KotobanomoriNo.708
言葉の森新聞
2001年4月3週号
文責 中根克明(森川林)
曜日や時間の変更はいつでもできます
曜日や時間の変更は、ご連絡いただいたその週からすぐに変更できますので、お気軽にご相談ください。
ヒントの池の「絵の解説」が遅れています
ヒントの池に掲載する「絵の解説」の掲載が遅れています。もうしばらくお待ちください。
3月のアンケート葉書を来週から掲載
3月に行なったアンケート葉書を、来週から順に掲載していきます。
4.3週の参考作品より
これまでの生徒の作品から、参考になりそうなものを掲載します。
これらは、「ヒントの池」の「林」に掲載されています。学年は、「林」に掲載時のものです。
作品は、生徒が書いたものをそのまま載せています。
昨年までの項目表と今年の項目表と一部異なっているところがあります。
低学年の生徒はパソコンで書いている人が少ないので、ヒントの池の参考作品はあまり載っていません。
▼小3の作品から
●大切なたねの旅行
私はこの話を読んで、一番感じたのは、「私たちがする旅行とはまったくちがって、たねの旅行は、芽を出す所を決める大切な旅行なんだな。」ということです。
私も幼稚園ぐらいの時、よくわた毛を見つけたらすぐによろこんでふいていました。でもなかなか遠くにとばせなくておこっていたそうです。私はおしろい花や、長文にも書いてあったホウセンカやオナモミでもあそんでいました。おしろい花は、私の家の近くにさいていたので、よくたねをとって
「庭にまこうね。」
と言っていたのに帰って来たら忘れてしまって、けっきょくまかないで、まかなければいけないじきがおわってしまいました。たぶんおしろい花のたねをひろった後に寄り道をして帰ったからだと思います。
そう言えばもう一つ、鳥ではないけれど、人間が食べた後の残りのたねをまいたら芽が出て、木になったという話なら聞いたことがあります。私の友達のお兄ちゃんがびわを食べた後に、そのびわのたねを植木ばちにまいたら、なんと芽が出てきたのです。その芽は、まるで『ジャックと豆の木』の芽のようにぐんぐん育ちました。今では、もう植木ばちに入りきらないくらい大きくなっています。もうすぐびわのみがなるかもしれません。
鳥がフンでタネを落として、二つが一つになって花をさかせるなんていいなと思いました。でもこういうたねは、ぜんぶがあんぜんなところにとうちゃくするとはかぎらないのでかわいそうだなと思いました。
れもん ● hureより 03143 2000/04/21 22:18:22
▼小4の作品から
●ミイラ取りがミイラになる
ミイラを取りに行った人が、目的をはたせずに、自分もそこで死んでミイラになってしまうこと。中世から十八世紀のヨーロッパでは、このミイラが<医薬品>としてもてはやされた。ヨーロッパでも日本でも、危険を知りながら「ミイラ取り」に行った人がたくさんいたらしい。
私がこの話を読んで一番ビックリしたことは、ミイラは高価な薬品だ。というところです。
私にも、にたはなしがあります。やったことはないけれど、本で読んだことがあります。それは、ツバキによくにた000と言う木です。その木の葉をどうかすると、けがの薬になるというのです。わたしは、その時木は色々なやくめをするんだなぁと思いました。たとえば、私達の吸う酸素をだしてくれたりします。
もう一つにたはなしがあります。もう一つは、友達となんやかんや話していたら意見がふたつに分かれました。そうすると、いつの間にかわたしは、友達と同じ意見になっていました。わたしは、(どうして同じ意見になったのだろう。)とかしげます。ミイラ取りがミイラになってしまいました。
私がこの話を読んでおもったことは、この「ミイラ取りがミイラになる」ということわざは、人のことをよく知って作ったことわざだと思います。なぜかというと、私の書いたにた話にも「いつの間にか」と自然に書いてあります。
ミイラの薬は、高価できくかもしれないけど私は、飲みたくはありません。でも、どんな色かはしりたくなしました。
ほのか ● suyoより 04143 2000/04/19 18:39:18
▼小5の作品から
●くずかご
だれしもの人生の一部をきりとっても日々の光景のどこかに、きまってくずかごが、きっと一つは置かれているはずなのに日々に欠かせぬ家具として重んじられていない。何かを手に入れるのが暮らしの物差しを作るので、手に入れたものをどれだけいれられるか、その容積のおおきさがゆたかさの目安なのだ、と。部屋にくずかごを一つ、こころのひろい友人としておくだけで、何かが変わってくる。
僕の町はまだ昔の時代かもしれない。なぜなら、たくさん物を持っている人が友達になると、
「うらやましい。」
と言うからだ。また、テレビなどがないという家には、
「それがどうした。」
というかんじで見ている。だが、僕はテレビなどないという家は立派だと思っている。たくさん物を買っていると、どれが大事なものなのかがわからなくなってくると僕は思う。そして、整理ができない人間になってしまうような気がする。そんなふうに考えてみると、あまり物を持っていないほうがいい。
