言葉の森新聞
2010年1月3週号 通算第1111号
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森新聞 |
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■中2の暗唱用長文に漏れ |
今学期の暗唱用長文は、課題フォルダの最後の方に3ページ分入れてあります。 しかし、中2の生徒の課題フォルダに、暗唱用長文の入っていないものがあったようです。 中2の生徒の方には、1.3週の「山のたより」に暗唱用長文をつけていますので、それを利用してくださるようお願いします。<(_ _)> |
■3.4週の読解問題は課題フォルダに入っていません |
今学期の課題フォルダには、3.4週の読解問題が入っていません。 これは、3.4週に別の企画を行う予定を考えていたためです。 3.4週の読解問題は、3.4週までに別途お送りする予定です。 |
■「わんぱく宣言2010!」の作文コンテスト |
下記の内容で、3月15日締切の作文コンテストがあります。 今回のテーマは、「もしも…」という書きやすいもので、字数は1000字以内です。 対象は小中学生(2010年4月時点)で、応募者全員に参加賞が出ます。 1.4週、2.4週の清書は、この作文コンテスト応募の作文を書いていくこともできます。 その場で直接書いてもいいですし、これまでに書いた自分の作文の中から、「もしも…」というテーマに結びつけられそうな話を書き直してもいいと思います。 ・応募資格……小中学生(4月時点で) ・入選発表……4月上旬 ・決勝大会……東京・大手町(交通費宿泊費主催者負担) ・各賞 わんぱく大賞 1名。図書カード10万円分 優秀賞 3名。図書カード 5万円分 ベストスピーチ賞 1名。図書カード 3万円分 タウンページ賞 1名。図書カード 3万円分 奨励賞 9名。図書カード 5千円分と記念品 参加賞 応募者全員。 ・ホームページ http://event.1242.com/event/wanpaku/ |
■作文小論文入試のコツその2(昨年の記事の再掲) |
作文のコツの第三は、難語を自然に書くことです。 「でも、公園にゴミ箱があると、ゴミを減らすという気持ちがなくなる」という文と、「しかし、公園にゴミ箱が設置してあると、ゴミを減らすという自覚が生まれにくくなる」という文では、どちらが知的に感じるかというと、やはり「設置」や「自覚」などの難しい言葉を使ってある文の方です。中学生で、これらの言葉を読めない人はまずいません。しかし、文章の中に自然に使える人は少ないのです。なぜ読めるのに使えないかというと、こういう言葉の入った文章を読む量が不足しているからです。 文章に使う言葉には、自分がふだん読んでいる文章の質が自ずから出てきます。中学生や高校生の文章で、話し言葉とあまり変わらない文章を書いている場合は、その人がふだんあまり本を読んでいないことを示しています。 未消化の難語を使うのはかえってマイナスですが、少し背伸びをした文章語を使うのは、いい文章を書くためのコツです。 第四は、光る表現を入れることです。 文章の結びの5行は、文章全体の印象を左右する部分です。ここに光る表現があると、全体の印象がよくなります。書くことが好きな生徒は、自然にこういうことを知っているのでしょう。結びに一工夫してまとめてある文章をときどき見ますが、例外なく上手な文章です。 |
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光る表現となる要素は二つあります。一つは、「○○はAでなくBである」のような形で、逆説的な真理を述べていることです。もう一つは、結びの意見を書き出しのキーワードと結びつけてまとめていることです。いずれも、考える力がないとなかなか書けません。 第五は、感動のある体験実例を書くことです。 意見は、だれが書いてもほとんど差がありません。人間が考えることにそれほど大きな差はないからです。差があるのは、前に書いた表現の部分とこの実例の部分です。 体験実例に、「友達がこんなことをした」と他人の体験を書いても、印象は強くなりません。また、自分の体験であっても、平凡な体験では印象に残る実例にはなりません。自分の体験であって、しかも、挑戦、感動、個性、共感などの感じられる実例がよい実例です。 文章を読むのは人間ですから、体験実例の印象がよければ、それによって文章全体の印象が上がるのです。例えば、「私は、三年間ひとりで公園のゴミ拾いをしていたが」などという体験がさらりと書いてあれば、読み手はそれだけで文章以前に書いている人間に好印象を持つのです。 しかし、もちろんウソを書いてはいけません。本当のことを書くというのは、文章を書く上での当然の前提だからです。たまに、文章指導と称して、うまく見せるためにウソでも何でも書けという人もいるようですが、こういう発想をすると、目に見える小さな利益のために、目に見えない大きな利益を失うことになります。 いい文章を書くためには、日常生活で挑戦や感動や個性や共感のあるいい行動をすることです。 (つづく) 次回の予定は、第六に知性を感じさせる社会実例を書くこと、第七に構成がわかるように書くこと、です。 |
