言葉の森新聞2008年10月4週号 通算第1052号
文責 中根克明(森川林)

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■■10.4週は読解問題と清書。幼稚園生は普通の作文
 10月4週は、読解問題と清書です。幼稚園年中と年長の生徒は、第4週も普通の作文を書く練習です。自由な題名で作文を書いてください。項目シールは、予備のものを使ってください。
 小学1年生以上の生徒は、第4週に読解問題と清書を行います。
 読解問題の時間がかかるため、清書の時間が取れない場合は、清書を省略してもかまいません。
 なお、清書が保存されると勉強の記録になりますから、生徒又は家族がパソコン入力ができる場合は、パソコンで書いた清書を作文の丘から送ってください。


読解問題の仕方
 「山のたより」についている読解問題は、課題フォルダにはさんである読解マラソン集から出しています。
 読解問題の答えを作文の丘から送信する人は、作文の丘に答えを入れる欄がありますから、清書と一緒にそこから送信してください。
 読解問題の答えを作文用紙に書く人は、作文用紙に問題と答えがわかるように書いてください。書き方は自由です。住所シールは、清書の1枚目にはってください。問題の方にははりません。


清書の仕方
 今月の清書のうち、上手に書けたものは、翌々月第1週に優秀作品としてプリントされます。
 清書は、パソコンで書いても手書きで書いてもどちらでも結構です。
 パソコンで書きインターネットから送信した清書は、ホームページに保存されます。
 パソコンで清書を書いて送信した場合、手書きの清書は提出する必要はありません。
 インターネットからの送信の仕方は、「学習の手引」をごらんください。
http://www.mori7.com/mori/gate.php#129
 手書きの清書を提出する人は、清書がホームページに表示されなくなりますので、先生に送る前にコピーしておかれることをおすすめします。
 よく書けた清書は、自分で小学生新聞などに投稿してください。ただし、同じものを複数の新聞社に送らないようにしてください。
 新聞社などに投稿する場合、手書きで清書を書いている人は、その清書をコピーして、原本を新聞社への投稿用に、コピーを言葉の森の先生への提出用にしてください。パソコンで清書を送信している人は、その清書をワードなどにコピーして新聞社へ投稿用にしてください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(ペンネームで書いている場合は本名に訂正しておいてください)
(2)学年(3)自宅の住所(4)自宅の電話番号
(5)学校名とふりがな(6)学校所在地(町村名までで可)


◆表はウェブでごらんください。
https://www.mori7.com/mori/mori_web.php?ki=20081004#12970
 これまでの優秀作品は、「入選清書」のページでごらんください。
http://www.mori7.com/seisyo/nyuusenn.php


■■10月29日(水)・30日(木)・31日(金)は休み
 10月29日(水)・30日(木)・31日(金)は、第5週でお休みです。先生からの電話はありません。振替授業もお休みです。

■■11月3日(月)は休み宿題
 11月3日(月)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php


■■過去問に取り組む時期と方法
 今回は、実践的な話です。主に、高校3年生を対象に説明していきます。
 受験勉強の目的は、志望校に合格することです。この目的に比べると、塾の点数がよいとか、模試の点数がよいとかいうことは、何の目的でもありません。ここをしっかり押さえておくことが大事です。
 志望校に合格することを目的にしたときに、いちばんふさわしい教材は、過去問です。過去問は、自分がどれくらいできるかを見るほかに、何が苦手か、どういう傾向で出るのかを見るために使います。
 過去問の貴重さを考えると、今年の分の過去問だけでなく、古本で昨年一昨年のものをそろえておくぐらいにするとよいでしょう。
 ところが、過去問は、取り組むときにかなり精神的エネルギーを必要とします。そこで、とっておきの方法を説明します。それは、まず、1年間分の過去問の答えだけを先に書きこんでしまうことです。これなら気楽にできます。そして、その問題と答えを続けて読んでいけばいいのです。それだけで、自分がどのくらいできるか、何が苦手か、どういう傾向で出るのかということがほぼつかめます。
 しかし、ここでつかんだ傾向は、時間がたつとだんだん忘れてしまいますから、ときどき軌道修正のつもりで過去問に取り組むということが大切です。ですから、過去問はいっぺんにやるのではなく、模試と同じように、自分のペースメーカーとして間隔をあけてやっていくことが大事です。

 以上のことを、毎年、受験生に言っていますが、ほとんどの生徒は、実は11月ごろになってからやっと過去問に取り組みます。過去問は、本当は、高校2年生の3月の春休みごろにやって、今後の勉強の方向を決めるときに使うものなのです。
 しかし、何を始めるにも遅すぎるということはありません。もし、まだ過去問に取り組んでいない人があったら、早速明日から取り組んでいきましょう。


