言葉の森新聞
2012年12月2週号 通算第1251号
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森新聞 |
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■【再掲】来年から、1月5日まで休み宿題に |
これまでのカレンダーでは、1月の授業は、次のようになっていました。 |
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しかし、日程に無理がないように、平成25(2013)年1月から次のようにします。 |
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1月から新しい項目になる人もいるので、作文の書き方については、「授業の渚」などでわかりやすく説明しておきます。 http://www.mori7.com/nagisa/ |
■これからの勉強はどうなるのか 1(作文はなぜ必要か) |
言葉の森では今、家庭学習を中心にした全教科の学習を進める計画を立てています。「作文プラス家庭学習」という形で、子供たちの本当の学力を育てていく予定です。 まず最初に、なぜ作文の勉強が大事かということについて説明します。 これから日本の社会で必要になる学力は、創造性のある学力です。また、創造性を発揮する土台として、読解力と思考力が大切になってきます。この創造力を伸ばす勉強には、作文の勉強が最も相性がいいと思われます。なぜかというと、作文には、構成、題材、表現、主題それぞれの項目に創造力を伸ばす仕組みがあるからです。 (詳しくは、 「創造性を育てる作文1」 http://www.mori7.com/as/1542.html ) また、現実的なことを言えば、今後日本では少子化で入試問題が大きく変化していくことが予想されます。少なくとも、現在のような覚えた知識をただ再現するだけの試験、又は解法を記憶してそれをあてはめるような試験は次第に減っていきます。 日本の大学では、まだこの記憶力を中心とした試験の形態が残っていますが、勉強はこれからグローバル時代に入ります。特に、大学教育においては、インターネットを利用して、自宅にいながらにして世界中の学びたい教科を学習できる条件が広がっています。このような中で、日本の大学も入学試験の形を大きく変化させていかざるを得ません。そうでなければ、日本の大学は世界と同じ基準で生き残ることができなくなるからです。 これまでの入試で必要とされていた学力は、創造する学力ではなく、多数の資料をまとめて整理するというどちらかと言えば機械的な学力でした。それがこれから大きく変わっていくのです。 |
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ですから、作文の勉強は、当面の入試のために必要な人ももちろんいますが、入試に必要ないという場合でも、これからますますその能力が要求されるようになり、やがて創造力を伸ばすという教育の本来の目的から見て、学力の中心となっていくと思われます。 そういう作文の学習が、小学校高学年以上になると、学校でほとんど行われていないのは、作文を教える必要がないからではなく、教えることが難しくまたそれ以上に評価することが難しいという理由によるものです。 言葉の森では、このような考えから作文指導に特化した教育を行ってきました。そして、独学では勉強を進めにくい作文の指導に力を入れるとともに、その反対に、独学でも勉強できる教科の学習は本人に任せていました。 小中高の英数国理社などの教科は、教科書と参考書さえあれば、基本的に誰でも自分ひとりで学べるものです。まして今日のように多くの優れた参考書や問題集がある環境では、独学は更に容易になっています。 ところが、教材や教育機会が多様になるにつれて、かえって独学という形の学習がしにくい状況が生まれてきました。ひとことで言えば、教材が多様すぎて、どう取捨選択したらいいのかわからないという状態が生まれてきたのです。 そのため、子供たちの教育は、かつてのように学校で基本を教えてもらえば、あとは家庭で簡単な宿題をやって学力がつくという牧歌的なものではなくなり、小学校低学年からさまざまな教材や塾を掛け持ちするようなものになってきました。その結果、勉強が多忙になる一方、そのわりには本当の学力がつかず、むしろ長時間の勉強によって勉強の本来の面白さを感じられない子供たちが増えているという状況が生まれてきたのです。 そこで、言葉の森では、作文の学習を中心とした指導をする一方、音読、暗唱、対話のような家庭学習を更に発展させる形で、本来独学で学んだ方が能率のよい英語、数学、国語などの学習もカバーする計画を立てるようにしたのです。 |
■早期からの英語教育はやりすぎないように(facebook) |
