったもんね。う〜ん、サボテンさんだったらきっとキッパリ言えてるだろうなあ。

エコチャンさん(せゆ/小3)の作文より(まや先生/2.1週)

 まず、やったことは、せっけいです。どんなおめんを作るかかんがえるのです。私は、(あーどんなのにしようかな。)となやんだうえよし!ときめてかきました。(評:おめん作りに対する、いきごみがつたわってくるね。)

島邑さん(ねさ/小3)の作文より(ゆり先生/2.3週)

 そのしおじゃけとこうやどうふのにしめも、ぼくは、すごくたべたくてたまらないほどおいしそうでした。だからぼくは、長文の5を読んでいると、ちょっとよだれがでそうになります。評:「しおじゃけとこうやどうふのにしめ」は、ふだん食べているものでも、こんなに「おいしくておいしくて」と書いてあるとものすごくおいしそうなものに感じるからふしぎだね。

 

 

金澤さん(あいか/小4)の作文より(はるな先生/2.3週)

 ぼくは、一回だけ犬におわれたことがあります。そのときは「ワー」といってにげました。にげたら、こんどは、大きな声で、「ワンワン」と、ほえてきました。そのとき、ぼくは、ちょっとこわかったです。ぼくは、「いぬとか、ねこを、あまくみちゃいけないなあ」と思いました。(講評):犬においかけられて、こわい思いをしたことを、いきいきと、かきあらわせました。きっと、犬は、あなたと、仲良しになりたかったんでしょうが、金澤君がにげだしたから、ついてきたのでしょうね。そのときの、光景がめにうかんでくるようです。

芳垣さん(あうか/小4)の作文より(ミルクティ先生/2.3週)

 「バレンタインデー」みなさんは、だれにあげましたか? (略)そしてたまごをぬっておさとうをいれて、やいて、できあがり。ぜひみなさんもつくってみて下さい。とってもおいしいです。<評>読む人に話しかけるように書いたことで、楽しい作文になったね。

一木さん(あきわ/小4)の作文より(みち先生/2.2週)

 もし、ぼくが五、六年生だったら、きつくてきつくて練習の時の五しゅうめぐらいから、身体が石のようにおもくなり、足がうごかなくなって、はしりおわるころはもうくたくた。まるで三時間はしりつづけたもおなじ、というようになってしまいます。——

小松さん(あてろ/小4)の作文より(スズラン先生/2.3週)

 「そんなに言うなら音楽係にもう一度聞いてみろや。」中略「とにかくぼくは言ってません。」先生の目は信じたような目ではありません。中略(友達はさきに帰ったし、先生は信じてくれないし、それにプールがあるし)ぼくは、足が走るように動いています。評:なかなか信じてもらえない悔しい気持ちと、帰るのが遅くなって困ったようすが出ていますね。

清原さん(ねる/小4)の作文より(洋子先生/2.2週)

 今は、その虫かごは、倉庫においてあります。ぼくは、鈴虫がもしいきていてくれたら、さいしょに、かいてあるように、たぶんジロジロ鈴虫を観察していたかもしれません。(評:鈴虫をせっかく三十匹ももらったのに、みんな死んでしまってほんとうに、残念だという気持ちがよくわかりますね。)

ヘノチャさん(けら/小5)の作文より(みち先生/2.2週)

 すいぞくかんのすいそうは、とても大きいけど、もっともっと大きい海にくらべれば、小さくて、魚たちにとってはせまっくるしいのではないかなと思いました。−(中略)−すいぞくかんの中でうまれたさかなのあかんぼうは、うまれてからずーっと、ひろい海で思いっきりおよげないんだなと思うとなんだか、かわいそうなきがしました。評:比べるとわかりやすいですね。

飯野さん(てる/小6)の作文より(みち先生/2.2週)

 (すいぞくかんのジンベイザメ)いふう堂々としていてのっそりとけれどもいげんがありひとたびからだを動かせば他の魚は、「どうぞ、ジンベイさま」とでも言っているかのように、さっと道をあけササッとにげていく。評:まるで見ているような気持ちになる言葉選びのうまさを感じます。

 ボス気分で命令したぼくは、——ここでやめてしまったら最初に言いだしたのに二人に頭が上がらなくもうし訳けないと意志をかため再び動き始めた。

和泉さん(えり/中1)の作文より(スズラン先生/2.3週)