■開成中、東大の国語力は作文力 |
学校での作文の勉強は、小学校低学年のころは盛んですが、学年が上がり中学生や高校生になると次第に少なくなり、やがてほとんど作文指導のようなものはなくなっていきます。 これは、作文の指導がきわめて負担の大きいもので、現在の教育体制では中高生が学校で日常的に作文の勉強をすることはほぼ不可能だからです。 しかし、作文力こそ真の実力で、中学高校生の作文指導はもっと充実させる必要があると考えている人はかなりいます。 大学入試でも、採点する期間に比較的余裕がある国立大学では記述式の問題が多く、東大をはじめとする多くの国立大学の国語の試験は作文力の試験と言ってもいいものです。 東大の合格率が高いことで知られる開成中の国語の入試問題も、ほとんどが記述式の問題で、その内容も文章中から抜き書きするようなものではなく、自分なりに考えたことを書くという高度なものとなっています。 知識の勉強は、時間をかければだれでもある程度のところまでは成績を上げることができます。また、数ヶ月の集中学習で一挙に成績を上げるということもできます。現に、上手な家庭教師につくと短期間の集中的な取り組みで英語や数学の成績は大きく上がります。 しかし、作文力については短期間で成績を上げることはまずできません。それは、作文力がさまざまな学力の集大成のような面を持っているからです。 しかし、このことは逆に言えば、作文力があれば、ほかの教科の勉強はいつからでも取り組めるということです。国語や作文の得意な生徒は、受験期間中でも国語や作文の勉強をわざわざする必要がありません。いったん実力がつけば、国語力や作文力はほとんど下がることがないからです。 |
■国語力、作文力のある子を育てるには |
数学や英語は、勉強をしなければ成績の上がらない教科です。聖徳太子や空海がタイムマシンで現代に急に現れて、中学の数学や英語のテストを受けたとしたらまず0点です。勉強をすればできるが、勉強をしなければできないというのが普通の教科の特徴です。 しかし、国語はそうではありません。全然勉強をしない人でも、国語ではある程度の点数を取ることができます。 ここで、多くの人は、だから国語はそっちに置いておいて、まず英語や数学などの差のつく勉強に取り組もうと思うのです。しかし、英語や数学における0点と100点の差よりも大きいのが、国語における80点と100点の差です。国語力の差は小さいように見えても、ほとんど埋まらない差なのです。 そのような国語力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。 まず、国語を勉強だと考えずに、生活だと考えることが必要です。 国語力のある子の生活の特徴は、読書と対話があることです。 読書のある生活をするために第一に大事なことは、読書を妨げる要因となるテレビやゲームの時間をコントロールすることです。これは簡単なように見えますが、実はかなり難しいことです。なぜかというと、子供の生活時間をコントロールするためには、かならず親の生活習慣の改善が必要になるからです。 生活習慣の改善は、子供の学年の自乗に比例して難しくなります。だから大事なことは、小学校低学年のうちに、テレビとゲームについてのルールを決めておくことです。テレビを見させない、ゲームをやらせないというのはコントロールではなく単なる禁止です。禁止したものは、学年が上がると逆にコントロールできなくなります。 テレビやゲームが生まれたときからあるという状態は、人類が経験してまだ日の浅いものなので、コントロールする文化がまだ成立していません。だから、個々の家庭で工夫して行く必要があるのです。 対話のある生活をするために大事なことは、親が対話好きになることです。対話といっても子供が小中学生のうちは、親子の対話というよりも、親どうしの対話が中心になります。そのときの話題が、子供の関心のあるものであればなおいいと思います。 理想的な対話の習慣は次のようなものです。 まず、子供が千字程度の文章(以下、長文と呼ぶ)を音読したり暗唱したりします。夕食などで家族がそろったら、子供が家族みんなの前で音読や暗唱をします。そのときは周囲の温かい目が必要ですから、お父さんは必ず「おお、難しい文章をよく読んでいるね」などと言わなければなりません。間違っても、「もっとこういうふうに読んだらいい」などという勉強的なアドバイスはしないことです。 子供が長文を読んだあと、その長文の内容が自然に話題になって食事が盛り上がります。その際、お父さんとお母さんが、自分はこう思うとか、昔はこうだったということを自分の言葉で話します。