http://www.mori7.com/ 2000年5月週1号 通算第662号 mori7@mori7.com

言葉の森新聞

文責 中根克明(森川林)

  アンケート葉書より(その2)

000306:名言集に解説を。言葉の森新聞にページをふるなど読みやすく

 学校でまとまってことわざ・名言集を学ぶことがないので、各学年で覚えたほうがよい一覧表があると便利。名言集は親のほうで意味がわからないものもあるので解説がほしい。

 言葉の森新聞にページをふる、あるいはA4サイズの両面にするなどしたほうが読みやすいと思う。次週まで保存しておく必要があるページ、読んでおけばよいページがいっしょになっていて、ちょっと読みにくい。

(小4男子小6女子99年5月から受講)

ことわざを家庭でも活用して

 「ことわざの加工」という項目が高校生になってから出てきますが、いまの子供たちはあまりことわざを知りません。学校などでまとめて勉強する機会があまりないようですので、ことわざは家庭で折に触れて使うようにしていくとよいと思います。

 ことわざ・名言集にはわかりにくいものも多いので、ご指摘にあったように今後解説をつけるなど改善していきたいと思います。言葉の森新聞も、読みやすいかたちになるように今後検討していきたいと思っています。

000307:自分から勉強しようとする姿を見ると嬉しい

 先生と電話で話をしたあとはとても嬉しそうで、自らすすんでペンをとります。学ぶことは好きなのですが、まず自分から勉強をしようという姿はなかったので、親としては大変嬉しいです。作文中も集中度が高く、先生からのアドバイスもよく書いていて、入会してよかったと感謝しています。(小2女子00年3月から受講)

電話のあとすぐに書くことをこれからも続けて

 電話のあとすぐに書くというのは、とても大切なことです。高学年になっても、このすぐに始める習慣を続けていってください。

000308:記述式の問題もできるようになった

 言葉の森のおかげで文章を読むことや書くことに抵抗がなくなったようです。塾での国語の成績も上がってきました。記述式の問題などは以前は空欄にしていたことも多かったのですが、だいぶ正答率も上がってきたようです。これからもよろしくお願いいたします。(小5女子99年10月から受講)

長文を読み始めると成績に反映

 長文音読や短文暗唱を始めると、すぐに成績に反映するようです。さらに力をつけるためには、問題集の問題文を読書がわりに読むという方法がありますが、あまり無理をするとかえって続けにくくなります。これからも、長文音読と短文暗唱を毎日続けていってください。

000309:核のある作文が書けるようになった

 以前より(10〜12月)かきあがった作文が、「三文ぬきがき、一番…なのは、たとえ…」と指導どおりにかけているのだけれど中心のはっきりしない、自分の伝えたいこと、言いたいことが作文から浮き上がってこないと感じていましたが、このところ構成メモを書くよう指導がなされているのか、核を何にするか少し自分で考えながら書けるようになったかなと存じます。自分がその長文でいちばん思った「一言」を中心に話をふくらませて書けるようになったらと期待しています。また、学年、学期により字数が決まっているのですが、清書の折など、それを半分にまとめる月があってもよいのではと考えます。(小5男子98年9月から受講)

中心を決めることは意外と難しい

 小4までの構成の項目は「中心を決める」ですが、これは子供にとっては意外と難しいものです。いろいろなことを網羅的に書くのではなく、ひとつのことを取り上げてくわしく描写するための指導に今後力を入れていきたいと思っています。しかし、小5からは、大きく四段落の構成で書くようになるので、どの子も文章の骨格がしっかりしてきます。小4までは実例中心の作文ですが、小5からは意見中心の作文になるので、作文の書き方も次第に変わってきます。

 清書の際に字数を縮めるという練習は、中学生以降にやっていきます。この字数を縮めるということは、中学生や高校生にとっては、かなり難しいようです。

000310:文章がしっかりと書けるようになった

 「言葉の森」を始めてから半年、文章がしっかりと書けるようになり感謝しています。下の子も中学年になったら始めようと思っています。

 今後ともよろしくお願いいたします。(中1男子99年10月から受講)

しっかりした文章を書くことを目標に

 作文の目標で「上手な作文」や「芸術的な作文」を書かせようと親や先生が考えてしまうと、子供自身が何を要求されているかわからなくなってきます。「しっかりした文章を書く」ということを目標にしていると、子供も安心して勉強に取り組めます。

