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  6.1週に作文進級テスト
  森リンの点数が変わりました
  読解マラソン始まる(その2)
   速読力と国語力はイコールではない
   普通の作文添削では国語力はつかない
   音読の教材は安易な題材選びが多い
  ワシントンと桜の木(むり/むり先生)
  「おれも作文やりたいなあ」(うるっち/かん先生)
  何色が好き?(しまりす/きらら先生)
 
言葉の森新聞 2006年6月1週号 通算第937号
文責 中根克明(森川林)

6.1週に作文進級テスト
 6.1週に、作文進級テストを行います。課題フォルダの字数・構成・題材・表現・主題の●印が全部できていることが合格の条件になります。(表現の項目などで「たとえ」と「ダジャレ」など二つ以上の項目が指定されている場合はどちらかができていればその項目は◎です)。キーワードと字数が採点の基準ですので、指定された字数以上で必要な項目が全部入る作文を書いていってください。中学生以上の時間制限については、今回は採点の基準にしませんが、できるだけ時間内に書き上げる力をつけていきましょう。
 手書きで作文を書く人は、項目ができたところにシールをはっておいてください。
 パソコンで作文を書く人は、キーワードを入れておいてください。
 小学生の場合は、提出する前に、ご家族の方が字数と項目シールをチェックしてあげてくださるとよいと思います。
 小学2年生までの生徒は、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。4月以降に受講を開始した生徒も、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。ただし、いずれの場合も、賞状は出ますので、できるだけ字数と項目ができるように書いていってください。
森リンの点数が変わりました
 森リンの点数を、5月から次のように変更しています。
(1)平均を50点としました。(これまでは70点)
(2)学年別に集計するようにしました。(これまで全学年共通)
(3)上限字数未満の作品の字数による調整をやめました。(これまでは例えば600字で素材語彙が10個ある作品は1200字では20個あると見なしていました)
 これまでは、小1から高3まで同じ基準で評価しているため点数のバラつきが大きく、70点を中心に40点から90点ぐらいまで幅広く分布していました。また字数の少ない作品でも比較的高得点になっていました。
 しかし、5月からの変更により、点数の分布の幅が狭くなり、50点を中心に40点から60点ぐらいまでの分布になりました。また、字数の少ない作品は点数の低くなる度合が大きくなりました。ただし、字数による差の大きい方が、人間の評価の実感に近くなっていると思います。
 また、学年別の集計では、小1は200字、小2は400字、小3は500字、小4は800字、小5は1000字、小6以上は1200字を、字数の上限として集計するようにしました。学期別の集計まで細かく分けると、級によっては母集団の数が少ないために誤差が大きくなる可能性があるためです。
 しかし、平均50点だと自分の実力の位置がわかりにくい面もあるので、学年別の「上位○%」という表示もするようにしました。また、字数の少ない作品は、字数が上限まで行ったときの可能性の点数も表示するようにしました。
 森リンの新しい点数は、最近の4〜5月分ぐらいまでしかまだ再採点していません。
 このあと、過去のデータもすべて再採点すると、漸近線グラフの方も右肩上がりに表示されるようになると思います。


