言葉の森新聞2005年12月3週号 通算第915号
文責 中根克明(森川林)
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■■言語技術教育について
ある中学の言語技術教育の1年生の作品集を見る機会がありました。
狙いは、何しろいろいろな書きやすいきっかけを作って、記述力をつける練習をするということのようでした。漠然と書かせるのではなく、共通の対象をもとに書かせるので、生徒どうしの比較などが可能で、焦点の絞られた指導になるという印象でした。
内容は、一度聞いたものを書き直す再話、その再話の要約、視点を変えた物語の書き直し、絵の分析(説明)、テクストの分析(あらすじや説明)、描写や説明の短文、論証(意見と理由)の短文、など、いろいろなきっかけを工夫していることがよくわかりました。
週1回、全校を上げてこのような指導をすれば、生徒は書くことにかなり慣れると思いました。しかし、その書き慣れのプラスを生み出すために、次のようなマイナスもあるのではないかと思いました。
一つは、先生の添削の負担が大きすぎるということです。
もう一つは、生徒が意欲や関心を持ち続けられるかということです。たぶん最初は、生徒も面白がってこれらの教材に取り組むと思います。しかし、書いたあとに明確な評価のフィードバックをしにくいこのような性格の授業に長期間意欲を持ち続けることは難しいのではないかと思いました。
また、もっと根本的なことは、読む力の育成を伴わないと、書く力の練習だけでは限界があるだろうということです。
作文教育というと、すぐに書かせることを連想しがちですが、人間は読む力の範囲までしか書くことができません。読む力が書く力を押し上げるのであって、書く力が読む力を引き上げるのではありません。
例えば仮に、毎日1時間自分の好きなことを喋る子と、毎日1時間他人の話を聞く子がいた場合、1年後にはどちらの子の方が言語の実力がついているでしょうか。同様に仮に、毎日1時間作文を書く子と、毎日1時間読書をする子がいた場合、1年後にはどちらの子の方が言語の実力がついているでしょうか。
作文は、読む力を定着させ、考える力を確立するための勉強です。ですから、読む力、考える力が十分に育っている子は、文章を書くことによって実力が向上します。しかし、読む力、考える力がまだ十分でない子は、いくら作文を書いても、その読む力、書く力のところまでしか実力が向上しないのです。
逆に言えば、これからの作文教育に求められるものは、(1)先生の負担が大きくないこと、(2)明確なフィードバックがあり生徒が意欲を持ち続けられること、(3)読む力の育成を伴った作文、ということになると思いました。
■■「中学生からの作文技術(本多勝一)」批判(2)
前回は、読点の打ち方と批評の仕方について書きましたが、今回は全体の章について書きたいと思います。
第一章は、「かかる言葉と受ける言葉」についてです。本多氏は、「かかる言葉と受ける言葉は近いほどわかりやすい」と述べています。これはそのとおりです。例えば、「美しい水車小屋の娘」よりも、「水車小屋の美しい娘」の方がわかりやすいということです。しかし、文章の目的は、「読む側にとってわかりやすく」書くことにあるのではありません。「自分の書きたいことを読む側にとってもわかりやすく」書くことにあります。自分の書きたい順序で読み手にもわかりやすく書くために、句読点の工夫があります。シューベルトの歌曲集で、「美しき水車小屋の娘」という標題があるのは、その詩の訳者が「美しき」をまず伝えたかったからでしょう。「水車小屋の」をまず伝えたかったのなら、「水車小屋の美しき娘」となったはずです。論理的にどちらがわかりやすいかということ以前に、自分が何を先に伝えたいかということがあるのです。その上で、誤解を避けるために「美しき、水車小屋の娘」などという句読点の工夫が出てきます。決して句読点の論理が先にあって、それに合わせて語順を入れ替えればいいというのではありません。
第二章は、「かかる言葉の順序」についてです。本多氏は、「節を先にし、句をあとに」「かかる言葉は長い順に」と述べています。これもそのとおりです。例えば、「年輪のゆたかなよく育った太い竹」の方が「太くよく育った年輪のゆたかな竹」よりもわかりやすいということです。しかし、ここでも大事なことは、書き手が何を先に伝えたいかという意識が最初にあります。「太くよく育った」をいちばん言いたいのなら、その言葉を最初に持ってくることは何もさしつかえありません。その上で誤読を避けるために、句読点の工夫をするのです。
