言葉の森新聞
2005年4月1週号 通算第881号
文責 中根克明(森川林) |
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■4月1日(金)から新学期 |
4月1日(金)から新学期が始まります。4月からの教材の説明は、教材に同封してあります。 教材は3月28日ごろまでに届いているはずですが、万一まだ届いていないという場合はご連絡ください。 教材の説明は、「学習の手引」にも載っています。 Http://www.mori7.com/mori/gate.html |
■通信生の住所シール・項目シールの使い方 |
通信の生徒には、4.1週の山のたよりに住所シール・項目シールが同封されています。 住所シールには、先生の住所が印刷されています。封筒用紙に貼ってお使いください。 項目シールには、週ごとに項目シール又はバーコードシールが印刷されています。作文・感想文の週は、作文用紙に項目シールを貼り、清書の週は、項目シールは貼らずに、作文用紙の左上にバーコードシールを貼ってください。 |
■賞状は4.2週に送ります |
3.1週の作文進級試験の賞状は、4.2週にお送りします。 |
■父母の広場より |
◆読書の傾向が偏ってきた(中1男子父母) |
もともと読書は好きな子なのですが、最近ファンタジー系冒険小説ばかりを読みたがります。親や学校が薦めた本はなかなか読まず、やっと読んでも斜めに読んでいるようです。無理に読ませて、読書そのものが嫌になっても困ると我慢しているのですが、いいのでしょうか? |
▼同じものを読むこと、難しいものを読むこと(教室より) |
読書については、 (1)偏って読むことは悪いことではない (2)無理矢理読ませても嫌いにはならない というのが基本的な考え方です。 逆に、偏って読むぐらいに本に没頭した子の方が読書が身につきます。よく「同じ本を何度も読むのですが」と困った顔をして相談されることがありますが、これは困るどころかむしろ歓迎すべきことです。子供は同じ本を繰り返し読むことによって、その本を消化していきます。繰り返し読むような本のない子の方が逆に読書が表面的になっています。 ところが、読書にも硬軟の差があります。軟らかい方の代表は絵本や漫画です。逆に硬い方の代表は理科や社会や哲学の本です。その中間に膨大な量の物語の本があります。 高校生ぐらいになると、物語の本をたくさん読む子はかえって国語の力が伸びないという傾向が出てきます。読書は楽しいものですが、その内容がその子の知的成長にとって刺激にならない場合は、読めば読むほど読む力が低下するという現象も起きるのです。無重力状態の宇宙飛行士は、骨が弱くなると言われています。運動でも、体に負荷がかからない程度の運動は、いくら長時間行っても筋力を増加させません。たとえ短い時間であっても、頭を振り絞るような読み方をする読書を取り入れる必要があります。 しかし、中学生ぐらいになると、親が子供に読書のアドバイスをするのは困難になってきます。子供は、学校で読書とは縁のない勉強生活を送り始めます。現代の社会では、読書をするという動機がきわめて見つけにくいのです。 入学試験が、読書を含めた幅広い教養を見るようなものにならないと、子供が読書をする気持ちにはなりにくいと思います。 |
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■言葉の森の原点(森川林/なね先生) |
言葉の森に来ている人たちの受講の動機はさまざまです。作文小論文の試験があるからという人もいます。国語の力をつけるためにという人もいます。書くことが苦手だからという人もいますし、書くことが好きだからという人もいます。 しかし、これらの動機とは別に、言葉の森には独自の理想があります。それは、日本に作文文化を作ることです。 現在、子供たちの勉強の目的は、入試になっています。その入試の予行演習として、校内の定期試験があります。勉強に目的があること自体はいいことですが、その肝心の目的が知識の量を問うような形のものになっているところに問題があります。 受験勉強に関わった人はだれでも、こんなことを覚える意味があるのかという疑問を持ったことが何度かあると思います。