幼児からの英会話教室を開いている方が、こんなことを言っていました。 「英語のスピーチコンテストをするために、最初に日本語で作文を書いてもらうのだけど、その日本語の作文が書けていない子が多くて・・・・・・」 英語は国際的な共通語として必要です。しかし、子供が最初に学ぶのは日本語です。両方できればいいというのは当然ですが、言語習得の初期の時期には、二つの言語がぶつかり合うことがあります。 カナダなど英語とフランス語が両方使われている国では、そういう研究は行われているようですが、それでもまだはっきりしたことはわかっていません。日本では、更にそういう研究は遅れています。しかも、日本語と英語は、フランス語と英語よりもはるかに共存しにくい言語です。 幼児期から英語を習わせたいという親の気持ちはわかります。しかし、幼児期に英語のCDなどを聞かせられすぎた子が、成長して日本語をうまく操れなくなるという現象も起きています。 遊びとしてやる程度であればいい経験になりますが、勉強としてやらせすぎると弊害も生まれてきます。英語の勉強を安心して始められる時期は、日本語脳が確定する小4からではないかと思います。 知人に、英語を教えている人も多いので、こういうことは書きにくいのですが、日本の子供たちのためにあえて書くことにしました。何事も、やるのはいいのですが、やりすぎないことです。 |
■家庭学習が基本になる国語の勉強(facebook) |
形に残らないものの方が、本当は心の中に残ります。きれいな景色を見て写真を撮ると、写真という形が残るので、かえって感動は薄れてしまうことがあります。 国語の勉強も、それに似ています。 国語の勉強は、光や風や水のように形に残らないところがいいのです。 国語力の本質は、文章を読んで理解する力です。その文章が日常的、事実的な易しいものから、次第に社会的、抽象的、説明的、意見的な難しいものになっていきます。更に、日本の国語の場合は、そこに微妙な心情の変化を読み取ることなども加わります。だから、いちばんいい勉強法は、そういう文章を読み慣れることです。 小学校高学年になって塾の模試を受けると、国語の得意だったはずの子がひどい点数を取ってくることがあります。その原因の多くは、難しい文章を読み慣れていないことから来ています。 国語の問題を解いたり、文章を要約したりという練習は、書くことに時間をかけるわりに読むことにかける時間はあまり多くありません。読むことに専念した方がずっと密度の濃い勉強になります。 ところが読むだけの勉強は形に残らないので、学校や塾では取り組みにくいところがあります。国語の授業なのに、ただ文章を読むだけで終わり、というのでは格好がつかないからです。 だから、国語の勉強は家庭での学習に向いています。形の残らないものは、家庭で毎日の習慣のようにやっていくのがいいのです。 |
■最初の一歩は家庭学習から(facebook) |
最初に自立の一歩を踏み出せば、時々はころぶことがあっても、だんだん歩き方も上手になり、やがて走れるようにもなります。 最初に依存の道を選べば、すぐに何事もうまく進みますが、いつまでたっても自分の足で歩けないばかりか、ますます依存を深めるようになります。 明治時代、日本が世界で唯一、有色人の国家として欧米列強の支配する世界史に登場したのは、当時の日本人が自分の足で歩こうとしたからです。 勉強も同じです。小学生の勉強は、最初は親でも充分にわかります。そのときに、家庭での学習の習慣を作っておくのです。そうすれば、学年が上がっても家庭学習を発展させていくことができます。 そういう子供は、やがて自立する年齢になったときも、自分で計画を立てて勉強をするようになるでしょう。 確かに、豊かな社会では、アウトソーシングを上手に活用することも必要です。再発明しなくても、使える車輪は既にあちこちにあります。「利用する」と「依存する」の差はわずかです。しかし、根底にある自立心の差が大きいのです。 |
■これからの勉強はどうなるのか 2(なぜ家庭学習が必要か) |
英数国理社などの教科の学習は、人に教えてもらうよりも自分でやる方が能率がいいのですが、小学校低学年のころは、勉強の能率などあまり関係のない初歩的な学習が中心なので、一斉授業のように人に教えてもらう形でも差し支えありません。 しかし、学年が上がるにつれて学習の定着度には個人差が出てきますから、人に教わる形の勉強よりも自分のペースで進められる独学の方が能率がよくなります。 ただし、独学とは言っても上手な独学の方法というものは必要です。特に受験勉強のような競争の中で行われる勉強は、それなりのノウハウがあります。実際の勉強の中身は独学でいいのですが、勉強の方向を決めるというような大きな方針の部分については、経験から得られた方法論が必要になるのです。 しかし、大きな方針さえはずれていなければ、勉強は自分のペースでやる方が無駄なくできます。その能率のよさで浮いた時間は、自分の個性を育てる時間として生かしていくといいのです。 小学校の早い時期から学習塾など他人に頼る形の勉強をしていると、勉強の中身を親が把握しにくくなり、学年が上がると更に親の手を離れた勉強になっていきます。本当は、中学3年生までの勉強は家庭でも見てあげられる内容ですが、小学校の低学年から塾に行く形の学習をしていると、中学生になっても当然その延長で塾に頼る勉強になります。 そういう勉強の仕方をしてきた子は、高校生になっても自分の力で勉強するということに不安を感じるようになり、結局高校生でも予備校に頼った勉強になります。(今の日本ではほとんどの人がそうだと思いますが) そういう子は大学生になっても自分で勉強のテーマを見つけるのではなく、与えられた勉強を求める姿勢になりがちです。それでは、実社会で役立つ勉強はできません。 |
