http://www.mori7.com/ 1999年9月2週号 通算第631号 mori7@mori7.com

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  プロフィールと清書のページはパスワードで

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  情報発信は三度の食事

 ここのところ、言葉の森新聞の記事に保護者向けの話をほとんど載せていませんでした。理由は、今学期から課題の長文が学年別になったためで、それらの解説にスペースを取られてしまったことが主な原因です。

 しかし、情報というものは一度発信すればそれで済むものではなく、三度の食事のように毎日発信していなければ鮮度が保てないということに、最近思い当たりました。

 そこで、これからは、ホームページなどを使ってそのときどきの記事をできるだけ載せていくようにしたいと思います。

 

 この「情報発信は三度の食事のようなもの」は、子供たちの勉強にも当てはまるようです。

 自習の大切さということをよく言いますが、先生が子供に自習の意義を話して、やり方を説明して励ましたり叱ったりすると、だれでも一週間ほどは自習をしてきます。しかし、次の週からは、すぐまたもとの何もしない生活に戻ってしまいます。

 生徒の中には、先生が特に何も言わないでも毎週きちんと自習をしてくる子がいます。しかし、それらの子供たちは、実は家庭でお母さんが毎日のように自習をしなさいと言っているのだと思います。

 子供たちは、小さな苗木のようなものです。一日でも水をやらないと、すぐにしおれてきます。大木が何日もの日照りに耐えるようには、深く根をはっていないのです。

 子供たちのもともとの能力にはそれほどの差はありません。しかし、学年が上がるにつれて、学力のある子とない子に次第に分かれていきます。そのいちばんの原因は、勉強の仕方や教え方以前に、毎日の家庭学習の習慣がついているか否かにあるようです。

 自習も三度の食事のように、毎日欠かさず続けていくことが大事です。

  描写と説明

 大学生や社会人の書く文章で、ときどき意味がわからない部分に出合うことがあります。「ここ、ちょっとわかりにくいなあ」と言うと、「それは、実はこれこれこういう意味で、こういうこともありああいうこともあるからはっきり言い切らないで、言外の意味をにおわせているんです」などと説明してくれることがあります。

 このはっきりとわかるように説明しないというのは、実は日本の文学のひとつの伝統です。俳句の世界では、説明ではなく描写をするということをよく言います。「古池や蛙とび込む水の音」という句のかわりに、この情景を説明しようとすると「ねえ、ねえ、聞いて。昨日さあ、古い池に行ったらカエルがとび込んでさあ、水の音が聞こえたんだよ」「ふーん、だから、どうしたの?」「は?」という間の抜けた話になってしまいます。

 小学校の作文指導でも、「思ったことを直接書かずに、思ったことがにじみ出てくるような動作や情景を書きなさい」というへんてこりんな指導をすることがよくあります。もちろんこれが、論理的な文章を書くという全体の流れの中の一部として位置づけられていればいいのですが、小学校の作文指導では往々にして、この描写的な表現自体が価値のある目的のように取り扱われてしまうようです。例えば、「私は玉子焼きがうまくできたのでうれしかったです」と書くかわりに「私は玉子焼きを持って、思わず走り出しました」と書きなさいというような指導です。本当に大事なことは、玉子焼きがうまくできたということであって、その喜びを表現するのに走り出したとかころんだとかいうことは実は枝葉のことなのですが、この枝葉の部分が大きくクローズアップされてしまうのです。

 新聞のコラムなどでよく、各界を代表する人がリレーで執筆を担当するという欄があります。そのときによく感じるのは、科学者や経営者で内容のある感銘を受ける文章を書く人が多いということです。このことは、表現を工夫するよりも表現する当の内容を充実させることが第一で、あとはそれをいかにわかりやすく伝えるかということが文章の目標だということを表わしているように思います。

  光る表現コーナー 1999年9月2週号

瞳子さん(あとふ/小2)の作文より(ミルクティ先生/8.3週)

