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  ハワイのあお先生から教室新聞
  作る学力と暗唱
  受験生は過去問に取り組もう
  「汝自身を知れ」と作文
  作文に関するいろいろな図書の紹介
 
言葉の森新聞 2009年5月2週号 通算第1078号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
ハワイのあお先生から教室新聞
 ハワイで作文教室を開いている「あお」先生から、教室新聞が届きました。
 続きのページは、ホームページでごらんください。
http://www.mori7.com/index.php?e=474
作る学力と暗唱
 解く学力と作る学力は、テストの学力と発表の学力と言い換えることもできます。また読む学力と書く学力と考えることもできます。
 これからの時代に求められるものは、読む学力ではなく、書く学力です。
 書く学力を構成する要素は三つあります。第一は、知識です。知識が書くための材料となります。第二は、思考です。材料となっている知識をただ伝えるだけでなく、その知識の組み合わせから新しいものを構想するのが思考の役割です。第三が、表現です。この表現は、単に右のものを左に移す伝達のような表現ではなく、新しいものを創造する表現です。
 新しいものを創造するために必要な知識は、単にテストのときに記憶を再現すればよいというだけの知識ではありません。考えるときに、いつでも自分の手足の一部のように使える知識となっていることが必要です。
 
 熱中して本を読むと、その本に書かれている内容や表現が、まるで自分のもののように使えるようになるということがあります。このときに、熱中して読んだ本の中で得た知識は、その本の文脈全体の中で把握されているので、自分の手足のように使えるのです。
 かつて日本では、歴史の学習は、人物の歴史を中心に学ぶようになっていました。その後、人物中心の歴史学習が科学的でないと批判され、現在の歴史学習は人物をあまり取り上げない味気ないものになっています。しかし、歴史の教科書や資料集に載っているような知識をいくら覚えても、そこから文章を書くときに使えるような生きた実例はあまり出てきません。それは、断片的に記憶する歴史の知識が、単にテストで再現するだけの知識となっていて、生きた知識になっていないからです。
 年をとった人の言葉は、何でもないように思えることの中にも深みを感じることがあります。同じことを若い人が言うよりも年とった人が言う方が説得力があるのは、老人の知識が、自分の生きた知識となって語られているからです。
 では、生きた知識とそうでない知識の違いはどこにあるのでしょうか。

 生きた知識とそうでない知識を比較するために、生きた現実と死んだ観念の違いについて考えてみます。
 実物のオレンジは、置いておけば、食べられる、腐る、芽を出すなどいろな可能性に取り囲まれています。しかし、絵にかいた餅は、いつまで置いておいても餅のままです。
 これと同様に、生きた知識は現実の中に位置づけられた知識で、死んだ知識は知識の一面を観念的に抽出したものということができます。例えば、生きた知識は人物の歴史の中で知る歴史上の知識で、死んだ知識は歴史の用語集などで知る知識です。
 この現実の中に位置づけられる生きた知識を身につける方法は、熱中や感動の中で知識を得ること、時間をかけて知識を得ること、文脈の中で知識を得ること、反復の中で知識を得ることなどです。感動して身につけたことは、いつでも自分自身の体の一部のように思い出すことができます。老人が長い人生の中で身につけた知識は、短い言葉でも多くの人を説得する力を持ちます。同様に、ストーリーの中で身につけた知識や、反復の中で身につけた知識は、いつでも使える知識になります。
 ここで話が少し複雑になりますが、知識の現実度が高まるにつれて、その知識は多くの可能性を持つようになります。それは、現実のオレンジが絵にかいた餅よりも、多くの可能性を持つことと同じです。この知識の持つ可能性が、思考の材料として使えるということです。いわば、知識が可能性という何本もの手足を持った状態で保存されているので、そこから多様な組み合わせができるようになるのです。可能性という手足の少ない死んだ知識は、「日本でいちばん長い川は」「はい、信濃川です」というような、単なる記憶の再現として使える一本の手足しか持っていない知識です。このような知識をいくらたくさん持っていても、これらの知識を組合わせて創造的に考えることはできません。死んだ知識は、組み合わせる可能性の手足の少ない知識だからです。