僕の家では、いらなくなったり小さい洋服があると、小さい子供がいる親せきに送っている。僕も、いとこから洋服をもらっている。いとこは中学三年生なので、僕がそのころになったらその洋服が着られるようになる。そして、その洋服を親せきの子供が着るようになる。捨ててしまうよりいいと僕は思う。
僕はこの話を呼んで、わかったことは、ものを大事にしなければならないことだと思った。僕は結構物を買ってしまう人だと思うので、これからは気をつけようと思う。過ぎたるは及ばざるがごとしのようなことも学んだと思う。
俊輔 ● ayayuより 05143 2000/04/15 16:56:16
▼小6の作品から
●はまってしまうもの。それは・・・。
読書の楽しみは一人でできる楽しみだ。こんなに便利な楽しみをしらぬひとがいるとすれば、その気の毒なひとに同情しなければならない。「オーディオ・ビィジュアル」の情報が、活字情報を追い払う時代が来たと言う人がいる。活字情報のあとに「オーディオ・ビィジュアル」の時代が来たのではなく、活字情報に「オーディオ・ビィジュアル」の情報が加わったというだけのことだ。読書の楽しみは無限です。
前の夜、「はてしない物語」という結構ぶ厚い本を読んでいた。とても変わったお話なので読み続けていた。「もうねなさい。」お母さんが言った。「くぎりのいいとこまで読んだらね。・・・・・。「もうくぎりのいいとこまできたでしょ。」「もう通り過ぎたから、つぎのとこまでな」とのぐあいになんどか繰り返していき、長い間本をよんでいた。十一時ごろから、十二時すぎぐらいまでよんでいた。「もうねなさい!!」「ふぁい」(もう寝るの?と思った人、私は寝るのだ。)・・・。その本は、始め見た時よむきがしなかった。ぶ厚かったからだ。でも読んで見ると結構面白くて、いつもぎゃーぎゃーうるさい私が別人のようにしずかによんでいたわけだ。
昨日お父さんが出張から午後八時ごろに帰ってきてから本を午前二時頃までよんで、朝起きてもよんでいた。「そんなに面白い本なのかぁ。」と思って「何の本?」ときくと「ハンニバル」という怖い本とおしえてくれた。なるほど表紙を見ると人の首を持った首なし人間の、絵。推理小説らしい。お母さんは、「特にサスペンスは犯人はだれだろうとか言って読み続けてしまうからね。」といっていた。
このことから、本は、だれでもはまってしまうものなんだなぁとおもった。さぁて「はてしない物語」の続きを読もうっと。
ミュウ ● aoyuより 06143 2000/04/22 12:25:17
▼中1の作品から
●矛盾
いつから世の中が矛盾を恐れるようになったのか知らないが、頭から悪いものと決めてかかっている人が多い。白が黒であって、空腹のときはものを食わない、などという話が横行してもはた迷惑であろうが、雨が降れば天気が悪いといった理に合いすぎた命題でいっぱいになってもことである。こうして、一度、矛盾が不毛だと知れると、われもわれもと論理性へ走る。かくして、論理はかくれた信仰の一つにすらなっていると言えそうである。論理が前提としているのは、同一次元での一貫性のある連続である。飛躍はいけない。テーマの錯乱もこまる。一筋に論理の糸がつながっているのが純粋で、美しいと感じられる。これなら、対立や撞着もしのびこむ余地がなくて安心である。しかし、このように戦々恐々として一筋を守らなくては乱れてしまうのであるとしたら、いわゆる論理とは何と貧寒なものだろう。
私は、矛盾が大切だと思う。第一の理由に、新しい発見があるからである。1+1=1、といった答えは間違っているわけではない。たとえば猫が1匹いたとしよう。その隣に魚が1匹いる。さあここには生き物が何ひきいる?と聞かれると普通は2匹と答える。しかし1匹と答えた人も前にいったように間違えではない。なぜなら猫が魚を食べたからである。そうなればこの部屋は生き物が1匹しかいなくなる。なので1+1=1などという矛盾な答えが出てくるわけだ。このような新しい発見がある。
第二の理由に、正しい論理がつまらないからである。例えば、太郎君があるひ1000円持って買い物にいきました。太郎君は、500円のおもちゃを買いました。残りは何円ですか?などというと普通は500円という。それは当たり前だ。当たり前すぎてつまらない。しかし少し見方を変えると525円と答える。なぜなら消費税を入れて考えるかもしれない。この答えの方が笑える。考え方が分からない人は、
「馬鹿じゃないの。」
などと大笑いするはずだ。
確かに正しいことは大切だが、矛盾が良い。世の中何もまともに物を言ってしまう。矛盾とはその笑いのない世の中に笑いをもたらすものだと思う。
俊 ● teseより 07143 2000/04/20 19:33:15
▼中2の作品から
●レルとラレル
ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつによく働く勤勉な助動詞である。ら抜き言葉は「可能」において頻繁に現れる。その一方で、とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜きのレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもあるかもしれない。
ラレルがレルに変わっていくように、古くからあるものが段々変わってくることがある。しかしこれはいい事なのだろうか。たとえば「姥捨て山」という昔話がある。それはお年寄りは役に立たないから捨ててしまえといっていた時から、お年寄りは大切だと変わっていくお話である。なぜならばお年寄りはそれなりの長い時を過ごしてきたのだ。つまりいろいろな知恵があるということだ。これはラレルとレルにもあてはまることだと思う。古いものにはそれなりの良さがあるのだ。
しかし新しいものにもいいことがあるはずだ。たとえば今の世の中もずっと古いものにとらわれていたら、今の私たちの生活はないのだ。新しく、便利にしていくことは決して悪いことではないはずだ。その証拠に、レルは発音がラレルよりしやすく、友達などと話している時はラレルを使うと意味が多少変わってきたりして、大変だったりすることを減らしてくれている。
しかしその二つのことだけではいけない事もあると思う。それは新しいものを作っていく中で、古いものを大切にし、みんなで生活をよりよくすることが必要だと思う。つまり「家の批評ができるのは、建築家ではなくそこに住む人である」というように言葉の専門家がいい、悪いを決めるのではなく言葉を最大限に使う私たちが決めていくことである。
玲子 ● atayuより 08143 2001/04/09 20:07:36
▼中3の作品から
●時間
人びとが時間に追われるようになったのは時計が発明されてからといわれている。テレビ画面の隅に時刻が表示されるようになてから、さらに人びとは時間におわれるようになった。しかし、時間への関心は、時間の能率的、効率的な使い方に向けられている気がする。
「今一番欲しいものは?」この問いに対して私なら真っ先にこう答える。「時間が欲しい」・・・私の一日はまさに時間から始まって時間で終わる。例えば朝起きるのは目が覚めたからではなく「6時になったから」である。学校へ行くのは学校へ行きたくなったからではなく「7時30分になったから」である。私の頭の中はいつも時間のことが片隅にある。ふと気づくと時計をじっと眺めている自分がそこにいる。やらなくてはいけないことがたくさんありすぎて、次に何をしようか、その次に何をしようか。そんな計算だらけである。余裕なんてものはどこにもない。
ではどうしたら時間にとらわれないのだろうか?時間に追いかけられないのだろうか?おそらくそれは気持の問題であると思う。私達は「時間は足りないもの」という固定観念を持ってはいないだろうか?そう考えるとドキっとする。私は暇な時間が全くないわけではない。それなのに「時間が余ってる」とは思ったことが一度もないのだ。私の中にはそういった固定観念が少しはあったのだ。ここで発想の転換をしてみよう。「一日は24時間しかない」ではなく「一日は24時間もある」と考えてみよう。「しか」と「も」を変えただけで随分と余裕ができたことをはっきりと感じることができる。人間というのは不思議なものである。
しかし、余裕ができたとはいえ、時間は限られたものであることにかわりはない。それをいかに効率的に使うかということも大切ではある。時間の使い方によってはかなり多くの体験ができるだろう。だが、時間に余裕を持つということは、決して時間を無駄にすることではないのである。余裕をもつことによって、広い視野でまわりを見渡すことができて、大きな心の財産ができるのではないだろうか。
優希 ● anasiより 09143 2000/04/18 04:56:48
▼高1の作品から
●クラシックチャーハン
クラシック音楽は難しいという先入観がある。今やモーニング娘もwow wow wow wowする時代だと言うのに、ショパンやベートーベンなんていう渋い音楽聞いてられるか!と、若者達は思うだろう。クラシック嫌いの人達は声をそろえて「一曲が長いので途中で退屈してしまう」と、言うらしい。クラシックは歴史の天才作曲家が考え出したすばらしい音楽のはずなのだが、現代の人々には堅苦しいという考えがあるようだ。しかし、最近ではCMや喫茶店などで流れることが多く、印象的な音楽であると、作曲者や曲名を知らなくても「あーこの曲聞いたことあるー」というように少しずつ親しまれているようだ。「クラシックコンサートを劇場へ聞きに行く」という考えよりも、「このクラシックの歌は○○のCMの歌だ」と、いうように感じ方も違ってきている。私は、クラシックなどの古風なものを専門的に聴くよりも、庶民的に親しまれるべきであると思う。
