言葉の森新聞2005年11月1週号 通算第909号
文責 中根克明(森川林)

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■■11月3日(木)は休み宿題です
 11月3日(文化の日)は、休み宿題です。先生からの電話はありません。その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後8時。電話0120-22-3987)

■■アンケートのお願い
 11.1週の山のたよりにアンケート用紙を添付しています。特に記入事項がない場合はご提出いただかなくても結構です。アンケートの「ひとこと」の欄は、ホームページの「父母の広場」に匿名で掲載させていただきます。
 ホームページにも、アンケート用のフォームを設置しています。
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■■作文文化を作る(3)
 次に、教育の目的と結び付けて読書の本質を考えると、それは向上と言われるものです。向上とは、自己の現在の状態に新たな価値あるものが付け加わることによって自己が変容を遂げることです。付け加わるものは、上着を着るような表面的な結び付き方で加わるのではなく、自己に消化される形で内面的に加わります。創造を三角形における高さと考えれば、向上は三角形の底辺です。底辺が広くなることによって、高さの可能性もまた高まります。しかし、そのためには底辺となる向上が、真に自分の中に内面化された向上になっている必要があります。

 読書の大切さについては、多くの人が自明のこととして了解しています。しかし、読書の本質についての考察を省略したまま、漠然と読書の大切さを論議するため、その論議の多くは不毛なものとなっています。例えば、読書は楽しいものであるべきだという意見と、骨のある古典から読むべきだという意見が、どちらも相互に噛み合わないまま並存しています。また、速読という技術や、音読という方法が、それが読書にとってどういう意味を持つのか問われないままひとり歩きをしています。

 向上とは、自分をより豊かにする方向で、自分以外のものを自分の中に内面化することです。自分をより豊かにする方向とは、人間の目的である幸福、向上、創造、貢献という面をより豊かにする方向です。それは、言葉を換えて言えば、人間の勇気、知性、愛を豊かにする方向です。創造とは勇気であり、向上とは知性であり、幸福とは自分に向いた愛であり、貢献とは他者に向けられた愛だからです。だから、何のために読書をするのかと言えば、その最も本質的な答えは、勇気、知性、愛を育てるために読書をするということなります。そして、その過程が内面化なのです。

 自分の外側にあるものを自分の中に内面化するとき、そこにはいくつかの異なる方法があります。一つは反復です。人間は、同じものに繰り返し接することによって、それを自分の中に同化していきます。もう一つは感情です。人間は、イメージやストーリーを通して感情を動かされることによって、そのものごとを自分の中に同化していきます。もう一つは意志です。人間は求める意志の強さに応じて、自分の外側にあるものを内側に吸収していきます。よい本を繰り返し読むことが大切なのは、反復することによってその本の中身をより深く内面化することができるからです。漫画や小説が面白いのは、イメージやストーリーによって内面化がより容易になるからです。また、人間が何かを求めているときに出合った本は、急速に内面化されます。

 このように考えると、読書についてのこれまでの議論の多くは、読書の本質ではなくその表面の形態についての議論であることがわかります。勉強か読書かという選択について考えると、勉強の成績を上げるために読書があるのでもなく、勉強の息抜きのために読書があるのでもありません。勉強も読書も自分を豊かにするための方法なのだと総合化して考えることが必要です。楽しい本か難しい本かという選択についても同様のことが言えます。楽しい読書は、感情を移入することによって内面化を容易にする読書です。難しい読書は、意志的に読むことによってより強い内面化を達成する読書です。速読や音読についても同様のことが言えます。速読は、生活に役立つ技術ですが、大事なことはいかに早く多く読むかということよりも、何を読むかということです。音読も、脳を活性化させる働きがあることは否定しませんが、ここでもやはり何を読むかということが重要です。読書の本質が向上であると考えると、単に昔からある有名な文章を読むということではなく、自分を向上させるものを読むという方向が必要になってきます。

 読書の本質は向上ですが、それはとりわけ、言語化された向上です。向上が言語化されているからこそ、その向上が作文における創造の土台となることができるのです。難しい本というものは、一般に、自分にとって新たに接する未知の語彙や思考法が多い本です。難しい本は、だから読みにくいのですが、逆にだからこそ自分の持つ言語を豊かにするという点で価値ある本なのです。

 読書を言語化された向上と考えると、数学や自然科学も、数式や図による外界の内面化という点で、読書にきわめて近いものです。数式や図を言語の一種と考えれば、数学や科学も広義の読書と考えることができます。しかし、あまりに広い定義は、話を混乱させるので、広義の読書を「読書的なもの」と仮に呼びます。すると、同様に、広義の作文も「作文的なもの」と呼ぶことができるでしょう。(つづく)


