http://www.mori7.com/ 2000年2月3週号 通算第652号 mori7@mori7.com

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  来週2.4週は清書です

 2.4週は、清書です。教室に通っている人は、これまでの作文を持ってきましょう。

 清書は、担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、作文用紙ではなく清書用紙に清書してください。

 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するようなものがない場合もあります。そのときは、清書用紙に直接自由な題名で作文を書いて送ってください。

 名前は、清書用紙の下の部分に書くようになりました。この部分は、インターネットに掲載したり印刷したりする際は表示されないようにしています。学校名は、小学生の場合だけ書いてください。学校名以外は、すべての生徒が書いてください

  欠点を見ずに明るくほめる

 小学校低中学年の子が長文音読をしているのを聞いていると、読みまちがえたりつっかえたりすることが多いのにいらいらすることがあると思います。

 しかし、ここですぐに注意するか、黙って静かに聞いたあと「だんだん読むのがじょうずになってきたね」とほめてあげるかで、その子のその後の勉強の好き嫌いが決まってきます。

 子供が小さいころは、大人の評価がそのまま、子供の自分自身に対する評価になります。注意される割合がほめられる割合よりも多ければ、子供は自信を失っていきます。小さな間違いを直すことで、子供が自信を失うならば、ことわざの「角を矯めて牛を殺す」と似たことをしていることになります。

 注意されたことは次第に苦手になっていきます。その苦手を直すために更に注意をつづけると、子供はやがてそのこと自体を拒否するようになります。

 ほめられたことは次第に得意になっていきます。子供がそのことを得意だと感じるようになったあとは、多少の注意をされても自信は揺らがなくなります。この段階になって初めて注意が生きたものになってくるのです。

 スポーツでも同じです。試合に強いチームと試合に弱いチームがあります。試合に弱いチームは、負けたあとに「どうして負けたのかよく考えなさい」というような後ろ向きの反省をさせていることが多いものです。負けてみんながくやしがっているときでも、指導する者はぐっとこらえてにっこり笑って選手を励ますという心の大きさが必要になります。

 子育ても、子供が小さいときであればあるほど、ぐっとこらえてにっこり笑うという意識的な努力が必要になります。子供が失敗したときには叱ったりからかったりせずに、「前よりずっとうまくなったよ」とほめてあげるようにしてください。

  適応力はやりとげることによって育つ

 手書きで作文を書いていた子がパソコン書きに変わるとき、どの子も字数は一時極端に短くなります。しかし、すぐに長く書けるようになっていく子と、なかなか長く書けるようにならない子とがいます。もちろんやがてはどちらも同じように長く書けるようになりますが、この差は、適応力の差と言ってもいいもののように思います。

 適応力のある子は、一般に忍耐強いという特徴があります。例えばキーボードで「O(オー)」の文字を打つとき、感覚的に打ちやすく思えるのは中指です。それを敢えて打ちにくい薬指で打つというのは忍耐力が必要です。決めたやり方を守るということをそれほど苦痛に感じずにできる子は、勉強やほかの生活面でも適応力のある子です。

 また、キーボードに早く上達する子は、二時間でも三時間でも集中してキーボードに取り組んでいます。反対になかなか上達しない子は、「面倒だ」「くたびれる」「できない」と文句ばかり言って(笑)すぐにあきらめてしまいます。同じ状態でスタートした子が、スタート時点ですでにこのように大きな差があるというのはかなり考えさせられることです。

 福沢諭吉は初めオランダ語を学んでいました。しかし英語が世界の主流だとわかると、それまで長年学んでいたオランダ語を捨てて新たにゼロから英語の勉強をしなおしました。

 適応力の差は、やればできるはずだという確信の差です。その確信は、やりとげることによって育っていきます。日常生活の中で小さなことでもやりとげるという習慣をつけることが、子供の適応力を育てるもとになるように思います。

  今週2.3週のヒント(中学生)

中1年 2.3週 科学は記述から始まる(感)

 実体があるからコトバが生まれるのではなく、コトバがつけられるからその実体があるかのように見えてきます。

 京都大学の霊長類研究所がサルの調査をしているとき、それぞれのサルに名前をつけました。その結果個体識別が容易になり、サル社会の研究が大いに進みました。海外ではサルに名前をつけるというような発想がなく、個体を識別して研究するという方法が確立していませんでした。そのために、海外の研究者の中には、「日本人はサルを個体識別する特殊能力がある(サルに近いから。おいおい)」と考えた人もいたようです。

