言葉の森新聞2010年10月3週号 通算第1147号
文責 中根克明(森川林)

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■■8月の清書表示で一部の作品に文字化け
 10.2週の山のたよりに8月の清書と森リン大賞を表示しましたが、文字化けをしている作品が一部にあったようです。
 その後、文字化けを修正しましたので、現在、ウェブの山のたよりでは正しい表示に戻っています。


■■パラレル思考を育てる方法(その1)―パラレル読書
 苫米地英人さんは、IQを高めるためにパラレル思考が必要だと述べ、その練習法として次のようなやり方を説明しています。
 「レストランに入り、メニューを見て1秒で食べたいものを決め、そのメニューを選んだ理由を1秒で5つ考え、その5つに対して1秒で5つの反論を考え、更に、その合計25個の反論に対して1秒で再反論をする」という方法です。
 メニューを見て1秒で食べたいものを決めるという時点で、もうだめだと思う人も多いと思います(笑)。
 そこで、もっと簡単なパラレル思考の練習方法を紹介します。一つは付箋読書によるパラレル読書法、もう一つは構成図によるパラレル作文法です。
 まず、付箋読書によるパラレル読書法から。
 読みたい本を10冊から20冊用意して、机の横に積んでおきます(以下、わかりやすく20冊として話を続けます)。そして、1冊を手にとったら十数ページ読みます。きりのいいところまで読んだら、読み終えたところに付箋をつけて、次の本を手にとります。そのようにして、次々と20冊の本を読んでいきます。
 本の中には、おもしろくてはかどるものと、難しくてなかなかはかどらないものがあります。はかどるものは、自然にたくさん読むようになりますが、はかどらないものもそれにつられて必ず少しは読むようになります。
 こうして20冊をひととおり少しずつ読んだら、また最初の1冊目に戻って同じように読んでいきます。普通、1冊だけの読書を続けていると飽きてきますが、この並行読書は全然飽きません。飽きたら、次の本に移ればいいだけだからです。
 このようにして読んでいくと、頭の中で20冊の話がパラレルに進行していきます。相互に関係のない本であればあるほど、いろいろなことを思いつきます。また、読書の量も自然に増えてきます。


■■パラレル思考を育てる方法(その2)―パラレル作文
 パラレル思考を育てるもうひとつの方法は、言葉の森で使っている構成図です。
 人間が何かを考えるとき、考えながら書くという過程が必要になります。
 古代ギリシアでは、まだ「書く」という文化が発達していなかったため、対話というものが主な思考の方法でした。今でも、この対話の方法は有効で、ディスカッションによって考えが深まるというのは、多くの人が経験しているところです。
 しかし、日本語は、ディスカッションよりも書くことによる思考の方が向いている言葉のようです。
 日本語は、漢字かな混じり文という世界でも珍しい文字の使い方をする言語で、文章がビジュアルに読めるという長所を持っています。
 アルファベットだけの英語や漢字だけの中国語では、すべての文字が同じように見えて文章全体が平板に目に入ります。そこで、文章を読むときは、かなり逐語的に読まなければ内容が理解できません。

