言葉の森新聞2009年4月3週号 通算第1075号
文責 中根克明(森川林)
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■■新しい学校生活のスタートに向けて
中学、高校、大学受験が終わって、新しい学校の生活が始まった人も多いことでしょう。
受験の結果、目標よりも上の学校に入った人も、目標より下の学校に入った人もいると思いますが、それらはすべて途中経過です。これから、どう勉強していくかということがいちばん大事です。
目標よりも上の学校や目標どおりの学校に入った人は、そこで安心しないことです。いい学校に入ったから、あとは学校に任せていれば大丈夫というわけにはいきません。勉強は、学校が教えてくれるものではなく、自分がするものです。これまでの受験勉強と同じように、自分なりの勉強時間を確保して学力向上に取り組んでいってください。中学受験をした人は、これまでの小学校6年間よりも大きく変わるのがこれからの中学3年間です。高校受験をした人は、これまでの中学校の3年間よりも大きく変わるのがこれからの高校3年間です。大学に合格した人も同じです。今はまだこれまでの勉強の惰性で学力がついていますが、これからの勉強の仕方次第で3年後又は4年後の学力は大きく変わります。ぜひ、意識的計画的に勉強に取り組んでいってください。
目標よりも下の学校に入った人の中には、その悔しさをばねにして大きく伸びる人が必ずいます。しかし、大部分の人は悔しさを感じるほど下の学校ではなく、ほどほどに下の学校に行くことが多いでしょう。その場合、全体を通して見ると、やはりその学校のレベルにあった学力になっていきます。例えば、実力のほとんど同じA君とB君が受験をして、A君は難しいA校に入り、B君は易しいB校に入ったとします。B君がその易しい学校でいい成績を上げて勉強が得意になるというケースもありそうですが、実際には、B君はB校全体の水準に合うような学力に落ち着いていきます。なぜかというと、B君を取り巻く環境である友達や先生が、無意識のうちにB君の勉強の程度を決めてしまうからです。逆に、A校に入ったA君は、始めは苦労しますが、だんだんと友人や先生の求める水準まで行くのが当然という勉強の仕方になります。もともとの実力は同じぐらいであっても、この無意識の勉強の目標水準が違うことで、A君とB君の学力の差は広がっていくことが多いのです。
では、目標よりも下の学校に入った人は、どういう勉強をすればいいのでしょうか。それは、学校の成績をあてにしないことです。学校でどういう成績を取ったかということには関係なく、全国的な模擬試験などを基準にして勉強を進めていくのです。学校での成績をよくすることにはあまり関心を向けず、自分の本当の学力をつけていくことに関心を向けるのです。しかし、ひとりだけそういう浮いた形で勉強をするのが無理だということも多いでしょう。その場合は、幅広い読書をすることです。大学入試の勉強は、1年間本気で勉強すればかなり実力がつきます。高3の1年間は、高1と高2の2年間の何倍もの密度があります。同じように、浪人の1年間は、高1から高3の3年間よりもずっと密度の濃い1年間になります。勉強は、本気になったときからが勝負ですから、まだ本気になれない時期にがんばろうとするよりも、本気になれない時期は幅広い読書で教養を身につけておくと考えればいいのです。その読書は、将来、受験勉強よりもずっと大きな財産になります。しかし、読書は当面の受験勉強にはほとんど役立ちません。その役立たないしかし重要な読書を、空いている時間にできるだけしておくのです。
以上、ひとことで言うと、学校に任せずに自分で目標を立てて勉強すること、勉強する意欲がわかないときは読書をすること、ということになると思います。
■■未来の社会と教育
社会は大きな変動期にあります。今、目の前に見える状態に合わせて生きているだけでは不十分で、未来がどういう社会になるかを考えていかなければなりません。それは、教育や子供の成長には時間がかかるからです。昔のように身分制の停滞した社会では、未来のビジョンは考える必要はありませんでした。与えられた課題をこなしていれば十分だったからです。大井川の川渡しの家に育った子供は(というのはかなり特殊な事例ですが)、いかにうまく客を運んで川を渡るかということだけを熱心に研究していればよかったのです。しかし、明治維新になり大井川に橋がかかると、自分の仕事の前提そのものが変わってしまいました。これは、川渡しの人に限らず、明治時代の多くの人が多かれ少なかれ経験してきたことです。
しかし、社会の変革は、流される立場の人にとっては災難ですが、その流れに乗る人にとってはチャンスです。これから世の中でどういう変化が起こるのかを考え、その変化に対応した教育を考えていく必要があるのはそのためです。しかし、それは現在の教育や社会を軽視するものではありません。現在での教育にもしっかり対応していく必要があるが、その先にあるものを考えていくということです。
