言葉の森新聞2009年3月4週号 通算第1072号
文責 中根克明(森川林)
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■■新学期の教材は23日〜25日に発送予定
新学期の教材は3月23日(月)〜25日(水)に発送予定です。体験学習中の方にもお送りします。
国内の生徒で31日になっても届かない場合はご連絡ください。
★発送が月末になるため、4.1週の暗唱はできるところまでで結構です。
★項目シールと住所シールは、4月1週の山のたよりと一緒に送ります★
■■3月の作文送信及び読解マラソンの記録は28日(土)までに
3月29日(日)、ホームページのデータが一斉に入れ替わります。インターネットを利用して作文を送っている方は、3月の課題を3月28日(土)までに「作文の丘」から送信してください。それ以降は正しく送信できなくなります。
また、今学期の読解マラソンの記録も3月29日(日)までにお願いします。
■■中学生から受講料が変わります
小学生までの受講料は8,200円でしたが、中学生からは受講料が9,100円になります。4月の引き落とし分から受講料が変わりますので、ご了承ください。
■■【重要】作文検定模試
3月4週に作文検定模試を行います。課題は、山のたより3月4週号の末尾に掲載されています。
通信生徒の場合は、通常の作文と同様、自宅で書いて先生に提出してください。自宅で書く形のため、時間制限などができませんので、正式の作文検定ではなく模擬試験という扱いになります。
通学の生徒の場合は、時間制限のもとで行いますので、正式の作文検定となります。(課題は、通信教室とは異なるものを当日配布)
通信生徒でも、横浜市港南台の通学教室に来られる方は、正式の作文検定として受検できます。人数に制限がありますので、ホームページから事前に予約をしてください。
通学の生徒は、予約をする必要はありませんが、通常の曜日と異なる曜日に出席する場合は予約ページで予約をしてください。
予約のページ http://www.mori7.com/mori/yoyaku.php (3月21日(土)より受付開始)
通学教室の作文検定の日程は、3月23日(月)〜3月28日(土)(平日は午後4時から6時の間に入室。土曜は午前9時半から10時半の間に入室。時間は75分程度です)
なお、作文検定も作文検定模試も、今回は費用はかかりません。
検定結果の返却は4月下旬になる予定です。したがって、4月から退会される予定の生徒の場合は、検定試験ではなく通常の作文として添削したものを4月1週に返却します。
●作文用紙の1枚目に自分の住所シールをはってください。住所シールのないものは受け付けません。
●まだ作文検定模試を受けるには早いと思われる場合は、住所シールの余白に「作文」と書いておいてください。この場合、作文は翌週に返却します。パソコン入力したものを、作文検定模試ではなく通常の作文として提出する場合も、題名のあとに(作文)と入れてください。
●作文検定模試は、誤字などもチェックできるように、できるだけ手書きで書いてください。しかし、パソコンで入力したものを作文の丘から送ってもかまいません。
●学年別の字数の目標は、正味の文字数です。段落や改行の際の空白部分は字数には数えませんので、作文用紙で数える字数よりもできるだけ多めに書くようにしてください。しかし、字数の目標より長く書いても点数は増えません。
●課題についての質問は、事務局で受け付けます。担当の先生は、詳細については答えられませんのでご了承ください。
質問は、父母の広場 http://www.mori7.com/nohara/hubo/ 又は、お電話で0120-22-3987(平日9:00-12:00)
●作文検定模試の提出締め切りは、4月8日消印までです。それ以降に到着した作文は、通常の添削をして返却します。
■■全教科の理解力をつける暗唱
現在の入学試験は、志願者を限られた定員に抑えるために、点数の差が大きく開くような問題を中心に出されています。すると、それに合わせる形で、学校の中での勉強も、差がつくところを中心に教えられるようになります。学校の勉強が差がつきやすいところの学習中心になっていくために、それに合わせる形で、さらに入試問題も差をつける方向でテストをするようになっています。
このようにして、現在の大学入試は、受験の教科数を絞る一方で、その少数の教科の中で小さな差を大きく拡大するような問題になっています。このことは、日本の高校生の学力をかなりゆがめています。
これからの社会人には、全教科の知識が万遍なくあるとともに、専門の知識があるという学力が求められてきます。なぜなら、これからの経済は、農業、工業、情報産業のあとにくる知識産業の時代になるからです。従って、大学入試のあり方も、理系文系にかかわらず、幅広い教科の基礎学力をテストするような形になっていくと思います。
また、推薦入試のような形はできるだけ取らずに、受験で合否を決めるような形を入試の中心にするべきだと思います。なぜなら、子供たちの学力は、やはり受験に取り組む中で確実についてくるからです。