第三章は、「テンやマルの打ち方」についてです。本多氏は、読点は論理を明確にするためのものだと位置づけ、論理に合わないテンは間違いだと決めつけます。そうでは、ありません。読点は文章をわかりやすくするために打つものです。そのために、ある程度の論理的な裏づけが必要なのです。本多氏の作文技術では、「論理のテン」→「読み手にわかりやすく」→「語順を入れ替える」と進みますが、本当は、「自分が伝えたい語順」→「読み手に分かりやすく」→「必要に応じたテン」→「論理の裏づけ」となるのです。
第四章は、「漢字の使い方」についてです。本多氏は、漢字とかなはわかち書きと同じ役割で、文章を読みやすくするためのものだと述べています。だから、「『漢字』にするか『かな』にするかは、その前後で適当な方を選ぶ。無理に統一してはならない」と続けます。だから例えば、一つの文章の中で「いま」と「今」が前後の関係で適当に混在していてもよいというのです。それでもわかりにくいときは、本当にわかち書きにすればよいと話は進みます。なぜ、こういう無理な論理展開になるかというと、読点を論理のテンと限定したために、漢字とかなでつじつまを合わせなければならなくなったからです。漢字とかなは、書き手の文字感覚で、書きたい方を選ぶというのが普通だと思います。「いま」と書く人はどこでも「いま」と書くでしょうし、「今」と書く人はどこでも「今」と書きます。前後の関係で漢字にするかかなにするかを決めるというルールは、多くの人にとって逆に違和感のある書き方だと思います。
第五章は、「助詞の使いかた」についてです。「は」や「が」や「も」についての説明が書かれていますが、この章が中学生の作文技術にとって特に何か有用なものを提供しているとは思えませんでした。
第六章は、「改行を考える」です。段落は思想の一単位だから、論理的におのずから決まってくると、本多氏は述べています。しかし、必然的に決まると言えるほど明確ではないのが段落です。書き手の考え方によって、文章は大きくくくられることもあれば、小さくくくられることもあります。本人は話が新しい段階に入ったつもりでも、ほかの人は必ずしもそうは思わない場合もあります。段落は文章を読みやすくするためにあるのです。そのために、論理的に話が変わってくるところで行を変えるのです。決して論理が先にあり、論理的であれば読みにくくてもいいというのではありません。本多氏は、サルトルの「自由への道」で一冊の本の半分にあたる一章全部が改行ゼロだった例を挙げていますが、それはサルトルが文学的な効果を意図して書いたか、よく考えないで書いたからだと思います。サルトルは、主著の一つである「弁証法的理性批判」でも、あまりよく考えを整理しないで書いている印象を私は受けました。
第七章は、「無神経な文章」についてです。悪い文章を例に挙げて批判することは、文章の勉強を最初のうちだけは上達させます。しかし、悪い例の批判をいくら続けても、上手な文章を書けるようにはなりません。教育の基本は、よい文章を読むことによって、よい文章を書く力をつけることです。悪い文章を批判することによって、悪い文章を書かないようにすることは、教育の導入期にだけ必要なことです。そして、悪い文章を批評する場合も、大事なことは、批評の仕方の思いやりです。本多氏の批評にあるような「ヘドが出そう」「いやみったらしい」のような言葉を中学生どうしが互いの作文の批評に使うとしたら、その作文の授業はかなり寒々としたものになると思います。
第八章は、「リズムと文体」についてです。自分の好きな文章の例は、だれでも自分の好みでいくらでも出てきます。しかし、このような好みの文章の羅列が、中学生の作文力の向上につながるとは思えません。
本多氏は最後に、文章改良の例を書いています。ここが、本多氏のこれまでの作文技術の集大成と言えるところでしょう。しかし、その改良のもとになる文章は、「芝生をいためる球技等の行為は厳禁する」という短い標語でした。(笑)
■■「内言語(ないげんご)」(しまりす/きらら先生)
日が落ちるのがすっかり早くなって、毎日しずんでいく夕日と競走をしているみたいです。
<<え92み>>
先日、ある講演会に出席して、とてもいいお話を聞きました。
みなさんは「内言語(ないげんご)」という言葉を知っていますか? 生まれてから現在までに、脳の中にたくわえられた言葉のことです。簡単にいうと、「知っている言葉、使える言葉」ということになるでしょうか。
おもしろい例があります。小学校の給食の献立に、「むしパン」と書いてある日がありました。これを見た1年生の男の子がこう尋ねたのです。