言葉の森の生徒のみなさんは、勉強が苦手だから来ているという人はむしろ少なく、勉強は得意だがそれだけでは物足りないので何か面白いものを学びたいという人の方が多いと思います。もちろん、苦手を克服するために来てくれるのは大歓迎ですから、苦手を克服しつつそれにプラスαの勉強をしていくというふうに考えていただいてもいいと思います。私事になりますが、私のうちの子供2人も小1から高3まで言葉の森で勉強をしましたが(高3のときは受験のためさすがにあまり提出しませんでしたが)、国語や作文は最初から普通かむしろ得意でした。では、言葉の森で何を得たかというと、長文の面白い話が身についたこと、自分の作品が記録に残ったこと、親子の対話が楽しめたこと、そして、国語や作文がさらに好きになったこと、などだと思います。
現在の教育は、テスト中心の教育です。そのテストに対応する形で勉強の努力が行われます。しかし、みんなができるようになると、その努力を上回るようなテストの問題が作られるようになります。なぜなら、テストの目的は、差をつけることにあるからです。もちろんこれは選抜テストの場合です。世の中には到達度を評価するという目的のテストもありますから、そういうテストの場合は、全員ができるようになることが目的になります。
選抜を目的としたテストの場合、努力に応じて難しくなったテストの問題に対応するために、勉強の技術が生まれます。しかしその技術が普及すると、やがてその技術をいかにこなしたという努力の差がテストの差になってきます。この場合の努力とは、勉強にかけた時間に換算される努力です。つまり、テスト、技術、努力の三つの要素がお互いに影響し合いながら、らせん状に学力を高めていくという仕組みが現代の教育を特徴的な姿です。現代社会に生きていると、教育のスタイルはこういう形でしか考えられませんが、歴史的には教育はさまざまな形で行われていました。明治維新前の若者たちの勉強は、テストのためというよりも、純粋な向上心によるものだったと思います。長い歴史で見ると、テストのための勉強という時代はむしろ少なく、ほとんどが自分自身の知的好奇心や向上心からの勉強だったでしょう。
選抜テストが目指す教育の目標と、社会が求める必要な人材の方向は、大体において一致していると考えられます。しかし、テストは、評価の方向が人為的に作られているので、社会が求める人間像からしばしば逸脱してきます。中国の科挙などは、社会体制を維持するための試験制度でしたが、その試験制度が有為な人材を社会の重要な役割につけていたとは言えませんでした。なぜなら、科挙によって成り立っていた中国の社会は、近代化の波に大きく乗り遅れ、その後の中国の植民地化を招いたからです。それに対して、同じ時代の日本の青年は、テストのための勉強ではなく、自らの向上心による勉強に取り組み、その青年たちが、日本の近代化を大きく進めました。つまり、社会が本当に求める人材と青年たちの自主的な勉強が一致していたのです。
さて、明治維新のような激動の時代でない平和な時代では、社会とはその時代の身分制社会をあらわしています。身分制などというと、それは江戸時代までの士農工商の話であって、現代の社会にはあてはまらないと考える人もいますが、必ずしもそうとは言えません。現代もこれからも、社会の背後には、ある一定の上下関係を維持しようとする力が働いています。これが広い意味の身分制です。日本は比較的平等な社会ですが、世界にはまだ独裁制や貴族制の社会が数多くあります。また、表面は民主主義と平等の社会であっても、人種や宗教による隠れた身分制が存在している社会もあります。それらの社会によって構成された国際社会では、さらに国際的な力関係があります。G8、G20、常任理事国、非常任理事国の差は、国際的な身分の差です。こう考えると、身の回りでは民主主義が成立しているように見えても、社会の基調は身分的な上下関係で成り立っているというのが現実に近い見方です。しかし、それは、必ずしも身分制が悪いということではありません。もともと集団生活を営む性質を持つヒトという種は、グループを形成して生活するのが一般的で、そのグループの中では必ず身分的なものが生じてくるからです。つまり、身分というのは、純粋な力関係ではなく、ある力関係を維持する方向に働く仕組みなのです。
社会におけるテストの役割ということから考えると、テストの性格というものが出てきます。つまり、テストは、社会又はその学校が求めている人材を目標にして作られています。だから、テストのための勉強をするには、ただ学力をつけるだけではなく、どういう問題が出るのか、つまりその学校がどういう人を求めているのかをを見なければなりません。これが、過去問を最優先して行う意味です。漠然とした勉強をして、その結果としてテストを受けるというのではなく、テストに合格するための勉強をするというのがテスト勉強では大事なことになります。しかし、この当然のことがわかっていない人が高校3年生でもとても多いのです。(私もそうだったと思うので、あまり言えませんが。^^;)