そもそも、クラシックを好きじゃない人にクラシックをと考える方が間違っているのだ。クラシックのように好き嫌いの激しいものは、そのまま好きになってもらおうと思っても無理だ。例えば、小学生の嫌いな野菜ベスト5に入るニンジン。あれは、そのままニンジンを食べさせようとしたって無理だ。だからお母さんは、すりおろしてニンジンチャーハンを作る。こうすれば、ニンジンの味を感じずにニンジンの栄養を採ることができる。クラシックも同じようなもので、天才作曲家の作った曲をCMなどと一緒に流して印象付け、クラシックの良さや、ワンフレーズなどが人に通じるかもしれない。だから、クラシックの楽しみ方は一つに限っているわけではないと思う。
他の方法に、クラシックの世界をもっとアピールする必要があると思う。クラシックは前にも述べた通り、若者達の間にかなり悪い先入観がある。これは、クラシックをほんの一部分しか知らない人が多いからであろう。音楽の時間にもっとクラシックを聴かせたりして大々的にアピールすると良いと思う。実際私も中学校の音楽の時間に、ラヴェルの「水の戯れ」に感動して今CDを探している。
「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物のことである」という名言があるように、クラシックもクラシックに興味のない人々にとっては雑草だ。美点が見つかれば、花開くのだ。だから、一つにこだわらず、みんなで楽しんだり、人と人との話の中心になったりすればそれでいいと思う。
がっちゃん ● tenaより 10143 2000/04/21 20:35:29
▼高2の作品から
●カウンセリングのあり方
最近は、少年犯罪が増えてきたせいか、私もニュースなどで「カウンセラー」という言葉を良く聞くようになった。このような人達はカウンセリングという情緒不安定な子供達や、犯罪を犯した人達などの話を聞いて、これからどうやって社会に出るかとか、どういう方法で普通の生活に戻ったらいいのかなどを話し合い、その人達の将来に大きく関わっている仕事をしていることは、もう言うまでもない。しかし、私は少年犯罪が増えているのは、仕事としてのカウンセリングに問題があると思う。
その原因として第一に、カウンセリングというものが仕事になっているという点だ。なぜならば、仕事になっていることで、カウンセラーは患者に何の異常がなくても何らかのレッテルを貼らなければならないのである。また、患者は病院の精神科に連れて行かれたことによって自分は精神異常ではないかと思い込み、最終的には心の傷になってしまう。例えば、神戸の事件でも容疑者が親に病院に連れて行かれたことによって、自分のプライドを傷つけられたと語っていたいたという。
第二には、心というものが知識だけで解決できないということである。人の性格はそれぞれ違うものであり、それによってアドバイスの仕方なども違ってくるからだ。私も親に相談するより、友達の方が頼りになった、ということがしばしばある。当然、自分と同じ思いをしたことがあるという人の方が頼りになるし、良いお手本になるだろう。
確かに、凶悪犯罪を犯した人のカウンセリングをするということはそう簡単なことではないし、かなりの数の経験も必要になってくる。しかし、カウンセラーがただの仕事ということでわりきってしまえば「毒をもって毒を制す。」というようにその人の人生がもっと悪い方向に進んでしまうのだ。やはり、本人の普段の性格や生活態度をよく知っている人こそがよき理解者であり、一番の相談相手になるのであり、社会に復帰させるべきなのである。
ゆっこ ● arusaより 11143 2000/04/20 20:55:31
▼高3の作品から
●分析とは外から見る立場
「赤ちゃんが泣いています。あなたはどうするべきですか。次のイ〜ニから選びなさい。」選択肢には、薬を飲ます、背中をたたく、母を呼ぶ、ミルクを飲ます、といったことが並んでいる。正解は、最後の「ミルクを飲ます」である。
これは、一昔前にある女学校で実際に知能指数(IQ)を測定するために用いられた問題である。現在の一人っ子の小学生が同じ問題を解いたらどうであろうかと考えてしまう。ここに、「知能指数」という分析的手法の持つ大きな問題点が見え隠れしているであろう。つまり、変化する社会の中で生きる人間というものが、はたして普遍的な定規で測れるのかという問題である。現在の社会は分析的手法が非常に信頼を持っているといって良いであろう。花はまず、花びらをちぎることから始まる。そしてバラバラになったものに「名前」を付ける。これがもっとも客観的に物体を見る手法と考えられているのである。知能指数は人を「知能沈滞児」と「知能正常児」に分け、偏差値は人を「優良成績者」と「不良成績者」に分けた。しかしこれは同時に分析して「名前」を与えれば分かった気になる社会を生み出してしまった。分析できないものをも分析し、その結果が力を持ち得る社会なのである。最近、セレラ社が解析を終了したという遺伝子研究もこの延長線上に在るものであろう。しかし、この分析的手法がこのまま肥大していくならば、「名前」は増えるとも、本質はまったく見えない社会が生まれる危険があるであろう。
