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  毎月第4週の「山のたより」の「清書の記録」に自分のパソコン作文が表示されない場合
  小6・1月の暗唱長文、小3・1月3週の長文にミス
  作文小論文入試のコツその1(昨年の記事の再掲)
  受験作文での複数文章課題(昨年の記事の再掲)
  絶対語感の世界(後編)
  新たな知のパラダイム
 
言葉の森新聞 2011年1月2週号 通算第1158号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
毎月第4週の「山のたより」の「清書の記録」に自分のパソコン作文が表示されない場合
 毎月第4週に「山のたより」に「清書の記録」を表示しています。
 4週の清書をパソコンで入力した人は、この欄に自分のパソコン清書が数か月分表示され、森リンの点数の推移がわかるようになっています。
 しかし、作文を入力するサーバーと森リンの点数を採点するサーバーが異なっているため、たまに、パソコンで入力した自分の作文が「清書の記録」に表示されない場合があるようです。もし、そういうことがありましたらご連絡ください。
 この清書の記録に載っている毎月の森リン大賞は、「森リンの丘」というページに掲載されています。
http://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
 なお、11月の小2の森リン大賞ランキングに、上記の理由でzinka君がもれていました。同点1位の65点でしたので、「森リンの丘」に表示しています。
小6・1月の暗唱長文、小3・1月3週の長文にミス
 小6の暗唱長文1月分【2】にミスがありました。訂正してくださるようお願いします。
△耳に傾ける → ○耳を傾ける
 小3の1月3週の長文1行目にミスがありました。訂正してくださるようお願いします。
△物をお皿に → ○果物(くだもの)をお皿に
作文小論文入試のコツその1(昨年の記事の再掲)
 今回は、主に高校入試での作文のコツを説明します。
 高校入試では、課題文にそれほど難しい内容のものは出ないことが多いので、受験者が書く作文は、どれも似通った上手なものになる可能性があります。この中で、どのように上手さを目立たせていくかということが大事になります。
 まず第一は、字数の枠内に収まっていないものは、文句なしに不合格だということです。採点者は、限られた時間で多数の作文を採点するので、字数の条件をクリアしていないものは、内容さえ見てもらえない可能性があります。
 第二は、誤字が二つ以上あるものも、やはり同じように無条件に不合格になる可能性があります。この誤字が、実は意外と多いのです。中でも、小学生のころに習った初歩的な漢字を間違えて覚えているというケースが多いです。中学校の3年間は真面目に勉強していても、小学3、4年生のころは結構適当に勉強をしていたという子はかなりいます。というよりも、むしろそれが自然な姿です。しかし、その小学生のころに間違えて覚えた漢字は、ふだん自分の書いた文章を人に見てもらう機会がないので、大人になるまでその間違えた漢字のままずっと覚えているというわけです。どうして、そういうことがわかるかというと、私(森川林)自身がそうだったからです。^^;
 実際に、社会人の書いた文章を見る機会がときどきありますが、800字の作文で誤字が一つもない作文というのは、実は珍しいぐらいです。そう考えると、高校入試の作文を誤字でスクリーニングすると、それだけでかなりの作品が絞られてくるように思います。
 誤字をなくすコツは、入試に出てくるようなテーマで文章を書き、そこに出てくる漢字をすべて辞書で調べてみることです。もっと簡単なのは、ほかの人に読んでもらうことです。一般的な漢字の書き取りの練習をしても、効果はありません。大事なのは、正しい漢字が書けるということではなく、「自分がよく使う語彙や言い回しで」正しい漢字が書けるということだからです。
 
 私の経験では、今800字の文章を書いて、誤字が2ヶ所以上あった人が、これから練習して誤字ゼロの文章を書けるようになるには、1年間ぐらいかかると思います。
 第三は、難語を自然に書く、第四は、光る表現を入れる、第五は、感動のある体験実例を書く、第六は、知性を感じさせる社会実例を書く、第七は、構成が分かるように書く、などですが、それはまた次回に。(つづく)

