言葉の森新聞
2010年9月3週号 通算第1143号
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森新聞 |
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■9月20日(月)・23日(木)は休み宿題(再掲) |
9月20日(月)・23日(木)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987) 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php |
■新学期の教材を発送します |
新学期の教材を9月16日(木)〜21日(火)に発送する予定です。 国内の生徒で27日になっても届かない場合はご連絡ください。 ★項目・住所シールは10月1週の山のたよりと一緒に送ります。 ★9月末に発送予定です。 |
■言葉の森のビジョン |
言葉の森の今後のビジョンを絵で説明します。 現代の日本の問題は、二つの面から考えることができます。 ひとつは、社会的な面です。日本は、戦後、アメリカからずっとマネーの面でコントロールされてきました。しかし、今、アメリカの力が後退する中で、中国からの圧力が強まっています。中国の圧力の源泉は人口です。 日本は、アメリカと中国のはざまで自立をしなければならないという状況に置かれています。 日本は、国土の面積は世界第60位ですが、排他的経済水域も含めた領海の面積になると世界第6位になります。そして、日本の近海には多くの貴重な鉱物資源が眠っています。 弱肉強食の国際社会の中で、核を持つ大国にはさまれて、軍備を持たないお人よしの日本が、豊かな土地で平和に暮らしている、というのが日本の置かれている状況です。 この中で、日本の自立をどう守っていくのかというのがひとつの問題です。 もうひとつは、歴史的な面です。現代の社会は大きな曲がり角に来ています。主な行き詰まりは経済の面に現れていますが、その根底にあるのは、もっと大きな文化的な変化です。 しかし、その曲がり角の先にある新しい時代の展望がまだはっきりとは見えていないというのがもうひとつの問題です。 |
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まず、社会的な面から考えると、国際社会の中で日本の自立を守るということが大きな課題になります。 日本は、隣国中国から人口の大きな圧力を受けています。また、日本自身がこれから国際社会で生きていくときに、ある程度の移民を好むと好まざるにかかわらず受け入れざるをえません。 しかし、移民が日本の社会に同化せずに、移民独自の社会を日本の中で作るという方向に進むなら、その移民政策は日本の社会の安定と調和にとって大きな脅威となるでしょう。 移民は受け入れるが、その移民を強力に同化するだけの経済的な豊かさと文化的な豊かさを持つことがこれからの日本に求められています。 その要になるのは、日本語教育です。 今、世界の共通語は英語です。それは、英語が国際的なコミュニケーションのツールとして、ほかのどの言語よりも大きな欠点が少なかったという消去法的な選択によるものです。 しかし、いったん成立した世界共通語としての英語の役割は、今後も永続するでしょう。 ところが、人類の歴史はツールの改良の歴史です。英語がコミュニケーションのツールであるかぎり、その役割は、時間はかかっても必ず機械が代替していくものになります。 |
英語がツールとしての言語であるのに対して、日本語は文化としての言語になる可能性を秘めています。 将来の世界の人々は、自国語と日本語を子供時代からの教育でバイリンガルとして学ぶようになるかもしれません。 それは、日本語には、母語として学ぶ大きなメリットが3つあるからです。 日本語の第一の特徴は、視覚的言語という点にあります。 日本語は、漢字かな混じり文なので、見た感じで全体の印象をつかむことができます。そして、この見た感じが、文章の内容を理解するのを助けます。 他の言語でも、書かれたものは視覚的に読まれますが、基本は音声を通して理解することに向いている言語です。日本語は聞いて理解するよりも、読んで理解することに向いている言語です。 