学校での勉強の多くは、勉強のための勉強になっています。勉強の達成度を定期テストなどで評価するというのが学校内でのテストの目的です。しかし、入試というテストは、そういうテストとは正反対の性格を持っています。学校の定期テストなどは、達成度評価テストです。入試などのテストは、選抜テストです。選抜テストに取り組むためには、その選抜の方向を分析する必要があるのです。
選抜テストが目指しているものを分析することに加えて大事なことは、選抜テストのための技術を有効に使うということです。評価されるのは潜在的な学力ではなく、顕在化された得点力です。選抜テストでは、この生徒は点数は低いが見込みがありそうだから合格させようということはありません。そういう選抜の仕方では、客観性とスピードが保証されないからです。
得点力を高めるためには、真面目な努力だけではなく、得点を上げるための技術が欠かせません。例えば、昔の英単語帳はアルファベット順でした。その後、試験に出る頻度順の英単語帳が出ました。こういう発想の差が技術の差です。志望校によっては、必ず出る分野とまず出ない分野とがはっきり分かれています。それを見極めるのも技術です。今、記憶術が盛んですが、記憶術のノウハウを勉強に使うというのも技術です。
選抜テストに勝つためには、努力だけではなく、作戦や技術が大事です。戦争に勝つためには、個々の戦闘だけではなく、戦略や戦術で勝つことが必要だということです。長篠の戦いでは、個々の戦闘力は武田勝頼軍の方が上だったでしょう。しかし、戦術力で織田信長が勝利しました。太平洋戦争では、日本は個々の戦闘や戦術では当初勝利を収めました。しかし、展望のない戦争に巻き込まれるという大きな戦略面で最初から敗北していたのです。
中村天風の本で、太平洋戦争が始まった直後、天風が東条首相を訪ね、「今なら間に合う。すぐ戦争をやめなさい」と言ったという話が出ています。話は少し脱線しますが、いい話なので、一部を引用します。
「あなた方は陸軍の将校で、軍服を着ていられるおかげで、弾丸雨あられと飛び散る中にも行かずにすんでいる。それは、今こうしている間でも、永らえば将来国家の発展に役立つであろう、若い有為な人材が命を散らしているおかげである。この事実にどうお応えになるのか、ぜひ話をお聞きしたい。それができなければ私が申し上げる。もうだいぶ時期遅れだが、それでも今すぐなら戦争から手を引ける。今しかない。もうやめなさい。」(天風が東条首相に言った言葉。「実録中村天風先生人生を語る」森本暢著より)
日本には、優秀な若者がいて、優秀な戦闘機や戦艦がありました。しかし、肝心の戦略が大きく誤っていたのです。勝利のためには、個々の戦闘や戦術よりも、いかに戦略が大事かということです。しかし、ここで言う勝利は、単に敵国に勝つための勝利ではなく、よりよい世界を作るための勝利と考えておくべきでしょう。
規模は違いますが、勝利を目的とする点では選抜テストも同じです。テストに勝つためには、過去問を分析するという戦略と、勉強法を工夫するという戦術が大事で、真面目に勉強するという個々の戦闘は受験生ならだれでも大した差はありません。戦闘というのは、一日何時間勉強するかということですから、その時間数が勝敗を決するわけではないのです。昔、四当五落(四時間の睡眠で勉強するなら合格するが五時間では落ちるという意味)という言葉がありましたが、そういう発想自体が視野の狭い戦闘だけを見た発想で、実際に合格した人は、ほとんどが7、8時間の睡眠をしっかり取っています。つまり、勝敗を決するのは戦闘の問題ではないのです。夏休みや日曜日などで学校や塾の勉強時間がないときの大学受験生の時間配分は、睡眠8時間、勉強8時間、その他8時間ぐらいでしょう。1日8時間ぐらいが、最高の勉強時間の幅になると思います。私が高3のときは、夏休み1日5時間を目標に勉強をしていましたが、それでもかなり大変でした。ということは、今考えればかなり甘い勉強をしていたということになります。
なお、勉強というのは、学校に行ったり予備校に行ったりすることではありません。自分で計画を立てて自主的に行う勉強です。本気で勉強する気のある人は、どこかに通って人に教わってするような勉強は時間がもったいないと感じると思います。教わるのは最低限にとどめて、できるだけ自分で勉強することが大切です。
しかし、本当に大事なことは、そのテストのための勉強先にあるのです。
選抜テストは、その学校又は社会が求めている人間を選抜するためのテストです。
この場合の社会とは、広い意味での身分制社会、つまり現在の世の中を再生産する仕組みを作り出す社会です。この現在の社会の目指す学力から、テストの方向が逸脱していくことがあります。テスト―技術―努力の相互の発展が過剰になり、重箱の隅をつつくようなテストになる一方、その重箱の隅をつつけるような優れた技術や努力が生まれて、さらにテストの重箱化に輪をかけるというような発展の仕方も起こりうるのです。その典型的な例が、よく引き合いに出す中国の科挙という官吏登用試験です。大学入試の社会科の問題なども、現在かなりそのような傾向になっています。そういうテストに対応するために記憶術などをマスターするというのは、大きな視野から見るとずいぶんおかしなことですが、当事者はそういう形で対応せざるをえないというのが苦しいところです。