 受験コースの生徒から、ときどき、「先生のヒントを聞いてから書くのでは、試験の本番のときに書けないのでは」と聞かれることがあります。
 しかし、これまでの経験では、先生のヒントを聞いて、そのとおりに書ける子は実力のある子で、合格圏内に入っている子です。
 ただし、ヒントを見ながら、ヒントを写すような感じで書いていては力がつきません。ヒントを聞いて、又は読んで、そのあとは、自分の頭の中に残っているものだけで書くというのが実力をつけるコツです。
受験作文での複数文章課題(昨年の記事の再掲)
 受験に作文を課す学校が増えています。受験作文は、最初の年は単純な題名課題で始まることが多いようです。例えば、「これまでの学校生活での思い出」とか「私がこれまでにがんばったこと」などの題名です。
 こういう題名でも、受験生の作文力には差が出ますが、すぐに受験生が課題に対して準備をしてくるようになります。すると、ほとんどの受験生の実力が向上するので、採点する側は点数をつけるのが大変になります。
 そこで、次第に難しい課題になります。題名課題よりも難しいのは感想文課題です。文章を読ませてそれに対して感想を書かせる形は読解力も要求されるので、題名課題のときよりも書くのが難しくなります。しかし、それでも要領のいい生徒は、課題文のキーワードを引用しつつ自分なりに準備してきた材料で書いていくことができます。
 本当は、作文の課題を一つだけではなく複数出すようにすれば、実力の差はもっとはっきり出てきます。しかし、そのやり方では採点の負担が大きくなりすぎます。昔、東大の後期試験で小論文課題を出していたことがありました。最初は単純な課題でしたが、だんだん文章を読ませる複雑な形になり、複数の小論文を書かせる形になりました。しかり、やはり採点者の負担が大きすぎたのでしょう。この小論文試験は廃止になりました。
 感想文の課題をもっと難しい形にしたものが、複数の文章を読ませて感想を書かせる感想文です。Aの文章とBの文章を読ませて、その両者に共通する点と相違する点を自分なりに整理してかくのですから、内容を理解していないと書けません。また、ただ一つの文章を読ませる感想文課題では、キーワードを入れれば何とか書けますが、複数の文章課題ではキーワードだけではなく複数の文章の内容を組み合わせないと書けません。この複数の文章による感想文課題が、受験作文の主流になっています。

 では、複数の感想文課題に対する書き方はどのようにしたらいいのでしょうか。以下の説明は、ちょっとレベルの高い書き方です。
┏━C━┓
┃A・B┃
┗━━━┛ AとBの二つの文章があったとします。二つの文章が共通している話題をCと考えます。
 Cという分野に関して自分の考えcを決めます。
 Aの文章のキーワード(又はキー概念)をaとします。
 Bの文章のキーワードををbとします。
 作文は、自分の考えであるcを通常の題名課題を書くのと同じ要領で、「説明→展開1→展開2→まとめ」と書いていきます。
 その展開1と展開2の部分にaとbを盛り込みます。
 つまり、作文の中心になるのは自分の考えcであり、そのcを補強するものとしてaとbを使うという考え方です。
 こういう書き方はレベルが高いので、採点する側にそのように書いたということがわかるようにする必要があります。そのために、AとBの文章のキーワードを意識的に使っていくのです。

 
絶対語感の世界(後編)
 読み聞かせや語り聞かせが親にとって苦痛なのは、そこに創造性がないからです。
 子供に絵本を読んで聞かせるということは、大人にとっては何の難しさもない、誰にでもできる退屈なことです。そして、読み聞かせを始める前からそういうことがあらかじめわかっているがゆえに、大人は読み聞かせというものに意欲が持てないのです。易しすぎてやる気になれないのが、大人にとって読み聞かせです。
 しかし、幼児は、その読み聞かせの反復を、自分の知的能力の発達のために何よりも求めています。
 そこで考えられのは、その読み聞かせの物語を親が暗唱してしまうという方法です。
 言葉の森の暗唱自習の方法であれば、2、3分の文章は、すぐに暗唱できるようになります。ストーリーのある話であれば、さらに容易で、5分や10分の暗唱による語り聞かせは誰にでもできるようになります。
 現代の新しい読み聞かせは、親が持っている幾つもの暗唱物語のレパートリーの中から、子供が希望するものをその時々の雰囲気に応じて聞かせてあげるというやり方です。
 親はその物語を暗唱しているので、その日の気分によって登場人物を微妙に変化させることができます。例えば、「桃太郎」の話で、おじいさんとおばあさんを実際の田舎のおじいちゃんとおばあちゃんにしたり、主人公の桃太郎を聞いているその子供にしたり、サルや犬やキジを近所の友達にしたり、というようなことが自由にできます。そういう創造的な工夫ができると、読み聞かせは急に楽しいものになってきます。
 人間はもともと、創造的でありさえすれば、話すことが大好きな動物です。それは、長電話がいつまでも終わらないことを考えるとよくわかります。
 母親は楽しくおしゃべりをする感覚で物語を聞かせてあげ、子供はその話を聞いて絶対語感を身につけるということが、これからの幼児教育の新しい姿になると思います。
 しかし、ここで大事なことは、どんなにいい方法であっても決してやりすぎないことです。

 幼児期に豊富な言語環境を与えるという場合の豊富さとは、同じ文章を繰り返し聞くという意味の豊富さです。しかし、これをテープやCDで繰り返し同じ物語を幼児に聞かせるようにしたらどうなるでしょうか。
 機械による繰り返しの言語環境によって生まれた絶対言語感覚は、知的な面としては確かにすぐれたものになるでしょう。例えば、聞いたことをすぐに覚えてしまい、それを同じように再現できるというような能力です。こういう能力があれば、勉強は楽にできるようになります。しかし、そのために、言葉を楽しんだり、言葉で癒されたりするという人間的な面が逆に阻害されるようになる可能性があります。
 ところで、日本には、「三つ子の魂百まで」「習い事は六歳から」という二通りの幼児教育に関する言葉があります。絶対音感の形成が6歳以前、日本語脳の形成が6歳以降ということから考えると、どうやら3−5歳の時期の人間の成長と、6−8歳の時期の成長とは、質的な差があるようです。
 しかし、いずれにしても、幼児期という可塑性の高い時期には、特定のことをやりすぎないということが大事です。小さいころにある特定の分野で優秀になりすぎると、成長してから幸福な人生を歩む上でかえって困難を感じることが多くなるようです。
 そのためにも、人間の教育は、他人や機械に任せるのではなく、その子供に最も密着した親が自身の身体を使って行うことが大事なのだと思います。