現在の社会で分析的手法がこれほど信頼を勝ち得てきた背景は何であろうか。それは初期の科学というものが宗教的な精神世界となるべく対立しないように発展してきたということがあるように思われる。ガリレオは宗教裁判で「科学は惑星の運動を記述するのであって、なぜそのような運動が存在するのかを説明する宗教とは矛盾しない」と述べたという。この構図は現在でも見ることができる。以前ナショナル・ジオグラフィック誌の投稿欄に「科学は進化論を克明に記述しているが、そのような神秘が存在すること自体が神の存在の証明なのだ。」つまり当初、分析的手法は「精神」や「人間」といったものを除いた「客観的」な分野で発展してきたのであり、また客観的な範囲においては分析的手法は最も優れた手法だったのである。
しかし、その分析的手法が行き着くところまで行き着くのは、それほど遠くはないだろう。社会科学であれ理論数学であれ、分析から全体論への流れがあるのは、分析的手法が破綻をきたしてきたことと無関係ではないだろう。日本の歴史というものを、「百姓」に焦点をあててよりマクロに描こうとする網野史学も当然の流れであったかもしれない。現在のコンビニエンス・ストアーがやっているようにコンピュータの発達と普及は、今後ミクロからマクロへの「脱皮」におおきな鍵を握っているように思われる。
「IQ」を「愛級」と勘違いして覚えていた大学生がいたという。まこと良い呼び名ではないかと思う。人間の本質は分析的手法による「知能指数」ではなく、むしろ「愛」級にあるのではないかと思われるのである。
武照 ● ayoより 12143 2000/04/21 20:09:31
言葉の森のペット、コトとバノ成長中
言葉の森のペット、オカメインコの「コト」と「バノ」が順調に成長しています。
ヒナには日本の4月の気候はまだ寒いので、教室のパソコンの上にカゴを置いて、暖めています。(笑)
光る表現(小1−小3)
2001年4月3週号●友理子さん
(いあし/小1)の作文より(けいこ先生/3.3週)(いちごがりに)あさはやくいったけど、どうろがじゅうたいしてて、つくのがおそくなりました。だから、あかくて大きないちごはほとんどたべられてしまっていました。のうえんのおじさんが、「あかくて大きないちごより、ほんとうはへんかたちのほうがあまくておいしいよ。」と、おしえてくれました。「これ、たべてごらん。」と、おとうさんにくれました。「ほんとだ。おいしい。」と、(おとうさんは)いっていました。わたしもさがしてたべくらべてみたけど、へんなかたちのほうがおいしかったです。 評:じゅうたいでおくれたのが、かえってよかったのね。ながい「 」をうまく入れられた。じぶんでもたべくらべてみて、おじさんのはなしになっとくできたね。
●航さん
(いかほ/小2)の作文より(ポプリ先生/3.3週)山で、竹の、しんりんボランティアたいけんをしました。竹をわったり、竹を、のこぎりできったり、竹をかまどに、いれたりする、しごとです。ぼくは、やる気まんまんでしごとをしました。とても、たのしい、りょこうでした。また、いきたいです。評:やる気まんまんでがんばったようす、よくわかります。
●かっぴーさん
(いくす/小2)の作文より(けいこ先生/4.1週)(どうぶつえんで)いちばんおもしろかったのは、はくちょうにパンをあげることでした。パンをあげたら、「クアー。」とちかづいてきました。わたしはそれをみて「はやくちょうだい。」というように、みえました。 評:「いちばん……」「……ように」をうまくつかえたね。はくちょうのなき方も、とくちょうをよくとらえられた。はくちょうが人間のことばをつかっているようにかんじたのね。
●泰斗さん
(いすな/小2)の作文より(にこにこ先生/4.1週)さんぱつやさんの中でねてしまいました。評:あたまをあらってもらったりして、気もちよくなってウトウトしちゃったのかな?はるは、ぽかぽかしてきもちよくって、いくらねてもねむたくなるきせつなんだよ。
●真章さん
(ありる/小3)の作文より(メグ先生/3.2週)ぼくのコマは、でっぱっている部分が細いです。そして、はばは、太いです。そのかわり、家町くんのは、でっぱりが太いけれど、はばは細いので、タイルにはまりやすいのです。評:それぞれのコマ(ボタン)の形を観察して、その特ちょうを分析することができたね。
●崇さん
(いえの/小3)の作文より(洋子先生/3.3週)ぼくがもしみよこちゃんだったら、みよこちゃんがないていた丘にはしご車をのぼらせてはしご車のはしごをまっすぐのばして星をとろうと思います。でも星は、ぜったいにとれないからロケットへのってうちゅうにいって星を見ればいいと思います。評:「もし…だったら」を使って、もしぼくがみよこちゃんだったらのおはなしは、とてもスケ−ルの大きな夢のある創造力で書けていてよかったです。(^o^)宇宙のことなどにもひごろから興味をもっているのでしょうね?きみたちが大きくなったころには、夢ではなく、現実に宇宙旅行に行けるかもしれませんね!