読解マラソン始まる(その2)
速読力と国語力はイコールではない
 速度力は、国語力に関係があります。言葉の森のホームページでも、速読・速聴のページを利用できるようにしています。
 しかし、速読力がつけば国語力がつくわけではありません。速読力と国語力には、微妙な違いがあるのです。
 その一つの理由は、ほとんどの速読は、文章をブロック単位で読む練習だからです。つまり速読は、文章を時系列で逐語的に読むのではなく、数行又は1ページごとにひとまとまりの絵のように読んでいきます。左脳が文字を一語一語解析する脳だとすれば、右脳は文字を絵やイメージとして丸ごと受け取る脳です。現代の社会では、左脳的な勉強がどうしても多くなるので、速読によって右脳を開発することにはそれなりの意義があります。
 しかし、今度は逆に文章を書くときのことを考えれば、文章をブロック単位で書く人はいません。文章を書くときは、ある言葉を書いたあとに、その言葉に触発されて次の言葉の候補がいくつか頭の中に生まれてきます。そしていくつかの可能性の中から最適と思われる言葉を選択します。すると、その選択によって、文章の全体の意味が変容し、次の新しい言葉を生み出す条件となっていくのです。ここにあるものは、一種のカオス理論です。つまり、初めから書きたい全体があるのではなく、書くことによって全体が変化し、その変化によって次の書く言葉が生まれてきます。もちろん、書く前に全体の構成を考える書き方もあります。入試などの小論文では、書き出す前に全体像を把握していることが必要だからです。しかし、書くことの本質は、やはり全体に還元されない性質のものなのです。
 では、このカオスの中から次の言葉を生み出すものは、何なのでしょうか。それは、言葉の持つ文化です。ある言葉は、その背後にその言葉がそれまでに使われたことのある無数の文脈を持っています。その文脈の総体が文化です。言葉の持つ文化を豊かに持っている人は、書くことも同時に豊かになります。しかし、その文脈は、ブロック単位の読み方では身につきにくいのです。
普通の作文添削では国語力はつかない
 大学入試に小論文が本格的に採用されるようになってから既に二十年以上たっています。その後、小論文試験は、高校の推薦入試に使われるようになり、中学入試にも使われるようになってきました。
 そのため、最近、作文指導を行う学習塾も増えています。作文指導は、文章を書ける人であればだれでもできるように思われがちです。しかし、それは最初の数ヶ月のうちだけです。1年近くも教えていると、やがて教えることがなくなってきます。毎回同じように、子供たちの書いた文章を読み手の感覚で評価していると、子供たちはやがてその評価に飽きてきます。子供たちは褒められればもっとがんばろうと思い、直されればもっとよくしようと思っています。しかし、いくらそう思っていても、客観的な評価と上達の方法論がなければ努力の向けようがありません。従来の作文指導で長期間にわたる指導がなかなかできなかったのはこのためです。
 作文は、国語力の頂点ではあっても、決して国語力の出発点ではありません。作文には、その子の国語力が集大成された形で表れます。だから、作文の苦手な子のほとんどは、作文自体を直すことによって作文力を向上させることはできません。読む力がないために書く力がないという子が大部分だからです。その子たちは、作文を勉強することと並行して読む力をつけていかなければなりません。しかし、そういう仕組みを知らないと、つい作文だけを直す作文指導になってしまうのです。
音読の教材は安易な題材選びが多い
 言葉の森が音読指導を始めたのは、まだ世間で音読というものが話題にされていない時期でした。最近は音読を評価する意見も出てきたので、言葉の森の音読指導もスムーズに受け入れられるようになりましたが、当初は、音読の意義がなかなか理解されませんでした。
 ところが、最近の音読指導は、あまりその意義を考えずにただ流行として行われているところが多いようです。漠然と、昔の寺子屋では音読をしていたから、今の音読も日本語の有名な文章を題材にすればよいと考えている人が多いのです。
 そのため、音読の教材の中には、「ジュゲム」や「日本国憲法」や「平家物語」などが混在しているものがあります。それらを音読することがよくないというのではありません。何のために音読をしているのか、教える側も教わる側もわからないまま音読ブームが続いているという根の浅さに問題があるのです。
 なぜ音読をするかと言えば、文章を繰り返し読むためです。黙読でも繰り返し読むことはできます。しかし、ほとんどの子供にとって同じことの反復は、きわめて退屈な勉強と感じられます。そのため、黙読で同じ文章を何度も読んでいると、いくらリズムを味わいながら読もうと思っても、読み方はすぐに表面的なものになってしまいます。
 では、なぜ繰り返し読むのかと言えば、それは文章のリズム感を身につけるためです。黙読が知的に理解する読み方だとすれば、音読は感覚的に感じる読み方です。文章のリズム感は、この感覚的な練習の繰り返しによって身につきます。
 現在、親になっている世代の人たちは、子供時代に音読をした経験がありません。そのため、音読の意義を過大評価したり過少評価したりしてしまいがちです。また、子供が音読に飽きると、自分が音読をした経験がないので、つい目先を変えて新しい教材を用意してしまうことも多いようです。しかし、音読は同じものを繰り返し読むところに意義があるのです。
 次に、何を音読するのかと言えば、現代日本語の説明的な文章であることが優先されるべきです。読む力と書く力は相互に支え合って伸びていきます。現代人が書く必要のある文章は、何かを説明する文章か、何かの意見を述べる文章です。また、古文や漢文で説明や意見を書く人はいません。文化として古典的なものに接する価値はありますが、それも現代日本語がしっかり身についてからです。何を書くのかということと照らし合わせながら何を読むのかを考えていく必要があります。
(つづく)
 