 今は、小中学校のころに作文コンクールなどで「上手な作文」を子供たちの周囲で取り上げすぎているように思います。小中学生のころは、「上手な」ではなく「しっかりした」作文を書くことを目標にし、「上手な」作文は高校生からの課題にしていくことが大切です。

000311:たとえを無理矢理使うと不自然な文になることも

 毎週、お世話になります。学校ではできない勉強ができるので感謝しています。

 少し気になる点を書かせていただきます。

(1)小3で「たとえ」を入れて作文を書きました。「たとえ」のことばかり頭にあるようで、無理矢理「たとえ」を入れていたように感じ、何か不自然でした。あまり形にこだわらないほうが書きたいこと思っていることを自分らしく表現できるように思います。いかがでしょうか?

(2)感想文は、特に難しいようです。感想文はやる必要があるのでしょうか? 自分の考えを正確に伝えられ、書くことに抵抗をなくしてほしい、と考えているのですが、普通の作文を4回見ていただくことはできませんか?

 学校で作文を始めたとき、順序が逆になったり、だらだらしながらも、自分の気持ちを素直に書けていたように思います。学校ではそつのない作文がよいようで、詩があまりよくありませんでした。専門の先生に見ていただきたくお世話になりました。大人になったら書けないような子供のときの気持ちを素直に表現できたらよいと思うのです。

(小4男子99年8月から受講)

表現項目は次第になじむようになる

 「たとえ」などの表現項目がないと、自由にのびのびと書けそうですが、その効果は一時的なもののようです。長い間、勉強を続けていくためには、表現項目や字数などの目標があったほうが、子供も勉強しやすいという事情があります。確かに無理に「たとえ」を使うというケースはありますが、長文音読や短文暗唱で実力をつけていくと次第に文章になじむように「たとえ」を使えるようになってきます。

 感想文の課題は確かに難しいので、あまり満足に書けない感想文を書くよりも、楽しく上手に書ける作文を書きたいとは、子供自身も思うようです。しかし、教室では、子供たちに、「自由な作文は、学校や家でも書けるのだから、教室では書きにくくても難しい勉強をしたほうがいいんだよ」と言うようにしています。どちらがいいかは一概には言えませんが、できるだけ将来の勉強につながるような学習をさせていきたいと思っています。

000312:「継続は力なり」を実感

 「継続は力なり」を実感しています。ちょうど言葉の森を始めてから一年を迎えようとしていますが、随分、文章がまとまってきたと思います。また、自習のおかげで少し難しい文章題でも難なく解けるようになりました。(一年前では考えられないことです)始めたころは、中心が決まっていないため、字数ばかりが多くダラダラしたものでした。しかし、中心を決めて書こうと再三アドバイスいただき、中心をふくらませて書くことができるようになりました。

 電話のときに一方的に先生のお話を聞いているだけだと、切ったとたんに真っ白になってしまうことが度々ありました。電話のときにメモを取らせたら(先生にはご迷惑だったかもしれませんが)スムーズに構成メモを書けるようになりました。他の通信教育に比べ「電話+FAX」という点で時差がなく、継続しやすいです。難点は子供が先生の添削にあまり興味を示さないことです。(点数、ランキングばかり気にする) 電話のときに、今回の話だけでなく、前回の反省も言っていただくとよいかもしれません。

 もう一つは他人の作文を読むための投票だと思うのですが、悪知恵で、もううまい人の名前を覚えていて、たいして読まずに投票しているのでは、という疑いが(笑)あることです。

 学校での作文も、日ごろの努力の成果が出ているように思います。文章力は本人の財産だと思うので、子供が楽しく学べるよう、雰囲気作りにがんばりたいと思います。

説明が長いと忘れてしまうことも

 先生が長くていねいに説明すると、聞いている子供は最初のほうは忘れてしまうということがよくあります。教室で指導しているときも、あまり長くくわしく説明すると、子供はかえって何を書いていいかわからなくなるようです。今後、なんらかのかたちで改善していきたいと思っています。

 「山のたより」の評価で、子供たちがいちばん関心を持つのは、先生の力の入った講評よりも、シールやランキングのようです(T_T)。しかし、これは自然なことですので、この関心をうまく生かすようにこれから工夫していきたいと思います。