将来の大学入試は、全教科の基礎学力を確かめるテストがもっと重視されるようになると思います。ある教科は得意だが、ある教科は苦手というような学力ではなく、どの教科もひととおりできるという学力が要求されてきます。そのような幅広い学力に対応するためには、物事をトータルに把握する理解力が必要になってきます。このトータルな理解力に、暗唱という形の勉強が役に立つのです。
その暗唱をどのようにやっていくかという話をします。
以前、保護者の方からこういう話を聞いたことがあります。
「これまで、音読の自習はやっていたが、1月から暗唱という形の自習になって、自習を嫌がるようになった」
私は、それを聞いて、それは、これまでの音読の自習が実はできていなかったからではないかと思いました。
音読の自習はこれまでできていたが、暗唱の自習になったらできなくなったという話を聞くことがあります。
これまで毎日音読をしていた子は、その延長で暗唱もできるはずです。しかし、音読の勉強を自分の勉強部屋でやっていたとすると、実際に確実に音読ができていたかどうかはわかりません。
音読は、保護者のいるところで、例えば茶の間などでやっていくのが望ましいやり方です。なぜかというと、親が音読を聞いていると、子供の読み間違いがわかるからです。また、子供が長文を音読しているときに、その長文の話題をもとに親子の雑談ができるからです。親のいないところで子供がひとりで音読をするという形では、音読の効果はかなり薄くなります。
暗唱も同じです。子供部屋でひとりで暗唱させるよりも、親のいる前で暗唱させた方がよりよい暗唱ができます。ひとりで暗唱させると、子供はつい文章を覚えようとしてしまいます。すると、暗唱が難しくなります。覚えようとするのではなく、ただ繰り返して読むのだということを親が教えてあげるといいのです。
暗唱がどのぐらいできるかということは、その子の国語の実力を反映しています。100字の文章をなかなか覚えられない子は、やはり日本語の読解力の基礎ができていません。そういう子供たちも練習を続けていると、必ず前よりも早く暗唱できるなります。これは実際に読む力がついてくるからです。やればできるようになるという点で、暗唱の勉強は、音読の勉強よりも達成感のある勉強になっています。
暗唱ができるようになる時間は、大体次のような感じになります。
100字の文章を繰り返し音読をする場合を考えてみます。1回音読しただけですぐに暗唱ができるということはまずありません。これが、50字程度の文章であれば、1回読んだだけでもすぐに暗唱できます。50字と100字は、人間の短期記憶にとっては、質の違う長さなのです。
しかし、100字の文章でも、15回ぐらい繰り返し音読していると自然に覚えられるようになります。この100字15回の音読は、時間にして5分間ぐらいです。さらに続けて音読し、10分間まで暗唱を続けていくと、全部で30回ぐらい繰り返して音読することになります。このぐらい繰り返すと、意識せずに空で言えるような暗唱になります。ほかのことをしながらでも暗唱できるぐらいにしっかり身についた暗唱になってくるのです。
100字ずつの暗唱を3日間続けたあと、合計の300字を全部通して暗唱する場合は、次のようになります。最初に300字を通して読んでも、10分間ではなかなか暗唱できるようにはなりません。しかし、2日目には少しずつできるようになり、3日目には大体暗唱できるようになります。
個人差はありますが、毎日10分の練習で、1日100字の暗唱ができるようになり、1週間で300字の暗唱ができるようになるというのは、無理のない目標です。
しかし、やらなければできるようにはなりません。やればできるが、やらなければできないということがはっきりしている点で、暗唱の自習は、通常の音読の自習よりも勉強の確実性が増すのです。
この300字暗唱を小学校低学年から続けていれば、その子の読解力、表現力は確実についていきます。
読解力がつくのはなぜかというと、ある文章をしみじみと深く味わって読む力がつくからです。国語の問題文を読む場合、同じ文章を読み同じように理解したつもりになっていても、読む人の読解力によってその深さが違ってきます。深く読む力があると、その問題文に書かれている情景や心情の細部まで読み取ることができます。深く読む力がないと、あらすじのようなところまでしか読み取れません。どちらも同じように読んで、同じように理解しているつもりになっていますが、読み方の深さが違うのです。暗唱をしていると、1回読んで理解したはずの文章なのに、繰り返し読むにつれて違う味わいを感じるようになります。これは、繰り返しによって深く読む力がついてくるためです。
表現力がつくのは、文章のリズムが身につき、語彙を自然にたくさん覚えるようになるからです。また、暗唱をしていると、その文章で使われている句読点の位置などもそのまま覚えてしまいます。小学生の作文で、文のねじれを直したり、句読点の位置を教えたりする勉強をすることがありますが、そのような勉強はしないで済ませるというのが理想的な勉強の仕方です。病気になってから治すことに力を入れるのではなく、もともと健康でいるという勉強の仕方をしていくのです。