 この話を読んで一番ふしぎだったところは、村のおひゃくしょうさんが、あいた口がふさがらなかったところです。わたしだったら家の中にはえた竹の子を見てかんげきします。おひゃくしょうさんがあきれかえるのは、いつも食べものとして食べてるものだからでしょう。<評>おひゃくしょうさんがあきれたのがふしぎ…こういうところにも目をつけて感想を書いたのは瞳子ちゃんだけじゃないかなぁ。感性のするどさに感心したよ。個性的な感想文になったね。

ひろみさん(あちや/小3)の作文より(とも先生/8.3週)

 (花火をしていてなかなか火がつかなかったときに)おにいちゃんが、「これつかんよ」とおこってふりかったその時でした。いきなり火がつきました。・・・評:「言いました」のかわりにおにいちゃんの気持ちと動作の様子でしっかり表現しているね。

ゆりさん(あおへ/小4)の作文より(ミルクティ先生/8.1週)

 次は、具を入れて作ってみました。具は、うめぼしです。具は、おにぎりのまんなかに入れました。でも、食べてみると、はじに具がよったりして、真中に、なかなかならなくて、けっこうむずかしかったです。(略)おにぎりは、意外とかんたんにみえるけれどけっこうむずかしかったです。<評>自分でやってみると、新しい発見があるね。おにぎりの具が必ず真中になるような裏技(うらわざ)を研究してみても、おもしろそう。(^o^)

怜奈さん(あかの/小4)の作文より(とこのん先生/8.3週)

 やさしい心はたまごと似ていると思います。黄身はやさしい心で、からをやぶらなければこわい心だと思いました。そのからをやぶってくれたのが海蔵さんのように感じました。 評:人の心を「卵」にたとえたのですね。確かに、卵の中身はとてもやわらかいけど、それを固い殻が包んでいます。真弓さんならではの感性といえるでしょう。

テリーさん(あたや/小4)の作文より(かつみ先生/8.3週)

 まるで馬のように足がはやい人ときょうそうをするのがいやなので休めばいいのにと思ったことがあります。 評:あるよね。でも、それはきっと勝ちたいという気持ちがあるからこそ。フェアーな態度で勝てるように努力するしかない!!(とはいってもなんだけれどね)

ドリームさん(あはは/小5)の作文より(ミルクティ先生/8.3週)

 いつも家では火は、栓をひねればいいし、水はじゃ口から出る。その生活に慣れると「井の中のかわず、大海を知らず」みたいに生活のしかたはいろいろある、ということを知らないことになるから、キャンプは大切だ、ということがわかった。<評>「ことわざ」と「わかったこと」をうまく結びつけて書けたね。9月は防災月間だね。いざというときに、キャンプで身につけた技術が役立つでしょう。v(^o^)

健太さん(あうぬ/中1)の作文より(ひまわり先生/8.3週)

 自分に自信を持つ、一番良いやり方は、正直に話すということだとぼくは思う。評:臆病な心をなくすにはどうしたらよいかが、はっきりと表わされていますね。

アリーさん(あえゆ/中1)の作文より(ミルクティ先生/8.3週)

 『カナダに行って』私は別れるのがつらいからホームスティに行かない、というのも別にいいと思うが、出会いのすばらしさを学ぶために行くのもよいと思う。<評>反対意見「別れがつらいから、いや」に理解を示しつつ、でも私はこう思う、と自分の意見をしっかり書けたね。自分の意見一辺倒でなく、こういうように別の意見についても考えながら書くと、内容に深みがでるね。

GLAYさん(あおむ/中2)の作文より(ももんが先生/8.1週)

 古いものだっていろんな人の心がこもっていて、みんなに使ってもらえるようにと考えたのに、新しいものができるとポイされてしまっては、その人たちの気持ちも捨てることと同じである。(中略)時代が変わり新しいものが増えるこの世の中で、昔からずっと変わらないものがあってもいいのではないか。評:私たちが、普段なにげなく使っているものは、すべて人の手がかかっているものなんですね。物の後ろに、人を感じることができるようになれば、ポイ捨ても少なくなるでしょう。昔から変わらずにあるものは、それだけ使いやすく、みんなに必要とされてきたものなのだと思います。