 ここで、暗唱ということを考えてみると、暗唱という勉強は、物事を文脈と反復によって生きた知識として身につける方法ではないかというのが私の考えです。
 言葉の森の作文の勉強の項目の中に、「長文実例」というものがあります。これは、生徒がこれまでに読んだ長文の中から、自分の意見を補強するのに使えるような実例を思い出して書くという練習です。長文暗唱が自習として定着していけば、この長文実例は、データ実例や昔話実例や伝記実例などと同じように、作文をより豊かにする材料として使えるようになると思います。

 暗唱には、知識を文脈と反復を通して生きた知識として身につけるという効用があります。
 そしてまた、暗唱には、記憶の容量を高めるというもう一つの効用があるようです。
 塙保己一は、十代後半のときに、般若心経約300文字を毎日100回、1000日間暗唱するという修行を自分に課しました。300字を1回読むのに1分かかるとすると、100回の暗唱には約100分かかります。この毎日100分の暗唱を約3年間毎日続けたのです。
 塙保己一は、群書類従という書物をまとめましたが、これは、保己一の膨大な記憶力がなければできなかったことでしょう。保己一の頭の中には、それまでに読んだ書物がほとんどすべて、すぐにアクセスしたり検索したりできる情報として整理されていたのです。
 なぜ、そういうことができるようになったかを考えてみると、保己一にとっては、記憶の容量そのものが大きくなったからではないかと思います。
 通常、人が無意味な文字列として一度に覚えられる言葉は7文字ぐらいだと言われています。これが短期記憶です。ところが、これが無意味な文字列ではなく文章のような意味ある文字列になると、文字列自体ががひとつのまとまりになります。
 例えば、ひふみ47文字を初めて読む人は、その文字列をたぶん一度では覚えられません。「ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか うおえにさりへて のますあせゑほれけ」。並べられた文字列の意味がわからないからです。ところが、意味のある文字列が50文字程度であれば、一度で覚えることができます。例えば、「真ッ白い嘆かひのうちに、海を見たり。鴎を見たり。高きより、風のただ中に、思ひ出の破片の翻転するをみたり」(中原中也詩集より)。説明するまでもありませんが、「真ッ白い」「嘆かひのうちに」「海を見たり」などがそれぞれひとまとまりの言葉となっているので、そのまとまりを基準に考えると50文字程度の文字列が7まとまり程度の文字列に還元されるからです。
 ここまではだれでも考えつくことですが、実は、300文字ぐらいの文章も、見方を大きくすれば、50文字程度の文章のまとまりが7つぐらいあると考えることもできるのです。長文暗唱で300字の暗唱をするときは、たぶん頭の中で、50字程度の文をひとまとまりとするような仕組みが働いているのだと思います。
 そして、塙保己一は、この300文字の暗唱を毎日100分、1000日間続けることによって、いつでも50文字程度の文をひとまとまりの単語のように読み取る力がついたのではないかというのが私の考えた仮説です。同様の学習法、すなわち長い文章を何度も音読することによって理解する方法は、シュリーマンや本多静六も実行しています。
 暗唱には、このように、生きた知識を身につける効果とともに、記憶力そのものを高める効果もあるのではないかと思います。
受験生は過去問に取り組もう
 高校生と大学受験生の連休中の勉強について説明します。
 高校1年生、高校2年生は、まだ受験という差し迫った目標がないので、ある程度時間的な余裕があります。この時期に、空いている時間をどのように有効に使うかというと、一つは読書です。勉強や受験には関係ないように見える読書にたっぷり時間を割いておくとあとで必ずよかったと思うときが来ます。もう一つは、英単語です。高1や高2の時間のあるときには、あまり考えずに進められる勉強として英単語の暗記をしておくと、高校3年生なって受験勉強に突入したときに勉強がはかどります。いちいち辞書を引かずに英語の勉強を進められるからです。第3は、苦手科目に集中することです。夏休みの1ヶ月間苦手科目に取り組めば、ほぼ必ずその科目は得意科目になります。
 高校3年生の受験生にとって大事なことは、三つあります。
