言葉の森新聞
2011年4月3週号 通算第1172号
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森新聞 |
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■国語の記述問題にどう取り組むか |
小学校高学年の生徒のお父さんやお母さんからときどき質問されるのが、記述問題の勉強の仕方です。塾の模擬試験などを受けると、記述問題の答えは一応書けているが小さな減点のあることが多く、親がどういうふうに説明していいかわからないというのです。 しかし、これは、実は採点している人もよくわかっていないことが多いのです。模擬試験の記述問題の採点や小論文の採点は、かなり割り引いて考える必要があります。 高校生の場合、入試直前に小論文の模試を受けて、それが予想以上に悪い点数だとかなり落ち込んで見せに来ることがあります。しかし、そういう子が入試の小論文の本番ではほとんど合格しています。模試の採点の仕方を見ていると、文章全体の構成力(思考力)よりも、ちょっとした表現の巧拙から感じられる雰囲気で点数がつけられているような感じがします。 中学入試の問題の場合は、単純に、親が説明できないようなことは、子供ができなくても大丈夫と考えていくぐらいでいいと思います。 先日は、小学6年生の生徒本人から、「記述問題がうまく書けない」と質問がありました。東京都のある公立中高一貫校の昨年の問題と模範解答がインターネットに載っているのですが、その模範解答のような文章が書けないというのです。そこで、インターネットでその模範解答を見てみると、その子の書いた文章よりも模範解答の方がレベルが低かったのです。なぜそういう解答が載っているのかわかりませんが、この模範解答ではかえって減点されるだろうと思いました。 同じようなことは、大学入試の場合はもっと頻繁にあります。東大の国語の入試問題は、すべて50字や100字の記述問題です。東大の過去問ですから、模範解答にも力を入れているはずですが、実際には教室で勉強している高校3年生が書いた解答の方が、模範解答の文章よりも優れているということがときどきあります。 では、記述の勉強は、家庭ではどのようにしていったらいいのでしょうか。 第一は、読む力をつけることです。読む力をつけるためには、入試問題に出てくる文章を読みなれておくことが必要です。できれば、その文章を読んで親子で対話して理解を深めておくといいでしょう。 第二は、書く力をつけることです。これは、書きなれるということです。例えば、国語の問題文を読み、それについて、50字なら50字と決めて、すばやく感想を書くというような練習です。この場合、あれこれ考えたり、読み返したり、書き直したりせずに、一気に50字書く力をつけていきます。この、すばやく必要な字数まで書くというのは、考える力があるだけではできません。やはり、書きなれていることが必要になります。 子供が書いた記述の解答を親が見るときに、どういう点に注意しておくかというと、まず内容が大体合っているかどうかです。次に、密度濃く書いてあるかどうかです。これは、同じ表現や同じ内容が繰り返されていないということです。そしてもうひとつは、必要な字数の最後の方まで埋めているかどうかです。記述問題の解答で半行以上スペースが空いているのは、文章力がないということになります。 記述問題の練習は、書きなれることが大事ですから、質よりも量で勉強していきます。ですから、親が見るときもあまり細かいところまで見る必要はなく、大体の内容、密度の濃さ、文字数をどこまで埋めたかという三つの基準で簡単に見ていくといいと思います。 |
■公立中高一貫校の勉強は家庭の対話で |
公立の中高一貫校を設置する県が年々増えています。この入試は、塾で受験用の勉強をしないと入れないような問題は出さないという方針で行われています。だから、問題を作成する方は大変だと思いますが、考える力を試す良問がかなりあります。 公立中高一貫校の作文試験も、最初のころは、初歩的な題名課題が出されていましたが、最近は、複数の文章や資料をもとに、短い時間で長い文章を書かせるような形のかなり難しいものになっています。 |