このテスト―技術―努力の発展が、社会の真の求める人間像から逸脱しないようにするために、これまでの選抜テストとは異なる新しいテストを行う必要が出てくることがあります。これが現在行われているAO入試、面接重視、小論文重視などのテストです。これらのテストは、これまでの教科テストの行き過ぎを是正するために新しく試みられるようになったテストの形式です。しかし、これらの新しい選抜テストは必ずしも成功しているとは言えません。学力以外のものを評価するテストによって、学力不足の人が選抜されるという面を生み出しているのです。そして、学力不足は、学力偏重よりも実は困ることが多いのです。
しかしAO入試などはある意味で血縁制度を元にした身分制社会を再生させる役割を果たす面があるので、これからも広がっていくと思われます。これはどういうことかというと、AO入試で評価されるのは、学力や人柄や可能性などの個人の資質に属するものだけでなく、その個人を取り巻く人間関係や家族関係や社会関係なども入ってくるからと思われるからです。だから、親の七光りで合格するというケースも当然あると思われます。もちろんこれが一面的に悪いというのではありません。社会にはそういうルートも必要だからです。例えば、家業を継ぐ予定の学生は、入学時の学力は低くても入学後に伸びると言われています。目的意識が高いので、勉強や仕事に身が入るからです。
このようなことを考えると、AO入試を目指す人は、それなりの対策を立てることができると思います。しかし、推薦入試で合格してしまうと、一般入試のために1年間受験勉強するという貴重な体験ができないという問題があります。
社会の大きな流れの中で教育ということを考えてみると、現在の教育は、テスト体制に合わせた成績の向上が勉強の目的になっています。社会における有用な武器として身分制の資格、つまり学歴や仕事や地位を手に入れることが勉強の主要な目的になっています。しかし、この身分制の階段を昇る過程で競争は避けることができません。そしてこの身分制は、多くの人にとってはある意味で外面的なものですから、例えば会社を退職すれば失われてしてしまうようなものです。そういう否定的な面はありながらも、この身分制社会はこれからも存続します。ですから、現在の身分制社会に合わせたテスト体制を否定するのではなく、このテストのための勉強を前提にすることは必要です。しかしそれに加えて、単に成績を上げるためだけの勉強に終わらない勉強をこれからはしていく必要があります。それは、ひとことで言えば、成績の向上ではなく、自己の向上のための勉強です。
この自己の向上という方向は、将来身分制社会がなくなり新しい社会が登場したときに、ますます必要になってくるでしょう。というのは、今後ある条件が整えば、身分制社会は必要なくなり、その後より人間的な自由な社会が生まれるだろうからです。
自己の向上というものは、いくつかに分けて考えることができます。第一は幅広い知識です。第二は深い哲学です。第三は挑戦体験に基づく経験と自信です。第四は現場での対話に基づく問題意識です。そして第五は幸福を味わい表現する力です。この表現の中には、音楽や文章や絵画や舞踊などの芸術的なものを表現する力が含まれます。また、これらの芸術的な表現以外に自然に親しむということも幸福を味わう条件になると思います。
これらの広い知識や、深い哲学や、経験や、問題意識や、表現力を身につける点で、現在の教育はまだ不十分なノウハウしか持っていません。中でも特に教育が関与するところは、幅広い知識を速やかに身につける方法を用意することです。この点で、今後、人間の知的な能力を高めるための画期的な教育上の技術や方法が開発される必要があります。つまり、個人が使える知識や技能をより早くより広く学べるような方法がこれからの教育に求められてくるということです。
知識を学ぶという点で、成績の向上と自己の向上は外見的には同じようなものに見えます。しかし、自己の向上のために学ぶとき、そこには自己の向上がよりよい社会を作ることにつながっているという自覚があります。この自覚がどこからもたらされるかというと、一つは家庭です。もう一つは読書です。そしてもう一つは社会や仲間からの要望です。
成績のための勉強では、成績を上げることは他人に勝つことであり、身分制社会の勝者になることでした。自己の向上のための勉強では、自己を向上させることは社会を豊かにすることであり、そのまま他人の向上を支えることにつながっています。
自己の向上が他人の向上に結びつくという構造は、ちょうどオープンソースプロジェクトの仕組みに似ています。オープンソースプロジェクトにおいて優れた提案をする個人は、その提案によって他人に勝つのではなく、他人により豊かな可能性を提供しているのです。
(つづく)
<<え2008/58み>>
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