■■「なぜ日本人は劣化したのか」(かな/やす先生)
  <<え2007/291み>>
 さて、今月の学級新聞は、保護者の方向けに書いてみました。
 先日、精神科医の香山リカさんが書かれた「なぜ日本人は劣化したのか」という本を読みました。いろんな面での日本人の劣化の話が書かれているのですが、私が特にショックを受けたのは「読む力の劣化」です。日本人が雑誌などを読む際、ひと息に読める字の数は八百字と言われていました。しかし今、その字数が二百字にまで減っているというのです。以前の、四分の一です。
 二百字というのは、今私が書いた「四分の一です」までが丁度二百字です。雑誌社から「ストレス解消法」の執筆を頼まれた香山さんは、それを聞いて頭を抱えました。依頼原稿は千二百字ですが、どういう風に書いたらいいのでしょう。結局編集者の指示通り、一項目を二百字として、六項目を箇条書きにすることにしました。
「その一、すんだことはクヨクヨ考えない。 クヨクヨ考え込むのは、実は人間にとっての最大のストレスです。イヤなことがあっても、温かいお風呂に入って布団にもぐりこみ、楽しかった思い出などを振り返りながら眠るようにしましょう」みたいな感じですね。
 編集者によると、「それ以上長い、起承転結のあるような原稿は読者に読まれない」そうで、そうしないと「読みにくい」「何を言っているのかわからない」と苦情がくるのだそうです。
 私はこれを読んで、本当に考え込んでしまいました。今、「子どもの読書離れ」を嘆く声も多く聞かれますが、大人がまともな文章を読めないのに、子どもが読めるわけはないではありませんか。
 言葉の森では、毎週長文を音読してもらっていますが、あの長文を一般的な大人がどれほど読みこなせるか……と考えると、子どもたちを誉めてやりたい気持ちでいっぱいになりました。
 自分自身への自戒もこめて、私は大人も毎日、せめて新聞を読むべきだと強く感じました。この学級新聞の字数は丁度八百字です。ひと息で読んで頂けましたでしょうか。
                  <<え2006/315jみ>> 


■■自然農法と自己家畜化(パンダ/なるこ先生)
<<え2004/656み>>
 8月16日、土を耕さず、無肥料で無農薬、無除草という自然農法の中でも究極の方法を提唱した福岡正信氏が亡くなりました。享年95歳でした。土を耕すのは動物や微生物の役割、植物も根を張って土をやわらかくする。だから人間が鍬を持って耕す必要はない。堆肥は除草せずに刈り取った草や枯れ草のみ。農薬や化学肥料はもちろん、有機肥料も必要ないというのが福岡氏の考え方です。樹木や果樹、野菜や穀物など百種類以上の種子を粘土にまぜ合わせて「粘土団子」を作り、それを土にばらまく。あとは粘土の水分や養分を吸収して、その土地や気候などの条件に見合った植物が自然に芽を出し、根を張り、成長するのを見守るだけ。まさに自然の力に全てを委ねる農法です。

 野菜作りに目覚めたばかりの私は、福岡氏の自然農法を知って目からうろこがおちました。現代農法ではまず土づくりから始まり、作付けプラン、栽培方法、収穫にいたるまで基本的な方法が確立されています。しかし、実際には土壌ひとつとっても、土質が全く同じ場所はありえません。気候も違えば、その年による天候も様々です。ですから、あらゆる条件に見合った方法などないはずなのです。それでも初心者は、とりあえず前例に倣おうと思い、情報収集に奔走します。さらに、どうせならいいものを作りたいとか自分だけ違うやり方をして失敗したくないという欲が出ると、次第に、より高価な肥料がよく効くのではないか、あの人がこうしているから間違いないなどとなり、やがて土や野菜の状態よりも情報に振り回されるようになってしまうのです。
 この前も、ダイコンは9月10日前後にタネをまくのがいいとアドバイスされて、まだもう少し実をつけそうだったキューリとトマトをあわてて引っこ抜き、土を耕したのでした。しかしよく考えてみれば、去年は10月中旬にまいた種からもそれなりにダイコンが育っていたのです。春には、ナスは特に苗から育てたほうがいいと教えてもらったにもかかわらず、タネから育てて、今も毎日おいしい秋ナスを収穫しています。せっせと情報をかき集めているわりには、案外自己流にやっていても結果は大差ないような気がしました。人間が自然に手を加えるという意味では同じなのです。むしろ私の場合はいい加減に手を抜いていたから、もともと更地だった1年目の畑に自然の力が働く余裕が十分あったのかもしれません。

 9.1週のミズキの課題は「自己家畜化」についてでした。人間は自らを飼育し、家畜化しているという内容です。それぞれが自由な意思を持って生きているから、人間は家畜とは違うと思うかもしれません。けれども、人間自身がつくった社会システムに依存して暮らしているという点では、社会的に飼育されているとも言えるのです。そして、これまでの人間の歴史の中で進化発展をとげてきた科学や文明があるからこそ、現代の社会システムが成り立っているのであり、人間は快適に暮らすことができるのです。しかし、そのために自然の営みを軽視して自然を乱用してきた結果、地球は今どうなっているのでしょう?