 「絶対音感」(最小葉月著・新潮文庫)によると、日本における絶対音感の教育は、園田清秀が昭和6年(1931年)、パリに留学しているときに、幼児期からの練習方法を考えたところから始まります。
 清秀は、子供が言葉を自然に習得することから着想を得て、幼児期から繰り返し一定の音を聞かせることによって絶対音感がつくのではないかという仮説を立てました。そして、自分の子供を実験台にして和音を聴かせて答えさせる練習を繰り返しました。
 この、和音を聴かせるというところがいちばんの工夫だったようです。音は、他の音との関連によって、座標がよりはっきりと固定するようになからです。
 その後発展した日本の絶対音感教育では、幼児期から始めるということと、毎日の練習を行うということ、そして、この和音を聴かせることが重要な柱になっています。また、ただ聴かせるだけではなく、ある一つの和音が定着してから、それに類似した次の和音に進むという方法論も必要なようです。
 この絶対音感の教育から、絶対語感についてのいくつかのヒントが考えられます。
 第一は、絶対感覚には、幼児期からの学習が必要だということです。絶対語感の場合は、3歳から5歳の時期の語り聞かせ、6歳から8歳の時期の暗唱や読書という方法になると思います。
 第二に、絶対感覚の取得には、毎日の学習が大事だということです。幼児期は、自分の周囲の環境を丸ごと世界として受け取ることができます。世界というものは毎日休みなく存在するものですから、週に何回か学習するということでは、それは世界にはなりません。毎日やることによって、初めて定着が容易になるのです。
 第三に、音楽における和音と同じものは、言葉における文型だと考えられます。音も、言葉も、単音や単語で認識されるだけでは不十分です。他の音や他の言葉との組み合わせの中で認識されることによって初めて確実な座標を持つようになります。
 幼児は、いろいろな語りかけをされることによって、文の基本的な形を身につけます。その文型の身体化によって、ほかの人から聞いた文を理解したたり、その文を自分で反復したりできるようになります。単語ではなく、文を理解するということが重要です。
 第四に、文の理解力を高めるためには、短い単純な文だけではなく、ある程度の複雑さを持った長い文を聴かせる必要があるということです。例えば、幼児にあいさつするときも、「おはよう、けんたろうちゃん」で終わるのではなく、「おはよう、けんたろうちゃん。今日は朝からさわやかな天気で、気持ちがいいね」というように、ひとこと余分に話すということです。しかし、この場合も、やりすぎには弊害があるので、ほどほどにということが大事です。
 第五に、その長い文型のより発展したものがひとまとまりの文章だということです。幼児は、周囲の大人から話しかけられることによって、自然にその国の言語を身につけていきます。しかしさらに、同じ文章を繰り返し聴かされることによって、言葉を理解する力を身につけるだけではなく、世界を認識する方法を身につけていくのです。
 絶対語感とは、単語や文を理解するだけの力ではなく、文章を丸ごと理解する力だと考えることができます。
新たな知のパラダイム
 かつてヨーロッパ人の植民地支配が世界中に広がったころ、植民地を推進する理論は、人種的な考え方で合理化されていました。つまり、優れた白人種が劣った有色人種を支配することは、社会の進歩につながるのだという考え方です。
 しかし、江戸時代末期、日本にそのヨーロッパ列強の支配が押し寄せてきたとき、日本はすぐにそのヨーロッパ文明に適応しました。そして、数十年もたたないうちに、ヨーロッパに匹敵する科学技術を持つにいたりました。この結果、ヨーロッパ文明の他の文明に対する優位性は、人種的・遺伝的な優劣ではなく、別の要素であるということがわかったのです。
 現代の社会を見てみると、一方で、経済的に次第に台頭しつつアジアや南アメリカ、他方で、衰退し没落しつつある欧米諸国という大きな構図が見えてきます。このような状況を見てみると、ますます文明の優劣の差は人種的・遺伝的なものではなく、単なる教育の差、つまり教育によって培われる何かにあるのだということがわかってきます。その何かとは、知のパラダイムです。
 現代の世界を支配している欧米の知のパラダイムは、世界とのつながりから離れた個人の利益を中心に物の見方を組み立てるという考え方に基づいています。これが、デカルト・ニュートンの分析主義的な科学観と結びついていました。
 一方、日本には、欧米の知のパラダイムとは対極にある、人間の性善説を元にした家族主義的な発想があります。
 また、科学の分野では既に、従来の分析主義の考え方では不十分にしか説明できない新しい科学としての量子論や複雑系の科学が生まれています。
 しかし、この新しい科学に対応する知のパラダイムはまだできていません。
 新しい知のパラダイムが構築されると、それは、かつてのヨーロッパがそうであったようにきわめて強力な文明を生み出すだろうと考えられます。

 
 
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