 「仲の良さそうな外見よりも、親子のきずなを深めることが真に大切なのだ」と言えるだろう。評:文の中で生きていた自作名言でしたね。

Folderさん(あすの/中2)の作文より(ミルクティ先生/2.1週)

 そして、芸術や音楽は、人を豊かにし、楽しませてくれるものだと思うから、心で感じる音楽や絵をぼくは見つけていきたい。<評>「芸術」「音楽」「絵」というキーワードを使って印象的に締めくくったね。きれいな「●書き出しの結び」ですね。

さやかさん(あおべ/中3)の作文より(みち先生/2.3週)

 いま、地震、雷、火事、オヤジなんていっても、なんで恐いの? と思う。—(中略)−金太郎の話の影のスター金太郎父が彼を立派な人に育てたからであろう。—(中略)−自分勝手な人が多い今の社会にはちゃぶ台をひっくり返すようなオヤジが必要だと思う。自分の価値を大切にし、子供に教え込む父親が本当の父、オヤジといえるのかもしれない。評:言葉を効果的に使っています。

坂本さん(おて/高1)の作文より(ミルクティ先生/2.1週)

 そもそも芸術とは何なのであろうか。辞典で引いてみると「美の追求、表現をめざす文学、音楽、絵画などの総称」とかかれている。<評>これから書くテーマについて、その定義を明らかにするために、辞典からの引用を使った書き方です。いろいろなテーマで使える書き方ですね。

 

  中央公園より 1999年3月2週号

 言葉の森のホームページにある「中央公園」には、全掲示板のこれまでの書き込み情報が掲載されています。その中の一部を、作文を中心に抜粋して紹介します。

--------------------------------------------------------------------------------

はととからす

 最近のはとやからすは、人間に対して色々と迷惑な事をしている。公園のハトの糞やからすのごみあらしなどとある。この行動は目に余るものがある。いくら追っ払ってもまた来る。人間に対する利というものはなく害というものばかりである。からすは、頭がいいのでどんな撃退法を考えても最初のうちは逃げていてもそのうち慣れてきて逃げなくなってしまう。はとは、頭が悪いのか何なのか分からないけど追っ払ってはまた来て追っ払ってはまた来るというおもしろい鳥である。

 はととからすは、色々と悪い事をするので可愛い鳥というイメージがまったくない。それにからすは、黒いから不吉だという事まで言われている。鳥類の中で嫌われている鳥の二匹だろう。なぜ、はととからすは迷惑な事をするのだろうか。原因は、食事だと考えられる。はとは食欲旺盛、からすは何でも食べる為ごみをあらすのである。かもめ団地では、一般ゴミはボックスに捨てる事になっているのでゴミがいっぱいになるとボックスからはみだし大変な事になる。正月あたりの三日間は、からすの大群で、みかんの皮があちこちに飛び散っている。だから清掃のおばさんやおじさんがぶちぶち言いながら掃除している。本当に困った話である。

 しかし、そのようなことをしなければ可愛い鳥である。人間は、ハトなどを追っ払うのではなくて共生する事が大切である。もとはといえば人間がゴミの処理をきちんとすればそのようなことにはならないのである。去年、テレビで「からすについて考えを改めよう」という事で番組が放映されていた。そこで生ゴミがからすにとってごちそうである事が分かった。ゴミが全ての原因であった。

 もともと人間が、からすの住んでいたところへ侵入した為からすが悪い事をしても文句は言えないのである。はとやからすの住む公園が少なくなってきている為都会が住みやすくなっているのである。えさは、ゴミから取ればいいので餌は困らない。だからからすはどんどん増えてきている。だから人間とはと、からすが共生するには、悪いもとを断ち切ることが必要である。その一つは第一にゴミをきちんと処理することである。それなら町もきれいになるし追い払う必要も無い。「私たちの幸福が、他の人々の不幸に支えられているのであってはならない。」という言葉もあるようにはとやからすがいなくなることでいい都会ができるわけにはいかない。

 