 第一は、赤本や青本などで志望校の過去問を必ずやってみることです。もちろん、志望校の過去問を解く実力はまだありません。教科によっては全然できないものもあります。しかし、答えを書き込みながらでもその過去問をやっておくと、問題の傾向や性格が必ず分かってきます。問題の傾向や性格が分かってから進める勉強は、一般的な勉強よりもはるかに能率がよくなります。普通の高校生は、ただ漠然と勉強して最後の仕上げとして過去問をやるというような発想で勉強しやすいのですが、これ全く逆です。できなくてもいいから、まず過去問をやって、その過去問の傾向に合わせた勉強をしていくというふうに考えるのです。しかし、実際には高3の初めの時期に過去問に取り組むような自覚的な高校生はほとんどいません。したがって、ある程度強制的に家庭で過去問に取り組む時間を確保しておく必要があると思います。予備校などで、なぜ過去問を早めにやらせないというと、生徒が過去問をやって個別の学校や個別の自分の実力について相談されても一斉指導のスタイルでは対応しきれないからです。
 第二は、ほかの人の合格体験記を読んでおくことです。特にその学校が自分の志望校と同じであれば、参考書や問題集や勉強の仕方で参考になる例が多数載っています。情報時代には、そういう先人の知恵を生かしておくことが大切です。
 第三は、その合格体験などの記事を元にして、自分なりによいと思われる参考書や問題集をまとめ買いすることです。今はインターネット書店があるので、必要な本が時間をかけずに手に入るようになっています。そこで、自分でいいと思った参考書や問題集を一つの教科について複数買っていきます。そして、その教材が届いたら試しに数ページやってみて、自分にとっていちばん相性がいいものをメインの教材と決めます。メインの教材はこれから1年間つきあうのですから、手触りやレイアウトの好みなど感覚的なものが意外と重要です。そして、その参考書や問題集を、わからないところがなくなるまで5回ぐらい繰り返し読むような予定で勉強を進めていきます。数冊を80パーセント仕上げるのではなく、1冊を120パーセント仕上げるというのが勉強の鉄則です。
 これからの1年間は、過去問をときどき解き直し、過去問で勉強の軌道修正をしながら勉強を進めていってください。
「汝自身を知れ」と作文
 「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は有名ですが、この意味を深く理解している人は少ないと思います。私は、この言葉を、すべては自分の中に答えがあるということとして考えています。
 例えば、「読書百遍意自ずから通ず」という言葉があります。つまり、何度も繰り返して読んでいけば自ずからわかるということです。この自ずからわかるような能力が、人間の中にはもともと備わっているのだと思います。
 沖縄の方の水泳の教え方で、子供を船から海に落としておぼれそうになったら引き上げるというやり方があるそうです。ちょっとかわいそうですが(笑)。何度もおぼれそうになっては引き上げられているうちに、自然に泳ぎ方を覚えてしまうというのです。これも、人間にはもともと泳ぐ能力があり、それを思い出せば自然に泳げるようになるということです。
 尿療法という健康法があります。自分の尿に含まれている自分自身の情報を知ることによって、病気などが自然に治癒の方向に向かうというのです。これも人間の体の中にある自然治癒力が、自分自身を知ることによって最適の状態で活性化するということなのではないかと思います。
 Oリングテストという方法も、人間の筋肉の中に自ずから自分にとってよいものを感知する力があるということを示していると思います。
 もっと身近な例でいうと、私たちはオレンジを見れば自然に唾液が出ます。これは、努力をして身につけた能力ではなく、もともとあらかじめ自分の体の中に、オレンジという状況に対応する能力として備わっているものです。
 実際に遺伝子工学のレベルでも、同様のことが証明されています。病気などになったときに、どのようにして身体がその病気に対応するかというと、その病気を治すことに対応したDNAの情報が読み取られて必要な酵素などが合成されるのだそうです。つまり、新しく何かを作るのではなく、すでに自分の中にある情報をただ読み出すだけというやり方で、生物は外界の変化に対応しているのです。これは、身体の外から薬を与えたり手術をしたりするような方法とは180度違う発想で、もともと人間に備わっている自然治癒力を活性化するという考え方です。
 話は少し脱線しますが、声にはその人のそのときの感情が載っているそうです。これを利用して、声で感情を読み取るソフトが開発されました。ということは逆にいうと自分の声をずっと聴いていると、そのときの自分の感情が把握されて、その感情を最もよい状態に修正するような力が人間の中にあるのではないかとも思えてきます。念仏を唱えるなどということの中には(私はやりませんが)、実はこういう効果もあるのではないかと思います。しかしこれは単なる仮説です。