 ところが、日本語は、漢字とひらがなとカタカナの混じった文章なので、漢字の方は重い意味のある言葉として立体的に持ち上がるような感じで目に入ります。ひらがなの方は軽いつなぎ言葉として平面的に広がるように目に入ります。カタカナは、漢字とはややニュアンスの異なる現代的な言葉で、やはり立体的に持ち上がる感じで目に入ります。
 英語や中国語の文章が一次元の平面で読まれるのに対して、日本語の漢字かな混じり文は、最初から二次元の立体構造をもって読まれるのです。このため、日本語で書かれた文章は、他の言語で書かれた文章よりも理解しやすいという特徴を持っています。日本が、世界で最も海外からの翻訳した文章が豊富な国であるのは、この理由によるものだと思います。
 さて、この漢字かな混じり文の持つ立体構造を更に生かすのが、散らし書きというスタイルです。
 何かを考えるためにノートとペンを使うとき、シリアルに一列に文字を書いていくのが普通ですが、それではせっかくの日本語がシリアル思考的な使い方になってしまいます。シリアル思考というのは、後に続く文が常に前の文からの制約を受けながら展開していく形です。
 もっとも人に読んでもらう文章は、シリアルに一列で書くのがルールです。シリアルであっても、普通は35文字ぐらいで折り返して、段落をつけながら書いていくので、それほど読みにくい感じは受けません。
 しかし、考えるときは、わざわざこのようにシリアルに一列で書く必要はありません。それよりも、思いついたことを次々と散らし書き風に広げていき、それぞれの短文を書いた順に矢印でつないでいくと、発想が自由に広がります。これが構成図の考えです。
 短文の散らし書きを矢印でつないでいくだけなので、思考に次々と新しい飛躍が生まれます。相互に関係のないことも並行して書いていくことができるので、相互に関係のない本を並行して読む読書のように、通常のシリアル思考から離れた立体的な思考ができるようになります。
 しかも、日本語はもともと立体的なので、特にマインドマップのように絵をかいたり、線を太くしたり、カラーで書いたりする必要はありません。1冊のノートと1本のペンだけで、どんどん考えを広げていくことができるます。
 このように、IQを高めるパラレル思考の練習に、読書と作文を使うことができるのです。


■■古い勉強法、新しい勉強法(その1)―貢献・向上・創造のための勉強
 日曜日に、天野敦之(あまのあつし)さんの「宇宙とつながる働き方 経済を回復させるたった一つの方法」を読みました。天野さんは、一橋大学を出て証券会社などに勤務したあと、現在公認会計士事務所を開いている人です。
 この本に書かれていることは、これからは個人の利益追求ではなく、全体とのつながりを取り戻すことが大切だということでした。私はこの本を読んで、経営の最先端で仕事をしてい人からこういう提言がなされる時代になったのだと、世の中の流れの大きな変化のようなものを感じました。
 ちょうど、同じ日に読んだ本が、佐藤優(さとうまさる)さんの「日本国家の神髄」でした。これは、戦前に出ていた「国体の大義」を、佐藤さんの考えを盛り込みながら解説した本です。この本に書かれていることは、日本文化の伝統の最も根本にあるのは、欧米の孤立した個人主義とは正反対のものだということでした。
 現代の経営書と戦前の思想書が、不思議にも共通した問題意識で書かれていたのです。(こういう発見があるのが「パラレル読書」のいいところです。)
 現在の日本社会のさまざまな制度を形作っているものは、ばらばらの個人の対立する利害を調整するという欧米文化を反映したものです。日本には、もともと社会全体をひとつの家族のように見なし、互いの思いやりと察し合いで社会を運営しているという伝統がありました。これからは、そういう日本のよさを再構築する時代なのだと思います。
 さて、現在の教育も、欧米流の孤立した個人という考えに立脚したものとして運営されています。その表れが、競争に勝つための勉強、点数を上げるための勉強、報酬を得るための勉強という考え方です。この考え方に基づいて子供たちに意欲を持たせようとするのが古い勉強法です。
 新しい勉強法は、次のような考え方に基づいています。競争に勝つためではなく社会に貢献するための勉強、点数を上げるためではなく自己を向上させるための勉強、報酬を得るためではなく創造を楽しむための勉強です。
 そして、この新しい勉強法が最も求められているのが作文の勉強なのだと思います。