■幸福に生きる決心(facebook) |
能力のあることと、幸福であることは違います。豊かであることと、幸福であることも違います。幸福は独自の目標で、そのあとに、能力や豊かさがあります。 では、幸福とは何かといえば、それはひとつの決心です。 よく、「子供に優しくして、もっと褒めてあげてください」と言うと、「それがなかなかできないんですよね」と言うお母さんが多くいます。他人には優しくできても、自分の子にはなかなか優しくできません。 よく、家族の前で機嫌の悪いお父さんがいます(笑)。他人には機嫌よくても、家族にはなかなか機嫌よくできません。 よく、昨日のことを後悔したり、明日のことを心配したりするのが習慣のようになっている人がいます。今日を楽しく生きるということがなかなかできません。 でも、それらは、すべて決心次第なのです。決心とは、何もオーバーなものではありません。そうしようと決めるだけのことです。 今日から、自分も楽しくなり、子供にも楽しく接しようと思えば、その姿勢がだんだん板についてきます。そういうことを何度も繰り返していけばそのうちそう思わなくても、そういうことができるようになっているのです。 |
■これからの勉強はどうなるのか 3(国語の勉強) |
では、具体的に小学生のころの勉強はどのように進めていけばいいのでしょうか。 小学校では、国語、算数、理科、社会、英語などを教科の勉強として習います。 この中で、国語と算数以外は、特に小学生のときはしなくてもいい勉強です(してもいいのですが)。学習塾などでは、学校の勉強に合わせて理科や社会もやるようになっているところが多いと思いますが、そういう勉強に時間をかけるよりも、国語と算数だけを家庭学習で確実に習得し、あとは学校の勉強に任せておくのがいいと思います。 国語の勉強の基本は、難しい文章を読む力です。それは、難しい語彙を読む力と、難しい内容を読む力の両方が含まれます。戦後の日本ではルビ(ふりがな)を使わない書き方が一般化したため、子供たちの漢字を読む力が低下しました。難しい内容を読む前に、難しい漢字が読めないという壁ができてしまったのです。 したがって、小学校中学年のころまでに、小学校で習う漢字を全部読めるようにし、小学校を卒業するころまでに、中学校で習う漢字も全部読めるようにしておくことがこれからの家庭学習では必要になります。 漢字の読みの力をつけた上で、小学生の中高学年のころに、中学入試の国語の問題文になるレベルの文章を読んでいきます。問題集の文章というと、勉強のような感じがすると思いますが、読む力がついてくると読み物としても面白いものです。ただし、読むだけの勉強は形が残らないのでつい忘れてしまいがちです。忘れないようにするためには、傍線を引きながら読む、読んだあと四行詩のような形で印象に残ったことを書く、音読で読むなどの工夫が必要になります。この中では、音読が手軽で続けやすいと思います。しかし、この音読も真面目に普通に読むと飽きるので、抑揚をつけた棒読みで読むという工夫をするといいと思います。 漢字の書き取りは、漢字の読みが土台になっていますから、書くよりもまず読む練習を優先しておきます。漢字の書き取りは、ドリルのような形で勉強すると、書ける漢字を何度も書くことになり時間がかかります。江戸時代の漢字の書き取りの練習の仕方は、半紙に書かれた手本を何度もなぞりその半紙が真っ黒になるまで書くという方法でした。このように一文字を徹底して書いて覚えるという方法であれば無駄がありません。この繰り返しの回数は40回ぐらいと決めておくといいと思います。一般に漢字の書き取りの練習は、繰り返しの回数が少ないからです。 |
■これからの勉強はどうなるのか 4(算数の勉強) |
小学校の勉強は国語が基本です。国語と言っても、漢字の書き取りのような国語ではなく、文章を読む力という意味での国語です。読む力さえつけておけば、そのほかの勉強は、かなりあとからでも間に合います。だから、家庭学習の中心は、読書ということで考えてもいいと思います。 しかし、国語はよくできるのに、算数は苦手という子がいます。それは、国語と算数の勉強の発想の仕方が違うからです。国語には、言葉を実感として感じ取る力が必要です。文章に書かれている内容をありありと思い浮かべられる子が読解力のある子です。 しかし、算数はそうではありません。実感を通して学ぶ算数もあるようですが、ほとんどの場合算数は操作の仕方として習得します。だから、例えば、「分数の割り算は分母と分子をひっくり返して掛ける」とか、「未知数をx又はyと置き、未知数の数と同じ数だけ等号の式ができればその未知数は解ける」とかいう説明を聞くと、国語の得意な子はそれだけで息苦しさを感じてしまうのです。 だから、国語と算数の両方を得意にするために、算数は独自に家庭学習として取り組んでいく必要があります。(つづく) |