言葉の森新聞
2006年4月2週号 通算第930号
文責 中根克明(森川林) |
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■賞品の山を改良中。7月から新しい賞品システムに |
山のたよりの右上にクラウン数が印刷されています。 このクラウンを使って、賞品を注文することができます。今回注文しない分は、次の学期に引き継がれます。 賞品のカラー写真はホームページの「賞状の山」に掲載されています。 http://www.mori7.com/yama/syouhinn.php これまで賞品の注文は、ウェブから直接申し込むか、賞品引換券を先生あてに郵送するかの二つの方法をとっていました。 しかし、先生あてに郵送する方法は、ウェブでの在庫表示が0になっているものを注文してしまうことも多いため、今回から廃止することにしました。したがって、賞品の注文はウェブからのみになります。 なお、今回の形での賞品注文は6月末でいったん終了し、7月からは新しい賞品システムに移行します。使っていないクラウンは新しいシステムに引き継がれます。 |
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■自分の感受性くらい(ふじのみや/ふじ先生) |
こんな詩を知っていますか? 高校生ぐらいの人なら、教科書で読んだことのある人もいるでしょう。 ぱさぱさにかわいていく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな 何もかもへたくそだったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 『自分の感受性くらい』 茨木 のり子(紙面に合わせて改行変更) この詩をよんだ詩人、茨木 のり子さんは、先月79年の人生を終えられました。多くの人が、その死を悲しみ、残念に思っているのは、有名なこの詩の存在によるところが大きいようです。小学生の人には、難しい言葉もあるかと思いますが、それでも、生きることに真剣に向かい合う厳しさを読み取ることはできるのではないでしょうか。 わたしがこの詩でもっとも好きなのが、「わずかに光る尊厳」という一節です。この部分までは、ひたすら頭を垂れて反省をうながされる、叱咤(しった)の言葉の連続なのですが、足らないことばかりでどうしようもない自分の存在をみとめるひとすじの光、それがこの言葉のように思えます。 だれにでも、自分自身を含めて大切にしたいものがある。それをおろそかにしたり、捨ててしまってはもったいないのです。そのためには、物事を自分の目で見なければなりません。そして、そのときに生まれた思いを、簡単に他人にゆずりわたしてはいけません。作者は、結びの「ばかものよ」で、こう呼びかけているのですね。(心から「ばか」だと言いたいのではありません(笑) しかし、実際、毎日の生活の中ではどうでしょうか。わたしたちは、本当に自分の頭と心で考えたことをもとに行動をしているでしょうか。友達に合わせて、お母さんの言うとおりに、上級生や先生がそうしたほうがいいと教えてくれるから。そんなふうに動いてしまうことが、あるでしょう。それは、楽なことですよね。なぜかというと、失敗しても自分のせいにはなりにくいから。「だってこれは、他の人と決めたんだから」。 もちろん、周囲と協力して仲良くやっていくためには、自分の意見ばかり主張せずに、まわりの考えを取り入れることも大切です。しかし、なんとなくその状況に慣れてしまって、ひとりで考えるべき場合においても、自分の目で物ごとを見て考えることから遠ざかってしまってはならないのですね。小学校高学年以上の人は、名言集の中に、「自分が考えるとおりに生きなければならない。そうでないと、ついには自分が生きたとおりに考えるようになってしまう」があるのを知っていますね。自分が生きたとおりに考える、と、後半にありますが、「自分が」ならまだ大丈夫、「周囲が」になってしまう……毎週、考える練習をしているみなさんなら、「そんなのいやだ」と、思うよね。 さて、ここで話は一気に身近なことになるのですが(笑)、作文のお電話で、「何を書けばいいですか」や、「どう書くのですか」と、質問してくれるのは、とてもうれしいです。できるだけ、伝えていきたいと考えています。けれども、同時にわたしはちょっぴり、(そこを自分で考えてこそ、自分の感受性が育っていくよ)と、思っています。みなさんの2倍以上は(もっと?)年を取ってしまったわたしの考えなどよりも、あなたの考えのほうが輝く力を持っているはずと、期待しているのです。自分の「光」に気づきたい人は、遠慮なく、「こう思うのですが、ほかにどんな考えかたがありますか?」こう、質問してみてね。待っています。 ★いこに★さん(中2)イラスト |