さらに、暗唱をすることによって、物事を丸ごと把握するという理解力がついてきます。これは、国語に限らず、ほかの教科すべてを含めた理解力につながっています。勉強のできる子は、得意教科と苦手教科の差があまりありません。どの教科も同じようによくできます。逆に、勉強のできない子も、得意教科と苦手教科の差があまりありません。どの教科も同じようにあまりできないからです。ですから、教科ごとの勉強に力を入れる前に、まず勉強力そのものをつけていくことが大事です。
ある事柄を丸ごと把握するような理解の仕方ができれば、全教科の勉強も同じようにできるようになります。
国語の勉強法としては、暗唱のほかに、筆写や要約があります。また、普通に問題集を解く練習もあります。いずれも、共通しているのは、ある文章を繰り返し読み取るという点です。ですから、いずれも効果のある勉強ですが、大事なのは、楽にできて密度の濃い勉強は何かということです。
密度の濃さとは、反復のことです。深く読むとは、ゆっくり読むことではなく繰り返し読むことです。問題集を解くよりも、問題文を読むだけの方が、何倍も密度の濃い勉強ができます。同様に、暗唱は、筆写や要約よりも密度の濃い勉強ができます。しかし、問題集を解いたり筆写をしたり要約をしたりする勉強の方が、形として残るので、勉強をしたという実感がわきます。
大事なのは、勉強をした形跡ではなく勉強の実質です。国語の勉強で実質を優先するならば、読書と暗唱に取り組むことが第一です。そして、読書と暗唱をすることによって、ほかの教科の勉強力もついてくるのです。
■■読む学習で頭をよくする
人間が大きく成長するには、生涯の一時期読書に没頭するような日々を送ることが必要なようです。勝海舟は自伝の中で、数年間閉門を命ぜられときに、多くの本を読んだと述懐しています。このような経験を持つ人は多いようです。
小学生の高学年のときにいったん教室を退会し、高校生で再開する子がいます。その再開したときに、学年相応に考えが深くなっている子と、身体や知識だけが成長して大きくなった子と二通りの子がいるように思います。
この差は、中学生時代の数年間に、読書をする時間があったかどうかによるのではないかと思います。
現在の学校教育の試験制度のもとでは、英数国理社の勉強をすることが人間の成長につながるような評価がされています。もちろんそれらの知識や技能は必要ですが、勉強だけに追われて読書をしないと、かえって頭が悪くなっていくのではないかと私は思っています。
小学校低学年の生徒で、家庭で行う勉強は、学校の宿題と何かのドリルだけというような生活を送っている子も多いと思います。その勉強が終わったあとはテレビとゲームを制限なくやっているという子もいると思います。そのために、学年が上がると習い事や塾に行かせるようになるのだと思いますが、勉強だけをしていても頭はよくなりません。家庭での読書の時間と対話の時間が確保できなければ、子供の思考力は成長しません。読むことによって頭はよくなるのです。
家庭生活で読む時間を確保するためにまず大事なことは、テレビやゲームの時間を制限することです。長い休みのときなどで、テレビやゲームの時間を制限しきれない場合は、読書とセットでテレビやゲームをするように工夫するとよいでしょう。
テレビやゲームなどの受動的な娯楽も、制限時間の範囲でやれば問題はありません。そして、制限があれば、子供たちは自然に自分でもっと創造的な遊びを開発していきます。木の切れ端だけでも、紙と鉛筆だけでも、いくらでも熱中できる遊びは見つけられるのです。
子供が家庭でテレビを受身的にいつまでも見てしまうのは、親が仕事から帰ってやはりそのように受身でテレビで見てしまう生活を送っているからです。
仕事をしてくたびれて帰ってきたので、横になってテレビをのんびり見る、というのは一見よくある休息のパターンですが、そういう形以外の休息もあります。仕事をしてくたびれたので、自分の好きな趣味をして休息するとか、ランニングをして休息するとか、読書をして休息するという人もいます。
子供も同じです、英語の勉強にくたびれたら、数学の勉強をして休息し、数学の勉強にくたびれたら、読書をして休息するという子もいます。遊んだり休んだりすることだけが休息ではないのです。
生活習慣を作るには、親の働きかけが必要です。現代生活の中では、テレビやゲームや塾や習い事によって、家庭の独自の文化は失われがちです。夕食が終わったら、読書の時間と対話の時間があるという家庭生活を作ることができれば、その文化は子供が成長したときにも引き継いでいけます。
そのためには、親が、学校での勉強よりもむしろ、家庭での読書や対話によって人間は成長するのだということをしっかり確信している必要があると思います。
■■作検模試の課題(ウェブ版のみ)
作検模試の課題は、3.4週の「山のたより」に表示されています。
郵送の言葉の森新聞には、印刷されていません。
●幼中、幼長、小1の課題とヒント(作文検定模試12級)
▼課題
自由な題名
▼項目
会話(キーワードは、「 」)
思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
▼字数の目標
200字
▼解説