 虹を七色に見る言語と二色に見る言語とがある、というような例は、ほかにもいろいろありそうです。

 コトバがあることによって世界の認識が豊かになる反面、コトバによってそのコトバで表わされたもの以外は見えなくなってしまうこともあります。雑草でも名前を知ると親しみがわき、道端で見かけると「やあ、チカラシバ君、元気そうだね」と話しかけたい気になります。しかし、逆に、コトバに慣れてしまうと、「なんだ、チカラシバか」とコトバでかたづけてそのもののありのままの姿を見なくなってしまうようにもなります。

中2年 2.3週 私が本当に「日本」を身をもって(感)

 内容:上野の博物館で縄文文化に触れて衝撃を受けた。現代の日本は欧米文化にばかり目をむけているが、欧米文化そのものが行き詰まりを自覚しつつある。現代の日本文化と縄文を基点とする日本文化の両方のきわどいバランスを取りながら進んでいきたい。

 解説:「縄文文化のよさを見直そう」という芸術・文化の話で意見を書くことは難しいので、筆者の生き方に関連させて意見を書くのがコツ。「理想と現実のバランスをとることの大切さ」や「自分の信じた道を進むことの大切さ」など。反対理解は「これまでの常識や伝統を尊重することも大切だが」。

 名言は、「29、自分が考えるとおりに……」「58、人間は求めているかぎり……」「43、脱皮できない蛇は……」「80、良い馬は長い坂を……」など。

中3年 2.3週 大相撲をはじめて見にいったとき(感)

 内容:大相撲を見にいったとき、観客がざわついているのに驚いた。居ずまいをただして見るという態度は芸術がそれ自体自律した普遍的な価値を持つという考え方から生まれた。この考えから、コンサートホールのような演奏者と観客を隔離し、観客相互を隔離する装置が作られた。一九六〇年代になると、この「芸術鑑賞」に対する批判として、観客を演劇の中に巻き込むような実験が行われるようになった。

 解説:クラッシック音楽をコンサートホールなどで聴く場合、観客は静かにしていなければなりません。せんべいをボリボリ食べながらクラッシックを聴くような人はいません。しかし、こういう聴取態度は、歴史的に形成されてきたものです。この「由らしむべし知らしむべからず」に似た権威主義的な芸術観に対する反抗が、観客を演奏の中に巻き込むような新しい芸術運動として生まれてきたのでしょう。

 学校の授業にあてはめると、生徒が静かにかしこまって聴くハイレベルな講義がクラッシックの演奏のようなもので、生徒がどんどん参加できる、楽しいが行き当たりばったりの授業が実験演劇のようなものだと言えるでしょう。

 今は文化活動のさまざまな分野で、観客の参加を促すような試みが行なわれています。博物館の展示も、昔はガラスごしにただ見るだけでしたが、今は観客が手に取ったり動かしたりできるものが増えています。横浜洋光台の子供科学館でも、小学校低学年の子は展示品を見るより、ジャングルジムのような場所で鬼ごっこをするのに一生懸命です。

 この観客参加の姿勢がマイナスの方向に向かうと、清水市の成人式のように、式の最中に携帯電話をしたり立ち歩いたりする成人が多いことに市長が怒り、翌年の成人式を廃止すると発言するような事態になるのでしょう。いま大学でも授業中の私語が多いために講義が聴けないというところが増えているようです。小中学校でも、先生の話を聴いているのは一番前の席の数人だけというクラスがあります。長文にある18世紀の演奏会のように、式場やクラスが社交の場になっているのです。

 しかし、その一方で、観客参加がまだ不十分な分野が数多くあります。公園などは、もっと市民が自由に参加できるものにしてほしい分野ですが、木に登ってはいけません、犬を放し飼いにしてはいけません、芝生に入ってはいけません、ボール投げをしてはいけません、秘密基地をつくってはいけません、などと観客の参加を拒否するような看板がよく立っています。確かに、公園のあちこちに秘密基地を作られたら困りますが・・・・・・。

 観客参加のマイナス面を反対意見への理解として考えながら、観客参加の方向が時代の流れだということで意見を書いていくといいでしょう。

 

  今週2.3週のヒント(高校生以上)

高1年 2.3週 どこかへ旅行がしてみたくなる(感)

 旅行が題材になっていますが、無難で安全な既成のやり方でなく、危険もあるが発見もある自分独自のやり方の方がよい、という意見を主題にして考えてみるといいでしょう。

 体験実例はいろいろありそうです。数学の問題を解くときでも、ゲームをするときでも、ほかの人に教えてもらってうまくやってもあまりうれしくありません。自分の力でやろうとすると失敗も増えますが、そのかわりうまくいったときの喜びは何にもかえがたいものがあります。