■■問題が問題なのです。(ひとみ/かもの先生)
 やあ、みなさん、こんにちは。
 食欲の秋、それから、勉強の秋、でもありますね。
 ですから、ちょっと、かたい話をします。
 どこかで、聞いたような話だね、と、思う人もいるかもしれません。
 でも、これは大事なことですから、なんど聞いてもいいですよ。
 われわれ、日本人にとっては、日本語つまり、国語がすべての知的な活動の基礎だということですね。情報を伝達するうえで、読む、書く、話す、聞くが最も大切なことは言うまでもないですね。
 これができないと、ほかの教科の学習もうまくゆかない。算数・数学の文章題を解くには、必要にして十分なことしか、問題文には書いてないので、一字を読み落としたり、読み誤ったりしたら、解けなくなります。
 海外から帰国した子らがよくつまずくのは、算数・数学の文章題だそうです。読む、書く、話す、聞く、が全教科の中心ということなのですね。
 文科省が小中学生の学力テストをしたときに、子どもたちが特異な間違いをした問題が一つあります。小学6年の社会の問題です。こういう問題です。
 わが国が輸出している自動車の台数について、円グラフがあります。全部で441万台あって、これは1999年の統計ですが、アメリカ35%、オーストリア7%、ドイツ6%、イギリス4%、その他48%というグラフですね。
 問いは、わが国が輸出している自動車の台数は、アメリカをはじめ上位3か国で、全体の何%を占めていますか、というものです。これが100人中45人しかできなかった。
 正解は48%なのに、ばらばらの数字なのです。
 なぜなのか。問題の意味が分からない子がいるのです。つまり、アメリカをはじめ上位3か国の、「はじめ」がわからない、という驚くべき結果が判明するわけです。
 「はじめ」を、アメリカを除く、と解してしまうのです。
 あるいはアメリカを入れて、その下の3か国を考えてしまう。そういう結果なのです。ですから、文科省は、子どもはそういうことが分かっていない、という報告書は作りましたが、では、どうすればいいか、ということは、特に何もしないのです。学校の先生に、もう少し、うまく教えるように、と言うような程度です。
 では、どうすればいいのか。「言葉の森」をしっかりやること、これに尽きるのです。

   <<え588み>>


■■食べ物に関することわざ(クマのプーさん/さと先生)
 だいぶ秋らしくなってきました。進級して新しい項目にトライしていますが、いかがですか。「ことわざ」が入った人、「自作名言」が入った人…皆さん「名言集・ことわざ集」に一度ゆっくりと目を通してみましょう。「あっ、これ聞いたことがある!」「へぇ〜」と思うものが必ずあるはず。ふだんの会話の中でも、普通に使っているものもたくさんありますね。

 さて、今月は食欲の秋、ということで食べ物に関係のあることわざを紹介しようと思います。ところが、たくさんあって驚くほどでした。そこで、コンビニに行った時、パンのコーナーを見るとさつまいもや栗、かぼちゃ、りんごなどを使った新作パンが並んでいましたので、秋・栗・芋に限定することにしました。

<<え3973み>>桃栗三年柿八年 柚子は九年で花盛り 梅はすいとて十三年
なにごともそれ相応の年月が必要であるという意味。出典によって後半は多少異なります。
・桃栗三年柿八年 枇杷(びわ)は九年でなり兼ねる梅は酸い酸い十三年
・桃栗三年柿八年 柚は九年でなりかかる梅は酸いとて十三(八)年

<<え3973み>>家柄より芋がら
家柄ばかりに頼る人への戒め。家柄などをむやみにありがたがるおろかさを教えています。

<<え3973み>>いが栗も内から割れる
とげの多い栗のいがを痛い思いをして割らなくても、時がたてば内側から割れる。目的も時が至れば達せられる、という意味。

<<え3973み>>秋なすび嫁に食わすな
有名なことわざですね。「秋なすはとてもおいしいので嫁には食べさせるものか!」という意地悪な意味で使うことが多いようですが、本来は「なすは体を冷やすので食べ過ぎるのは体に良くない。」とお嫁さんを心配する言葉だそうです。

 ほかにも紹介したいことわざがたくさんありました。皆さんも、なにか面白いものやいいな、と思うことわざに出会ったら作文用紙のあいているところに書いて知らせてくださいね。
<<え6593み>>


■■ら抜き言葉(うるっち/かん先生)
「あのさ、ママはさ、食べられるって言うよね。でも、パパは食べれるって言うよね。保育園でもみんな食べれるって言うんだよ。どっちがほんとなの? 」
先日5歳の長男にこんなことを聞かれドキッとしてしまいました。

 私の夫は『食べれる』だけでなく『見れる』『着れる』『あげれる』『投げれる』・・・・・・と、いわゆる「ら抜き言葉」のオンパレード。夫の『○○れる』を耳にするたびに、子どもたちが間違った使い方を覚えてしまいそうで嫌だなあと内心不快な気分になっていた矢先のひと言でした。厳密には「ら抜き言葉」は間違いなのですが、長男のこの一言は『○○られる』という使い方が明らかに少数派になってきていることを証明しています。確かに、正確な日本語を話す職業であるアナウンサーやキャスターまでが当然のごとく「ら抜き言葉」をを使っているし、毎日目にする広告や流行っている歌の歌詞なども『○○れる』が主流のようです。

