言葉の森新聞
2024年7月4週号 通算第1812号 https://www.mori7.com/mori |
森新聞 |
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■7月29日(月)・30日(火)・31日(水)は休み |
7月29日(月)・30日(火)・31日(水)は、第5週のため通年クラスの授業はありません。振替授業もお休みです。 |
■第4週は清書。幼稚園生は作文(作文クラス) |
幼稚園年中と年長の生徒は、第4週も普通の作文を書く練習です。自由な題名で作文を書いてください。 小学1年生以上の生徒は、清書を行います。 |
●清書の意義と方法 |
清書とは、これまでに書いた作文の中で内容がよかったものを書き直すことです。 内容がよいとは、個性、感動、共感などがあるということです。 書き直すときは、次の点に留意してください。 (1)漢字で書けるところは漢字で書く。 (2)たとえや自作名言を工夫できるところがあれば工夫する。 (3)似た話や続きの話を書くことによって字数を増やす。 (4)作文用紙の空いているところに絵などをかいてもよい。 |
●清書の投稿 |
清書した作文は、小学生新聞や一般紙などに投稿してみましょう。 手書きの清書の原本を、新聞社に投稿したり、コンクールに応募したりする場合は、清書のコピーの方を先生に送ってください。 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。 (1)本名とふりがな(2)学年(3)自宅の住所(4)自宅の電話番号(5)学校名とふりがな(6)学校所在地(町村名までで可)など。 投稿する際は、ペンネームを本名に訂正しておいてください。作文の中に友達の名前が固有名詞で入っている場合は、イニシアルなどに直しておいてください。投稿する作文の内容は、保護者がチェックしてあげてください。 同じものを複数の新聞社やコンクールに送らないようにしてください。これは二重投稿といって、もし両方に掲載されてしまった場合、掲載先に迷惑をかけることになります。 ●小学生新聞の投稿先 ■104-8433東京都中央区築地3-5-4 朝日小学生新聞「ぼくとわたしの作品」係 ■100-8051(住所はいりません毎日小学生新聞「さくひん」係(600字以内) ●新聞社に送る清書は市販の原稿用紙に 新聞社に送る清書は、市販の原稿用紙に書いてください。 その理由は、清書は個人で送るものなので、自分で用意した原稿用紙に書くのが、社会的なルールとなるからです。 ※清書した作文を投稿しない場合でも、額などに入れて家の中に飾っておきましょう。 |
■小学校低学年の作文は、お母さんが教えられるが、お母さんが教えると子供は作文が嫌いになり、学年が上がると作文の勉強をしなくなる |
小学1、2年生のころの作文は、誰でも教えられます。 また、今は作文の書き方という本もいろいろ出ています。 そこで、お母さんが教えることがあります。 お母さんが教えると、子供の作文はいったん上手になります。 しかし、しばらくすると、作文が嫌いになってくるのです。 もちろん多くの例外はあります。 しかし、お母さんが教えると嫌いになるというのは、大きな傾向としてあるのです。 その理由は、親はつい教えすぎてしまうからです。 これが、算数の勉強や国語の漢字書き取りの勉強であれば、教えすぎても問題はありません。 勉強そのものがあまり負担のあるものではないからです。 しかし、作文は、子供がそれなりに気合を入れて書くものです。 その書いたものに、あとからアドバイスを受けると、自分が一生懸命にしたことが否定されたように感じるのです。 そういうことを積み重ねているうちに、子供は作文を書くことが嫌いになってきます。 よく、親に、「次、どうやって書くの」と聞く子がいます。 そういう子は、それまで書いたあとに、すぐ注意されてきたので、注意される前に親に聞いておこうと思うようになったのです。 こういうことが続くと、やがて作文を書きたくなくなります。 そのときに、作文を習うということを提案しても、子供は、作文に対する拒否感があるので、なかなかやろうとしません。 だから、小学1、2年生のうちに、作文を習うことがいいのです。 そして、お母さんの役割は、作文を直すことではありません。 作文の題材作りを手伝ってあげることと、子供が作文を書いたあとは褒めることなのです。 |
■総合選抜時代の学力は、学力と実績と小論文 |