「今日のこと」のような書きやすい題名で、そのときの会話と自分の思ったことを入れて作文を書きましょう。
●小2の課題とヒント(作文検定模試11級)
▼課題
自由な題名
▼項目
会話(キーワードは、「 」)
思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
▼字数の目標
400字
▼解説
「今日のこと」のような書きやすい題名で、そのときの会話と自分の思ったことを入れて作文を書きましょう。
●小3の課題とヒント(作文検定模試10級)
▼課題
自由な題名
▼項目
会話(キーワードは、「 」)
たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
▼字数の目標
600字
▼解説
「今日のこと」のような書きやすい題名で、そのときの会話とたとえと自分の思ったことを入れて作文を書きましょう。
●小4の課題とヒント(作文検定模試9級)
▼課題
ほっとしたこと・家族でどこかへ出かけたこと(どちらかの一つの題名を選んでください)
▼項目
会話(キーワードは、「 」)
たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
段落をつけて書く
▼字数の目標
800字
▼解説
第一段落で、説明を書きます。「私は夏休み、初めてひとりで電車に乗りました。その日は、……」など。
第二段落で、そのときの出来事を会話やたとえを入れながら書きます。「ポケットの中を見てみると、入れておいたはずのキップがありません。私はどきどきました。すると、……」など。
第三段落で、出来事の続きやもう一つの話題を入れます。「もう一つのほっとした思い出は、小学一年生のときです。それは、……」など。
第四段落で、感想を書きます。「私は、……と思いました」など。
必ずしも、段落のとおりに書く必要はありませんが、作文のどこかに必要なキーワードを入れて書きましょう。
●小5の課題とヒント(作文検定模試8級)
▼課題
私の好きな日・私の先生(どちらかの一つの題名を選んでください)
▼項目
体験実例(キーワードは、私、わたし、僕、ぼく、体験、経験)
たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
わかったこと(キーワードは、わかった、分かった、わかって、分かって)
段落をつけて書く
常体で書く(敬体の「です」「ます」「でした」「ました」などを使わない)
▼字数の目標
1000字
▼解説
第一段落で、説明を書きます。「私の好きな日は、二つある。一つは、家族で食事に行く日、もう一つは、天気のいい日曜日だ。それは、……」など。
第二段落で、会話やたとえを入れながら実例を書きます。「先週の土曜日、家族で近くの回転寿司に行った。そこで……」など。
第三段落で、第二の実例を書きます。「私は、日曜日が好きだ。それは、……」など。
第四段落で、わかったことを書きます。「私は、好きな日があると、生きていることが楽しくなるとわかった。」など。
必ずしも、段落のとおりに書く必要はありませんが、作文のどこかに必要なキーワードを入れて書きましょう。
●小6の課題とヒント(作文検定模試7級)
▼課題
私の家・私の料理(どちらかの一つの題名を選んでください)
▼項目
体験実例(キーワードは、私、わたし、僕、ぼく、体験、経験)
たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
一般化の主題(キーワードは、人間、人)
段落をつけて書く
常体で書く(敬体の「です」「ます」「でした」「ました」などを使わない)
▼字数の目標
1200字
▼解説
第一段落で、説明を書きます。「私の家は、駅から十五分ぐらい歩いたところにある。ここに引っ越してきたのは、私が……」など。
第二段落で、会話やたとえを入れて実例1を書きます。「土曜日の夕方は、居間でみんなでゲームをすることもある。この間、……」など。
第三段落で、実例2を書きます。「この間、友達の家に遊びに行った。すると、……」など。
第四段落で、人間という言葉を入れながら大きい感想を書きます。「家というものは、人間にとっていちばんリラックスできる場所だと思う。私はこれから……」など。
必ずしも、段落のとおりに書く必要はありませんが、作文のどこかに必要なキーワードを入れて書きましょう。
●中1の課題とヒント(作文検定模試6級)
▼課題
長文「いつから世の中が矛盾を」を読んで感想文を書きなさい。
▼項目
是非の主題(キーワードは、よい、大切、大事、重要、べき)
複数の理由(キーワードは、理由、なぜ)
反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
段落をつけて書く
常体で書く
▼字数の目標
1200字
▼長文
いつから世の中が矛盾を恐れるようになったのか知らないが、頭から悪いものと決めてかかっている人が多い。白が黒であって、空腹のときはものを食わない、などという話が横行してもはた迷惑であろうが、雨が降れば天気が悪いといった理に合いすぎた命題でいっぱいになってもことである。
