言葉の森新聞
2011年5月1週号 通算第1174号
https://www.mori7.com/mori/ |
森新聞 |
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■連休中の予定(再掲) |
教室の休みは、課題フォルダに書いてあるとおりです。 4月29日(金)・30日(土)は5週目のため休みです。 5月2日(月)はあります。 5月3日(火)4日(水)5日(木)は、休み宿題です。先生からの電話はありません。 5月1週の言葉の森新聞と山のたよりは、4月末から5月2日までに発送する予定です。 |
■3月の森リン大賞に学年のずれがありました |
3月の森リン大賞を、4.4週の「山のたより」で発表しましたが、掲載されている森リン大賞の学年が1学年前のものではなく2学年前のものになっていました。そのため、点数が高いのに森リン大賞ベストテンに入っていなかった人がいると思います。 ちょうど3月から4月にかけての学年のかわりめだったので、プログラム上のミスがあったようです。「学年がかわるから1学年前にしないと」と思って、かえって間違えたのだと思います。ミスをしたのは私(森川林)です。(^^ゞ どうも申し訳ありませんでした。 3月の森リン大賞は、後日改めて「山のたより」に掲載します。なお、これまでの森リン大賞は、ホームページ「森リンの丘」で見ることができます。 http://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php |
■連休中の授業は、動画で見られます |
連休中は、「休み宿題」になるので、先生の電話説明なしに作文を書くことになります。 課題フォルダに載っているヒントなどをもとにして書くこともできますが、言葉の森のホームページの「授業の渚」に動画を見てから書くと、更に書きやすくなります。 http://www.mori7.com/nagisa/ スマートフォンでも見られるように、同じ動画をyoutubeにもアップしておきます。 |
■言葉の森のfacebook(フェイスブック) |
言葉の森のファンページをフェイスブックに作りました。 http://www.facebook.com/kotobanomori ページの上の方にある「いいね」ボタンをクリックすると、言葉の森ファンページのコンテンツが見られます。 ここで言葉の森のファンになったあと、希望される方は、父母、講師、言葉の森のコミュニティ「言葉の森学習アドバイス」というグループ(コミュ)に参加することができます。 このページは秘密ページとして運用しているので、外部にはメンバー名もコンテンツも一切出ません。参加や退出はいつでも自由です。 言葉の森の勉強の進め方などについて気軽に質問や相談のできるページにしていきたいと思っていますので、ファンになられた方はぜひご参加ください。 |
■言葉の森のtwitter(ツイッター) |
言葉の森のツイッターのアドレスです。 http://twitter.com/#!/kotomori 毎日何かをつぶやいています。 |
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■読解問題の題名と長文の題名で対応していないものがありました |
4.4週の読解問題で、「山のたより」の読解問題に書かれている「『○○○○』の長文を読んで……」の「○○○○」の部分が、読解マラソン集の長文の題名対応していないものがありました。内容は同じですから、そのまま問題をやっておいてください。 (今学期は、長文を縦書き化にしたのに伴い、これまでの長文を部分的に削ったため、このような題名の変更が生じてしまったようです。) |
■インターネットの未来と言葉の森 |
インターネットの本質は、コミュニケーションです。その特徴は、手軽で、ワールド・ワイド(世界的な広がり)で、整理しやすく、リアルタイムなのに、相手の邪魔になりにくい、というところにあります。 だから、インターネットは、特別なものではなく、電話や葉書やファクスの発達したものとして考えられます。今はまだ古い世代はそのリテラシーがありませんが、やがて全世代が、電話やメールのような日常的なプラットフォームとしてインターネットを利用するようになるでしょう。 従来の教育は、ひとつの解答に向かって全員が狭い道を競争し、速さと正解数を競う知識の勉強でした。こういう形の知識の勉強は、これからも残りますが、未来の教育の中心になるものは、単なる知識の勉強ではなく、その知識を土台とした創造の勉強になります。 従来の教育でインセンティブ(意欲刺激)になっていたものは、強制、競争、賞罰でした。今でもほとんどの先生、親、子供が、そういうものが勉強の本質的な要素であるかのように考えています。しかし、それは歴史的なものにすぎません。 未来の教育で勉強の意欲のもとになるものは、発表、交流、賞賛です。この賞賛のやりとりのひとつとして、facebookの「いいね」ボタンのようなものがあるとも考えられます。インターネットは、オープンソース思想などのように未来の社会の先取りをしている面があります。 知識の教育は、解答がひとつでしたから、大勢の生徒に対して、教材もひとつで(細分化してはいても)、先生もひとりで(少人数学級であっても)、一斉指導という能率のよい勉強ができました。知識の教育は、マスプロ的なやり方の方がうまくいっていたのです。 