ときどき子供が話に参加しますが、基本になるのは親どうしの対話です。つまり、親が話を楽しんでいるのを子供が聞いているという形の対話なのです。 家庭によっては、親どうしの対話が難しいという環境もあると思います。その場合は、親がひとりで子供にいろいろな話を聞かせてあげるという形になります。小学校の低中学年のころは、子供は喜んで親の話を聞きます。この時期に対話の習慣を作っておけば、子供が高学年になっても同じように対話のある習慣を維持していくことができます。 食事のときの対話をするための一つの前提条件は、食事中はテレビを消しておくということです。これも、子供が小学校低中学年のうちは簡単にできますが、学年が上がるほどいったんできた生活習慣を変えることは難しくなります。 では、そういう読書や対話の習慣がないままに成長してしまった子供の国語力をつけるためにはどうしたらいいのでしょうか。 実は、国語力をつけるためのより即効的な勉強法もあります。それは、国語力として要求される国語の問題に出てくるような文章を徹底して読みなれることです。もう一つは、国語の記述式の問題の解答として要求される文章を丸ごと暗唱してしまうことです。 しかし、このような勉強法は、あくまでもその場しのぎのものです。これで国語の成績が上がって合格できたとしても、その国語力は内容の伴っていないものなのであとが続きません。やはり、読書と対話によって中身のある国語力をつけていくことがいちばん大事なのです。 国語力は、国語の成績としても表れますが、もっとはっきりとした形で作文力として表れます。作文を見ると、その子の実力がわかるというのはそのためなのです。 |
■暗唱の目的は記憶ではなく反復 |
暗唱の自習や音読の自習は、親がかつて子供時代にしたことのないものです。これが、九九などの学習との違いです。このため、子供の実態に合わないやり方をしてしまいがちです。 特に暗唱は、その暗唱という言葉から、覚えることが目的だと思われがちです。覚えることが目的で、その方法として反復があると考えてしまうのです。すると、反復という方法は、手段であって、何しろ覚えればいいということになります。そして、理屈で覚えようとしてなかなか覚えられないから挫折するというのが、中学生高校生や大人に多いパターンです。 また、小学校の低中学年に多いパターンとして、やさしい文章で短ければ数回で覚えられるので、それで覚えて終わりとしてしまうことです。このような音読の仕方では、暗唱した文章はすぐに忘れてしまい身につきません。また、逆に難しい文章になると、これまでと同じように簡単にはできないので、読むことが嫌になってしまうということが起こります。 暗唱の意義は、四つ考えられます。 第一は、記憶力を高める面があることです。暗唱していると、長く難しい内容でも自分には覚えられるという自信がつきます。これが、その後の勉強にとって大きなプラスになります。しかし、これは暗唱の二義的な意義です。 第二の最も大事な意義は、理解力を高めることです。比喩的にいうと、これまで、スモールステップの学習で、小骨を抜いて、火にかけて、やわらかくして、味つけをしたものを少しずつしか食べられなかった子供が、骨ごと丸ごとバリバリと食べる咀嚼力を身につけるというような理解力がついてくるのです。これが、英語、数学、国語などすべての教科の学習に通じていきます。 第三に派生的な効果として、理解のための語彙が、暗唱の反復によって表現のための語彙に進化するということがあります。読んで理解はできるが、自分では到底書くことも思いつかないというような言葉が、自分の表現として自然に使えるようになるのです。 第四にもう一つの派生的な効果として、発想力が豊かになるということが挙げられます。暗唱がスムーズにできるようになると、左脳で理解して音読していた言葉が、右脳に蓄積されたイメージから引き出されるようになります。このような暗唱をしていると、左脳では限定されていた単独の言葉が、右脳ではいろいろな異なるイメージに干渉されて豊かになってくるのです。ちょうど夢を見ているときのような自由奔放なイメージが言葉と一緒に出てきます。これが発想力です。 これらの意義を実現するために大事なことは、暗唱を、記憶することを目的とするのではなく反復することを目的として取り組むことです。その反復の回数の目安は、経験的に言うと100回です。しかし、100回同じ文章を音読するということは、現代ではなかなかできません。 言葉の森の暗唱の方法は、毎日10分間やっていくと、30回を1日、10回を4日、4回を7日から10日読むことになるので、結局900字のどの文章も100回ぐらい読むことになります。 最初から900字の文章を単純に100回読むということももちろんできなくはありませんが、それでは、子供にとってはかなり苦しい勉強になってしまいます。毎日10分間の勉強で1ヶ月で900字が暗唱できるという方法でやっていくことで、無理なく反復の学習ができるのです。 |