●翔太さん
(いきこ/小3)の作文より(洋子先生/3.4週)ぼくは、漢字がとくいです。文字をくみたてるところがおもしろいからです。まるでパズルみたいだからです。「さんずい」とか「くさかんむり」とかいろいろあっておもしろいからです。評:先日受けた漢字検定の合格証がとどいたそうでおめでとう!がんばったかいがありましたね。(^o^)漢字は、まるでパズルみたいで、文字を組み立てていくところがおもしろいのですね。君のように楽しんで漢字の勉強ができることは、とてもすばらしいことです。漢字とは、なりたちなどがわかるとさらおもしろくなりますね。これからもどんどん勉強して、上の級にも挑戦してみてください。
●達也さん
(いしろ/小3)の作文より(スズラン先生/4.1週)(ビデオをかたづけて)まるでおみせのようにとりやすくなりました。たとえちがう人がきたないと思っても、ぼくはきれいだとおもいます。:評:自分でかたづけたところは、なんといっても一番きれいですよね。
光る表現(小4−小5)
2001年4月3週号●ししさん
(あふか/小4)の作文より(はるな先生/4.1週)"☆" みんなで一つ部屋を決めて、ドキドキしながら手の震えをおさえて思いきってボタンを押しました。ボタンの音が聞こえた瞬間、僕達は急いで逃げて、近くの駐車場の車の陰に隠れました。そうしたら誰も出てこないのでもう一回やりました。二回目はさっきよりドキドキしませんでした。誰も出てきません。出かけていると思いました。ぼくは心の中でよかったと思いました。いたずらを初めてやる時の気持ちと二回目の気持ちはずいぶん違いました。初めてやった時のイヤな気持ちを、絶対忘れてはいけない、そう思いました。 (講評);ドキドキしながらじっこうした1回目と、2度目のピンポンダッシュ。そのときの、心の変化を、大変冷静に客観的に、見つめているので、感心しました。慣れてくると、気持ちも、少しずつ、大胆になってくるものですね。自分自身を、強く戒めているのが、とても印象的でした。
●ルフィーさん
(あるる/小4)の作文より(ミルクティ先生/3.4週)『きんちょうしたじゅ業さんかん』須賀先生が、「お母さんがたどうぞー。」というと、お母さんたちが、教室に入ってきました。ぼくは、ぼくのお母さんは、どこにいるのかなーとおもって、さがしました。お母さんをみつけたとき、うれしくなりました。それで五時間目のじゅ業が始まりました。<評>先生の言葉で書き始めたところが、とてもうまいね。授業参観が始まって、ちょっぴりきんちょうしながらも、お母さんのことが気になって後ろを見る…そんなルフィーくんのようすが目にうかびましたよ。(^o^)
●ヒロさん
(いうぬ/小4)の作文より(けいこ先生/3.3週)何とすな風がふいているしゅんかん、ボールがネットにつきささってしまいました。すな風を人に表すと、かんけいない人がグランドに入ってきて、ぼくたちをじゃましている間に(ボールが)入ってしまったということです。 評:「すな風にじゃまされた!」そのいかりとくやしさを、たとえを使ってうまくまとめられた。
●まいポンさん
(いこに/小4)の作文より(ふじのみや先生/4.1週)(かたづけが)終わるととてもすっきりして、今すっている空気が今までよりとても新鮮になり、きれいになり、おいしくなったような気がして、思いきりうでをのばしました。評: 気持ちのよい言葉をかさねて、かたづけたあとの気持ちを表現しています。読んだ人は、かたづけを始めたくなるかもね。
●しょうたさん
(あたの/小5)の作文より(きょうこ先生/4.1週)「食べるのは好きだけど料理はあまり得意じゃないので、早くできればいいのにと思いました。...完成したときに、ぼくは『まずそうなカレーだなー。』と、いいました。おとうさんが、『いいからたべろ。』と、言ったので、食べました。ぼくは思わず『おいしい。』と、言ってしまいました。見かけによらず、おいしかったのでビックリしました。」料理は好きではないから早くできればいいのに...、料理よりも早く食べたいよ!という捷太くんの気持ちがとってもよく伝わってきました。(^-^;) そして、できあがった時の捷太くんの気持ちやお父さんとの会話もとってもユニークに書けたね☆ 思わずおかしくなって笑ってしまいました♪でも、おいしくって良かったよね!