■■古い勉強法、新しい勉強法(その2)―競争ではなく関心を
 古い勉強法と新しい勉強法のいちばんの違いは、意欲の持たせ方にあります。
 言葉の森では、子供たちが、自分の書いた作文がどういう位置にあるのかわかるようにするため、字数のグラフや、森リンの点数を表示しています。作文とは、先生の主観的な評価になる面が強いので、できるだけ客観的な指標も作るようにして、勉強の目標にしているのです。
 しかし、これは、競争を煽るためにしているのではありません。今の社会では、競争を煽るような形で励ますと、子供たちは、かなり燃えます。しかし、これは、その場の一時的なゲームのようなもので、コンスタントに競争で意欲を掻き立たせることはできません。
 ところが、子供が競争に意欲を持つと、親はついその路線で更に競争させようとしてしまうことがあるのです。
 競争が常に勝ち続けるものであれば、競争による意欲というものもある程度は続くかもしれません。しかし、競争はもともと相手がいるものです。相手も自分と同じように努力する人間であるのに、自分だけが毎回勝ち続けて、相手が負け続けるということはありません。競争の場では、互いに勝ったり負けたりしながら進んでいくのが普通です。
 この競争で勝ったり負けたりすることが、互いのコミュニケーションを深めるものであれば、それは子供たちの意欲に結びつきます。しかし、それは競争による意欲というよりも、触れ合いの喜びによる意欲のようなものです。
 競争で勝つことや競争で負けないことを意欲の源泉にしようとすると、破綻が来るのは早いのです。
 以前、森リン大賞で上位になった小学校中学年の子が、すごくやる気を出して、次はもっと上位を目指すとがんばったことがあります。ここで、本当は親が止めないといけないのです。「上位になったのはすごいけど、別に人に勝つのがえらいんじゃないんだから、自分らしくしっかり書いていればいいんだよ」と言ってあげることが大切なのです。
 ところが、子供が競争に意欲をもって取り組もうとすると、親はつい、「よし、じゃあ、次はもっと上位を目指してがんばろう」と合わせてしまいがちです。この場合も、親が子供をがんばらせたのはいいのですが、競争の場というものは、みんなも同じようにがんばっているので、自分だけ毎月順位が上がっていくなどということはありえません。結局、その子は、順位がなかなか上がらないことから、かえってやる気を失ってしまったのです。
 競争は、人間にとって真の喜びではありません。競争が持続的な喜びになるのは、その競争に友達との楽しい触れ合いという要素があるときです。
 小学生の子供たちが作文を書くときに、意欲に結びつくのは競争による刺激ではなく、身近な人の関心です。お父さんやお母さんが、その子の作文を読んであげ、その作文のいいところをできるだけ見つけて声をかけてあげることが最も確実で持続する意欲になります。
 競争ではなく、触れ合いや関心というものが、新しい勉強法の一つの大きな要素になっているのです。


■■古い勉強法、新しい勉強法(その3)―競争を超えて
 競争が楽しいときもあります。私(森川林)が高校生のころ、中間テストや期末テストがあると、教科ごとに成績順位の上位10名ぐらいの名前があちこちの廊下に張り出されました。
 みんなで、それを見ながら、「やっぱり○○はすごいな」「あ、おまえも○位じゃん」などと楽しく話していました。それは、競争というぎらぎらしたものでは全然なく、楽しい日常会話の延長で、ときどき発表される面白い話題という感じでした。
 競争が楽しいというのは、こういうコミュニケーションを通して競争をしている場合です。抽象的な順位や偏差値だけで、「次は○位を目指すぞ」というようなことに、人間はあまり魅力を感じないのだと思います。成績や順位は、事後的に自分をチェックするには役立ちますが、それが事前の目標になることはあまりないのです。
 しかし、年齢的に競争に燃えやすい時期はあるようです。小学5年生から中学2年生のころは、なぜか人と競うということに強い関心を持つ時期のようです。しかし、中学3年生以降になると、勉強の動機は、競争や賞罰のようなものから、自分自身の向上へと移っていきます。勉強は自分のためにやるものであって、自分で納得できるということが大事だとだれでも自然に思ってくるのです。それが、人間の本来の姿だと思います。
 けれども、そういう自然な意欲を勉強に対して持つためには、小学4年生までの低中学年の時期に、競争意識を煽らないことが大切です。子供が、他人との競争で意欲を持ちそうになったときは、親は逆にそれを抑えるぐらいにした方がいいのです。
 競争と似ているものに、賞罰があります。この賞罰も、一見子供の意欲を掻き立てるもののように見えます。よく、点数がよかったら、何ポイントがたまって、それが賞品になるという仕組みがあります。言葉の森の賞品システムも、このような形ですが、実は、こういう賞をあまり勉強の目標にしない方がいいのです。
 賞を意欲の源泉にしようとすると、子供の意識の中に、賞に結びつかないものはやらなくてもいいという感覚が出てきます。勉強というものは、自己の向上と社会の貢献のために行うものですが、それが、自分が得をするかどいうかという狭い基準で考えるようになってしまうのです。
 今の社会は、競争や賞罰がどうしても前面に出てきがちです。それは、大人の社会自体がそういう仕組みになっているからです。しかし、それは人間の精神的なレベルが低い過去の時代の仕組みです。未来の社会に生きる子供たちは、競争や賞罰ではなく、もっと大きなものに向かって勉強する気持ちを育てていく必要があるのです。