 社会実例は、歴史上の話でいろいろありそうです。義経のひよどり越え、信長の桶狭間の戦いなど、捨て身のオリジナルな戦法が成功した例と言えます。エジソンやライト兄弟なども、みんなに認められる歩きやすい道でなく、自分の考えであえて狭く困難な道を選んだ人たちです。桃太郎も、村でのんびり畑仕事をしていたほうがずっと楽だったのに、あえて鬼退治という困難な道を選びました。みんな、自分の意志で自分らしい人生を歩こうとした人たちです。

 もし、桃太郎の昔話が、「桃から産まれた桃太郎は、若者になると、おじいさんのかわりに毎日山へ柴刈りにでかけましたとさ。めでたし、めでたし」となったら、めでたくもなんともないでしょう。

 ことわざは、第一次南極観測隊の西堀栄三郎さんの著書名「石橋を叩いていては渡れない」などが加工の例として使えそうです。自分でほかの例を考えてみましょう。

高2年 2.3週 「坊っちゃん」はイギリスで(感)

 内容:「坊っちゃん」は、欧米の個人主義に触れた漱石が、日本における個人の問題を学校という世間の中で描き出そうとした作品である。欧米の「社会」という言葉は、自立した個人を前提にしている。しかし、日本では個人は世間という曖昧な関係の中で自己を形成せざるをえない。そこに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまった欧米の個人との違いがある。

 解説:日本では正論を述べると「まあ固いこと言うなよ」とか「君はまだ若い」などと言われることがあります。個人が神との絶対的な関係を持っているという考えがありませんから、たまに「七夕は神様以外のものを敬う行事だから参加できない」などと言う人がいると、大半の日本人は「まあまあ、それはおいといて」(どこに置くんだ)という態度をとります。欧米では、個人が自分の内側にある倫理で自立しているという考えが前提になっていますから、「私は神様と約束したので野菜は食べません」などいう人がいても、「あ、そう」と認められます。これが日本だと、「またあ、そんなこと言って、給食残しちゃだめでしょ。先生があとで神様に言っといてあげるから、野菜食べなさい」という対応をされるはずです。

 日本における個人主義の不足は、特に政治の面で問題になることが多いようです。選挙における投票行動なども、政策をもとにするよりも義理や人情のほうが優先されるところがあります。

 しかし、自立した個人主義にはマイナス面もあります。その一つは日本人の感覚で言うと人間関係が冷たいということです。また異なる価値観を持った相手と共存できないという心の狭さのようなものもあるようです。日本人には、「オケラだって、ミミズだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ。友達なーんだ♪」という感覚がありますが、欧米人には「私は、オケラやミミズとは友達ではない」という人がたくさんいると思います。

高大社 2.3週 「大人」は一人前の社会人として(感)

 内容:子ども観は、社会によって異なる。ナバホ・インディアンは子どもを自立したものと考え、部族の行事のすべてに子どもたちを参加させる。子どもを大人とは異なる庇護される対象として見る子ども観は、近代西欧社会で生み出された。日本では、「子ども」は近代国家を担う国民の育成をめざして義務教育制度の対象として生み出された。しかし、柄谷行人によれば、子ども観のイメージを形成したものは、小川未明らによる文学におけるロマン主義的観念であった。

 解説:純真無垢な子どもという観念は、文学的なイメージとして形成され社会に定着したようです。か弱い女性とか、ださい親父とか、ナウイギャル(言わん言わん)などという観念も、漫画やテレビの影響で形成されたイメージです。

 こういう文学や漫画やテレビが生み出すイメージ形成力は、政治を左右するほどの大きな力を持ちます。日本の工場でロボット導入が進んだのは、ロボット=鉄腕アトムという肯定的なイメージが日本人の潜在意識にあったからだと言われています。

 逆に日本がアメリカに比べて新産業創出の面で遅れているのは、アメリカでの金持ちのイメージがビル・ゲイツのようにさっそうとした人物であるのに対して、日本での金持ちのイメージがでっぷり太って葉巻をくわえてイスにすわっているような人物であることとも関係がありそうです。

 いま中高生の一部にある暴力への憧れも、漫画による影響がかなりあります。パンチ一発で数メートルもふっとんだ相手がすぐに立ち上がって、「ふ、なかなかやるな(ニヤリ)」などという場面を見ていると、暴力がカッコイイと思う人も出てくるのでしょう。