UZI.SMGさん(そお/中3)の作文より(ミルクティ先生/7.3週)

 当時の江戸は世界一の人口を有しながら世界一清潔であったといわれる。例えば屎尿処理においても、ヨーロッパのある都市では夜間に道に捨てるという超非衛生的な方法であったのに対し、江戸では下水道はないにせよ畑にまいた。上流武士のものは高価だった(良い食べ物を食べているから)という程使われていた。(略)例えばダイオキシンなどドイツでは最大限の努力をし年々減らしているという。つまり、焼却の時の温度を上げ、その時出たわずかなダイオキシンを今使っていない鉱山跡に保存し、技術的に処理できる段階になるまで封印しているという。<評>歴史、外国の事情などに詳しいと、作文の題材に事欠かないね。

K.Kさん(きそ/高2)の作文より(スピカ先生/8.3週)

 人間は、科学を進歩させると同時に、倫理も進歩させるべきなのだ。今の状態は、加減乗除ができるからと言って、小学生に積分を教えているようなものだ。 評:科学の進歩に対して、生命倫理の問題などが置き去りにされている現状について、具体的なたとえで表現し説明したね。

  来週、9.3週のヒント(小1〜中2)

 小学2年生 9.3週 コロンブスたちが、スペインの(感)

コロンブスがスペインにかえってくると、おいわいのえんかいがひらかれました。ある人が、コロンブスがもてはやされるのをねたんで、「それは、だれにでもできることだ」といいました。コロンブスは、たまご立ててみせ「人がやったあとなら、だれでもできる。はじめにやるのがむずかしいのです」といいました。

 みなさんは、たまごを立ててみたことがありますか。生たまごのおしりのところを、かたいテーブルにコツンとあててつぶすと、たまごはみごとにたちます。やってみましょう。でも、しっぱいして、お母さんにおこられても先生はしりません。

 たまごを立てるもうひとつの方法もあります。これは、たまごのおしりをつぶしたりせず、たまごがたてにまっすぐになるようにそうっとおくと、うまく立つことがあるのです。ちょうど、一円玉を立てるような感じです。少しでもずれるとうまく立ちません。

 もっとかんたんな、でもちょっとずるい方法は、たまごをたてるところに、塩をおいておくというやり方です。

 にた話は、「はじめてするのがむずかしい」という話でかんがえてみましょう。ゲームでもなんでも、はじめてやるところは、なかなかうまくいきませんが、一度うまくいくと、あとは楽にできるようになります。ゲームいがいに、はじめてひとりでバスにのったことや、はじめてひとりでたまごやきを作ったことなどを思い出してもいいでしょう。コロンブスも、はじめてだれも知らない西の海に出かけるときは、みなさんがはじめて電車やバスにのるときのように、どきどきしていたにちがいありません。

 じぶんの話ではなく、伝記に出てくる人の話でにた話をかんがえてもいいでしょう。9.1週の長文にあるように、源義経(みなもとのよしつね)は、だれもおりたことのない一の谷を馬でかけおりました。これもコロンブスと同じように勇気のあることでした。

 「はじめてのことはむずかしい」というところで、いろいろな話を見つけてみましょう。

 小学3年生 9.3週 アルフレッドのゆいごんじょうは(感想文)

 内容:アルフレッドの遺言状(ゆいごんじょう)には、つぎのように書いてありました。「……(財産の)利子は五つに分け、物理学、化学、医学生理学、文学、国際平和のそれぞれの分野で、重要な発明発見をし、あるいは理想にみちた作品をあらわし、あるいはまた戦争をふせぐことにつとめた人物にあたえること」。おいのソールマンはそのとき26歳でしたが、この役割を引き受ける決心をしました。

 解説:自分の財産のほとんどを、ノーベル賞として残したアルフレッドは、この遺言状を書くときにどんなことを考えていたのでしょう。ノーベル賞の創設は、ダイナマイトの発明以上に大きな影響を後世に残したようです。

