言葉の森新聞
2004年4月3週号 通算第835号
文責 中根克明(森川林) |
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■声のヒントのページ |
言葉の森の教室での授業の様子を「声のヒント」というページで放送しています。以前アップロードしていたファイルはブロードバンド用の重いものでしたが、今回は電話回線でも見られるように軽いファイルにしました。その分、画面が小さくなっていますが、声を聴く分には差し支えないと思います。 http://www.mori7.com/mine/koe.php |
■ダジャレの木 |
今学期の項目である「ダジャレ表現」の例文を見たいという声がありましたので、ホームページに「ダジャレの木」を追加しました。みなさんも、面白いダジャレを思いついたら入れてください。 http://www.mori7.com/ki/dajare/ |
■森リン3月のベスト3 |
森リン3月の全学年のベスト3は下記のとおりでした。 |
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●人間の感覚と同じ評価 |
文章を書く大きな目的の一つは、自分の考えを正確にすることです。更に言えば、正確にかつ美しくかつ創造的に表現することでしょう。決して森リンの得点を上げることが目的なのではありません。(笑) しかし、文章という漠然としたものを自分の主観とは別の視点から評価する手段として森リンは有効に活用できます。今年の1月末に行った調査では、学年別にランダムに選んだ36人の作文を27人の採点者が採点しました。人間の採点結果と森リンの採点結果の相関は0.86でした。 |
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森リンの採点が出るようになってから、パソコンで作文を書く生徒の目標意識がよりはっきりしてきました。教える側も、森リンの採点をもとに、一歩踏み込んだ指導ができるようになりました。これまでは、漠然と「もう少し題材に広がりがあるといいかなあ」と思っても、単なる直感でそう感じるだけでは生徒にはなかなか言えない面がありました。不用意な注意で生徒の意欲を傷つけることを恐れると、自然に注意には慎重になってしまうからです。また注意をしたとしても、聞いている生徒の方は、なぜそういう注意がされるのかよくわからなかったでしょう。しかし、森リンを参考にすれば、「素材語彙の点数が低いから、もっと話題を広げたらいいよ」というようなアドバイスができます。生徒が、「では、どういう作文だと話題が広がるのですか」と聞けば、これまでにその生徒が書いた作文で素材語彙の点数の高いものを見せることができます。すると、ほとんどの生徒は、「ああ、そうか。このときの作文は確かによく書けたからなあ」という反応を示します。自分自身が書いた実物の例なので、一目瞭然です。 |
●森リンの評価をどう生かすか |
一般に、評価というものの中には、具体的にどこの表現がどうよいかという分析的な説明ができる分野もありますが、全体の印象しか示せない分野もあります。人間のアナログ的な頭脳は、全体の印象を把握することには優れていますが、それを他人説明することはかえって苦手です。例えば、料理番組などで「うーん、おいしい」などという説明を考えてみるとわかります。食べている本人は、おいしいかまずいか確実にわかっています。しかし、それを説明する語彙がないのです。森リンは、全体の印象を数値で表しますから、人間がその数値の意味を解釈すれば、かなり高度な指導ができます。 人間の評価と機械の評価の違いは、人間のアナログ的な能力が相対的な評価に優れているのに対し、機械は絶対的な評価ができるということです。例えば、人間はある一つの作文をほかの作文と比較してどちらがよいか評価することはできます。これは料理の味の違いを見分ける感覚と同じで、きわめて微妙な差異も感じ分けることができます。しかし、一つの作文だけを見てその作文に点数をつけることは苦手です。森リンと人間の採点調査をしたときにわかったことですが、同じ学年の4、5人の作文までなら人間も全体の比較評価ができます。しかし、これが10人以上になると、最後の作文を読むころには最初の作文の印象が薄らいでしまいますから、全体の比較評価はかなり困難になります。異なる学年の30人以上の作文を比較するとなると、人間にはまず無理と言ってもいいほどです。たとえ、全部の作品に点数をつける形での比較評価ができるとしても、3段階か5段階の評価をつけるのがせいぜいでそれ以上の細かい採点はまずできません。ところが、森リンは機械ですから一つの作文を取り上げて絶対的な評価を出せます。その評価も100段階ぐらいに分けた評価ですから、人間にはまずできないデジタル的な能力です。