 メディアの持つイメージ形成力の持つマイナス面を論じながら、そのイメージ形成力をうまく利用するためにはどうしたらいいかを考えてみるといいでしょう。

  光る表現(小1−小4) 2000年2月3週号

ドラちゃんさん(あよう/小1)の作文より(スズラン先生/2.1週)

 おとうさんが「ゆきがつもっているぞ。こっちにきてみろ」といいました。ぼくは、いそいでとびおきて見ていました。評:めずらしく降った雪のことを教えてもらって、びっくりしているようすがわかりますね。

ひかるさん(あなか/小2)の作文より(とこのん先生/1.3週)

 わたしはきのう、がっこうへいこうとしたらいもうとがわたしのてをもっていっしょにがっこうへいきそうでした。 評:きっと、おねえちゃまとおわかれするのがいやだったのでしょうね。ふたりがなかよしだ、ということがよくつたわってくる、すてきなエピソードです。

アミさん(あなほ/小2)の作文より(さかな先生/2.1週)

 二年生のみんなで2年なかよしゆうびんきょくに、−年三年四年五年六年生をしょうたいすることになりました。評:この書き出しは、いきさつがとでもわかりやすいね。

しおっちさん(あにせ/小2)の作文より(ミルクティ先生/2.1週)

 『作品いっぱい展覧会』三年生の、まきものにかいてある宗教の絵が、上手だったです。描いてある絵が、まるで画家さんがかいた絵のようでした。もし、わたしがおきゃくさんだったら、学校の生徒みんなをほめてあげたいです。<評>「まるで画家さんが〜」というたとえで、そのうまさをよく表現できたね。みんなが、いっしょうけんめい作った作品を、私もほめてあげたいです。(^o^)/

皓基さん(あもほ/小2)の作文より(かつみ先生/2.1週)

 こんどはちゃんと明るいかおになっているから(もうだいじょうぶ)と思いました。 評:明るいかお、という表現がとてもいいね。

れもんさん(ふれ/小2)の作文より(ミルクティ先生/2.1週)

 「じしんです。じしんです。ひなんしてください。」という放送がかかったのは二月三日のことです。私はそのとき配りものをしていました。いきなり、「ウー。」となったのであわててつくえの下にひなんしました。そのとき、わたしはまるでさるがバナナをなげすてるように配りものをなげました。<評>ひなん放送で書きはじめたところが、くふうしているね。読む人もびっくりする書きだしになっているよ。「まるでさるがバナナをなげすてるよう」というたとえも最高におもしろい!(^o^)

さるきちさん(あある/小3)の作文より(ゆり先生/2.1週)

 きゅう食のハンバーグは、ちょっと、油っこい。でも、お母さんの作るハンバーグは、ちっとも油っこくない。なぜだろう? 評:とってもおいしいお母さんの作るハンバーグ。きゅう食のとくらべてみたんだね。お母さんだけが知ってるとくべつの作り方があるのかな? 

友葵さん(あしも/小3)の作文より(ゆり先生/2.1週)

 (いざかやさんでの夕食で)おなべはコンロごと来て、机の上で煮ました。いいにおいがするたびに、おなかが鳴ります。チラリ、チラリと、おなべのふたをあけてのぞいてしまいます。評:「早く食べたい!」と、できあがるのがまちどおしい気持ちがよく表れていますね。

しょうたさん(あたの/小3)の作文より(きょうこ先生/2.1週)

  「雪はさらさらしていて、まるでさとうみたいでした。」 さらさらしているお砂糖のような雪かぁ。思わず食べてみたくなっちゃわなかったかな??「細い霜柱は先がとんがっていて、まるではりみたいでした。霜柱を足でふむとバリバリなりました。」 くつに穴なんてあいちゃわなかったかな?? バリバリッという音が聞こえてきそうだね♪ とてもじょうずな表現でした!