しかし、創造の教育は、創造する内容がひとりひとり違うので、その個人と対話できる特定の先生、特定の親、特定の友人や知人が必要になります。 知識の教育においては、勉強の予習は試験範囲を覚えることで、復習は答えあわせをすることでしたから、任意の先生による一斉指導が可能でした。 創造の教育においては、予習は対話で、復習も対話ですから、特定の先生と保護者による手作りの教育しか対応できません。 知識の教育で生徒に点数をつけて成績順に並べるだけならば、どの先生でも多数の生徒を教えられます。今、行われている作文指導のほとんどは、このような知識教育時代の方法に依存しています。その典型的な例が、作文コンクールや感想文コンクールです。 しかし、コンクールのように上手な作文を表彰して、その作文をひとつの模範解答と見なす指導法によって作文の力がつく子はまずいません。創造の教育では、もっと個別化した対話の指導が必要になるのです。 創造の教育で子供の作文を読んでコメントを付け加えることができのは、その子供に関心のある親がいちばんで、次が担任の先生で、次がその子供をよく知っている友達です。つまり、創造の教育では、特定の個人との対話が勉強の重要な要素になってきます。 言葉の森の作文指導でこれから最も力を入れていく分野は、対話の教育です。その対話とは、生徒と先生の対話、生徒と親の対話、生徒どうしの交流の対話です。 そこで、今後その対話の教育のために、対話のツールとしてのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス。mixi、twitter、facebook、ブログなど)を本格的に活用していく予定です。 言葉の森は、ホームページの開設が19966年だったことにも見られるように、もともとインターネットの利用が早く、メーリングリスト、掲示板、チャット、先生の紹介ページなど、SNSの方向で通信教育の教室作りをしていました。 今後は、独自のホームページ作りを進めるとともに、既存のSNSをホームページに組み込む形で、生徒や保護者との対話の学習を充実させていきたいと思います。 しかし、対話の本質はコミュニケーションそのものであり、インターネットはあくまでもそのための手段です。ですから、当面、敷居の低い電話でのコミュニケーションを充実させ、次に携帯メールなどのコミュニケーションを充実させ、その延長でSNSのコミュニケーションに発展させていきたいと考えています。 リアルとバーチャルという言葉で考えると、これまでは、通学の教室はリアルな教室で、通信の教室はバーチャルな教室のように思われてきました。しかし、リアルとは、相手の意思がわかる関わり方であって、場所と身体を通しての関わり方に限るわけではありません。 その証拠に、通信の教室では、電話によるコミュニケーションだけで、一度も会ったことのない生徒と先生が深いコミュニケーションを築いています。 今、facebookやtwitterなどの新しいSNSの登場によって、インターネットのリアル性が更に増してきました。近い将来、通信教室と通学教室の区別はあまり意味のないものになり、リアル化されたインターネットによって、より充実した対話の教育が可能になると考えられます。 言葉の森は、今回facebookで会社のファンページを作りました。今後、twitterとfacebookを言葉の森のホームページに連動する形で対話のある教室を運営していきたいと思っています。 |
■中学生のころに読む本で、意外と見落とされがちな「面白い本のよさ」 |
中学受験で多忙な勉強の1年間が終わると、ほとんどの子が読書の習慣をなくしてしまいます。本を読むのが好きな子は、中学生になってからまた新たに本を読み始めますが、中学生時代というのは、部活があったり定期試験があったり意外と忙しい時期です。 読書は、毎日の習慣で読み続けていくものですから、テストなどで何日か本を読まない日が続くと、すぐに読書の習慣は途絶えてしまいます。 しかし、この中学生の時期にも、しっかりと本を読み続ける子がいます。そういう子は、ほぼ例外なく国語の力があります。そして、国語の力がある子は、いったんやる気になるとすぐにどの教科の成績も上げることができます。(ただし、読書好きな子は、退屈な勉強を嫌う面もあるので、受験勉強のスタートなどは遅れ気味になることも多いようです) さて、中学生になっても読書を続ける子は、どういう本を読んでいるのでしょうか。意外なことに、それは親の目から見ると、一見程度の低い内容に見える本なのです。 教育関係者と呼ばれるような人の多くは、本を選ぶときにまずその内容に注目します。内容に感動があり、読みやすい本であれば、それを良書と考えがちです。しかし、読みやすい本というのは、易しい語彙しか使われていないために読みやすいということも多いのです。 その反対に、一見くだらない内容に見える本の中に豊富な語彙が盛り込まれていることがあります。 以下の例は、どちらがよいか悪いかということではなく、表現の仕方の例として見てください。 まず、森絵都さんの「アーモンド入りチョコレートのワルツ」という本の表現の一部です。 ====(引用はじめ) ぼくは一瞬、どうすればいいのかわからなくなって、とっさに海へ目をやった。暗い暗い夜の海。遠い岸辺に灯台の光が見える。その光がぐるりとひとまわりしても、ぼくにはまだどうすればいいのかわからなかった。 ====(引用おわり) 情景と心情の描写が工夫されていますが、使われているのは平易な語彙で、小学生でも十分に読めます。 