ところが、その100段階に分けた一つの段階の中の作文を更に細かく比較するということになると、機械では逆に限界が出てきます。デジタル的な数値の差はいくらでも細かく出せますが、ある程度以上の細かさになると誤差の方が大きくなってしまうからです。しかし、人間のアナログ的な能力は、いくらでも細かい比較を進めることができます。こういうきわめて微妙な差に関しては、逆に人間のアナログ的な能力の方が機械のデジタル能力を上回るのです。例えば、「梨花一枝春雨を帯ぶ」と「梨花数枝春雨を帯ぶ」のどちらがよいかという評価は、機械ではできません。「一枝」と「数枝」の違いをデジタル的に評価しようとすると、誤差の方が大きくなってしまうからです。ところが、人間はこの評価ができます。アナログ的な評価は、その言葉を取り巻く文化的ニュアンスも含めて評価できるからです。 ここから、森リンの活用法の一つがわかってきます。それは、作文小論文の試験で、100人の受験者から5人の合格者を選ぶというような場合です。本当は、受験者はみんな合格にしてあげられるような社会を作ることが大事なのですが、それは別の話になるので、ここでは置いておいて話を進めます。まず、100人の受験者を森リンで採点し、上位10人に絞ります。次に、その上位10人についてだけ人間が採点し5人の合格者を選ぶという方法です。これなら、かなり高度できめこまかい採点ができます。これは100人が千人になっても1万人になっても同じです。現在の採点の問題点は100人なら100人の受験者すべてを人間が見なければならないので、採点する人がくたびれてしまうというところにあります。その結果、誤字が少ないとか、文章に一貫性があるとかいう文章能力の枝葉の部分ばかりが強調されてしまうのです。大量の採点に追われる結果、肝心の考える力があるかどうかというところまで見る余裕がなくなるというのが、現在の作文小論文試験の実態だと思います。 もう一つの活用法は、国語力のクラス分けです。英語や数学では習熟度別のクラス分けが可能です。それぞれの学力に応じた指導によって、低学力の生徒も高学力の生徒もともに恩恵をこうむります。しかし、国語力に関しては、そういうクラス分けが困難でした。たとえ国語の成績によってクラス分けをしたところで、指導の内容をどう変えるかということが分からなかったからです。森リンを使えば、例えば次のような授業ができます。森リンの点数が低い生徒は、語彙力が不足していることが多いのですから、読書指導など読む学習を中心に勉強をしていきます。森リンの点数が高い生徒は、豊富な語彙力を既に持っていますから、考える力を高めるために、クラスの中でのディスカッションなどを中心に勉強していきます。そして、両者とも学年が上がるにつれて更に語彙力を増やしていけるように、新しいジャンルの読書に力を入れていきます。こうすれば、国語の授業は明確な方向性を持ったものになります。現在の授業の多くは、どの方向に子供を伸ばすのかという方向性を持たずに、ただ漠然と読解の解説をするような形を取っています。国語のテストというものはもちろんありますが、授業を聞いて熱心に勉強をすれば点数が上がるというテストではなく、もともと国語力のある生徒はいつも高得点を取り、もともと国語力のない生徒はいつも点数が低いというテストですから、努力のしがいがありません。しかし、森リンを使えば、努力した生徒は、次第に語彙力が上昇してくることが数値として表れてくるはずです。 |
●学年による差 |
森リンは、小論文を書くことを目的にした自動採点装置ですので、小学生の作文よりも高校生の作文の方が高めに点数が出ます。それは、学年が上がれば、自然に難しい言い回しや難しいを使うようになるからです。4月の学年平均を見てみると、強力語彙と重量語彙の点数は次のようになっています。 |
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グラフにすると、強力語彙と重量語彙の点数は学年とほぼきれいな比例関係にあることがわかります。 |
強力語彙重量語彙 |
これを見るとわかるように、小学生の人が高校生と同じレベルの文章を書くことはまずできません。数学の勉強などでは、学年を超えて進度を先に進めることができる分野もありますが、作文の勉強はそうではありません。その点では、作文はスポーツなどと似ています。 ですから、小学校低中学年の人は、あまり総合点にはこだわらず、自分の書いたもののうちで素材語彙をできるだけ多くするということに努力を向けていくといいと思います。小学校高学年で、内容的にはいい作文を書くのに点数はまだ低いという場合もそうです。実力はあるが、まだ年齢的に、考える語彙(強力語彙)や難しい語彙(重量語彙)を使う分野での読み書きに慣れていないということですから、そういう分野の読書に力を入れて実力を蓄えていく時期だと考えていくといいでしょう。小学校高学年から中学生にかけては、「料理を作ったこと」や「遠足の思い出」のような身近な生活作文の方が、「環境問題」や「日本の国際化」のような社会的な意見文よりも、豊富な語彙で書ける傾向があります。ですから、意見文の点数はどうしても低くなりがちです。しかし、逆に、料理や遠足という題材では、考える語彙や難しい語彙を使う場面は限られてきます。料理作りの作文で、「確かに」「しかし」「なぜならば」「したがって」「言い換えれば」などという言葉は、まず出てきません。出てくるのは、「ダイコン」「ニンジン」「フライパン」「ジュージュー」「あちちち」というような言葉です。小学生の作文の点数は、中学生や高校生の点数と比較するのではなく、同じ小学生の同じジャンルの作文の中で見ていく必要があります。 |