 似た話は、つぎの時代の人に残すプレゼントということで考えてみましょう。みなさんの学校に、「第○回卒業記念」などという記念の木や池や版画などがあるでしょう。自分のためではなく次の世代の人のために残されたものは、規模の大きい小さいはありますが、いろいろなところにあります。緑の豊かな日本の国土全体が、前の世代の人たちが残してくれたプレゼントだと考えてもいいかもしれません。

 もし、みなさんが、ノーベルのように莫大(ばくだい)な財産を持っていたとしたら、どのようなかたちでその財産を世の中に残していくでしょうか。想像した話などを入れながら考えてみましょう。ゲームを買って、漫画を買って、お菓子を買って、全部使っちゃうという人もいるかもしれませんが、それでも使い切れないくらい持っていたらどうするでしょう。

 小学4年生 9.3週 「くっくっく。」(感想文)

 内容:子牛をあずかった盗人(ぬすびと)の頭(かしら)は、笑っているうちに涙が出てきました。これまで多くの人にきらわれていた自分が、子供や子牛に信頼されていることがうれしくてたまらなくなったのです。頭(かしら)の心は、いつのまにか美しい心になっていました。

 解説:みんなからきらわれていれば、心もだんだんひねくれてきます。みなさんも、おこられたときは、「いいよ、いいよ、どうせぼくは悪い子なんだから。ふん」という気持ちになったことがあるでしょう。逆に、ほめられたり期待されたりしたときは、その期待にこたえようとして「ようし、もっとがんばるぞ」と思ったことがあるでしょう。

 漫画やゲームなどでも、はじめ悪の手先だった人が、正義の味方に助けられ、そのやさしさにふれて正しい心を取り戻すという展開がよくあります。人間というのは、もともとそういういい心を持っているのですね。

 似た話は、自分の体験ばかりでなく、読んだ本の話や、お母さんやお父さんに聞いた話などからさがしていきましょう。

 小学5年生 9.3週 人間および動物を通して(感想文)

 出会いや再会のときのあいさつは、相手の身元確認や相互の親愛感の確認という意味を持っています。久しぶりに会ったときや、遠くへ旅行するときなど、特に入念にあいさつをするでしょう。あいさつの身近な例を書いてみましょう。

 ことわざ:「11、衣食足りて礼節を知る」。おなかがすいて死にそうなときは、何も言わずにガツガツ食べるというようなこともあるけど、普通の文化的な生活をしている人は、やはり「いただきまあす」と言わないとね。

 「親しき中にも礼儀あり」。道で知っている人に会ったときにもちゃんとあいさつをしているかな。

 「49、郷に入(い)っては郷に従え」など。イヌイットの人たちとあいさつするときは鼻と鼻をこすりあわせなきゃいけないし、チベットでは偉い人にあいさつするときは「あっかんべえ」と舌を出さなきゃいけないんだよ。(「世界ふしぎめぐり2年生」より)

 データ:小学5、6年生340名の調査(Macos word room<http://www1.nisiq.net/~macoto-s/>)によると、朝起きたときは、お父さんお母さんの両方、またはどちらか一方に、72%の子どもたちがあいさつをしています。また、夜ねるときは、お父さんお母さんの両方、またはどちらか一方に、69%の子どもがあいさつをしています

 

 

 

 

 

 

 小学6年生 9.3週 世界じゅう、どこに行っても(感想文)

 内容:日本人は海外を旅行するときでも日本の文化的カプセルを強く持っている。ハワイで日本人の観光客のためにホノルル市民の家庭訪問を企画したが、参加した日本人はきわめて少なかった。もしこれがアメリカ人に日本の家庭訪問を企画したとすれば、結果は逆になっただろう。