 私が子どものころは『○○れる』が少数派でした。記憶の中では、ちょっとぶりっ子(死語ですね)の女の子が「わたし、お肉は食べれないの〜」なんて舌っ足らずでかわいらしく話すときに使うようなイメージでした。(そう感じるのは私だけかな?) 私はすでに『○○られる』の使い方が染み付いてしまっているのでいまさら『○○れる』はなんとなく落ち着かなくて使えないのです。まるで日本語の乱れの代表選手のように非難されてきた「ら抜き言葉」ですが、今こうして年齢を問わず大多数の人に受け入れられています。

 言葉は生きもの。時代の移り変わりとともに変化があるのは当然のことではあります。近いうちに「ら抜き言葉」が正当となる日が来るのでしょう。子どもを相手に話すときも、夫のように「食べれる」「見れる」としておいた方が良いのかもしれません。そうはいっても、好きでもない制服を仕方なく着ているような、なんとなく腑に落ちない気分なのです。普段はみなさんも当然のように「ら抜き言葉」を使っていると思いますが、受験で作文を書くときは「○○られる」と表記するよう気をつけてくださいね。私のように何となく納得できないと考えている試験官がまだまだ多いはずですから。

          <<え2005/143jみ>>


■■読解力(ゆっきー/かき先生)
 みなさん、こんにちは。実りの秋、真っ盛りですね。今月はお父さん、お母さんに向けた話を書いてみたいと思っています。

 先日、ある本を読んでいて、目から鱗が落ちた気分になりました。ある本とは、陰山英男さんが書かれた「学力はこうして伸ばす!」(学習研究社)です。100マス計算の陰山校長と言えばすぐおわかりになるでしょうか。
 その中に「読解力」について書かれている部分がありました。この「言葉の森」で学習しようと思われた理由は、人によって様々だと思いますが、「読解力をつけさせたい」が理由の一つの方もいらっしゃるかと思います。私の長男は小1で、2学期から国語の教科書に本格的な物語文が出てきました。音読の宿題の後、「一番よかったところはなあに?」などと質問をしてみるのですが、「全部」と答える息子。まだ、1年生なので、こんなもんなのかなぁ、と思っていましたが、この陰山先生の本を読んで、「なるほど!」と思ってしまいました。
 陰山先生によると、読解力というのは、いくつかの言語能力の総合で、その言語能力は大きく3つに分かれているそうです。

 1つ目は「知っている言葉の数」。単なる言葉そのものの学習もさることながら、生活体験から得られる言葉が重要だそうです。例として次の話が載っていました。
「おつりが出てくる文章題が解けない子どもは、自分でおつかいに行ったことがない場合が多い。」
なるほど! その通りです。
 2つ目は「構文」。この話に、私は一番衝撃を受けました。一部抜粋してみます。
「日本語は、述語が最後に出てくる言語です。ですから本来、話は最後まで言わなければ伝わらないはずです。しかし、子どもたちはたいていの場合、それを単語ですませてしまいます。例えば“しょうゆを取ってください”を“しょうゆ”という具合です。これでは文章が作れないのはあたりまえです。」
この話は他人事ではありません。まさしく我が家の食卓の風景そのものです。親もその言い方に何も疑問を持っていませんでしたから、「はいはい」としょうゆを取ってあげていました。でも日本語としては確かにおかしいですよね。「しょうゆがこぼれた」かもしれないのに。みなさんのご家庭でもこのようなシーンはないでしょうか。どうも文章を作ること(作文を書くこと)が下手だなぁ、と思われている方は、子どもとの会話を思い出してみてください。きっと「単語」のやりとりが多いはずですから。私もこれを期に、息子たちに会話を最後まで言わせるようにしていきたいと思っています。そして、私自身も普段の会話で気をつけたいと思っています。なんだかんだ言っても親の影響が子どもにとって一番大きいですから……。
 3つ目は「考えて話す経験の量」。子どもがしっかりとした説明ができなくても、大人が先回りして言ってくれると、子どもは正しく説明する必要性を感じなくなってしまうそうです。親子関係が友達のようになったり、親が忙しかったりで、子どもに最後まできちんと言わせることの重要性が薄れていることも原因のひとつだそうです。
 これまた反省。こちらが忙しいときに、話しかけてこられると、つい「あとでね。」と答えてしまいます。だからといって、あとでもう一度聞いてやるかと言えば、そうではありません。子どもが忘れているのをいいことに、あれこれ用事をすませています。また、子どもも「そのとき」に聞いて欲しかったのですから、もうその話はしてきません。

 以上、3つの話はどれも、ご家庭でできることばかりです。逆に言えば、学校ではできないことです。「うちの子はどうしてあんなに読解力がないんだろう。」と思う前に、是非、実践してみてはどうでしょうか。私も3人の子どもたち相手にやってみます。きっと、3つ目の「最後までじっくりと話を聞いてあげる」が難関だと思いますが……(5歳の次男が機関銃のようにしゃべるので)。
                                    <<えa/859み>>


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