 投票についても、もう少しじっくりほかの人の作文が読めるように、今後投票の仕方を検討していきたいと思います。

000313:楽しく書けるようになってほしい

 私自身、文を書くことが大変苦手で上手に書けたらと思うことが日ごろ多いので、子供には……という思いから入会いたしました。まだ始めたばかりですが、丁寧に指導していただきそのことを参考にしながら少しずつやる気を出しております。楽しく書けるようになれたらよいと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

(中1・中2女子00年3月から受講)

インターネットも利用して

 小学校低中学年は、親の褒め言葉で子供の意欲が持続しますが、小学校高学年になると、親よりも友達どうしの交流のほうが勉強の励みになってきます。特に中学生のころは、読解力と表現力の差が大きく乖離(かいり)する時期にあたるため、作文を書くことを苦手に感じる子供が増えてきます。

 言葉の森では、インターネットで友達の作文を読んだり感想を書いたりできるようにしています。小学校高学年からは、できるだけインターネットを利用して、友達と交流しながら勉強する環境を整えてあげるようにするといいと思います。

  今週5.1週のヒント

小1、2年 5.1週 ●自由(じゆう)な題名(だいめい)

 ゴールデンウィークに、どこかに出かけるうちもおおいと思います。かぞくで出かけたときは、行ったばしょの名前をよくおぼえてきましょう。名前や数字をしっかりおぼえていると、作文のなかみもしっかりしてきます。また、お父さんやお母さんの会話もおぼえておき、作文に書いてみましょう。

小3〜6年 5.1週 ●大笑いしたこと、秘密基地(ひみつきち)

 おなかをかかえて笑ったことって、あるでしょう。テレビを見て笑ったということよりも、自分の生活の中でおもしろかったことを思い出して書いてみましょう。

 「大笑いしたこと」では書きにくいという場合は、「大喜びしたこと」という題名にしてもいいですよ。

 二、三年前の話ですが、先生(森川林)のうちで、ある朝、家族そろって静かに朝ご飯を食べていました。「今日のご飯はおいしいね」「うん」などという感じで落ち着いた朝食をとっていたそのとき、突然玄関のドアがガラガラと開き、40キロはある白いゴールデンレトリバーがドドドッと入ってきました。「おいおい、なんだ、なんだ」と言っているうちに、その犬は再び玄関からドドドッと去っていきました。うちで飼っている犬の友達だったのです。散歩している途中、飼い主の手から離れて、勝手に遊びに来たのでした

 もうひとつ別の話。ある日、先生は小学生の子供と一緒にポップコーン用のトウモロコシを買ってきて、お鍋で作ろうとしましたが、あいにくお鍋がありません。そこで浅いフライパンに入れて火をかけました。すると途中からポップコーンがパチパチとふくらみはじめ、フライパンからあふれてきました。あわててふたで押さえようとしましたが、もう間に合いません。パチーン、ドカーン、ヒューンとしばらくポップコーンの大爆発が続き、やっと火を消しておさまったときには、台所中ポップコーンだらけでした。二人で大笑い。もちろん、拾って食べました。

中1年 5.1週 ●数年前、森林関係の研究所に(感)

 内容:木が本来もっている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは、必ずしも一致しない。木目の一定な輸入木材に比べると、国産材の工場はいまも職人の世界である。木の文化を守り、山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕が生きていなければいけない。

 解説:「木の文化を守り育てよう」という意見で書いてもいいのですが、それでは実例の幅が狭くなり、書きにくくなってしまいます。主題を抽象化して、「お金に換算できない価値を大切にしよう」というかたちにし、「木の文化」は、その主題のひとつの実例だということで考えていくと書きやすいでしょう。

 例えば、あなたが持っている幼稚園時代から大事にしているカバンがあったとします。今はもっと高くて新しいものが買えるけど、でも、このカバンは手放せないと思うでしょう。それは、もしかすると、お母さんの手作りのカバンかもしれません。そういうものが、だれにもひとつはあります。

 現代は、お金の単位で表わせるものが世の中を動かしています。しかし、自然を切り開いて工場やダムを作ることは、短期的には経済を豊かにすることではあっても、大きな目で見ると、お金で表わせない価値を失っていることになるのかもしれません。

 数字や固有名詞のデータ実例も、自然破壊などの例で入れられそうですね。(釧路湿原、四万十川、ナイル川など)

中2年 5.1週 ●島国言語の特色のひとつは(感)

 内容:島国言語の特色のひとつは、相手に対する思いやりが行き届いていることである。島国言語のもうひとつの特質は、話の通じがたいへんよいということである。日本では、普通は家族の間で行われるような言語活動の様式が社会に広く認められる。そのため、大陸言語に比べると、日本語は冗語性が少ない。