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この公立中高一貫校の試験対策は、どのようにしたらいいのでしょうか。 いちばん大事なことは、考える力を見る入試問題に対応できるような思考力をつけるということです。そして、難度の高くなった作文試験に対応するために、時間内に必要な字数の作文を書く練習をしておくことです。作文力のもとになるのは思考力ですが、作文試験対策はただ考える力があるだけでは不十分で、やはり書きなれておくことが大切です。 思考力をつけるような勉強は、学校や塾の一斉授業ではなかなかできません。それは、思考力というものが、それぞれの子供の個性に根ざした個人的なものだからです。 ある程度パターンの決まった勉強であれば、「こういう問題は、こういう解き方で考える」というような教え方ができます。しかし、公立中高一貫校の試験は、考える力を見るために、あえてパターン化できないような問題を出しています。 ここで生きてくるのが、家庭での対話です。一般に、両親とよく話をする子は、同年代の子供と比べて思考力が高くなります。特に、小学校時代は、本を読むよりも親と話をする方が考える力が育ちます。それは、親が子供の理解度に応じて話をすることができるからです。大人との会話の中で、自分の知っている知識の周辺により高度な語彙があるのを知ることが思考力を育てることになります。 したがって、中高一貫校の試験対策は、家庭で次のように取り組むことができます。 まず、全国の中高一貫校の入試問題の過去問を買ってきます。全国ですから、かなり分量があります。その中から1問ずつ取り出し、親子で読み合わせてディスカッションをするのです。しかし、親と子だけの話では、親が一方的に話すことが多くなり、対話の密度が薄くなります。できれば、父親と母親と子供(兄弟がいればもちろん兄弟も)で、いろいろな立場から意見が交わせるようにします。 父と母がそろう時間がなかなかとれない場合は、近所の同じ学年の子供と親で集まって話をしてもいいと思います。こういう対話は、慣れてくると、知的で創造的で人間どうしの交流も図れる楽しい時間になります。 そして、このようにして育った子供は、成長して大人になったときに、やはり自分の子供に対していろいろな対話のできる親になっていきます。家族での対話は、子供の思考力を育てるとともに、家庭の文化をつくるという役割も持っているのです。 |
■日本人の対話と欧米人のディベートとの違い |
ディベートというのは、議論、論議、討論、論争などという言葉で訳されることが多いようです。この言葉に見られるように、討ったり、争ったり、論(あげつら)ったりするのがディベートです。ディスカッションも、同じです。議論の勝ち負けの要素の強いものがディベート、弱いものがディスカッションと考えてもよいでしょう。どちらも、意見を闘わせることが中心です。 意見を闘わせるためには、自分の意見が正しいという確信が必要です。そして、相手の間違った意見を互いに論破しようとしてできないとき、そこに妥協が生まれます。この妥協のレベルの高いものが弁証法ですが、ほとんどの場合、意見の違いは力の差で決着をつけられます。その決着のひとつの方法が多数決です。 ところが、日本には、こういう議論や多数決の伝統というものはあまりありませんでした。日本の仏教の中には他宗を批判することを特徴とする宗派もありましたが、多くの日本人は論争とは無縁の生活を送っていました。これは、今でもあまり変わりません。 本居宣長は、インドや中国になぜ優れた哲学や宗教の理論があり、日本にそのようなものがないのかと問い、その答えとして、インドや中国は民衆のレベルが低かったために、そういう理論が必要だったのだと答えています。つまり、日本人はひとりひとりの人間性のレベルが高かったので、そのような大げさな理論は必要なかったというのです。これは、かなり都合のよい解釈のようにも見えますが、当たっていないこともありません。東日本大震災で被災者どうしが自然に助け合うような文化を持つ国では、もともと法律や罰則や警察などは必要なかったのです。 では、日本には、議論に該当するようなものはなかったのでしょうか。宮本常一は、「忘れられた日本人」(岩波文庫)の中で、昭和25年ごろに調査した対馬のある村の話し合いのことを書いています。そこで、著者は、ある資料を見てそれを一時借りられないだろうかと村の責任者に相談します。すると、村の人が三々五々と集まり、何時間も話をし、その日のうちに結論が出ないと再び翌日も集まり何日も話をします。その話は、最初のテーマから脱線したりもとに戻ったり、賛成になったり反対になったりしながら延々と続き、やがてみんなが自然に全員一致になるような雰囲気でひとつの結論が出たというのです。この、納得するまで話し合いをして、自然に全員が一致するという話の仕方が、日本に伝統的にある議論の方法です。これは、議論というよりも対話の方法と言った方がよいでしょう。 では、その対話の本質は何でしょうか。西洋の議論が、自分の側にある正しさを主張することだったの対して、日本の対話は、相手の話をとりあえず全部肯定するところから始まります。そして、相手を肯定したうえで、そこに自分の似た話を付け加えていくのです。いろいろな人が次々と、相手の話を肯定し、自分の話を付け加えていく中で、次第に同じような話が濃く重なる部分が出てきます。その濃い部分がみんなで共有されるようになると、そこに全員一致の意見が生まれるというわけです。 