●あずささん
(ありな/小5)の作文より(メグ先生/3.2週)モクレンのつぼみがぷっくりとふくらんできたのです。まるで、ハムスターのメスに、あかちゃんがいるときのようにです。評:このたとえは、よく思いついたね。どちらからも、あたたかさとやさしさが感じられますよね。
●けいさん
(いかわ/小5)の作文より(スピカ先生/3.3週)(お世話になった先生の離任式で)校歌を歌うとき、口が、まるでチャックでふさがれているようであまり、声が出ていないような感じがしました。 評:うまいたとえで、今にも泣き出しそうな、のどにものがつまったようなつらい感じがとてもよく出ています。悲しかったね。
●寛恵さん
(いくみ/小5)の作文より(森川林先生/3.3週)最後だからとおもって一生懸命ボールをとろうとしました。そしたらみんな私にボールをわたしてくれて何回もゴールしようとしました。2回私が入れました。とてもうれしかったです。私はもう一回あのかんかくゴールしたかんかくをかんじたいです。評:「ゴールした感覚を感じたい」というところがよくわかるなあ。
●寛恵さん
(いくみ/小5)の作文より(森川林先生/4.1週)それからみんなで家の中はいりました。とてもおうちが、おおきくて迷路のようでした。評:いいなあ。(笑)
●みなみさん
(いせあ/小5)の作文より(にこにこ先生/4.1週)そうじきでたたみの上を行ったりきたりしました。まるでハムスターのようです。評:ちょこちょこといそがしく働いているみなみちゃんのすがたが見えるようで、おもわず笑ってしまいました(^O^)。がんばって、そうじしたんだね。
光る表現(小6−中2)
2001年4月3週号●星の王子さん
(あねく/小6)の作文より(森川林先生/3.1週)「カッチ、ウイィィン。んー泡立たんなー。」先生もやってみたけれどやはり泡立たない。なので、相談して泡立ってはいないけれど、味は美味しいので、どろどろのまま食べることにした。評:ケーキにつける生クリームの話。会話の感じがいいね。
●たかやんさん
(いくの/小6)の作文より(スズラン先生/4.1週)「ぼくの夢」最後にぼくが守りたい言葉は「社会の中では、差別はなにもない」ということである。:評:人間として大切な気持ちの持ち方でしょうね。
●イフリートさん
(らよ/小6)の作文より(ミルクティ先生/3.4週)料理は生きていく上でかならず必要だ。それは毎日なまのにんじんや大根をずっと食べてはいられないからだ。にたり、焼いたりして味つけして食べる、それが料理ではないか。<評>『料理』という題の作文の書き出し部分です。これから書く料理をした体験実例の前に、一言「料理とは何ぞや」という意見を書いたところが印象的ですね。
●A.Lさん
(あそき/中1)の作文より(森川林先生/4.1週)例えば、僕の友達には「ふった」というあだ名の人がいる。そのふったに誰かが「丸太」と言ってふったを怒らせたことがある。(理由は、丸いからだったような気がする)でも、時間がたつにつれ言われた本人はそれが気に入ったらしく、「丸太」と言っても怒らなくなった。評:実例が具体的わかりやすいね。
●たごさくさん
(あによ/中1)の作文より(ミルクティ先生/4.1週)『あだなはよいか』しゅんちゃん、まさお、おりなどぼくの身の回りにはたくさんあだながある。そのためか、ぼくはこの問をみたとき、反射的に答えがでた。「よいにきまってます。」と。<評>あだなで呼び合うことはいいことだ…という自分の意見をそのままの文で書くのではなく、少しひねって書いたところが印象的。「よいにきまってます」という一文に力強さが感じられます。
●あつしさん
(あむら/中1)の作文より(きょうこ先生/3.3週)「道を良くするために道をアスファルトにしますが、少し苦労するかもしれませんが、そのままでもいいと僕は思います。」きちんと土の道の短所にもふれて、その上でも土の道がいいと思う!と書けたところが、とても説得力ある意見になっているね☆ 意見が主観的なものにかたよらずに、とても客観的なものになっていていいよ!
●チョコさん
(いえほ/中1)の作文より(かつみ先生/3.3週)けれどそのことを否定してしまうときは、7・8月の真夏日のとき。 評:味のある書き方ができました。否定してしまうとき、大変いい表現です。他にも、まだまだこういう使い方ありそうだね。いろいろ考えて使ってみてね。
●たば星人さん
(あころ/中2)の作文より(メグ先生/4.1週)「家の批評が出来るのは、建築家ではなくそこに住む人である。」という名言にある通りあだ名がよいか悪いかは、つけられた人が決めるのであって付けた人が決めるのではない。だから自分で勝手に良いあだ名だと思いこまずに、付けた人に断って使った方がいいと思う。大事なことは、良いあだ名か悪いあだ名かではなく、付けられた人が気に入るか気に入らないか、だと思う。<評> ぴったりの名言を引用することができたね。あだ名がついて回るのは、呼ぶ側ではなく、呼ばれる側なので、付けられた人が気に入るか気に入らないかが一番大切なポイントだと言えるね。
●GTO−Z2さん
(あとべ/中2)の作文より(森川林先生/4.1週)あだ名には良い面、悪い面がある。しかし、呼ぶ側の気持ちが大切なのだと私は思う。評:簡潔な総合化。こういうまとめ方を、これからもいろいろな場面で応用していこう。
●駿介さん