 解説:島国言語は、通人どうしの言葉です。京都では早く帰ってほしい客に「まぁ、おあがりやして、ぶぶづけ(お茶づけ)でもいっぱいよばれておくれやす。」と言うのだそうですが、ここで本気にして「そりゃ、どうも」と上がり込んでしまうと、「やぼなお人やわ」と言われてしまいます。(しかし、この話は全国的にあまりに有名になってしまったので、京都の人に言わせると、「いまどき、そんなん言う人なんか、おらしまへん」だそうです。(http://www.momonga.com/kyoto/kyo-kotoba-j.htmlより)。この島国言語のよさは、互いに相手の思いやりを前提にして話をしていることです。また、みなさんにも経験があると思いますが、仲間うちだけで通用するような省略した言葉を使って話すと不思議と連帯感がわくことがあるでしょう。

 しかし、国際社会では、この島国言語のような話し方をしていたのでは正しい意思疎通はできません。日本では、「前向きに善処します」というのは、やんわりとした断りの言葉ですが、欧米ではそれはそのまま「実行の約束」と考えられます。ここで、日本人はうそつきだと思われるようなことがよくあるそうです。

 これらふたつの意見をそれぞれ第二段落、第三段落で書き、第四段落で総合化してみましょう。総合化は、「場に応じて使い分ける判断力」あたりになりそうかなあ。

 昔話ではありませんが、一条天皇の皇后定子(ていし)に仕えた清少納言は、ある冬の日に、「少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ」と言われ、白居易の「香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげてみる」の詩句を思い出し、さっと簾を上げてみせました。このあたりは通人の世界ですね。

中3年 5.1週 ●日本がいかに湿潤な国か(感)

 内容:日本語にはオノマトペ(擬声語擬態語)が多いが、特に水と関係のあるものが多い。オノマトペは、同質社会では微妙な伝達の機能を発揮できるが、異質な文化のなかに住む人には通じない。擬声語擬態語は抽象力を欠く低次の言語だとも言えるが、見方を変えれば、言語と音楽の接点にあるとも言える。

 解説:擬声語擬態語の豊富さは日本語の特色ですが、同時に幼稚な言葉づかいに擬声語擬態語が使われることもよくあります。例えば、犬はワンワン、猫はニャーニャー、車はブーブーというような使い方です。

 「滑らか」という日本語はほかの言葉に訳せますが、「つるつるした」はほかの言葉には訳せません。これは、擬声語擬態語が抽象性に欠けているからです。

 この一見、低次で幼稚に見える擬声語擬態語も、同じ日本人どうしではものごとの微妙なニュアンスを豊かに表現する手段になっています。雨が「しとしと」と降っているか「ザーザー」と降っているかで、雨の様子はよりくわしく表現できます。同じ「おいしい」でも、「まったりとして、ほんわかと口の中に広がるようなほのぼのとした味わい」と言ったほうが、よりくわしく伝わるでしょう。(どこが)

 意見は、擬声語擬態語に代表されるような豊かな表現を大切にしよう、ということで考えていくといいと思います。

 伝記実例では、宮沢賢治などが挙げられそうです。宮沢賢治の童話には、ふんだんに擬声語擬態語が使われています。童話の内容とともに、この擬声語擬態語が読み手に懐かしい気持ちを与えているようです。

高1年 5.1週 ●たとえば、折り紙を(感)

 内容:3分の2の4分の3を、計算をしないで折り紙で答えを出す方法がある。知性とは頭の中で計算するものだけではなく、経験を生かすものという見方に変わりつつある。学校の文化の中で有能だった人が学校で教えられない分野でも有能であるとは限らない。場への適応力が有能さの本質である。

 解説:「石橋を叩いていては渡れない」の著者、西堀栄三郎さんは第一次南極越冬隊長でした。南極に着いて宿舎を作るときに、日本から持ってくるはずの釘がないことに気がつきました。そこで、西堀さんは、壁を立てて重ねそこに水をかけ、南極の寒さで凍りつかせることによって無事に宿舎を建てました。こういう機転は、知識の勉強をしているだけではなかなか生まれません。

 現代の社会では、知識があればそれがその人の能力のほとんどであるかのように思われがちですが、知識は人間の能力の一部でしかありません。私たちは、知識ももちろん含めた、場への適応力をもっと育てていくべきでしょう。