西洋の、違うものを削っていってあとに残ったものを正しい意見とする方法と、同じようなものを付け加えていって濃くなったものを正しい意見とする方法と、結論は似ているかもしれませんが、途中の過程は正反対です。 さて、家庭での対話というものを考えた場合も、西洋的な議論と日本的な対話の両方が可能です。子供が長文を音読して自分の感想を述べたとき、親が、「それは、なぜか」と質問したり、「その意見は、違うと思う」と反論したりするのは、西洋の議論です。日本の対話は、子供の言った言葉をそのまま肯定して、そこに親なりの似た話を付け加えていきます。そして、互いの似た話を共有することによって自然に双方が豊かな考えになっていきます。 人類がゾウやイルカに比べて頭がよいように見えるのは、相手を批判する思考力を身につけてきたためです。しかし、本当に必要な思考力は、相手を肯定するところから生まれてきます。否定を重ねるところから生まれる創造力ではなく、肯定と重ねるところから生まれる創造力がこれからの時代には必要になってくるのです。 |
■創造産業のさまざまな形(日本の新しい産業 その6) |
創造産業の広がり方を、流鏑馬(やぶさめ)を例にとって説明しましたが、では、ほかにはどのような新しい創造産業の文化が考えられるでしょうか。 まず、流鏑馬に関連して、先に述べた馬の飼育、弓矢の制作などがあるでしょう。このほか、小動物の飼育に関しては、鷹の飼育(鷹匠)、ウズラの飼育、ウソの飼育、金魚の飼育、コイの飼育、猿回しの訓練、イルカの訓練、伝書鳩の訓練などもあるでしょう。江戸時代には、オカメインコやトイプードルなどはいなかったでしょうから、これからそういう新しい種類の小動物についても日本人の手による品種改良や訓練が行われるようになります。カラスは賢い鳥ですが、その鳴き声と色とゴミ箱をあさるという性質から、多くの人に迷惑がられています。しかし、これから長い時間をかけてカラスの品種改良を行い、クジャクのような羽を持ち、カナリヤのような声を持ち、人間の命令に忠実なカラスが作られれば、カラスは一種のペットとして人間と共存することができます。すると、カラス訓練士などというものも、ひとつの創造産業になる可能性があります。 植物について言えば、日本では、これまで、アサガオ、サツキ、オモト、ランなどにさまざまな品種改良が加えられ、多くの品種が作られてきました。現代の日本は、江戸時代にはなかった世界中の珍しい植物が手に入ります。すると、ここで更に個性的な植物改良が行われる可能性が出てきます。例えば、よい香りのするラフレシア、ゴキブリを専門に食べるウツボカズラ、ペットボトルのかわりになるフルーツなどです。 これまでの産業構造では、このようなユニークなアイデアは、漫画の話題になるぐらいがせいぜいでした。しかし、これから生まれる創造産業の社会では、作る本人がその内容について強い興味を持ち、その分野の専門の知識や技能をもとに創造的な作品を作り出し、その仕事を同じように面白いと思う人が、その作品や作成技能に関心を持つようになれば、そこにひとつの新しい産業が生まれます。文化というものは、初期の段階では取るに足らないようなものであっても、人間がその身体性を土台に時間をかけて技能に磨きをかけていくと、突然その分野に新しい創造が生まれることがあります。例えば、植芝盛平(うえしばもりへい)が創始した合気道は、単なる武道から質的に異なる超人的な段階にまで到達しました。似た例として、野口晴哉(のぐちはるちか)の整体、肥田春充(ひだはるみち)の強健術など、日本にはさまざまな創造文化が生まれています。 現代が江戸時代に比べて有利なのは、世界中からの新しい素材や道具が利用できるようになっていることです。工芸品として、木工細工、金細工、うるし塗り、陶芸、染物、織物などがありますが、今後、セラミック、樹脂、新素材などを利用した新しい工芸品が創造される可能性があります。また、コンピュータのプラグラムとセンサーを利用して立体彫刻を短時間で作る技術なども既に実用化されつつあるので、そういう新しい技術を利用した新しい工芸分野が生まれる可能性もあります。しかし、この場合も重要なことは、技術や方法に還元した機械的な生産に向かうのではなく、あくまでも人間の身体性に依拠した個性的な熟練を高めていく方向で、創造産業と向上産業を組み合わせていくことです。 日本で伝統的に道の文化として挙げられるものに、茶道、華道、書道などがありますが、絵画、漫画、歌、踊り、落語、講談、寸劇、衣料、美容、など、今後さまざまな分野で新たに道の文化が創られる可能性があります。茶道を創始した千利休のように、ひとつの分野に情熱を持って追求する人がいれば、どのようなものもそれ自体が道の文化になることができます。 創造の分野は、どこにも無限に広がっています。新しい楽器、新しいスポーツ、新しい芸術、新しい行事、新しいお祭り、新しい趣味、新しい文学、新しい舞踊、新しいファッション、新しい名所など、その分野に興味と関心を持つ人が考えれば、いくらでも多様化、細分化、専門化した創造産業を生み出すことができるのです。 |