どうも、矛盾には、良いものと悪いものがあって、嫌われる、いわゆる矛盾は、良いものを除外して考えているようである。劇薬には病気を治すものがたくさんあるが、不用意に使えば命とりになりかねない。どれもこれも毒として敬遠した方が安全である、というのにいくらか似たところがある。
同じ平面の上を、反対方向から進んで来た二つの同じ力がぶつかれば、両者は互いに相殺し合って、運動のエネルギーは消滅してしまう。避けなくてはならない矛盾とはこの相殺の論理のことであろう。数学的に言えば、プラスとマイナスの和である。プラス5とマイナス5を加えるとゼロになる。無為無能の状態である。こういう結果を招くような対立と矛盾がつまらぬものであるのははっきりしている。
こうして、一度、矛盾が不毛だと知れると、われもわれもと論理性へ走る。かくして、論理はかくれた信仰の一つにすらなっていると言えそうである。
論理が前提としているのは、同一次元での一貫性のある連続である。飛躍はいけない。テーマの錯乱もこまる。一筋に論理の糸がつながっているのが純粋で、美しいと感じられる。これなら、対立や撞着もしのびこむ余地がなくて安心である。
しかし、このように戦々恐々として一筋を守らなくては乱れてしまうのであるとしたら、いわゆる論理とは何と貧寒なものだろう。論理的一貫性とは、裏返してみれば、同類同質的なものが猫の子一匹も通さぬような近接状態で数珠つなぎに並んでいることにすぎないではないか。
人々は、しかし、いわゆる論理なるものが塩の入らぬしるこのように間の抜けたものであることを直観で感じてはいる。口に出して言うのをはばかっているにすぎない。芸術では、この単純な合理にいろいろと仮名をつけて、そっとお引き取り願っている。この平面論理という暴れん坊に踏み込まれたら、いかなる芸術の花も台なしになってしまうからである。詩における理屈はその一例であるにすぎない。月並みの句などということばは、かすかな平面的連続を敏感にかぎつけて、それを嫌ったものと見ることができる。
(外山滋比古「省略の文学」から)
相殺(そうさい)撞着(どうちゃく)前後が食い違ってつじつまが合わないこと
▼解説
第一段落は、身近な実例。二人の会話がかみあわないことで笑いを取る漫才の話など。そこから続けて、矛盾はよいと思うという意見を書きます。
第二段落は、その理由です。矛盾から新しい発見や新しい創造が生まれるという実例を書きます。例えば、友達との会話でも多少のずれがあったほうがおもしろいし、そこから話題が広がるなど。
第三段落は、もう一つの理由です。矛盾がないとつまらないという実例を書きます。カラオケでも譜面どおりに正確に歌うより、多少崩して歌った方が自分らしさが出ておもしろいなど。
第四段落は、反対理解と意見。確かに矛盾ばかりでは世の中は混乱してしまうだろう。しかし、矛盾の良さにも目を向けるべきだ、などとまとめます。
●中2の課題とヒント(作文検定模試5級)
▼課題
長文「ラレルは、四つの仕事を」を読んで感想文を書きなさい。
▼項目
総合化の主題(キーワードは、いちばん大切、いちばん大事、いちばん重要、一番大切、一番大事、一番重要、最も大切、最も大事、最も重要)
複数の意見(キーワードは、意見、見方、考え)
反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
段落をつけて書く
常体で書く
▼字数の目標
1200字
▼長文
ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつによく働く勤勉な助動詞である。もとより、これを助動詞とは認めず、接尾語とする説(時枝文法)もあるが、それはとにかく、助動詞ラレルの四つの仕事とはこうである。
一、「せっかく買った週刊文春を盗られた」というふうに、他からの動作や働きを受けることを表す。つまり受け身を表す。
二、「社長が週刊文春を手に入って来られた」というふうに、動作をする人に対する敬意を表す。つまり尊敬を表す。
三、「週刊文春はおもしろく感じられる」というふうに、しようと思わなくても自然にそうなるということを表す。つまり自発を表す。
四、「この図書館では週刊文春が見られます」というふうに、あることができるということを表す。つまり可能を表す。
ら抜き言葉は、四番目の「可能」において頻繁に現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働き者で、右の四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側のわたしたちから見ると、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさい助動詞だということになる。だったらラレルの負担を少し軽くしてやったらどんなものか。わたしたちは、心の底でこんなふうに考えている。もっと言えば、ラレルの使い分けは七面倒すぎるから少し整理して簡便にしようというわけだ。こういう性向を言語経済化の原理と称する。口は希代の怠け者、なにかというとすぐ手抜きしたがるのである。