次は、中村うさぎさんの「極道(ごくどう)くん漫遊記」という、著者名と書名からして良書には選ばれることのなさそうな本です。^^; ====(引用はじめ) やがて俺たちは、鋼鉄製の柵に囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な屋敷にたどり着いた。ドラゴンは、門の前まで押し寄せてきた群衆を蒸気の鼻息で威嚇(いかく)すると、そのまま番犬のようにうずくまる。 ====(引用おわり) こういうちょっと難しい表現で書かれた文章とともに、冒険物の本らしいテンポの速い会話が続きます。 ====(引用はじめ) だが、フールーは、すました顔で言葉を続ける。 「わたしたちは、美しいモノが好きなの。……(略)……皆、美少女ばかりでしょ?」 「自分で自分を美少女とか言うなっつーの!」 「あら、ホントのコトだもん」 「…………」 誰か、このバカ娘に、謙遜(けんそん)ってモノを教えてやれぇーーっ……て、まぁ、俺も教わったコトねーけどな。ははは。」 だが……ちょっと待てよ? よくよく考えてみりゃ、……(略)…… ====(引用おわり) 登場人物が極道くんなので、品の悪い言葉で書かれていますが、言葉と実感がよく結びついている表現です。 読書で大事なことは、いろいろありますが、いちばん重要なことは、毎日読むということです。だから、面白く読めるということが最優先です。そして、そのうえに、難しい語彙が盛り込まれていれば申し分ありません。たとえ内容的に優れた本であっても、子供がその本を薬でも飲むように決められたページまで義務感でやっと読むというような本では読書力はつきません。そして、この読書力が、読解力の土台になっているのです。 ときどき、「読書をしても国語の成績は上がらない」と言う人がいますが、それは半分は正しく半分は間違っています。どこが間違っているかというと、「読書をしないのに国語の成績のいい子はいない」ということも言えるからです。読書力は、そのまま読解力ではありませんが、読解力の土台となっています。 国語の問題で物語文を読むときに、読書力のある子は、文章を実感をこめて、あたかもその物語の中の世界を自分が経験しているように読むことができます。そういう読み方ができれば、選択問題でも記述問題でも、問題を見たあとにすぐに答えることができます。しかし、読書力のない子は、まず読み取ること自体に時間がかかりますが、それ以上に、問題を見たときに、もう一度もとの問題文の該当箇所の周辺を読まないと答えが出てきません。ここで出てくるスピードの差が読書力の差なのです。 |
■受験の教育から、実力の教育へ |
これから、日本の教育は大きく変わろうとしています。そのひとつは、受験のための教育から実力のための教育へという流れです。 日本の社会はこれまで、いい学校に入ることがそのままいい仕事につくことと同じ意味を持っていました。日本では労働市場の流動性が低いために、官庁などでは、入省時の経歴が一生ついて回るという仕組みになっています。このため、日本の社会では、勉強の目的が最もわかりやすい形で表れるものが、いい学校に入ること、更に言えば難関大学に入ることになっていたのです。 この仕組みも、最初のうちはそれなりにうまく機能していました。しかし、勉強の目的が難関大学に入ることだけに狭く絞られるようになると、やがて塾や予備校が、受験の合格のために特化した勉強を行うようになりました。志望校の出題傾向に合わせて点数の取れる勉強をするのですから、塾や予備校の勉強はすぐに大きな成果を上げました。すると、今度は学校側が、そういう受験テクニックを上回るような問題を出すようになりました。 しかし、どんなにいい問題を出しても、答えのある問題は必ず知識の問題として処理されるようになります。つまり、思考力を見るような問題も、しばらくすると解き方のテクニックの知識に還元されるようになっていくのです。 このようにして、受験問題の多くは、本当に大事なことをよりも、点数の差のつきやすいこと、うっかり間違えやすいこと、わかりにくいことを中心に出題されるようになっていきました。 この結果、学校の勉強も、子供たちにとって大事なことよりも、点数の差のつきやすいことを中心に行われるようになりました。そのような環境で勉強を教えていると、先生の中にも、子供たちに何かを教えることよりも、テストをして点数の差をつけることを目的にしてしまう人も出てきます。そして、子供たち自身も、勉強とは自分を向上させるものだと考えるよりも、テストでいい点をとることだと考えるようになっていったのです。 現在、日本の社会では、高校を中退する人の割合が毎年約2パーセント、人数にして約6万人ほどいると言われています。この中退の理由はさまざまですが、学力不足が背景になった勉強嫌いが根本にあるのは確かででしょう。 これらの子供たちは、今の受験のための教育の犠牲者です。小学校から、本当に大事なことではなく、テストで差がつくようなことばかり教えられてきたために、いったん授業が理解できなくなると、そのまま勉強嫌いにならざるをえなくなってしまうのです。 では、本当に大事なこととは何だったのでしょうか。それは、子供たちが日本語の文章をしっかり読む力をつけることだけです。そのことさえできれば、極端な話、英語が0点でも、数学が0点でも、理科や社会の知識がゼロでも、社会人として立派にやっていくことができます。逆に言えば、小学校から文章を読む力さえ確実に育てていれば、中学や高校で、英語や数学が途中で難しくなってもそれほど決定的な勉強嫌いにはならなかったはずなのです。(つづく) |