●1位のルフィ君 |
強力語彙で97点を取ったルフィ君の文章は、さすがによく考えて書いていることがわかります。 ルフィ君の文章の一部を紹介します。 ====ここから引用 さて、今度は本当に話題を変えよう(笑)今まで共同体社会の実現の提案といった形で意見を述べてきたが、ここまで社会が出来上がってしまうと、実際問題としては今から切り替えることは不可能であろう。だからこそ、といっては何だが法を扱う人には深い人間性を持って欲しいと思う。中国の始皇帝をあなたは知っているだろうか。あの万里の長城を作らせた人である。彼は…… ====引用ここまで このような感じで自分で考えたことをしっかり展開していきます。考える力があることを感じさせる文章です。 対話調になっているところは文章の密度が低くなりがちなので、清書のときに整理して密度を高めれば素材語彙の点数が高くなり、更に高得点になると思います。 |
●2位の黒猫みーさん |
2位の黒猫みーさんの文章は安定しています。強力語彙25個、重量語彙48%、素材語彙156種とバランスが取れています。森リンで100点以上を取っている人の作文の素点を平均すると、強力語彙約30個、重量語彙約50%、素材語彙約160種ですから、みーさんの作文はどの分野もかなりいいところまで行っています。 全文を紹介します。 ====ここから引用 近年、コミュニケーションの主役が、従来の手紙から電話や電子メールに移ってきているのは、何事もより速くということがいいことであるという現代の風潮を反映してのことだろうが、この傾向は心の「輪郭」を不鮮明にするだけではなく、「考える」ということさえも日常生活から奪ってしまったかのように思われてならない。海外とのやりとりなどでは、たしかにメールほど効率のよいコミュニケーション手段はないと思えるのだが、一方では、隣り合わせの机にすわっている人同士が、メールで事務連絡をとりあっている風景も普通になっていて複雑な気持ちだ。速さや効率性だけを重視するのではなく、それに伴う人の気持を大切にするのが重要だ。 人は考える生き物だ。目の前の物事に対して、思考を重ね、自分なりの意見、主張を持つことができる。しかし、時間に追われ考えることが疎かになれば自己という存在があやふやになる。(理由)学校の国語の時間というのは文章を読みそれについて自分なりに考える時間だ。しかし、その時間には限りがある。小説なら登場人物の心情を評論なら筆者の主張を分析すれば、テストをして終わりだ。ある時の授業で夏目漱石の「こころ」をやった。小説の始めから終わりまですべて読み込ませ、作者の漱石自身についても調べるという念の入れ様だった。しかし、それが終わったときわたしは不思議な充実感に満ちていた。普段は使わない視点でものを見、考える楽しみをその時わたしは初めて知ったのだった。効率の良いことはいいことだ。しかし、その考えに囚われてはいけない。時には、立ち止まって目の前の物事に対してじっくり時間を費やすことも必要なのだ。 さらに、電子メールなどでは相手の顔が見えない。手紙だってそうじゃないか。と、そういうことではない。電子メールはどんな相手でも同じ字面、同じ画面だ。しかし、手紙は違う。人それぞれ書く書体は違う。友達から、家族から、その人特有の字に覚える親しみは格別である。また、季節や気分、送る相手によって変えることのできる、紙や封筒のちがいに送信者の心持を知ることができる。四季を代表する旬の食材といえば春はタケノコ、夏はスイカ、秋にはサンマと冬の大根だ。(データ)日本人は季節の風物詩を大切にする民族だ。その心を忘れてはいけない。 確かに、パソコンなどの電気機器を使ったコミュニケーションのやり取りは速くて、能率的だ。しかし、そこに囚われていては見えなくなるものもある。 「カメラマンは、レンズのほこりを払うまえに目のほこりを払わねばならない。」ということばもある。スピードや効率性に惑わされることなく、自分の気持や考えを持つことが大切なのである。 ====引用ここまで 自身の体験にもとづいた説得力のある文章です。データ実例・名言の引用など指定された項目も、よく消化して文章の中に生かしています。今後は、社会実例入れて題材の幅を広げていくと、更に高得点を目指せると思います。 |