同時に、日本語にはもう一つ、複雑で面倒なものがあって、それが敬語である。しかもそれはただ複雑でめんどうなものであるだけではなく、使い方を誤ると、人間関係が壊れてしまうなど、それはもう大変なことになる。そこで「見られる」「来られる」「起きられる」など、正規のラレルに敬語(尊敬)の表現を任せることにした。その一方で、とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜きのレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。日本人がどこかで大集会を開いてそう談合したわけではないが、自然にそういうことになったのではないか。……と、まあ、こういうことなのだろうと思われる。さらに付け加えるなら、ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもあるかもしれない。いずれにしても、ら抜き言葉を認めるかどうかは、二十世紀日本語の重大問題の一つにはちがいない。というのもだいぶ以前からこの是非については議論があったからである。『実は、この言い方は、松下大三郎という、日本語を深く研究した文法学者の『標準日本文法』という本(一九二四年出版)にすでに注意されています。「起キレル」「受ケレル」「来レル」という言い方は、「平易な説話にのみ用い、厳粛な説話には用いない」とその本にあります。』(大野晋)
国語学者の神田寿美子さんによれば、川端康成の『雪国』(一九三五年)にも「遊びにこれないわ」という例があり、一九四三年(昭和十八)年には「日本語」という雑誌に、『「られる」といふべきところを「れる」といふ人が相当多く、しかも知識人の書いたものにまでしばしばこのやうな用法が現れる。例へば、「駈けられる」を「駈けれる」、「綴じられる」を「綴じれる」』と書くのは遺憾であるという記事がでているそうだ。このように、ら抜き言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし次第に多く使われるようになってきたのである。たしかに、ら抜き言葉は手抜きである。しかしそれには理由があった。では、日本語によって生きている者の一人として、君は、ら抜き言葉を、そうなった理由を認めるのか。こう問われるならば、答えは否。言語というものはその本質においてうんと保守的なものである。そこで、そう簡単には言語多数決の原理だの言語経済化の原理だのを受け入れれない。いや、受け入れられないのである。
時枝文法(ときえだぶんぽう。時枝は人名)接尾語(せつびご)頻繁(ひんぱん)七面倒(しちめんどう)簡便(かんべん) 性向(せいこう)称する(しょうする)希代(きだい)怠け者(なまけもの)厳粛(げんしゅく)駈ける(かける)綴じる(とじる)遺憾(いかん)
▼解説
第一段落は、言葉にまつわる身近な実例。「日本語の敬語は、日本人にとってもわかりにくいところがある。間違えやすいのが『いただく』と『めしあがる』だ。このほかにも……」など。
第二段落は、意見Aと実例。「確かに、古くからある正しい日本語を守っていくという考えもわかる。これは言葉に限らず、文化全体についても言える。例えば、日本には年長者を敬うという文化がある。合理的に考えれば実力で評価した方がよい場合でも、多くの場合、実力よりも年齢を優先する。それは……」など。
第三段落は、意見Bと実例。「しかし、新しい便利な考え方もどんどん採用していくという意見にも一理ある。『見れる』『食べれる』という言葉を使うことを多くの人が使っているのであれば、それをそのまま正しい日本語と見なすというのも一つの考えだ。これは、もちろん、言葉以外の文化についても言える。例えば……」など。
第四段落は、総合化の意見。「したがって、いちばん大事なことは、古くて正しいものがよいか、新しくて便利なものがよいかということを評論家的に考えることではない。言葉や文化は生きているのだから、どういう文化を作っていくかということは、自分たちがどういう社会を作っていきたいかということである。大事なことは、これらの問題を自分たちの問題として考えていくことである」など。
●中3の課題とヒント(作文検定模試4級)
▼課題
長文「創造には、情念の力がいる」を読んで感想文を書きなさい。
▼項目
生き方の主題(キーワードは、生き、人間)
複数の方法(キーワードは、方法、そのためには)
反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
段落をつけて書く
常体で書く
▼字数の目標
1200字
▼長文
創造には、情念の力がいる。芸術における創造はもちろん、あらゆる学問にも、また日常生活にもそれはいえることだろう。では、この情念は具体的にどのような情念なのか。
エジソンの言葉に、「必要は発明の母である」(Necessity is the mother of invention)というのがある。何か必要であって発明あるいは創造が生まれるという意味だが、問題はこの「必要」という言葉の解釈である。
「必要」は、英語でおもに二通りの表現の仕方がある。ニーズとウォントである。だが、同じように「必要」と訳されながら、この二つの言葉の実際の意味は、かなり違うのだ。