■創造産業の重点は言語的、知性的なものに(日本の新しい産業 その7) |
今後、日本で創造産業が発展するためには、国民ひとりひとりの意識が変わっていく必要があります。それは、私たちの喜びを、消費的な喜びから、創造的な喜びに向かって広げていくことです。消費の喜びには、寝食を忘れて取り組むというようなものはあまりありません。しかし、創造の喜びにはそのような情熱的な感動を伴うものがしばしばあります。 例えば、音楽を鑑賞する、スポーツを観戦する、おいしいものを食べる、どこかに旅行に行く、テレビを見る、本を読む、このような喜びは、消費の喜びです。これに対して、音楽を作る、スポーツに参加する、おいしい料理を作る、みんなを迎える観光地を作る、テレビ番組を作る、本を書く、このような喜びは、創造的な喜びです。創造的な喜びは、夢中になると文字どおり寝食を忘れて取り組むようなことが起こります。創造の喜びの魅力というものを多くの人が実感していることが、創造産業を発展させる土台となります。 創造産業を発展させるためにもうひとつ忘れてはならない大事なことは、身体的、感覚的なものよりも、まず言語的、知性的なものを優先させるということです。 創造産業の例として、最初にわかりやすく流鏑馬の話を取り上げましたが、身体的なもの、つまり、運動や音楽や芸術のようなものだけが発展し、子供たちの夢や理想が身体的なものに向かうようになると、日本の文化は知的に衰退するようになります。そして、知的に遅れた国は、やがて知的に発達した国の科学技術に後れをとるようになります。 だから、創造産業は、量的には身体的なものが多数を占めるとしても、質の面での重点は、まず言語的なものにする必要があります。言語的な創造産業とは、具体的には、学問の新しい分野を作り出すことです。アメリカで生まれた金融工学は、宇宙工学の分野で失業した人が金融界に流れて誕生したと言われるように、経済学とコンピュータアルゴリズムの融合という形で発展しました。同じようなことが、これからさまざまな学問分野で生まれる可能性があります。 なぜかというと、現在の学問は、例えば数学でも専門が少し違うだけで、互いの先端分野は理解できないと言われるように、高度に専門化して発達しているからです。そして、人間の理解というものは、コンピュータのようにただメモリの容量さえあればすべて受け入れるという単純なものではなく、長い時間をかけてその分野に精通しその分野の知識を血肉化していくという不完全な身体性を伴ったものだからです。 この身体性こそが、個性と創造性の根拠になります。例えば、数学のAという分野に精通した人が、同時に生物学のBという分野にも精通していて、その両者の先端的知識を組み合わせると、新しい数理生物学のような分野が新学問として創造されるということです。すると、その学問分野がまた新たな創造の土台となり、このようにして、知的な分野でも無数の創造が可能になるのです。 よく「遺伝学の父メンデル」とか「カオス理論の父ローレンツ」などという言い方がされることがありますが、日本に(そして、やがて世界に)無数の「○○学の父」が生まれるというのが、創造産業の知的な面での表れ方になります。 さて、ここで考えなければならないことは、身体的な分野ほど導入部分が容易であるのに対して、言語的な分野は導入部分が困難であるということです。これは、習い事の例を考えてみるとわかります。小学生の子供たちにとって、スポーツや音楽はすぐに親しめる分野です。しかし、勉強的なことは自然に任せておけば自ら興味を持って取り組む子はほとんどいません。子供たちが小さいころから塾に通っているのは、受験社会に対応する必要に迫られているからであって、決して子供たちの内的な動機によるものではありません。 なぜ、身体的なものの方が知的なものよりも入りやすいかというと、身体的なものはどんなに初期の習得段階であっても、それなりに表現する楽しさがあるからです。サッカーを習い始めたばかりの子であっても、下手な子は下手なりに楽しくサッカーのプレーに参加することができます。音楽や芸術も同様です。 しかし、知的なことは、延々と習得するだけの過程が続きます。知的な分野で何かを創造するというのは、20代や30代、場合によっては40代や50代になってから初めてできることなのです。だから、この退屈な知的習得の過程を継続させるために、本来、創造の喜びとは無縁なテストや競争や賞罰という強制力が必要になってくるのです。 ところが、ここで、テストや競争や賞罰に頼らない形の知的学習として、作文を活用がすることができます。(やっと作文の話になった。)なぜならば、作文は、子供たちのそれぞれの個性や年齢に応じて、誰もが発表の喜びを味わえる学習だからです。(つづく) |