● Online作文ベニバナの苗 太公望(中2) ● unoより 08431 99/03/02 17:32:04

--------------------------------------------------------------------------------

被害者という加害者

 最近、大きなカラスを見かけることが多くなった。私の通っている大学にも大きなカラスが何羽かいる。普段は建物の上の方で様子をうかがっているが学生が食べ残した残飯を見つけるやいなや猛スピードで急降下して残飯を口にくわえ、また建物の上の方に戻っていく。その程度なら良かったが最近では学生が食べ物を持っていようものなら容赦なく襲ってくるようになってしまった。このような事はカラスに限らずサルや鹿などでも実際に発生している。

 これらの動物を『危険な動物』というレッテルを貼って駆除もしくは隔離してしまうのが今日の対抗策である。我が家の近所のゴミ捨て場にはゴミを覆うネットがある。このネットも、これらの対抗策の一つだ。駆除や隔離は確かに効果はある。しかし、よく考えてみると昔はサルもカラスも鹿も決して人間に危害は加えなかった、というよりもむしろ『共存』をしていた。だが私たち人間が森林を伐採し動物の住処やエサを無くしてしまった結果、私たちの社会に危害を加えるようになってしまったのだ。このように考えれば私たちは『被害者』の立場ではなく『加害者』の立場でもある事に気付く。

 『桃太郎』の中で桃太郎はサル、キジ、犬と村の食べ物や宝物を奪う鬼を退治しに鬼ヶ島へ乗り込んで鬼を退治する。『桃太郎』は勧善懲悪の昔話として昔から好まれて語り継がれている。この話の中で鬼は『加害者』である。桃太郎は『被害者』の代表として『加害者』である鬼を退治する。これは私の偏見かもしれないが、この鬼達の住処である鬼ヶ島は私の読んだ絵本ではどれも海の沖にある岩だらけで緑が無い生活感のない小さな島だ。このような島なのだから当然、食べ物など存在しない。鬼は生きるために仕方なく船に乗って村を襲いに来る、とは考えられないか。このように考えれば鬼は、このような土地に住まされてしまった『被害者』でもある。村の人たちも鬼も、もっと話し合いをすれば良かったのだ。

 私たち人間は被害をこうむると『正義は私たちにある』と思い込んでしまう。戦争も、その良い例だろう。だが実際は『被害者』でもあるが少なからずどこかで『加害者』でもある可能性のあることも忘れてはならない。人間は結果から物事の善し悪しを判断しがちだが、その結果になってしまった過程を今一度、認識する必要がある。私の通っている大学は山の上を切り開いて建設したものだ。大学が建設される前は、その山はカラス達の住処だったのだ。

 

● Online作文黄ケヤキの苗 風間 吉見(大) ● kotoより 14431 99/03/01 11:32:23

--------------------------------------------------------------------------------

 

--------------------------------------------------------------------------------

コンピューターにかぎらず

 コンピューターにかぎらず機械でも複雑なハイテク機器を自由に使いこなすことは容易ではない。しかしだからといって、そういう機器類を使いこなせる人は「機械に強い人」だけだとして、「機械に弱い人」は「使えなくて当然」と考えたり「使えないのは不器用だ」とか「頭が悪いからだ」とあきらめていたのでは、世の中はちっとも進歩もしない。コンピューターでも、使いにくい機械がある場合、「本当はしょせん道具であって、私たち人間が主人なんだ」という発想をしてみる。コンピューターのあり方を考えてみることが必要である。

 先週、私はノートブックのパソコンを買った。メーカーからの説明書はあるのだが読みづらい。一つひとつのカタカナ言葉の理解に苦しみ作業がすすまない。あげくの果て、すぐまわりにいるひとにたのんで処理をやってもらうので、ちっともコンピューターのことがわからず悪戦苦闘している。パソコンが 一時爆発的に売れたときがあった。しかしそのほとんどがあまり使われず、ほこりをかぶった状況で家庭で眠っているという。問題は、ユーザーの頭の善し悪しではなく、コンピューターにどうみたって強そうでない俳優を採用して、あたかも「私でも簡単に使えま

 昔話で「やまたのおろち」というのがある。八つの頭をもつ大蛇が、近くの村に年に1度順番に娘をさしださせていた。村人たちは蛇に娘をさしださないと家も畑もむちゃくちゃにされるので仕方がないとはなからあきらめていた。しかしあるとき、勇敢な旅人があらわれ、大蛇を酒に酔わせ、蛇を退治してくれた。蛇の要求に村人たちがあわせるのではなく、村人たちが娘をさし出さないように考えること。また旅人のように大蛇を退治するようにしていくべきだと行動することが重要である。