●3位のラングレーさん |
3位の惣流・アスカ・ラングレーさんは、豊富な語彙力で高得点になっています。これは取り上げた題材の多様性を反映したもので、豊富な知識を駆使して書いていることがわかります。 ラングレーさんの文章の一部を紹介します。 ====ここから引用 明治時代、二百六十年間続いた徳川の鎖国攘夷時代は終了、脱亜入欧の目標を掲げた日本は少しでも欧米諸国に近づこうとした。その為に、まずは人々の身だしなみから始まったのだ。着物はやめ、ドレスに。丁髷も駄目。そしてフランスにあるベルサイユ宮殿のようなダンスホール、「鹿鳴館」など、とにかく町並み、人々の日常生活を洋風化させた。また、この時代は自由民権思想といって、国会開設や憲法発布などによって国民の意見を政治に反映させようとした運動が流行った。そして江戸時代「士農工商」で分けられていた身分制度を廃止、「四民平等」の旗を掲げ…… ====引用ここまで。 素材語彙が184種100点と高いのに比べると、強力語彙が13個65点と低くなっています。豊富な素材どうしのつながりを強めていけば、更に高得点になります。強力語彙を高めるためには、「それはなぜか、ではどうしたらよいか」と書きながら考えていくといいと思います。 |
●得点とともに、その内訳も |
ルフィ君、黒猫みーさん、ラングレーさんの例で見たように、森リンの得点は、三つの分野の割合にも重要な意味があります。総合得点は、とりあえず小学校高学年60点、中学生70点、高校生80点を最初の目標にしていきましょう。その目標を達成できるようになった人は、全体の得点のバランスを考えて書き方を工夫していきましょう。そして、最終的には、小学校高学年70点、中学生80点、高校生90点を目標にしてがんばっていくといいと思います。 作文小論文の自動採点ソフト「森リン」 http://www.mori7.info/moririn/moririn.php |
■日常生活の中でことばの種まき(うさぎ(きら)先生の2月学級新聞より) |
「『いっかくせんきん』と『いっこくせんきん』どっちが正しいの?」と子どもの声。どうやら宿題のプリントにミスプリントがあるといった口調です。四文字熟語の書き取りのようでした。「どんな意味でつかってるの?」と聞くと「わかんないもん!」たしかに、読み仮名があって四角がよっつ並んでいるだけです。これには私も困りました。 『一獲千金』と『一刻千金』の講習会になりました。どちらも子どもにはなじみのない用語です。「結局、『か』でいいのか『こ』でいいのか。そこが問題。」といった表情の子どもを見てため息です。ちゃんと使えなければ意味がないのです 受験指導をしていたころ、四文字熟語やことわざ慣用句は問題集にあたりながら暗記あるのみでした。学校で学ぶ時も、ある単元で集中して覚えさせられるのですね。意味もわからないものをいちどにたくさん頭に入れろというのですから、これは苦行です。いったい、いつから子どもと「ことわざ」に距離があいたのでしょうか。 私はどうだったのかとかなり遠い記憶をたどれば、祖父母などが日常会話で使うのを聞いて育ったと思い当たります。漢字ではわからないけれど、音では聞いたことがあるぞというやつです。頭の中にはカタカナの音の列があって、その場の状況判断と組み合わさって、どんな意味かなあと知ってる漢字が踊りだしているのです。 5年生の課題に「ことわざの引用」が出てきます。《表現》の項目で「たとえの表現」といずれかということなので、挑戦例は少ないです。お子さんの作文を読んでいって「うーん、ここのところはまさに『石の上にも三年』ね。」などとお母さんがつぶやくといったかたちで「ことわざ」に出会えたら……。ひとつずつ体験的な習得が出来たらすばらしいと思います。 6年の課題の長文に「具体例を抽象化し、さらに、これを定型化したのが、ことわざの世界である。庶民の知恵である。」といった内容のものが取り上げられています。(ヘチマ2 2月2週)この課題に取り組んだ生徒さんからは「自分がどう判断すれば良いのか考えたり、迷ったりするときに使うととても便利だと思う。」と書きました。こうした興味や関心は伸ばしてあげたいものです。 車の運転をしているとき「千載一遇のチャーンス!」と言いながら右折したり車線変更したり。(危険運転ではけっしてありません。笑)子どもたちが小さいころからくりかえしたせいか、この熟語は使いこなせるようです。ただし「センザイイチグウ」が「洗剤イチグー」から抜け出していないかもしれません。漢字のお勉強はその学年に応じて出てきます。それよりも、その場の実感に口からこぼれる言葉があるほうが大切な種まきのように思えるのです。 作文でつかえる言葉はどれも、どのくらいそれになじんできたかによります。お母さんからの語りかけの言葉や、言葉の森の教材の音読をくりかえすことで、どんどん種をまいておきましょう。 |