ワシントンと桜の木(むり/むり先生)
みなさん、こんにちは。
さて、桜の花は散ってしまいましたが、今月は有名なワシントンと桜の木の話についてお話ししたいと思います。

アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンが子どもの頃、どうしても斧を使ってみたくなって、お父さんの大事にしていた桜の木を切ってしまったことがあるそうです。お父さんは当然「だれだ!こんなことをしたのは!」と激怒しました。そこで、ジョージ・ワシントンは正直に「ぼくがやりました。ごめんなさい。」と告白したので、お父さんは許してくれたという話です。

このお話は、「人間、正直じゃないといけないよ。こんな正直者のジョージ・ワシントンは、みんなから信頼されて、大統領になったんだよ」という教訓をこめて、今でも多くの人に語られています。
言葉の森でも、高校生くらいになると作文の重点項目に「伝記実例」いう、有名な人の逸話を引用する項目が出てきますが、この話はそこでもよく引用されています。


でも、みなさん、この場合ほめられるべきなのは、大事な桜の木を切られても、正直に告白したからと言って、許してあげたジョージ・ワシントンのお父さんの方だと思いませんか?
だれかが大切にしている木を切ったのなら、普通はあやまりますよね。みなさんだって、お母さんが大切にしているカップを割ったりしたら、お母さんが激怒していればしているほど、すぐさまあやまりませんか?しかし、それを笑って許してくれるお母さんは少ないかもしれません。
このお父さんは、正直に告白した息子を怒らないどころかほめてやったといいます。
この心の広いお父さんがいたからこそ、ジョージ・ワシントンは大統領にまでなれたのだと私は思うのです。


ところで、先月の学級新聞で私は大きな間違いを犯してしまいました。

「菜の花や 月は東に 日は西に」

という句の作者は、松尾芭蕉ではなく、与謝蕪村です。
本当にすみません。
間違って覚えてしまった人がいたら、今すぐ訂正してくださいね。
みなさんが、ジョージ・ワシントンのお父さんのように広い心で許してくれると信じています。


さて、ジョージ・ワシントンの話に戻ります。
この桜の木の話は本当に有名なのですが、実はウソだということがわかっています。ワシントンの死後、伝記を書く人が作った話だそうです。

ちょっと安心しませんか?
なぜなら、私が大切な植木やカップを息子に壊されたら、どんなに素直にあやまっても、ガミガミ言いそうだからです。「ゲーム1ヵ月禁止!」とか言い出しそうです。
みなさんのお父さんやお母さんはどうですか?
許してくれるお父さんやお母さんなら、本当にすばらしい!みなさんはアメリカ大統領でも、国連事務総長でもなれるかもしれません。
もし、私のようにガミガミ怒るお父さんやお母さんだったとしても、ワシントンと桜の木の話はウソなんですから、みなさんは安心してアメリカの大統領や日本の首相を目指してくださいね。
そして引き続き私の俳句の作者間違いは、笑って許しておいてください。
「おれも作文やりたいなあ」(うるっち/かん先生)
 「おれも作文やりたいなあ。おれは作文やれないの?」
この春1年生になった長男が、保育園のころからよく口にしていたセリフです。私が電話指導をする様子をこっそりとドアの陰からのぞいていることがあるのですが、どうやら作文をやると楽しいお話ができると思っているらしいのです。
「まだダメ。だって書けないひらがなもあるでしょう。小学生になったらね」
いつもそう言って説得してきました。ひらがなへの興味を持ちはじめた時期も遅く、入学を迎えるころになってもまだ、五十音を満足に書けない状態での入会。私自身は正直まだまだ早いと思っていたのですが、当の本人がやる気満々なのです。せっかくやる気になっていることだし、かねてからの約束でもあったので、入学を機に入会することにしました。