(らる/中2)の作文より(ミルクティ先生/3.4週)名言に、「良い友人を得たければ、まず自分が良い友人でなければならない」というのがある。この名言のとおりに、性格の悪い人が良い友達を作ろうとしても、そう簡単にはできない。しかし、性格の良い人の場合は、新しい友達を作ることなんて、簡単なことだと思うのだ。このように、良い友達というものは、自分が良い人間なら、自然と集まってくるのだ。だから、ぼくは一人でいるよりも仲間といた方が楽しいので、友達ができる良い人間になり、友達をたくさん作りたいと思う。<評>名言の引用から、自分のこれからの生き方につながる意見へと展開したところが見事です。
光る表現(中3−社)
2001年4月3週号●金剛くんさん
(あゆわ/中3)の作文より(森川林先生/4.1週)川が流れている。そこにゴミが、きれいだった川がまた少し汚れてしまった。ゴミ……それは人には「じゃまだ、汚い」と言われて捨てられてしまったものの事だ。そうゴミは人またはある一定の人々にとってじゃまであるものなのである。だからある人にとってゴミであったものが他の人または他の動物にとって、それはとても重要なものとなるかもしれない。私は一見ゴミに見えるようなものも見方を変えればとても素晴らしい物になると言う事がわかるような人間になりたいと思う。評:書き出しの工夫から生き方の主題に結び付けたところがうまい。
●TERUさん
(ふり/中3)の作文より(ミルクティ先生/4.1週)昔たまたま見たのだが、ある男性がペットボトルを、「その他のゴミ」のところに捨てていた。もしかしたら、駅員さんたちがちゃんとそのペットボトルを正しいところへ直したのかもしれないが、きっと、あの男性はほかのところでもそうやって分別されているのを無視して、平気で捨てているだろう。私としては、これが信じられない。なぜゴミをちゃんと分別しようと思えないのだろうか。しっかりと分別して、ゴミを減らせば、今深刻な問題となっているオゾン層の破壊や、森林の減少が少しでも回復できるかもしれない。もし、これ以上自然破壊が進めば、地球はなくなってしまうのだ。<評>日常よく見かけるできごとから自然環境の保護へと思いを巡らせ、最後は強い調子の文で現状の危機を訴える。身近なこと → 大きなことへの展開がうまく
●拓馬さん
(ねき/高1)の作文より(スピカ先生/4.2週)私が私であるアイデンティティーは、決して心の中にあるものだけでなく、それこそ足の爪先から、髪の毛の先端までなのである。これが私だ。私は運良く五体満足なので、その足で土をけり、その手により、多数の手段によって、自己を表現してきた。その1つでも欠落することは、私の存在さえ欠落することであると考えている。 評:脳死を人の死として臓器移植をすることに反対する立場から「私とは何か」をあらわした文。エゴを超えた真理が述べられている。
●Lisaさん
(あいす/高2)の作文より(森川林先生/4.1週)友達からもらった誕生日プレゼント、ちょっと値段が気になって家に帰ってからマジックで塗られた値段の部分を光りに透かして見てみる、こんな経験は誰にでもあるだろう。もちろん、友達の気持ちが一番大切ということは分かっている。でも、心の奥のほうでは値段を気にしてしまう。現代の日本には、このように心の豊かさより物質の豊かさに目をむけてしまいがちだ。評:ある、ある(笑)。
●UZI.SMGさん
(そお/高2)の作文より(ミルクティ先生/3.4週)『脱マスコミ』個人個人がしっかり勉強して、情報の真偽を見極める能力を身につけることが必要なのだ。しかしマスコミが必要なことは事実であり全く無視することなど出来ない。ある新聞社で編集長を務めたジョセフ・ピューリツァーと言うひとが「ジャーナリストの難しさはニュースを追う本能が手放しに走り出して正確性と良心を踏みにじってしまうことである」と言った。マスコミはこの言葉を忘れずに報道して欲しい。<評>まず、報道の受け手に求められる態度を押さえた上で、報道の送り手にも求められる態度について書いた結論の部分。印象に残る名言を引用して書くことができましたね。
●ノッポさん
(いえは/高3)の作文より(森川林先生/4.1週)私は弓道を高校の部活で行っているが、いつでも夢を見ながら練習している。全然矢が的に中らない時もあるけれど、心の中で上手になってすべての矢が中る場面を想像している。評:こういう珍しい体験実例はどんどん生かしていくといいね。
●香奈子さん
(いし/社)の作文より(ミルクティ先生/3.4週)(最近の子供のマナーの悪さ、常識の無さについて)子供達の病気は、もう一方で社会全体から起こったようにも思われる。“孤独な社会”からだ。子供達は幼い時から英才教育という名の孤独な競争社会で育てられ、少子化という名にさらに追いうちをかけられ、常に一人で闘う事となる。そこに、社会のモラルなどはない。あるのはまだ社会を理解するにはほど遠い子の自己を中心に考えられたモラルだけだ。子供達には教えてくれる人がいない。算数や国語は教えてもらえるのに…。<評>しつけの問題を社会問題として大きくとらえ、その原因を鋭く指摘していますね。「孤独」「競争」「闘う」…こうした言葉が印象的で、香奈子さんの主張の強さを感じさせます。
●みちこさん
(いすゆ/社)の作文より(森川林先生/4.1週)生きるよろこびのエッセンスは私にとって、絵を描くことだ。人間にそれぞれ与えられた二つとないのキャンバスがある。顔だ。おばあちゃんになって若さが消えた頃、顔という無二のキャンパスに、喜びを、もう十分だというくらい描ききることが私の目標である。評:テーマと実例とかき出しを組み合わせて、結びの意見を密度濃くまとめました。
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