 解説:日本人は恥ずかしがりやのせいか、新しい世界にひとりで飛び込んでいくことを苦手とする人が多いようです。

 クラス替えなどのときでも、よく知っている友達がいると安心します。これが更に発展すると、トイレにいくときも、「ねえ、一緒にトイレ行こうよ」「えーっ、今行ってきたばかりなんだけど、まいいや、行こうか。今日はこれで三度目だよ」(何しに行くんだ)という話になります。

 小さい子供の場合は、どこかよそに行くときに、自分が普段愛用している毛布やお人形を持っていかないと落ち着かないという子が多いと思います。みなさんの中にもまだ、リカちゃんのお人形と一緒じゃないといやだなんて人がいるかもしれませんね。

 日本人が海外旅行をするとき、現地の食事ばかりが続くと、無性(むしょう)にご飯や味噌汁や納豆を食べたくなると言います。また、日本人は外国に滞在するときも、現地の人と溶け込むより、日本人どうしでまとまることが多いということもよく聞きます。

 日本人は、恥ずかしがりやの人が多いのですね。

 しかし、今は日本人でも、文化的カプセルをあまり持たない人が出てきています。テレビの「突撃なんとか」などという番組を見ていると、若いインタビュアーで平気で人のうちに上がり込んで「いいですねえ。これいくらですか。もらっていいですか」(おいおい)というような人もいます。

 こう考えると、あまり文化的カプセルを持たないのも考えものかもしれません。

 感想は、「日本人は……」または、「文化的カプセルというものは……」と大きく考えてみましょう。

 ことわざは、逆の意味で「49、郷に入(い)っては……」。何でも体験してみることだという意味で「119、百聞は……」などが使えそうです。

 中学1年生 9.3週 衰弱したアイデンティティの(感想文)

 他者から位置づけられた「わたし」というものが確認できないとき、人は自分の存在の同一性を皮膚感覚の境界で回復しようとする、という話です。中学生は、この長文は少なくとも五回は読んでこないと、似た話を見つけて書くというのはむずかしいと思います。よく読んできてね。

 大人になるとだんだん生きることになれてきて、ほかの人から認められなくても「自分」というものを持つことができるようになります。また、小学生のころは、子供はお父さんやお母さんに認められて「自分」というものを持つことができます。しかし、中学生や高校生のころは、ちょうど自分を成長させている最中なので、いちばん「自分」というものを持ちにくい時期にあたるようです。

 「リレーで一位になった」とか「クラスで一人だけ百点をとった」とか「学校で一人だけ鉄棒のウルトラ回転前回りができる(そんな技あるか)」などのようにほめられるかたちで周りから「自分」を認められればいいのですが、そういうことはめったにあるわけではありません(一生ないかも(笑))。人間は無視されることにはたえられないので、よいことをして認められるあてのない子供は、ぐれて認められることで自分を回復しようとするのでしょう。

 タレントの好き嫌いなども、皮膚感覚的な「自分」の回復と言えます。「わたし、○○ってキライ」「わたしは、△△の方がもっとキライ」というような会話をよく聞きます。「嫌い」というほうが「自分」の存在を確認しやすいのです。「□□が大好き」という場合も、みんなと同じようなタレントではなくみんなと違うタレントを「好き」ということが多いと思います。そう言えば、先生(森川林)も昔、「ピンクレディが大好き」なんて言っていたなあ。(いつの時代の話じゃ)

 中学2年生 9.3週 文化ということを(感想文)

 内容:ヨーロッパの文化は、個人の独立という市民意識を長所として持っている。しかし、それは同時に、愛や助け合いの乏しさという短所も伴っている。日本は、ヨーロッパの長所を取り入れつつ、短所を取り入れない新しい文化を創っていかなければならない。

 解説:欧米では、子供は小さいころから自分の部屋で寝るという習慣があり、日本では、かなり大きくなるまで両親と一緒に寝るという習慣があります。こういう身近な例を通して考えてみるとよいでしょう。