 さて、書き始めてもうすぐ2ヶ月。先生と電話でお話するのはとても楽しいようです。好きなように自由に書かせていますが、内容を見るとつい、あれこれと口をはさみたくなってきます。これはみなさんのお母さま方と一緒かもしれませんね。(^。^;; 

「あ、そこ違う」
「ちっちゃなつをいれて」
のどもとまで出かかるそんな言葉の数々を無理してのみこみ、
「すごいねえ。こんなに書けたんだ! よく頑張ったねー。」
と、大袈裟なくらいに褒めてあげます。普段は怒りん坊のママが優しい言葉をかけてくれるものだから、今のところご機嫌で作文に取り組んでいます。作文は楽しそうという彼の予想はあながちはずれてもいなかったようです。ゲーム感覚で始めた長文音読も毎朝の習慣になりつつありますが、こちらも目をみはるほどの成長ぶり。一文字一文字を追うようなたどたどしい読み方が、2,3日でスラスラと読めるようになり、電話指導のある土曜日にはすっかり暗記しているほどです。子どもの力にはほんとうに驚かされます。

 言葉の森では、ほめて伸ばすというスタンスで生徒と向き合っています。間違いや欠点を修正するのではなく、良いところをほめ、やる気を育てるのです。遠回りのようで、実はこの方法がもっとも確実。実際にわが子の様子を見て改めて確信しました。楽しく前向きに取り組めば、それだけ結果もついてきます。好きこそものの上手なれとはよくいったもので、まずは好きになることが一番。けなされ、文句を言われながらでは、やる気も失せてしまい、伸びる力も育ちません。自発的に学習する習慣などなかなか身につかないでしょう。ほめることを忘れずに、単なる学力だけでなく、子どものやる気の成長を見守ってあげたいものですね。
何色が好き?(しまりす/きらら先生)

 みなさんの好きな色は何色でしょう。私はオレンジ色。身のまわりをみわたすと、意外とオレンジ色の小物が多いことに気づかされます。占いにくわしい人がいたら、オレンジの好きな人がどんな人か、ぜひ教えてください。
 一般的に、小さい子どもは明るい色が好きなようですね。赤やピンク、黄色・・・。幼稚園ぐらいの男の子がレンジャーごっこをするときには、「レッド」が大人気です。それが小学生ぐらいになると、青や水色、緑と、だんだん地味になっていって、大人になってくると黒のかっこよさがわかってきたりします。(好きな色というわけではないけれど、黒がかっこいいと思っている人は多いでしょう。)つまり、精神的に成長してくると、黒のよさに気づくということでしょうか。
 『枕草子』を書いた清少納言が、「男性でも女性でも、姿のいい人が黒ずくめの着物をきているのはなんとも言えずすてきだ」といっています。黒の似合う男(女)なんて、現代でもかっこいいですよね。こんなふうに、黒(清少納言は黒と白のコントラストもいいといっています)のよさがわかっているということは、精神的にも非常に成長しているということだ、という話を聞いたことがあります。考えてみれば、『枕草子』が書かれたのは今から千年前。その時代に「黒がかっこいい」と思っていたなんて、すごいと思いませんか。世界的に有名なイギリスの劇作家、シェークスピアだって、今から400年ほど前の人です。日本の文学も、負けてはいませんね。
 これからみなさんが中学、高校と上がっていって、古文を勉強するようになったとき、ほとんどの人が「ひゃ〜なにこれ! 何言ってるのかわけわからない・・・。」と思うでしょう。けれど、古文はれっきとした日本語。楽しんで読んでください。現代の私たちが読んでも、共感できたり、思わず笑ってしまったり、決して理解できないものではないと思います。一人でも多くの人が、古文を好きになりますように。
 
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