元子さん(あめむ/小3)の作文より(けいこ先生/1.3週)

 (朝ごはんの時に)まどを見て食べていると、寒そうで、さみしいけしきが見えます。でもわたしは、それを見ると、なんか、わくわくしてくるような感じがしてくるのです。 評:お母さんが買ってくれたカイロを学校へ持っていく話し。寒いからこそ、カイロがうれしいんだね。「さみしい」と「わくわく」という言葉の対比(たいひ)がとてもうまくできているよ。

勇之さん(あよか/小3)の作文より(ミルクティ先生/2.1週)

 食卓(とくに夕食の時)は、今も昔も、家族のふれあえる場所なので、これからは、できれば家族で、いっしょに食事ができるようにしたいです。<評>いつもは仕事でおそいお父さんといっしょに食べた夕食の話、お母さんの子どものころは家族五人で食べていた話、その二つの話のまとめです。しっかりした意見を書いて、見事にまとめられましたね。(^o^)v

 

穂香さん(すよ/小3)の作文より(きょうこ先生/2.1週)

  「みんなこわれたようにだいばくしょうしました。まるでこわれたステレオのようにうるさかったです。」 こわれたステレオから楽しい楽しいほのかちゃんたちの笑い声が流れてきそうよ♪ うるさいけど、楽しかったんだね。すごくじょうずな表現だぁ!

瑞季さん(てく/小3)の作文より(かつみ先生/2.1週)

 たべおわったら、おなかがいっぱいで、立てません。 評:おなかがいっぱい、そのことがよくわかる表現です。毎日おいしい夕食を作ってくれるのは、お母さん。 評:おいしい夕食、お母さん、このことばが愛情いっぱいというかんじだね。お母さん、きっと大喜びしているよ。

キティさん(とあ/小3)の作文より(みち先生/1.3週)

 (微生物の研究)こんなことをしてなんの役にたつのだろうか。私だったら、こんなことはぜったいにしない。なにがあってもだ。評:自分とちがう考え方があることを知りましたね。自分のいけんをじしんもってはっきりいいきったところが、すっきりします。

まささん(あうこ/小4)の作文より(ゆり先生/2.1週)

 「ジュージュー。」「コトコト。」台所から、ヤカンの音やなべの音がきこえてきます。それといっしょにいいにおいもただよってきます。お母さんが、「もうごはんだよ。」と、いつも、よんでくれます。評:いつものあたたかい夕食のようすが伝わってきますね。

クリリンさん(あかの/小4)の作文より(とこのん先生/2.1週)

 豚のひき肉とねぎのみじん切りと大嫌いな竹の子を手で混ぜる所が、ねんどよりやわらかくて気持ちいいんだ。(略)調味料が入ると冷たくて気持ちがいいよ。 評:あの「くちゅくちゅ」感は、なかなか他にはない触感だね〜!!「ねんどよりやわらかい」というところから、その柔らかさが良く伝わってきます。先日、冷蔵庫から出したての挽肉をこねた私は、その冷たさに手がかじかんでしまいそうでした・・・

もんきちさん(あさな/小4)の作文より(みち先生/1.3週)

 「トリやクモの住めない世界こそおそろしい」というのは、ぼくたち人間にとって食べ物である野菜や魚、肉がなくなるのとおなじことだなあと思いました。地球は、みんなのものだから、バランスがとれていないといけないと思います。評:人間にたとえたこと、地球というスケールの大きい考え方がたのもしいですね。

寛史さん(あなに/小4)の作文より(洋子先生/2.1週)

 近くの大力さんの家の木にガの幼虫がうじゃうじゃわいていて、下にいたらフンがポトポト落ちてきます。ある日、学校から下校していて、家の玄関の前でふと気がつくと後ろでポトリポトリと音がします。振り向くと、大力さんちの木から毛虫がまるで雨のように落ちています。この時は、虫ずきのぼくもとっても気持ちわるかったです。評:幼虫が孵化したのですね。毛虫の数のおおさすごさがつたわってきますね。よく観察していたことがうまく思い出して書けました。

マーボーさん(あみそ/小4)の作文より(きょうこ先生/2.1週)

  「おやつをまるで『はらぺこあお虫』の絵本に出てくるあお虫みたいにたくさん食べます。」 すごくいーーっぱい食べそうだなぁ。お腹ぺこぺこでガツガツ食べている様子が目に浮かんできそうよ。今日もあお虫のようにおやつを食べているのかな。

ナズナさん(あもせ/小4)の作文より(かつみ先生/2.1週)

 私が最も食べたかったぶどう。きっとおいしいに違いありません。 評:期待と不安がいりまじった、粋な表現だね。

ペレさん(あもふ/小4)の作文より(かつみ先生/2.1週)

 おかあさんやお父さんが、はやくたべなさいといいます。ぼくはテレビをみながら「わかった」とこたえます。 評:みんなが同じようにけいけんしていること。そうなんだよね、と読んでいる人がなっとくしてしまいつつ、わらってしまうところだね。うまいひょうげんをしていますよ。