「先生、このパンにはどんな虫が入っているんですか? 」
この男の子の「内言語」の中には、「虫」という言葉だけがあって「蒸す」という言葉がなかった。それで、「むしパン」は「虫パン」にしかならなかったのです。
上の例からわかるのは、「内言語」というのが人間の思考力・理解力・表現力のもとになるということです。「内言語」が多ければ多いほど、この三つの力が豊かになるといえます。よく考えると当たり前のことですが、非常に大切なことだと思うのです。
今日から、「内言語」をふやす努力をしましょう。いろいろな文章を読むことが、近道になりそうですね。低学年のうちは、親の豊かな言葉かけが重要です。学年が上になれば、知っている言葉もふえるからもういいか、というとそんなことはありません。私自身、「内言語」が少ないなあと反省しています。
講演をしてくださった先生が、次のようにおっしゃいました。
「美しい心は、美しい言葉からうまれる」
言葉は、心に直接むすびついているのです。「美しい」というところにいろいろな言葉をあてはめてみてください。(「やさしい」「力強い」、あるいは「乱暴な」などはどうでしょう。)豊かな心の持ち主に、なりたいものですね。
■■表現すること(すずめ/みり先生)
秋の夜長(よなが)、先生は静かにみなさんの作文をみています。春、夏のころにくらべて、グッとうでがあがった人が多いので、先生も気合(きあい)が入ります。
とくに、心の中のことや、思ったことが書いてある部分には目がくぎ付けになります。みんながどんなことを考えたり、感じたりしているかがわかるからです。教室では、わいわいと楽しくやっているので、みんなはいつも楽しいのかと錯覚(さっかく)しがちですが、それぞれにかなしい思いや、くやしい思い、ドキドキ、がっかり、と実はいろいろな気持ちを体験(たいけん)してすごしているのですね。
先月はとくに、「どきどきしたこと」や「つうしんぼ(連絡表、あゆみ)」という題名課題の学年もあったので、気持ちを表す勉強をした人がたくさんいますね。成績がいまひとつでがっかりした話や、ものをこわしてしまったかとあせる話、緊張(きんちょう)しながら初めてのことに挑戦(ちょうせん)した話など、もりだくさんでした。
心の中のことを人に言うということは、少しはずかしいし、うまくつたわるか心配なものです。しかし、それがうまく表現(ひょうげん)できて、人につたわったとき、どこかすがすがしいようなうれしさがありますね。
♪ ♪ ♪
そこで、「表現する」方法の一つ、歌について話したいと思います。みなさんは、ふだんよく歌を歌いますか? 音楽の授業以外にはあまり歌わない人も、しょっちゅう口ずさんでいるという人も、家族でカラオケによく行く人もいることでしょう。先生は、小学生の頃、歌は好きであったのですが、人前で歌うなんてとてもできない内気な少女でした。だから音楽の歌のテストが苦手でした。しかし、4年生の時、歌好きな若い女の先生が担任になり、テストのとき、その先生にほめられたい一心で勇気(ゆうき)を出して、初めて「ドナドナ」を人前で大きな声で歌ったのです。すると、自分でも思ってもみなかった澄んだ(すんだ)大きな声が出て、先生が「とてもきれいな声で、気持ちがこもっていてほんとうにすばらしい」とほめてくださったのです。
それからというもの、歌だけでなく、他のことにも自信がついて、人前で表現することが好きになりました。わすれられない経験(けいけん)です。
<<え2005/180jみ>>
作文も同じですね。もし、みんなの中に、「こんなこと書いたらわらわれるかな」とか「気持ちを書くのははずかしい」と思っている人がいたら、ちょっとだけ勇気を出して書いてみましょう。表現する、ということはほんとうに気持ちのよいものですよ。
@すずめ@
■■イルカのクルシュ(モネ/いとゆ先生)
クルシュ -くろしお- 先生は、先日、名前の通り真っ黒なうるんだ瞳(ひとみ)を持つ1匹のイルカに会いました。クルシュは、先生にとって生まれて初めてのイルカのお友だちです。
<<え2004/368pみ>>
みなさんは、「ドルフィンセラピー」という言葉を、耳にしたことがありますか? イルカといっしょに遊んだり、泳いだりすることによって、心や体の病気が治るという考えです。イルカは、仲間同士で超音波(ちょうおんぱ)を使って、コミュニケーションをとり、助け合いながら生活をしている、社会性の高い動物だと言われています。