差をつけるためのテストでは、時に不毛と思われるような問題を出してまで差をつける必要が出てきます。 特に、今日のような情報化社会では、勉強の方法は最も能率的な方法に画一化していきますから、あとは不毛さに耐える忍耐力の差が点数の差となるような状況が生まれてきます。 このような忍耐力中心の勉強に過度に適応した人は、創造力を失います。医学や経済学の世界では、最初に入った学問の枠にとらわれる現象がよく見られます。医学では西洋医学と東洋医学のどちらをスタート地点としたかによって、道が二つに分かれてしまうようです。西洋医学に携わる人は勉強することがあまりに多いので、西洋医学の枠組みから抜けられなくなります。経済学も同じです。昔、マルクス経済学、近代経済学という区別がありましたが、どちらかをスタート地点にするとその枠組みの中で学ぶことがあまりに多いので、他の学派のことまで学ぶ余裕がなくなります。だから、医学や経済学の世界で創造的な仕事をしている人は、優等生ではなかった人が多いようです。文系と理系という区分もそうです。現在の入試のような詰め込み型の勉強をしていると、文系の人は理数が苦手で、理系の人は文学が苦手という割り切り方をせざるを得なくなります。しかし、そういう区別が通用するのは、閉ざされた島国の狭い枠の中だけです。世界に通用するためには、人為的な区分を横断する総合力が必要です。 その総合力を培う方法は、小さな知識にこだわらずに大局を見ることのできる思考力です。もちろん思考力の土台には知識が必要ですが、その量はそれほど多くはありません。 この思考力を見るための最も確実な方法が、作文です。しかし、現在の日本では、作文の勉強が目指すべき頂点となるものがありません。世の中には、音楽文化、絵画文化、書道文化、スポーツ文化など、さまざまな文化があります。それらの文化が成り立つための共通点は、明確な頂点があることと、頂点を目指す方法論が確立していることです。一般に、頂点の高さに比例して裾野も広がります。 作文の場合、頂点も方法論も明確ではないので、勉強の方向が受験のための手段ということになりがちです。ところが、その受験自体がそれほど高い頂点を形成しているわけではないので、国語の成績を上げるとか小論文の力をつけるとかいうところを目指すと、自然に表面的なテクニック中心の指導になってしまいます。 作文文化を創るということは、作文を国語や小論文の試験のための手段ではなく、作文そのものを目的とした勉強として行える環境を作ることです。 昨年9月に、言葉の森とは別に作文検定のための組織を作りました。それは、作文の勉強そのものが目的となるような環境づくりのための第一歩です。作文検定はまだ始まったばかりですが、今後、作文文化の頂点をみなさんと一緒に作るためにがんばっていきたいと思います。 |
■親子の対話(イルカ/かこ先生) |
卒業生の皆さん、ご父兄の皆様、ご卒業おめでとうございます。 様々な思いを胸に、皆さんは卒業式を迎えられることと思います。今まで仲良くしてきたお友達ともお別れしなければならない、そんな悲しみもあるかもしれません。でも、別れは出会いの始まりとも言います。新しい世界で新たな出会いが皆さんを待っていることでしょう。 さて、今回は親子の対話について少し考えてみたいと思います。お父様やお母様方は普段、お子様達とどのような会話をしていらっしゃいますか。お父様方は夜遅くに帰られて、あまりお子様達と顔を合わせる機会がなかったり、お母様方も家事や子育てに忙しい、あるいはお仕事を持たれているためにあまり会話をゆっくりすることができないということもあるかと思います。子供達は学校での出来事など、その日あったことを本当は話したくてウズウズしているかもしれません。 話すことというのは、自分が見たこと、聞いたこと、あったことなどを言葉に置きかえて表出することです。その時に重要な事は聞く側の姿勢だと思います。つまり、自分が話したことを受け止めてくれる人がいなければ会話は成立しないのですが、受け止める時にどのように受け止めるか、それをいかに返すかが大事だということです。子供が話した事に対して「あ、そう。」とだけ返したのでは、返したことにはならない。良い事も悪い事も全てを、まず、受け止めてあげる。