■■古い勉強法、新しい勉強法(その4)―競争から心へ
 前回、「競争を超えて」というタイトルで書きました。では、競争に代わるものは何でしょうか。それは、心をこめることだと思います。
 子供の教育で、競争や賞罰に頼るのは子育ての下手な人です。競争や賞罰を全くなくすことはできませんが、その割合を極力少なくしていかなければなりません。
 人間は、アメとムチで簡単に動かせるものではありません。そして、人間の意識はここ十数年の間にますます進化しています。競争や賞罰は、次第に効果が出なくなっているのです。
 人間がアメとムチの使い分けで動くと思う親や先生は、自分自身が同じようにアメとムチで動くかどうか考えてみればわかると思います。そういうレベルの低いコントロールには、従う人がどんどん少なくなっているのです。
 これは、人間どうしの関係だけでなく、国と国との関係でも言えます。昔は、武力と経済力で他国を支配することができました。これからは、急速にそういうことができなくなっています。
 では、競争や賞罰に代わって何が大事になっているかというと、それは心です。子供の教育に関して言うと、子供をコントロールする力は、強力なムチでも魅力あるアメでもなく、親や先生の心からの○○なのです。この○○の中に、賞賛、信頼、叱責などいろいろな言葉を入れることができますが、要するに、心から子供に接するということです。
 褒める場合でも、言葉の上だけで褒めるのではなく、また賞をつけて褒めるのでもなく、心から褒めるということです。叱る場合でも、口先だけで叱るのではなく、また「○○をしないと□□をさせない」というような罰を与えて叱るのでもなく、心から叱ることです。
 先日、小学校高学年の男の子のお母さんから相談の電話がありました。その子供自身は作文がよく書ける子ですが、ときどき母と子の間でいざこざがあるようです。そのときの相談の内容は、「作文をなかなか書き出さない」「作文を書かないと、好きなサッカーをやめさせると言っているが言うことを聞かない」「子供は、もっといい賞品が出ないとやる気にならないなどと屁理屈を言っている」ということでした。もう、そのままです(笑)。
 親が口先で子供をやる気にさせるつもりで、「○○しないと□□させない」「○○したら□□させてあげる」などと言うので、子供はかえって、親のその見えすいたコントロールに反発してしまうのです。もちろん、子供自身はそういうことを自覚していません。しかし、敏感な子はそれを感じてしまうのです。
 子供が親と同じような低いレベルに反応する子であれば、うまくいくかもしれません。ところが、子供の方が親よりも純粋なので、親に反発してしまうのです。だから、これは子供の問題ではなく親の問題です。
 では、親は何をしたらいいのでしょうか。それは、親自身が自己を向上させることです。
 親が、自分は多忙や疲労を理由に安逸な生活を送り、子供にだけ勉強をさせようとするから、アメとムチという発想しか出てこないのです。親がまず自分の人生をしっかり生きることが大事で、そこで初めて子供に対しても、心からの言葉をかけることができるようになるのです。
 では、親が自己を向上させるというのは、どうしたらできるのでしょうか。人生の目標は人によって違うので、一概に言うことはできませんが、共通するのは読書をすることだと思います。子供と同じになってしまいましたが(笑)。
 要するに、働くでも、学ぶでも、遊ぶでも、親が気迫のある生き方をしていれば、言う言葉にも自然に心がこもり、子供も自然に親の言うことを聞くようになるのです。
         <<え2008/153み>>


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