 Aの意見は「個人の自立」、Bの意見は「相互の助け合い」ということで考えてみましょう。総合化ということでは、この長文にも書いてあるように、「ヨーロッパの伝統にもよいところがあり、日本の伝統にもよいところがあるが、大事なことは、過去の伝統を取り上げてどちらがよいかと考えることではなく、私たちが「個人の自立と相互の助け合い」を両立させる新しい伝統を作り上げていくことである」というような感じで。

 名言は、「77、やさしさが……」「45、短所をなくす……」「87、私たちの幸福が……」など。自分でもいろいろと考えてみましょう。

 

  来週、9.3週のヒント(中3以上)

 中学3年生 9.3週 このところ日本では園芸が(感想文)

 内容:植物の種類の豊富な日本では、草花の名前に味のあるものが多い。植物の種類の少ない英国では固有の植物名が乏しく、新たに名前をつけるときはギリシア語やラテン語にたよらざるをえない。新しいものを採りいれる日本人の積極性は評価するが、草花の名称を意味不明の外来語にむやみに置き換えるのはやめてほしい。

 解説: 胡蝶蘭とファレノリプシスとを比べたら、だれでも胡蝶蘭の方がイメージ豊かに思い浮かべられるでしょう(えっ 読めないって?)。こういう行き過ぎた外来語の例は、身近にたくさんありそうです。

 しかも、問題なのは、この外来語を使った言葉を日本語的に短縮してしまうことが多いことです。長文に出てくるセンペルフロレンスなども、業界では「おっ、そこのセンプロひとつ、こっちに植えといてや」などと言っているのではないかと、私(森川林)は推測しています。

 最近は、コンピュータやインターネットの普及で、カタカナのままの外来語がますます増えてきました。よくわからない代表的な言葉が、プロパティやパフォーマンスです。これは、もともと味のある日本語がないので仕方ないという面もありますが、新しい味のある和訳を考えてみたいところです。よく間違える代表的な例が、受信トレイや送信トレイ。ついトイレと読んでしまいます。

 長文の著者、鈴木孝夫氏の「閉ざされた言語・日本語の世界」「武器としての言葉」(いずれも新潮社)はおすすめの本です。下記のサイトに鈴木孝夫氏と片岡義男氏の対談が載っています。↓

http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/back/no6/tokushu.html

 高校1年生 9.3週 高齢化社会には(感想文)

 内容:高齢化現象というのは日本社会が成し遂げた成果だ。高齢化に伴う問題は、これまでの高齢者の比率が少ない時代に合理的だった仕組みを、高齢者の比率の多くなる時代に合わせて変えていく際の調整問題だ。高齢者の福祉を若い人が負担するという問題もあるが、人口構造が安定すれば、その負担の引き継ぎが世代間のルールになる。

 解説:高齢化と少子化は、これからの日本が確実に直面していく問題です。著者は、これを調整問題と位置づけています。

 予想される問題の現象面だけをとらえれば、労働人口が減るとか、若者の負担が増えるとかいった面ばかりが目につきますが、実際には、江戸時代の長期間安定した社会でも同じような人口の相対的な高齢化があったはずです。しかし、その中で文化が成熟し芸術が花開き生活が豊かになるという前向きの面も生まれました。

 高齢化という避けられない減少を、いかに社会の発展に結びつけていくかという知恵が必要とされているようです。

 高校2年生 9.3週 芸術スポーツといっても(感想文)

 内容:スポーツは軍事教練や国民の体力向上として始まった。社会が生産第一主義から消費第一主義へ移行するにつれて、スポーツも芸術的な要素が重視されるようになった。新体操やシンクロナイズドスイミングなどのコーチの指導はほとんど舞台の演出に近い。

 解説:学校の体育などを見ていると、まだ古い軍事教練時代の考え方が残っているようです。マスゲームなどは、見ている方はおもしろくても、やっている方は全然おもしろくもなんともありません。