そうすることによって、子供は安心して話す事ができるのです。「そんなこと、しちゃダメでしょ。」とか「なんで、そういうこと言うの。」などと頭から否定的な態度を取ると、それは子供にとって自分自身を否定されることと同じ意味を持つのです。「そう、そういうことがあったのね。」、子供が憤慨していれば「そうだったの、それはひどいわよね。」などと、その子自身を、同じ目線に立って全面的に受け入れてあげることが大事です。自分が受け入れられていることを感じれば、子供は心を開いていくでしょう。それから次のステップに移ります。「じゃあ、その時、どんなふうにあなたは思ったの?」、「他の子達はどうしていたの?」、「もし、あなたがその子だったらどうしていたと思う?」などと話を掘り下げていきます。「お母さんだったらこうするけど」とヒントを与えてあげることも必要になる時がありますね。 このようにして子供との会話をしていくと、子供は徐々に自分の気持ち、周りの様子などに目が向くようになっていくと思います。そして、「それって、まるで○○みたいねえ。」や「そういうのって○○と言うのよ。」、「○○っていうことわざがあるけど、それと同じねえ。」などと何気ない会話の中に「たとえ」や「ことわざ」、少し難しい語彙等を繰り返し入れていきます。「それって何?」と聞かれたら、「そんなことも知らないの?」などと言わず、「それはね、……。」と教えてあげることも大事です。それは興味を持っている証拠なのですから。 私も同様、忙しい忙しいと言いつつ、子供の話に耳を傾けてあげることができないことがあります。でも、本当はそれではいけないのです。(反省、反省……)たった五分でも十分でも、子供の話を聴いてあげる(「聞く」とは違います)ことによって子供は満足することもできますし、その短い時間の中でも表現力や語彙力を身につけることができると思います。本や新聞を読んだり、音読をすることはもちろん大切です(自習をしましょう!)。しかし、親子の対話の中から学べる事も多いはずです。そこから学んだ事は、作文を書くうえにおいても必ず役に立つはずです。 これから春休みを迎え、家族でどこかへ外出されたりすることと思います。「楽しかった」だけで終わらせずに、「何が一番楽しかった?」、「どうしてそれが楽しかったの?」「お父(母)さんは○○が一番だったな。」、「あれは○○みたいだったわねえ。」などと楽しい会話ができるといいと思います。 |
■「援助」と「協力」の違い(うさぎ/きら先生) |
土筆を見つけました。でもまだまだ寒さは残っています。春先の寒さを表す季語のなかに「冴え返る」というものがあります。朝の空気を吸うときに、澄み切った冷たさが頭の中まできりっと冴え渡らせてくれる気がします。3月はしめくくりの月、緊張感も持って春を待ちましょうね。 ちょうど一年前の通信では「ことばの種まき」のお話をしました。種まきで思い出したのが、先日参加した講演会でのお話です。国際飢餓対策機構というNGOの活動についての内容でした。子どもたちの通う中学が給食の食べ残しゼロ運動をしていることから、世界の飢餓問題に取り組もうとしたものです。講演は、とくに「援助」と「協力」の違いということが強く伝わってきました。 ユニセフといった大きな組織が上から下へと巨額の資金を投じてする「援助」と、NGOが直接現地に入り込んでその住民の意識を変えていく「協力」の違いです。 ------------------------------------ カンボジアの田舎には、村であって村ではないような地域があります。ポルポト政権のもとで強制的に住まわされた人々が暮らしているため、その地域に立ち入ってみなければわからないような事情が存在します。NGOはまず、そこで暮らしその地域に受け入れられるところから始めていきます。 そこに必要なのは「水」です。彼らは手掘りの池を持っています。そこで飲み水や生活用水を得ますが、多くはその年の半分ももちません。その後は遠方まで水汲みにいくことになります。これが女性や小さな子供の仕事となるのです。 井戸が必要だということになると、その予算の半分は、現地の人たちに出してもらいます。そして、水が必要な当人達が井戸を掘るように準備を進めていきます。したがって、農閑期を待つことになります。長期の計画です。 