 歴史上の人物でも、とっさの機転で窮地を脱したという例が数多くありそうです。そういう人がしばしば学校で劣等生であったり社会ではみだし者であったりするのがおもしろいところです。

高2年 5.1週 ●固有名詞が(感)

 内容:固有名詞は、言語が社会的なものであることを示している。子どもが社会生活を始めると固有名詞を通じて、自分がその社会に所属するという意識を植え付けられる。固有名詞は、自分が自分であるとともに、他方でどこかに所属するものであることを示す原理を持っている。その意味で固有名詞は政治的である。

 解説:エスキモーは、今はイヌイットと呼ばれています。これは、エスキモーという言葉がもともとアメリカ先住民の間で使われていた「生肉を食べる連中」という蔑称だったからです。イヌイットは「イヌック(人の意味)」の複数形です。固有名詞を使うとき、どの固有名詞を選ぶかで、おのずから政治的な位置が決まってきます。

 みなさんも自分の名前に誇りを持っているでしょう。ですから「あ、そこのどこのだれだかわからないけど、馬の骨君、ちょっと」と言われるよりも「○○君、ちょっと」と固有名詞で呼ばれたほうが嬉しいのです。

 人間は、始めは自分の名前だけしか固有名詞を持っていませんが、やがて○○市に住む○○会社の社員で○○大学を出て○○さんと結婚した……と多くの固有名詞を持つようになります。それは、自分が所属によって次第に限定されていく過程だとも言えるでしょう。

 「旅の恥はかきすて」と言うように、固有名詞を持たないところでは、人は自由な感覚を味わうことができます。しかし、固有名詞を持たない状態を長く続けることは人間にとって耐え難いものです。

 現代社会の問題は、固有名詞で管理されることへの問題(学校で生徒に名札をつけさせたり、国民一人ひとりに番号をふるなどの例)として考えてもいいでしょうし、逆に固有名詞を尊重しない社会の問題として考えてもいいでしょう。

高3年 5.1週 ●劇は、つねに宗教的な(感)

 内容:シェークスピアの劇は、外見上宗教的な要素が見られないので、私たちは、シェークスピアを近代の劇と同じ次元で評価し、リアリティを欠いていると批判することがある。しかし、シェークスピアの劇は、作者の主張を訴えようとしているのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとする試みである。それは宗教的な秘儀が目指すものと同じである。同じように、私たちは路傍の花に眺めいるとき、自然という全体に復帰する喜びを感じる。しかし、それらは実は逃避なのである。

 解説:劇というものは、作者の訴えているテーマを批評的に受け取るようなものではなく、もっと全身で感じ取るものだ、というところでひとつの意見を考えることができます。もうひとつは、全身で感じ取り、対象と一体化するような喜びは、現実からの逃避だというところで意見を考えることもできます。

 映画を見て、感動して、「ああ、よかった。心が洗われるようで、なんだか勇気が出てくるようだ」といくら思っても、実際にはどこも洗われていませんし、その人の勇気も実力もどこも変わっていません。大切なのは、観念的な一体感ではなく、実際に対象を冷静に見て、それを少しずつ変革していく行動でしょう。劇や映画の喜びは、人間にとって大切なものですが、それが現実からの逃避になってはならないということです。

大社 5.1週 ●ソフトバンクが株式公開(感)

 内容:ソフトバンクが株式公開した直後、アメリカ出張中に、「デジタル情報革命での宝島の地図」とも言えるジフ・デービスが売りに出されていることを知った。プロジェクトチームを作って検討すると、資金がなくても買収できる方法があるとわかった。入札直前の土壇場で、アメリカの会社が先に出版部門を買収されてしまったが、残った展示会部門とデータベース部門を買収し、展示会では世界一の会社になった。

 解説:企業買収によって会社を大きくしていくというのは、自力でこつこつ信用を積み重ね商売を広げていくというやり方とは対極にあるものです。日本では買収というとマイナスのイメージありますが、米国では通常の経営拡大の手段となっています。しかも、その買収が、小さい会社が大きい会社をのみこむようなかたちでしばしば行われるというのが特徴です。孫正義さんの波瀾に満ちたエピソードとして読むだけでもおもしろい文章ですが、これを現代社会の問題に結びつけて考えてみましょう。買収による企業拡大のプラスとマイナスということで考えていってもいいでしょう。