大学入試で、総合選抜の割合が増えています。 総合選抜入試に臨むには、どういう準備が必要かという私なりの考えを書いておきます。 ==== 【大学受験】総合型選抜の効果を検証…文科省が報告書 https://reseed.resemom.jp/article/2024/04/30/8667.html 面接調査によると、大学が育成したい人材像、選抜したい人材像を明確にデザインし、学ぶ人材の多様性を担保するため「尖った人材」「伸びしろ(本質をとらえる能力)を感じられる人材」などに着目した選抜が展開されていた。入学後も丁寧に資質の深化、醸成に努めた結果、学生や就職先企業などの満足度が高いという事例報告があった。 ==== 大学側は、自主的、意欲的に学ぶ学生を採用したいと思っています。 そのために必要な基礎学力は、わざわざ入学試験を課すよりも、高校時代の成績を見れば大体わかります。 特によい成績を取る必要はありませんが、全教科バランスよくできていることが大事です。 大学側は、成績で採用を決めるのではなく、成績は学力の参考資料として見るからです。 大学は、入学したあとも、自分なりの問題意識を持って意欲的に学ぶ学生を採用したいと思っています。 そのための基準のひとつは、高校生時代に、どういうことをしてきたかということです。 ところが、高校生の生活は勉強中心ですから、自分らしい個性的な実績を示せるようなことをする余裕はあまりありません。 数学コンクールで入賞したとか、読書感想文コンクールで入賞したとかいうことであれば、これは実績になりますが、そういう実績のある人は限られています。 そこで、ひとつの方法は、クラブ活動の中で、自分の好きな研究を積み重ねることです。 その際のクラブ活動には、学問的な要素があることが必要です。 音楽やスポーツは、熱中して取り組めますが、学問的な要素がないので、総合選抜入試に生かせる経験にはなりません。 音楽やスポーツなどの趣味は、趣味としてやっていけばいいのです。 クラブ活動には、科学部、地学部、生物部、歴史研究会などがあると思います。 こういうところで、自分なりの研究を深め、フィールドワークの実践をすれば、それがそのまま自主的、意欲的な学力の経験になります。 その経験を生かして、コンクールに入賞するなどができれば、それは本人の実力を示す確実な資料となります。 しかし、コンクールなどでなくても、実績を示す方法はあります。 それは、自分の研究結果をもとに、自分のホームページを作ることです。 そのホームページに、YouTubeの動画などを入れ、自分の実績を発表することができれば、それはインパクトのある自己アピールになります。 ちなみに、言葉の森のプログラミングクラスでは、ホームページ作りの授業を行っています。 ロボット作り、ゲームづくりなどは面白い学習ですが、その学習だけで閉じています。 その学習から、コードプログラミングに進むことはできますが、プログラマーになるような方向を目指す人はまずいません。 むしろ、コードプログラミングは、ホームページ作りに生かしていくということが、これからのプログラミング学習の中心になると思います。 さて、話をもとに戻して。 今の大人の世代は、勉強第一の学生生活を過ごしてきた人が多いので、勉強以外のことについては、特にしたいことがないという人もいると思います。 そういう人たちは、社会に出ても仕事第一の人生を送ります。 もちろん、仕事第一の人生は、いいことですが、本当に自分のしたいことがないと、自分らしい人生を歩んだことになりません。 定年になってから自分のしたいことをするという人もいますが、ある程度の蓄積がないことは、心から熱中できない面があります。 では、どうしたらいいかというと、中学、高校生の若い時期から、自分のしたいことをしていくことです。 そのしたいことと学問分野を結びつけていけば、特に意図しなくても、総合選抜時代の準備をしていることになります。 言葉の森は、そういう勉強のきっかけになるものとして、創造発表クラスを開いています。 個性的な興味関心は、自分ひとりでやっているだけではすぐに行き詰まります。 個性的な学力を持続させるには、創造発表クラスのように毎週みんなの前で発表の機会を作ることか、高校のクラブ活動のように自分の好きな分野を友達と一緒に勉強する機会を作るとかの工夫が必要です。 これからの時代は、勉強は普通にできていればよい、そのかわり自分らしい自主的、意欲的なことができるかどうかが大事という新しい学力の時代になります。 これからの子育ても、こういう長期的な展望で考えていくことが大切です。 さて、もう一つ。 総合選抜時代の学力として必要なものは、基礎学力、自主的意欲的な学力のほかに、小論文の学力があります。 言葉の森の小学4年生までの作文は、生活作文ですから、小論文の学力ではありません。 小学5、6年生の作文は、説明文ですから、半分小論文の学力です。 中学生高校生の作文は、意見文ですから、これが小論文の学力です。 小論文を書く力をつけるには、長い時間が必要です。 なぜなら、文章を書くには、読むこと、考えることのほかに、書き慣れることが必要だからです。 今、言葉の森で作文の勉強をしている人たちにとって、いちばん大事なのは、毎週1本の作文を書くことによって、書き慣れる練習を自然にしているということなのです。 |