親たちが必死に井戸を掘る姿は、子供たちを変えていきます。ふつう池や井戸を見れば、その中に石を投げ込みたくなるのが子供です。しかし、現地の子供たちは井戸を掘る親の姿を見ているので、決してそんなことはしません。井戸を大切にしようということが自然に身についていきます。井戸を守る、水を守るということが「文化」になっていくのです。 NGOは井戸掘りをしているのではなく、人づくりをしています。 同じ場所で、ユニセフが巨額の援助金を費やして150基もの井戸を掘りました。しかし今も残っているのはそのうちのわずか5本です。つまり「人に買ってもらったものは身につかない。自分たちでつくった物は守ろうとする。」ということなのです。 住民達は同じ水を何回も使い、水源を守るという「文化」を持ったわけです。単なる技術提供ではなく、文化づくりをNGOは目指しています。 ----------------------------------------- このお話はとても示唆に富んでいます。子育てに置いても同様のことが言えるのではないでしょうか。 作文指導でも「もっと漢字を使いなさい。」「そこはもっと構成を考えて。」と手取り足取り指示していると身につきません。教材や塾といった環境を万全に整えてやることだけでいいでしょうか。ただ与えている教育は後に残らないのです。勉強や作文は楽しいなあという文化を創造していかなければならないのです。「援助」ではなく「協力」をしましょう。 お母さんが自分の体験や気持ちををいっぱい話すこと、作文をいっぱいほめることで、書きたい気持ちを育てましょう。そうして、まず子供たちを変えていきましょう。 きら |
■読解力って、なんだ(ひとみ/かもの先生) |
<小学生、中学生、高校生だけでなく大学生まで、日本語力つまり国語力が落ちたと、このところ日本中が大騒ぎ>という話をしたことがありましたね。 世界41か国27万人の学力調査で日本の高校生の読解力が14位に落ちたということでした。前回の調査では8位でしたから、もうほとんど後進国に近いです、とも言いました。日本中が大騒ぎするテーマに反応するのは新聞の仕事です。 「読み解く力」という連載を読売新聞が始めていますと、このあいだ中根先生が紹介していましたね。 この連載への評価は、読んだ方におまかせするとして、ひとつ面白かったのは、この学力調査の読解力の問題をつくった人が登場していたことです。 読解力とは、どういうことなのか。わかったようでわかりにくいこの言葉について、その人は、こう説明しています。読んだ人の方が少ないでしょうから、そのまま紹介します。 読解力とは―― 「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力と定義しています」 これ、わかります? そのまま書いた記者もよくないけれど、お役人言葉でしか言えないのだなあと、わたくしは変なことに感心しました。横道にそれないで、先に進みます。 もう少し、わかりやすい日本語で言うと―― (以下、この人の答えの文章を、少し、わたくしが直してあります) 「文字だけでなくて、グラフ、図表まで含めて資料の意味を読み取ることです。それを解釈し、評価する力、それが問われます。国語力とは違います」 (わたくしは、これこそ国語力だと思いますが。横道にそれそうですので、藤原正彦「祖国とは国語」講談社を、ぜひ、お読みください) 「読解力の問題には、情報の取り出し、解釈、熟考・評価、の3段階があります。日本は今回、全体の平均点が下がりましたが、熟考・評価は下がっていません」 これが読解力について答えている部分です。 ここまでくると、大体、言っていることはわかりますね。 なあーんだ、そうか、と思いませんか。そうなのですね。 「言葉の森」が課題の文章(長文)を読ませて、感想文を書かせる、そのときに、ヒントとして、ああ考えたり、こう考えたり、それからこういうふうに頭をやわらかくして、文章の言っていることをもとに、思いめぐらせてみよう、そういうことなのですね。 これ、そのまま国語力です。「言葉つまり語彙をもとに思考する」、これは藤原正彦の言っていることですが、読解力とは国語力そのものですね。そんなふうなことを思いながら、感想文を、今週も、楽しみながらやってください。 |