 「汝自身を知れ」は、作文の勉強についてもあてはまります。
 人間の考えは、頭の中で考えているだけではまだ不完全です。現実に文章にしたり音声にしたりすることによって、初めて現実的なものとなります。この文章化されて表に出てきたものが自分自身の一つの面です。自分の書いた文章によって、自分自身を再確認するというところに文章を書く意義があります。
 しかし、自分自身を再確認するというのは、単なる出発点です。この出発点を土台にして、新たな創造が始まるというのがいちばん大事なのです。
 これは、作文を書く前の構成図について、よりはっきりした形で言えます。構成図を書くというのは、自分の頭の中にある考えを全部出していく作業です。テーマに関連して思いついたことを次々と書いていくと、自分自身の考えが客観的にわかってきます。そして、その考えた結果としての構成図を見ていると、自然にそこから新しい考えが湧き出てきます。
 人から教えてもらった考えではなく、自分の中から湧き出てきた考えは、その真実性に確信が持てます。だから、文章を書く練習をしていると(それは日記のようなものでも言えると思いますが)、その人の考えはどんどん個性的になっていくのです。
 さて、さらに話を広げて「汝自身を知る」ということで、歴史の勉強を考えてみます。
 学校で学ぶ歴史は、世界史の勉強と日本史の勉強に分かれています。昔、私が高校生のころは、社会全体にインターナショナルな雰囲気が強く、西暦と元号を比較すると西暦の方が先進的で元号は古臭いという感覚を多くの人が持っていました。その結果、私は、受験の科目として自然に日本史ではなく世界史を選びました。たぶん、多くの人がそういう感覚を持っていたと思います。
 しかし、現在はむしろ、ローカルのよさを見直そうという時代です。西暦と元号で言えば、日本にしかない元号を大事にしようという考え方です。世界史と日本史で言えば、日本人はまず足元の日本史を学ぶべきだという考えです。
 「葉隠」という本の中に、次のような文章があります。「世界にはいろいろ歴史の本があるが、この藩の人は、この藩の歴史だけを知っていれば何も困ることはない」(意訳)。これは、ある意味で物事の本質をついています。
 世界史と日本史で言えば、日本人はまず日本の歴史をしっかり学んでいれば、それを世界の歴史にも当てはめて考えることができるということです。また、日本人の多くは、これから日本の社会で活躍するはずですから、その足場となる日本の歴史を学んでいくことが役に立つということです。
 日本史の勉強には、もう一つ大きな役割があります。それは、日本史を学んでいると、日本人のほとんどが、古事記や日本書紀の世界にまでつながる家の歴史を持っていることがわかるということです。小学生のころ、苗字によって源氏か平家かを分ける遊びが流行ったことがあります。乱暴な分け方にも見えますが、これも根拠がないわけではありません。
 世界中の民族で、この日本人のように先祖のルーツをたどれる長期の平和な歴史を持っている民族はほとんどありません。日本史を学ぶということは、単に歴史の知識を学ぶことだけではなく、日本人としての自分自身を知るということにつながります。
 そして、自分自身を正確に知れば、人間には自ずからそのよいところを伸ばし悪いところを直すという自然の力が働き出します。外国のよいところを学んで、それを外科手術や投薬治療のように外から日本の社会に当てはめようとするのではなく、日本の歴史の中から湧き上がるものによって自然によい方向に向かうという発想がこれからもっと必要になってくると思います。
作文に関するいろいろな図書の紹介
 以前、作文に関する図書を紹介したことがあります。(2008年12月28日のHPの記事)
 今回は、下記の図書について、その内容を紹介しています(紹介は順不同)。くわしくは、HPをごらんください。 http://www.mori7.com/index.php?e=470
「最強作文術」(直井明子著)
「親子で遊びながら作文力がつく本」(松永暢史著)
「ちびまる子ちゃんの作文教室」(貝田桃子著)
「樋口裕一のカンペキ作文塾」(樋口裕一著)
「松永式作文練習ノート」(松永暢史著)
「書く力をつける」(樋口裕一著)
「宮川式10分作文プリント」(宮川俊彦著)
「小学校の作文を26のスキルで完全克服」(向山洋一編・師尾喜代子著)
「陰山式脳トレ聴写」(陰山英男著)
「あなうめ作文」(陰山英男著)
「百ます書き取り」(陰山英男著)
「マインドマップが本当に使いこなせる本」(アスキー)
 
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