■褒める教育というよりも認める教育 |
天外伺朗(てんげしろう)さんの「GNH」という本を読みました。GNHとはグロス ナショナル ハッピネス(国民総幸福度)のことです。その中に、外発的動機ではなく内発的動機で学ぶ(又は遊ぶ)ことの大切さが書かれていました。 外発的動機の中には、競争したり強制したりすること以外に「褒める」ことも含まれます。褒めて、親や先生の求める方向に誘導するというのも、子供にとっては外発的動機で学ぶことなのです。 言葉の森では、生徒を「褒める」ことの大切さを述べています。この「褒める」は、天外さんの本に書いてある「褒める」と言葉は同じですが、中身がちょっと違います。 よく、生徒のお母さんに、「もっと『褒めて』(A)あげてください」と言うと、「でも、『褒める』(B)ところがないときはどうするんですか」と聞かれることがあります。 Aの「褒める」は、「認めてあげる」という意味の「褒める」です。Bの「褒める」は、いいことをした報酬としての「褒める」です。 よくできたから褒めるのであればだれでもやっています。しかし、その裏側には、あまりできないから叱るという発想があります。できているから褒めるのではなく、できていなくても褒める、つまりその子がそこにいることをそのままでいいと認めてあげることが本当の「褒める」なのです。 人間は、自分についてはどんなことをしていても、その自分を認めています。しかし、他人に対しては「○○してほしい」と要求し、その要求が満たされないと認めてあげることができないというところがあります。そうではなく、他人に対しても、自分を認めているのと同じように認めてあげることが褒めることなのです。 生徒の作文に関して言うと、先生の言ったことができていればもちろん褒めます。しかし、全然できていなくても褒めます。 書いている途中に近くを通りかかり、「おっ、もうそんなに書いたんだ」というのも褒め言葉です。それがただ2、3行書いている場合でもそうです。 「今日は元気そうだね」というのも褒め言葉です。 「字をていねいに書いているね」でも「おもしろそうな題名だね」でも、何でもいいのです。しかし、それは、字がていねいでなければ注意するとか、つまらない題名なら注意するとかいうことの反対にある褒め言葉ではありません。「君がそこにそうしていること自体が、先生は(又はお母さんは)すごくうれしいよ」というメッセージとしての褒め言葉なのです。 では、そういう褒め言葉だけで、みんな上達するのでしょうか。 そのとおりです。で終わってしまってもいいのですが(笑)、それではものたりないので、もう少し付け加えると、褒めることと並行してやっていくことは、力をつける工夫をすることです。言葉の森の作文指導の場合、それは読書や暗唱の自習です。褒めることと自習をさせることの両方を並行してやっていけば、勉強の仕方としては完璧です。 人間には、もともとよくなりたいという内的な動機があります。その内的な動機を発揮させるためには、その子をそのまま認めてあげて、更に実行しやすい方法を教えてあげればいいということなのです。 では、自習をさせるということは強制にはならないのか、というややこしい話が出てくる可能性があるので、そのことに関して説明すると、一つは、躾に関しては強制でも強要でも何でもありなのです。朝起きたらあいさつするとか、ご飯を食べるときはテレビは見ないとか、それぞれの家庭で決めたルールは強制しても守らせなければなりません。しかし、それは決めたルールを守るということですから、家庭によっては食事はテレビを見ながら楽しく食べるというルールにしているところもあるかもしれません。その場合は、それでいいのです。大事なことは、人間的な生活をするために決めたことは厳しく守らせるということです。「躾は厳しく、勉強(の結果としての成績について)は甘く」というのが、家庭教育で最も大切な原則です。 もう一つは、子供の様子を親が自分の目でよく見ていれば、何が必要で何が必要でないかは自ずからわかるということです。そうすれば、それが必要な強制か不要な強制かも自然にわかってきます。 ときどき、保護者の方からの相談で、「学校の先生にこう言われたのですが」「テストの成績がこうだったのですが」「作文の項目ができないのですが」「宿題が多くて大変なのですが」などと聞かれることがあります。先生もテストも宿題も勉強の目標も、すべて子供の外側にあるものです。そういう外側の枠だけを見て、肝心の子供自身を見ずにその外側の枠に子供をあてはめようとしている人が多いのです。 親が子供をよく見ていれば、「先生にどう言われても、成績がどうでも、宿題なんてできなくて、あなたは今のままで大丈夫」と自信をもって言えるようになります。また逆に、「だれからもどこからも言われないけど、このことに関してはあなたは絶対にこうしなきゃだめ」ということも自信をもって言えるようになります。その自信は、その子をよく見ることから始まるのです。 |