イルカといっしょに過ごした患者(かんじゃ)さんたちは、みな、自分の存在をイルカが認めてくれたという気持ちになるそうです。これは、イルカが超音波によって、人間の脈拍(みょくはく)や血圧(けつあつ)、脳波(のうは)の状態を知り、その人の考えていることまで理解することができるからなのだそうです。
さて、先生は、この不思議な魅力(みりょく)を持つイルカに昔からとても興味があったのですが、このたび、沖縄で「ドルフィンスクール」に家族で参加することができました。
前半は、イルカの生態について勉強して、イルカの「キキィーッ」という声は、実は口から出ている音ではなく、頭の上から出す超音波の音なのだということや、イルカには味覚(みかく)はないので、何を食べても「おいしい」と感じることがないということなどを知り、ちょっとイルカ博士になったような気分になりました。
そして、後半は、海に入ってお待ちかねのイルカとのふれあいタイムです。先生たちの家族のお相手をしてくれたのは、クルシュというやんちゃな雄(おす)イルカでした。
まずは、クルシュとあいさつの握手(あくしゅ)をします。クルシュは、親しげに近よってきて、胸びれをあげて握手をしてくれました。続いて、背中をやさしくなでてあげること数回。初めてさわったイルカの体は、なめらかなゴムのようで、ほんのりと温かでした。
ボール遊びや、ジェスチャーゲームなどを通じて、先生たちはクルシュとだんだんと仲良しになりました。そして、最後の課題は、号令をかけてジャンプをさせることです。
「クルシュ、ジャンプ!」とはっきりとした声で号令をかけると、クルシュは、「まかせといて!」というように大きくうなずいてから水面にもぐり、目の前で見事なジャンプを見せてくれました。そして、「どうだった? どうだった?」というように、何度も目の前でくるくると回りながら泳いでみせたのです。
先生は、この時、「あぁ、クルシュと気持ちが通じ合えた!」と、とても感動しました。
せっかく仲良くなったクルシュとさよならするのは、とてもさみしかったけれど、「クルシュ、また会いにくるからね!」と叫んだら、「うん、待ってるからね!」と、また大きくうなずいてくれたような気がしました。クルシュのこと、絶対に忘れないからね。
■■お母さんの目(めもま/けい先生)
みなさんは小学生になって、絵本の扉を開くことが少なくなったでしょう? 幼稚園のころは、あんなに毎日見ていた絵本。大人もそうですね。子どもが小さいときには、毎日「よんで〜」とせがまれて、「じゃぁこれにする?」なんて言いながら絵本を読みました。子どもが小学生になると、だんだん親から離れて自分の読みたい本を勝手に読むようになるので、出る幕が少なくなりました。先日、ふっと本棚を見て、久々に手に取った絵本が素敵だったので、今日は是非みなさんにご紹介しようと思います。
「おかあさんの目」(あまんきみこ作 黒井 健絵/あかね書房)という絵本です。
主人公の女の子が3歳か4歳のある日、おかあさんのひさにすわって遊んでいました。おかあさんの方をふと見ると、おかあさんの瞳に自分がうつっているのを見つけました。それで、女の子は手を振ってみたり、斜めから見てみたり、いろいろすると、部屋の畳が写っていたり、窓が写っていたり、外のポプラの木が写っていたり……。おかあさんの目にはいろいろな自分の大切なものが写っていました。それから、おかあさんは「息をひそめてみてごらん」というと……。またまた、おかあさんの目には美しい海が写っていたり、おかあさんの子どもの頃に遊んだ裏山が写っていたり……。そしておかあさんは言います。「うつくしいものに出会ったら、いっしょうけんめい見つめなさい。見つめると、それが目になじんで、ちゃあんと心に住み着くの。そうすると、いつだって目の前に見えるようになるわ。だって、いまおかあさんのひとみにうつっていたでしょう?」と。
とても素敵なお話です。そして絵も美しい。絵本の世界は、大人の子どもも、ホッとすることができますね。さて、私たち大人の目には今、何が写っているでしょう?今の子どもたちが親になった時、子どもにどんなものを目に写してみせてあげることができるでしょう?私たちの子どもが大人になった時、そのまた子どもに美しい物を写してあげられるように今、うつくしいものをいっぱい見せてあげたいです。
そして、うつくしいものを見たり、感動したら、是非作文に書いてみてください。自分の心を文章にすると、それがまた、とても身近なものとなっていきます。(めもま)
<<えa/978み>>
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