そして、この読んで理解しやすいという性質が、今後のインターネットの文字情報の世界では大きな利点となるのです。 日本語の第二の特徴は、母音言語だという点にあります。 英語や中国語など日本語以外の他の言語は、左脳で子音を処理し、右脳で母音、自然音、楽器音、雑音などを処理します。しかし、日本語は、左脳で子音、母音、自然音を処理し、右脳で楽器音、雑音を処理します。 この結果、日本語では擬声語や擬態語が発達し、雨がザーザー降る、川がさらさらと流れる、星がきらきら光る、スズメがチュンチュン鳴く、などという表現が多用されるようになりました。 これらの擬音語を使うとき、日本人は無意識のうちに、雨の音や川の様子や星の光やスズメの声を擬人化しています。つまり、雨や川や星やスズメの語る言葉としてこれらの擬音語を使っているのです。それは、自然の音が左脳の言語脳で処理されることから生じる自然な結果です。 このため、日本人は、自然の事物や動植物に対して、人間に対するのと同じような一体感をごく普通に持つようになり、それが日本独特のアニミズム、八百万の神という発想、異なるものの共存を受け入れる調和の精神を生み出しました。 そして、今日の世界が必要としているのは、まさしくこういう調和と共存の見方です。それを理性の力で実現させようとするのではなく、言葉を使う中で自然に育てることができるという点で日本語は大きな利点を持っています。 |
日本語の第三の特徴は、膠着言語というところにあります。 他の言語が、主に語順によるか、言葉自体の活用によって、単語どうしの関係を表すのに対して、日本語は名詞のあとにつく助詞や、動詞のあとにつく助動詞によって単語の関係を表します。 いわば、助詞や助動詞という変化しやすい水の上に、名詞や動詞という形の決まった葉っぱが浮かんでいるという状態です。 この単語どうしの関係を容易に変化させることのできる性質が、日本語の持つ創造性を生み出しているのではないかと思います。 これら三つの特徴のほかに、日本語には、最後まで聞き取らないと意味が通じないという特徴もあります。これは、見方を変えれば、微妙な差異に注意を払わないと肝心なことが伝わらないという微妙さに対する感受性を生み出していると考えられます。 余談ですが、このために、日本語は難しい話を耳からだけ聴いていると眠くなるという性質があるのだと思います。(これは半分冗談です) また、他の言語に比べて音素数の少ない日本語には同音異義語が多く、単語をその前後の文脈から理解する必要がしばしばあります。日本人は人の話を聞いているとき、同音異義語の単語を頭の中で該当する漢字に視覚的に変換しながら理解しているのです。 酸素濃度の少ない高地に住む人の心肺機能が自然に鍛えられるように、日本語は使っているだけで自然に頭脳の理解機能が鍛えられる言語なのです。 また、音素数の少なさは、日本語に独特のダジャレの背景にもなっています。このだれでも気軽にダジャレを楽しめるというのも日本語の大きな特徴で、このダジャレ的なものの見方によっても、日本人の創造性は更に鍛えられているのです。 以上が、国際社会の中で日本の自立を守るために日本の文化を豊かにする要として生かしていく日本語の特徴です。 次に、歴史的な面から、現代という時代が経済的にどういう時代なのかということを考えてみます。 最初に、個人の消費生活に対する欲望があります。自動車を持っていない人が自分の車を持つということに対する憧れは、今の日本人はもうほとんど忘れていますが、実はとても大きなものでした。同様に、テレビのないうちがテレビを買うというときの感動は、今では想像できないほど大きなものでした。 その未来の夢のために、個人は仕事をし収入を手に入れようとします。 この仕事は、古代の人が舟に乗りたいから自分で丸木舟を彫るというような自給自足的なものではありません。自分で自動車を作るということは当然できないので、個人は企業で分業の一部として働くことによって収入を得ます。 この分業が、実は企業にとって利益の源泉になります。企業は、決して労働者を搾取して利益を上げるわけではありません。分業という仕組み自体が個人の労働の投入量の総和よりも大きな価値を生み出すことから利益が生まれるのです。 この利益を更に大きくするために、企業は技術革新を行います。