 経済的な効率を優先した従来の農法に疑問を持ち、なるべく土地に負担をかけないで、自然の力を引き出すという自然農法は今や一般的にも広まっています。しかし、それを軌道に乗せるには長い年月を要します。じっくりと土や作物の状態を観察し、自然と向き合っていく姿勢が必要だからです。そして、自然の力に任せるのですから、当然人間の都合に見合った収穫を必ず確保できるとは限りません。けれども収穫したいがために土壌を改良し、肥料を与え、虫や雑草を排除するというやり方は、手間とお金をかけて自然の本来の営みをじゃましているだけなのかもしれません。人間は極力手を加えず、自然に人間の方が合わせるというのが自然農法の基本的な考え方なのです。

 福岡氏は農業の技法にとどまらず、自らの生活においても自然農法の考え方を貫きました。ほぼその半生を里の家族と離れ、山小屋での一人暮らしで過ごしたのです。電気、ガス、水道もないまさに自給自足の生活です。科学に依存する農法だけでなく、人間が作り上げた科学や文明そのものさえ否定し、自然と一体化した生き方を提唱し実践したのです。もちろん、今更全ての科学や文明を否定し、福岡氏のような生活を送ることはできませんが、秩序ある社会システムを維持しながらも、自然の営みを尊重した社会を目指すことは可能であるはずです。一人一人が社会の既存の情報に縛られることなく、自らの意思であるがままの自然に向き合う、つまりよりゆるやかな自己家畜化状態での自然との共生です。
 少し前ですが、言葉の森新聞5月2週号に「自然学習力」という記事が掲載されました。その中で、農業の分野では自然の生命力をいかにいかすかということがこれからの目標である、と述べていました。読み直してみて、改めて納得しました。

 最後になりましたが、福岡氏は「粘土団子」を用いて、砂漠化した土地を緑化する活動にも取り組みました。1979年に米カリフォルニア州の緑化に成功。アフリカやアジア各国でも指導にあたり、1988年にはアジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」社会奉仕部門を受賞しています。全世界での食糧の自給自足化をも目指した、福岡氏のご冥福を心よりお祈りいたします。
<<え2004/656み>>


■■全部見せない、教えない美学(はむはむ/はむら先生)
 夏の終わりの涼しい週に、奈良をサイクリングしてきました。もうすぐ平城京遷都1300年ということで、寺のほとんどは必ずどこかが改装中でした。
 平城京跡そのものは、今は広い草原のようです。ところどころに発掘跡や複製建造物を残していますが、この廃墟のだだっ広さが過去の栄華を逆に呼び覚まして、ちょっと感傷的になったりします。

  ヨーロッパの教会も「壁一面の鮮やかな色彩の宗教画」を頭に置いて見ると違って見える、と教えてもらいました。そうするとその石の小さな教会堂も全く地味でもストイックでもなく、天上の威厳を見せつけられるようなくらくらする眺めに変わりました。
 
「全部見せない、教えない」美学 とでもいうのでしょうか、これは視覚芸術だけでなく、書かれたもの、話されることすべてに共通していると思います。

 作文でも、時と場所、人物、状況、考え、などを過不足なく描写することが大事ですが、たとえば高学年で練習する「情景の結び」などは、読み手に「余韻」を与えてくれます。 「すてきなプレゼントをもらって家に帰り、それを家族に見せて一緒に喜んでもらい、とても嬉しかった。」とい終わる際も、「すてきなプレゼントをもらって、玄関の扉をあけた。」ところで終わると、読む人はその後を想像できて余韻が残ります。これは、読み手が書き手の状況や意識を共有しているからです。
 そして、読み手を引き込んで最後には作文の世界やその思考に導くために、作文のそこに至る描写や説明、説得があります。意見文でも最後に「・・・ではないだろうか」という疑問の形でありながら、「そうだその通りだ」と読み手を納得させることが出来ます。「全部話さない」のにそう思わせる技です。
 かなり高度な技ですが、読む側見る側に共通認識があれば可能です。

 廃墟は、ここにあったであろう 過去の繁栄の想像をかき立ててくれます。
 旧東ドイツ時代の戦争の廃墟を以前見ましたが、それは今はきれいに復元されているようです。私の想像上のバルコニーがあるのかないのか心配なので、今はちょっと見たくない気持ちです。
<<え2007/83jみ>>
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