「ニーズ」という言葉は、空間的にいえば、外部の状況を判断して、割り出した必要性であり、時間的に見ると、過去から現在にかけて人間が経験したこと、得たものを基準にして割り出した必要性という意味に使われる。これに対して「ウォント」は、自分の内部から出てくる必要性であり、現在と未来に時間軸をとった上での必要性を意味している。すなわち、欲望とか欠乏を内包した「必要」がウォントの由来なのだ。
余談になるが、よく企業のパンフレットなどに、「消費者のニーズをよく捉えて……」などと書かれているが、この表現はあまりよいとは思えない。ニーズというのは要するに過去の知識から割り出しただけのものであるから、そんなことをやっていたら企業は立ち遅れてしまう。それを書くならば、「消費者のウォントを見抜いて……」と書くべきだろう。
とにかく、ニーズは、理性による判断から生まれた「必要」、ウォントは現在の自分の中にある何かとてもいたたまれないような、場合によってはたまらなく爆発したくなるような情念から生まれた「必要」という具合に解釈してもいいだろう。私は、創造にはもちろんニーズもなければならないが、どこかの時点でウォントが生まれないとダメだと思うのである。つまり、創造活動を支える背景には「こんなものが創れたらいいな」と無心に思う欲望の念や、欠乏しているものをひたすらに求める渇望の念がなければならないと思うのだ。
若い読者諸君には特にこのことを強調しておきたい。自分の将来を決めていくという時に、いろいろな情報がある。例えば、自分の偏差値がこの程度だからあの大学のこういう学部にいこうとか、こういう職種が有望だからこの企業に就職しようという具合に、いろいろな情報からニーズを割り出して進路を決める人が非常に多い。
しかし、そういう決め方をした人は何らかの方法でニーズから割り出したものが、ウォントに切り替わらないかぎり、どこかで挫折するのではないかと思う。「自分はこの学問をしたいんだ」「私はこの仕事につきたいんだ」というウォントをもった意志力がなければならないのである。
グロタンディエクやザリスキー先生のように、想像を絶する逆境の中を生きてきたハングリーな数学者が優れた業績をあげたのは、一つには、ウォントという情念が常に彼らを動かし続けたからに違いない。
ものを創る過程には、総じて飛躍というものが必要である。創造しようとするものが、過去に類を見ない新しいものであればあるほど、なおさら、飛躍することが大事になってくる。そして飛躍するには、内なる欲望の力を借りなければならないのである。飛躍の原動力はニーズではなく、ウォントだと私は考えるのだ。
(広中平祐「生きること 学ぶこと」)
▼解説
第一段落は、説明と意見。「私は、『必要だからする』というのではなく、『したいからする』」という内なる熱い動機を大切にする生き方をしたい。」
第二段落は、方法1と実例。「そのための方法としては第一に、目標を定め、その目標を実現させるという強い信念を持つことだ。」将来の夢を実現させたいという強い思いがあれば自然とやる気が湧き出てくるものです。高校受験にしても、志望校が具体的に決まっているのとそうでないのとではやる気が違いますね。
第三段落は、方法2と実例。「また、第二の方法としては、社会の固定観念に惑わされないことだ。」いい大学を出ていい会社に就職して……という狭い考え方にとらわれていたのでは、結局は「必要だからする」という考え方に流されてしまいます。内なる熱い動機を大切にするためには社会の固定観念に惑わされず自分の心の叫びに耳を傾けなくてはなりません。
第四段落は、反対理解とまとめ。「確かに、今やらなければならないことを見きわめることも大切だ。しかし、私は自分の内側から湧き出るような熱意を大事にして物事に取り組んでいきたい。」
●高1、高2、高3、社の課題とヒント(作文検定模試3級)
▼課題
長文「知人に『釣り』を」を読んで感想文を書きなさい。
▼項目
当為の主題(キーワードは、べき)
複数の方法(キーワードは、方法、そのためには)
反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
自作名言(キーワードは、ではなく)
段落をつけて書く
常体で書く
▼字数の目標
1200字
▼長文
知人に「釣り」をするのがいる。ただし、趣味というわけではない。「その間だけ何も考えずにいることが出来るんだ」と、彼は言っている。「パチンコ」をする、というのもいる。これも、景品をせしめようとか、そのこと自体が楽しいから、というのではない。「あれをしていると一時的に空白になっていられるからね」と言うのである。
このほか「料理」をするというのもいれば「推理小説」を読む、というのもいる。いずれも、仕事としてそれをやっているのでもなければ、趣味としてそれを楽しんでいるのでもない。奇妙な言い方ではあるが、それらをすることによってしか、「何もしていない」状況が維持出来ない、というわけだ。
これを、趣味の堕落と言うべきか、趣味とは本来そのようなものであると言うべきか、よくわからない。ともかく現在、「何もしないでいる」状態を、「何もしない」ことで維持することは難しいのである。ぼんやりしているとこれまでの仕事の続き、これからの仕事の予定などが襲来し、「あれをこうして、これをああして」と、たちまちいたたまれなくなってしまう。「何もしないでいる」ためには、「そうでないこと」を真剣にやることによって、それらを締め出してしまわなければいけないのである。