大典さん(せと/小4)の作文より(さかな先生/2.1週)

 なぜこのようになるのかと言うと、ちゃんとしなきゃと思うからです。評:自分の行動のちがいから、家の中と外での気持ちのちがいを分析(ぶんせき)できたね。

 

 

 

 

 

  光る表現(小5−小6) 2000年2月3週号

ミュウさん(あおゆ/小5)の作文より(ももんが先生/2.1週)

 「おいしいねー!!」とか話しながら食べていると心がはれてくる。[評:一人ぼっちで食べるご飯より、みんなで食べるご飯のほうがずーっとおいしいですよね。そのわけを「どうしてなのかな?」と考えたミュウちゃん。大発見をしましたね。

ブタさんさん(あとれ/小5)の作文より(スピカ先生/2.1週)

 たきごはんは、お肉、わらび、きのこ、しいたけなどがあって、ちょっとこげがあったけど、甘いような、からいような、ふしぎな味がして、とってもおいしかったです。妹と弟の顔を見ると、おいしそうな、たのしそうな、うれしそうな笑顔がうかんでいました。私はそれを見るとまん足した気分になりました。 評:おいしそうなご飯が目に浮かびます。妹弟の表情の描写がすてき。2人の顔を見て幸せな気分になったまりちゃんの気持ち、とてもよくわかるよ!

真菜さん(あやた/小5)の作文より(かつみ先生/2.1週)

 私は、この時をカメラよりも、よく覚えていると思っています。 評:カメラよりもよく覚えている、この表現がすてきだね。

キティさん(さあ/小5)の作文より(ゆり先生/1.4週)

 コロッケのときなどは、お母さんと台所にかたをならべていもをつぶしたり、パン粉をつけたりする。野菜いためなどでは、野菜をいためたりする。そんなときは、私も少し楽しい。それにあわせるように、油もいっしょにはねている。評:お母さんのお手伝いを楽しそうにしている様子が目にうかぶようですね。「油がはねている」という表現がここにはピッタリで感心しましたよ。

たまごさん(せろ/小5)の作文より(スズラン先生/2.1週)

 母が子供のころは、おかずはとても質素だったそうだ。今の時代でも、インドやアフリカの国々では、子供達が食べ物がなくてすぐに重い病気にかかったり、死んでしまう子が多いそうだ。・略・普段何ともなく食べている食事は、生きていくのに大切なものだ。食べられることは、ありがたいことだとわかる。評:食事(夕食)を通して、食べるという意味を考えてみたり、豊富な食べ物があることに感謝ですね。

しっぽさん(ほし/小5)の作文より(森川林先生/1.3週)

 手作りのものは人の心を暖かくしたり喜びを与えてくれる、ということだ。もし、お店で売っているような、機械的に作られた物だったら、もらってもそんなに感動しないだろう。手作り物で、しかも世界に一つしかないものだと考えたら、すごくうれしく、また、とても心が温かくなる。評:手作りということを大きくとらえて考えたところがいいね。

ナッキーさん(あうく/小6)の作文より(さかな先生/2.1週)

 このように、家族と一つでも話題を作って話すということは心が安らぐし、家族と話すということがどんなによいことかがわかってきます。私は夕食の時間はとてもよいだんらんタイムだと思います。評:北風が吹く日も外で嫌なことがあった日も、心も体もあたたまる夕食のだんらんタイム。幸せな家族の光景が眼に浮かびます。

しおりさん(あそと/小6)の作文より(ふじのみや先生/2.1週)

 夕食を食べる時間は、心を「リセット」すると共に、だんらんの時でもある。 評:「リセット」。すっきりと、印象的な表現ですね。ほっとひといき、明日への力をとりもどすのは、子どももおとなも同じでしょうね

宮淳さん(あたつ/小6)の作文より(かつみ先生/2.1週)

 もしも夕食がもしくは食事がつまらなかったら、体に栄養はつくけど、心に栄養がいかないと思う。 評:本当にそのとおりだね。心に栄養がいかない、この文章を考えついたことがすばらしい。よくかけていますよ。

エガさん(てせ/小6)の作文より(きょうこ先生/2.1週)

  「(友達と一緒に食事をすると)普段ではつまらない事が楽しかった。まるで魔法の様だった。普段は関わりの少ない人も、食事を一回でもすると関わりが深くなる。食事とは、不思議な力を持っているのだ。」 ほんとうだね! これからもたっくさんその素敵な魔法に出会えるといいね。そのうちその魔法の謎が解けるかもしれないね♪