 生産第一主義から消費第一主義への移行は、社会のさまざまな分野で進んでいます。今日の社会の問題としてスポーツに限らず幅広く考えてみましょう。

 勉強も、これまでは、いかに早く大量に覚えていけるかという量的な学力が評価されていましたが、これからは量ではなく質が問われる時代になってきそうです。

 食事も、昔は何しろ腹いっぱい食えればいいというような食生活でしたが(高校生の中には、今でもそういう人はいますが)、これからは、量よりも芸術的なセンスの方が食事の重要な要素になってきます。

 社会が新しい芸術的な要素を求めているのに、いまだに古い生産第一主義で運営されている仕組みというのが、まだどこかに残っていそうです。規制緩和で問題にされているものの多くは、生産第一主義の時代に生まれたものがいまの時代に合わなくなっているというケースが多いようです。身近なところでは、公立学校の学区が決まっていて選択の自由がないとか、私信を配達する仕事が郵便局以外には許可されないとか、日本の学校の多くは学校指定の制服を義務づけているとかいうことです。これらが自由化されれば、芸術性と多様性のあるさまざまな試みがすぐにでも生まれてくると思います。

 

 高校3年生 9.3週 環境サミット(感想文)

 内容:「地球にやさしく」は、先進国に都合のいい考え方にすぎない。発展途上国では自然のままでいいはずがない。自然に挑戦してきたからこそ豊かな生活ができるようになった。

 解説:著者ビートたけしさんの毒舌は、要約すると味がなくなってしまいますね。

 「環境か開発か」というのは、途上国の人にとっては大きな問題です。日本ではすでにほとんどの家庭に車があります。しかし、同じように中国の人たちがほとんどの家庭で車を持つようになったら、その排気ガスで日本の上空の大気は急速に汚染されると言われています。しかし、だからといって、「中国の人は車に乗らないで」などと言うことはできません。今の核拡散防止条約というのは、こういう論理に似ていて、「核兵器を持つのは今すでに持っている国だけにして、これから新しく持つのはだめ」という考え方です。持てる国の身勝手な論理を持たざる国に押し付けるべきではないというのが環境問題のひとつの重要な論点です。

 もうひとつの論点は、ムード的な自然保護に対する批判です。一時、泥つき野菜というのが流行ったことがあります。消費者が、きれいに洗ってある野菜よりも泥のついたままの野菜の方が自然らしくていいということで求めるようになったために、農家ではわざわざせっかくきれいにした野菜に泥をつけて出荷したという嘘のような話がありました。

 自然にまかせるのでもなく、自然をねじまげるのでもない、自然と調和する生き方が求められているようです。

 大学生社会人 9.3週 そうか、今度から質問は(感想文)

 内容:先輩から、インタビューの仕事は質問はひとつだけにして、たくさん用意してはいけないと言われた。質問に気を取られて対話がはずまなくなるからだ。仕事で知り合った会社の取締役の紳士にそのことを話すと、新入社員の採用面接のときに質問を一つだけにしようと言った。

 解説:旅行でも、足の向くまま気の向くままに出かけるタイプの人と、きちんと計画を立てて何時にどこを見てそのあと何時にどこで何を食べてと十分に準備してから出かけるタイプの人がいます。こういう対比は、漫才でも、テレビの実況中継でも、話し合いの司会でも、お店のマニュアルでも、同じように言えると思います。

 ある程度その場のアドリブにまかせないと、生きた反応が出てこないということはよくあります。先生(森川林)も教室で話をするとき、いちばん始めの曜日のクラスは、まだ準備もあまりできていないのでどうしてもその場で考えながら冷や汗をかきながら話すということになります。すると、意外に面白い話が出てきます。最後の曜日のクラスあたりになると、話し方もだいぶ板についてきて滑らかに説明できるようになりますが、その分、話は死んでくるようです。

 準備は大切だが、準備しすぎるとその場の生きた対応ができないというのは、いろいろな場面で言えます。しかし、ここで注意したいことは、初心者は準備しすぎるぐらいでちょうどいいということです。実は、世の中には、準備しすぎによる失敗よりも、準備不足による失敗の方がずっと多いからです。十分に準備して、しかし本番はアドリブで、というのが理想的な姿勢と言えるかもしれません。