利益が技術革新に使われ、ますます質量ともにすぐれた分業体制を作った企業は更に利益を上げていきます。 そして、この企業の作った製品が、労働によって収入の増えた消費者によって購入されるというのがこれまでの経済の流れでした。 松下電器(現パナソニック)がアイロンを作ったころ、アイロンという商品はかなり高価なものでした。しかし、多くの人がアイロンのある生活に夢を見る一方、松下電器がその夢に応えて庶民の手に入る価格のアイロンを作ることによって(昭和2年)、個人の企業も豊かになっていったというのが、日本の資本主義が発展し始めたころの社会の姿でした。そして、このアイロンが、カラーテレビ、自動車、クーラーへと対象を変えて発展してきたのがこれまでの社会でした。 「言葉の森のビジョン」の後半を簡単に書くつもりがだんだん長くなってきました。(^^ゞ まだ画像が十数枚あり、この調子で書いていると何の話かわからなくなりそうなので、以下急いで(笑)。 現代の日本の社会は、個人に消費したいものがなくなっているという状態にあります。しかも、それが格差社会の拡大の結果、お金のない人は消費したいものがあるのに仕事と収入が増えない結果消費したいものがない、お金のある人はただ単にこれ以上消費したいものがないという形になっているところに問題があります。 消費したいものがない結果、物が売れないため、企業は売上の減少の中でも利益を上げるために省力化を押し進めます。省力化が進めば進むほど、個人の働き口がなくなり、それが消費と設備投資を更に低下させるという縮小スパイラルの状態に今の経済は陥りつつあります。 拡大スパイラルが縮小スパイラルに転換した大きな要因の一つは、企業の利益、言い換えれば社会全体の利益が新しい生産を創造するための投資に向かわずに、軍事費や社会保障費やマネーゲームという価値を生み出さない分野に吸収されていったことです。 しかし、もう一つの大きな要因は、個人の欲望を喚起するような大きな魅力のある商品が現代の社会、特に先進国の社会で見つからなくなったことです。 |
では、先進国、例えば日本に暮らす個人の欲望の対象は、今どのように変化したのでしょうか。 これまでは、よりよい家、よりよい車、よりよい服、よりよい食事という豊かな消費生活が個人の欲望の焦点になっていました。 今は、そうではありません。もちろんよりよい消費生活への希望はまだだれにでもありますが、それらが大きな感動を伴う消費ではなくなったのです。 今、個人が大きな夢を持って求めている対象は、物ではなく自己の向上です。それは、より美しい自分、より健康な自分、より知的で、魅力的で、能力があり、人気があり、自己を実現し、社会に貢献できるような自分自身なのです。 だんだん「言葉の森のビジョン」の話とつながってきた。(^^ゞ さて、これまでの経済の特徴の一つである工業の発達によって豊かになった社会を工業社会と呼ぶと、工業社会の教育は次のような形で進められてきました。これが、現在まで行われていた教育です。 個人は、豊かな消費生活を実現するだけの収入を得るために企業に勤めます。その企業で求める人材は、工業生産の優れた歯車として使える広範な基礎学力を持ち、企業の特定の専門分野で高度に能力を発揮できるような人材です。 広範な基礎学力と優れた専門能力は、企業が求める人間像であるとともに、個人が自ら求める人間像でもありました。 そのため、教育のスタイルは、ある目標をめざして全員が同じ方向で努力するものになり、その目標を達成するためにテストによる競争と勝敗が教育の中に自然に組み込まれるようになりました。 同じ方向とは言っても、小中学校では比較的幅広い教科にわたって、高校大学ではある程度専門化された教科の枠の中で行われるという違いはありました。しかし、基本的な仕組みは、共通する目標に向かって一本道を進むという点で同じものでした。 では、新しい時代の社会の仕組みはどうなるのでしょうか。 自己の向上を欲望の焦点にした社会は、次のようなサイクルで成り立ちます。 まず、個人はよりよい自分を求めて生きていきます。そのために、自分を向上させる何かを習おうとします。 何かを習うことによって自分が次第に向上するとともに、やがて自分自身もほかの人に何かを教えることができるようなレベルにまで向上していきます。それは、向上をつきつめていくと創造が生まれてくるからです。(つづく) |