 最近私たちのまわりで、政治・経済の問題で政治家や官僚に任せていてはだめだという考え方が芽生え始めている。いままで私たちは、政治家や役人は優秀で人間的にもできた人ばかりで「お上に任せていれば大丈夫」という既製概念をもっていた。お上が決めたことだから間違いがない。その信頼した役人が決めたルールのなかで、税体系にしても法律にしても国民は遵守していこうと考えてきた。しかし地球的グローバルに社会環境が変化していくなかで、お上の言うことを100%信じて生きていく状況では今やなくなってきた。国民一人ひとりがコンピューターが使いづらいなら、堂々と「機械が悪い」と言える文化をつくっていかねばならない。日本は単一民族であるが故に、聖徳太子のころから「和」を尊ぶあまり異論を唱える文化を積極的にはつくってこなかった。これからは若い人達をはじめ日本国民全員が政治や経済にもっともっと関心をもつ。「情報を公開させ、間違っていることを正しくさせる」うるさく、文句を言う国民に変わっていくべきである。政治家や役人たちにまかせるのではなく、自分たちが主役になって考え、これからの日本の国や制度をつくっていくことが重要であると私は考えている。

● Online作文黄ケヤキの苗 ヒロスエ(社) ● uaより 14423 99/02/21 21:22:53

--------------------------------------------------------------------------------

コンピュータにかぎらず

 ある合気道の名人がいた。その名人はある高名な師の一番弟子として皆に知られていた。彼が道を歩いていて馬の尻の後ろを通り過ぎようとした時、馬が一声鳴いて後ろ足を蹴り上げた。その名人は身につけた合気道によってそれをひらりとかわした。それを見て村人は指すがは名人と褒め称えた。すると同じ道を彼の師が歩いてきた。村人は師がどのような技を見せるのかとわくわくして見ていた。ところがその師は馬の後ろを通ることなく馬が暴れないように馬の前を歩いていった。

 これは合気道に古くから伝わる話であるが、困難を自ら受けて、努力によってそれを避けられるようになるのが合気道の目的ではないということである。我々は往々にして自ら対象に努力して働きかけ、対象を使いこなすことが進歩だと思っている。しかし本当の進歩とは我々が使いこなせるように対象を変化させてやることであろう。我々は、制度にしろ機会にしろ「モノ」を人間に合わせることを第一とする社会を作っていくことが大切ではなかろうか。

 ではどうすれば良いのであろうか。それは我々が「創造力」を働かせることである。トヨタのハイブリッドカー「プリウス」は環境問題に対してこれまで「出来るだけ車に乗らないようにしましょう」としか言えなかったところから一歩前進させた。このハイブリッドカーの開発はこれまでどの車にも搭載されていたエンジンと発電機を組み合わせるという「創造力」によって生み出されたものなのである。対象を我々に合わせていく作業には我々の創造力が多くの場合伴うであろう。

 しかし現実の社会では人間が生み出したものに人間が合わせることが第一だとする考えが幅を利かせているのも事実であろう。顕著な例が「古典」というものだが、「古典は原書を読んでこそ読んだと言える」と胸を張っていう人がいる。はたしてそうであろうか。言語とはそれに対応する社会があって始めて機能する。これは外国に行って日本語が通じないことを見れば明らかであろう。そのため社会が変化すればそれに見合う言語の形式もニュアンスも変化する。「古典」の原文にこだわっていつの時代にも共通するであろう人間の内面を一部の人間にしか掴み取れないとしたら悲しいことだ。良く出来た翻訳や現代語訳は現代において原書以上の価値を持つと私は思う。

 たしかに対象を我々が使いこなすために努力することも大切である。しかしそれは個人的かつ短絡的な物になりやすい。現在のコンピュータのように一部の、極端に言えば「技術者」しかその能力を完全に享受できないことを見れば分かるであろう。本当の進歩とは人間の創造力によって、対象を人間に合わせてはじめて生まれるであろう。そしてこれをときに我々は発明と呼ぶのである。合気道の師と名人の違いはこの「創造力」にあったのであろう。

● Online作文ペンペングサの苗 ○○○○(高1) ● ayoより 10423 99/02/18 19:13:05

--------------------------------------------------------------------------------