もちろん「それほどまでにして、何もしないでいる状態なんか作り出さなくたっていいじゃないか。」と、よそ目にはそう思える。しかし、そうではない。前述した理由で「釣り」をしたり、「パチンコ」をしたり、「料理」をしたりしている人々を見れば、よくわかる。彼らは、酸素の足りなくなった水の中の金魚が、水面に出て口をパクパクさせるように、かなり切迫して「何もしないでいる」ことを求めているのである。
日常生活における「何もしないでいる」時間というのは、芝居の「暗転」や「幕間」と似ている。多くの観客がここでホッとするのは、こらえていたオシッコをするためにトイレに駆けこめるからではない。無意識にではあれ、それまで「流れ」として連続していた時間を、「積み重ね」として体験し直すことが出来るからであり、その呪縛から逃れ出ることが出来るからである。
「時間は、流れるものではなく積み重なるものである。」という何かのコマーシャルにテレビで時々お目にかかるが、我々は、恐らく、この「流れる」時間と、「積み重なる」時間の双方を交互に体験することになっており、ただここへきて「流れる」時間の呪縛力が強くなっているのだろう。それを「積み重ねる」時間として体験し直すための「暗転」と「幕間」が、日常生活の中でつかまえ難くなってきているのかもしれない。
もちろん、「睡眠」ということがある。これまで我々は、「眠ること」によって、「流れる」時間を「つみ重ねる」時間として体験し直してきたと言えるだろう。日が変わり、週が変わり、月が変わり、季節が変わり、年が変わるごとに、我々は「流れ」を「情み重ね」に切りかえてきたのである。しかしどうだろうか。「不眠症」が増えたり、それでなくとも「眠り」が浅くなったというものが増えているように、日や週や月や季節や年の「変わり目」のメリハリも、何となく薄れてきつつあるような気がする。
つまり「流れる」時間については、放っといても体験出来るし、むしろそれに呪縛されている感が強いのだが、「積み重ねる」時間については、我々自身が意識し、工夫しなければ体験出来ないことになりつつあるのではないだろうか。「暗転」と「幕間」を、個々人が日常生活の中で意識的に作り出さなければいけないのであり、そうしないと酸欠状態に陥って、呼吸が出来なくなるような気配すら感じるのである。
ここへきて、特にこうした感じが強いのは、もしかしたら例の、「情報化社会」というのと無関係ではないかもしれない。「情報」が多様で、断片的な、局部的なものであればあるほど、我々は自分自身を連続的に維持しようとするのであり、結局「流れ」としての時間から逃れられなくなるのであろう。
かつての「趣味人」は、「流れる」時間からちょっとはずれた所にいて、「積み重ねる」時間の中で、何ごとかをしていた。その知恵を、現代人が学びはじめた、ということかもしれない。ただし、前述したように現代人のそれは、必ずしも趣味とは言えない。現代のそれは、「情み重ねる」時間の中で「何ごとかをしている」ことよりも、「流れる」時間の中で「何もしていない」ことの方が重要で、必死になってそれにすがりついているからにほかならない。
最近、「釣り」も「パチンコ」も「料理」も、「推理小説」も流行っているらしいが、それはそれら自体の手柄ではない。それらは「何もしないでいる」ための手続きにすぎないのだ。
(別役実「カナダのさけの笑い」による)
幕間(まくあい・まくま)
▼解説
第一段落は、説明。「流れる時間」と「積み重ねる時間」がキーワード。「流れる時間」というのは、過去から原因をひきずり未来に向かって目的や結果をひきずる時間のことだが、そういう時間と一緒に流れているだけでは、自分を回復する時間というものがなくなってしまう。
「積み重ねる」時間は、我々自身が意識し、工夫しなければ体験できない。現代においては、「流れる」時間の中で「何もしていない」ことの方が重要で、必死になってそれにすがりついている。「私たちは意識した時間の中で休息を見出すべきである。」
第二段落は、方法と実例。「第一の方法としては、探求できるような趣味を持つことだ」。例えば、自分の趣味が、単なる時間つぶしだと思うのはさみしいね。どんなことであれ、腕を挙げよう、もっと知りたいといった意欲をもっていると、それは自分の意思で行う趣味になる。すると、趣味のための時間は「積み重ねる時間」になるはずです。
第三段落は、方法2と実例。「第二の方法としては、拘束時間を評価するのでなく、なし遂げたことを評価するような社会を作ることだ。」労働時間がフレックスタイムになったり、さまざまな休暇を申請できるようになったり、自宅勤務といった方式も出てきました。満員電車に揺られる人生はもう古い?
第四段落は、反対意見への理解を入れながらまとめ。「確かに、何もしないというリラックスも有効ではある。しかし、私たちは自分の意識的な休息をもつべきである」など。
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