言葉の森新聞2010年12月2週号 通算第1154号
文責 中根克明(森川林)

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■■新聞を読む学習法
 小学生の保護者から、「新聞を毎日読ませているのですが、それは勉強としてどうですか」という質問が何件かありました。
 下記は、朝日新聞のサイトからの引用です。
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 新学習指導要領は、思考力などを育てるために従来よりも「言語活動」を重視している。現行の指導要領は児童や生徒の言語活動が「適正に行われるようにすること」と記しているが、新指導要領では、各教科の指導で言語活動を「充実すること」と踏み込んだ。小学5、6年の国語では、新学習指導要領は「読む力」を育てるための指導事項として「本や文章を読んで考えたことを発表し合い、自分の考えを広げたり深めたりすること」などを6点を列挙。具体的な方法の一つに「編集の仕方や記事の書き方に注意して新聞を読むこと」を挙げる。中学2、3年の国語でも指導方法の一つに新聞を例示している。
( 2010-08-08 朝日新聞 朝刊 教育2 )
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 こういう記事があったので、新聞の活用法に関する質問が増えてきたのだと思います。
 私の新聞に対する考えは、次のようなものです。
1、新聞には、普通の読書ではあまり触れる機会のない説明的な文章が多いので、その点では役に立つが、子供は実際には漫画を読むだけになることが多い。
2、読む力の基本になるのは読書で、読書を主食とすると、新聞はおやつという位置づけである。
3、新聞の文章は総じてやさしく書かれているので、高学年の生徒が国語の勉強のために読むのであれば、入試問題集を読書がわりに読む方がよい。
4、大学生が、半年ぐらい集中して、新聞の解説記事を中心に隅から隅まで読めば、時事的な一般教養の力はほぼ完璧につく。
5、社会人は、新聞よりも、書籍やインターネットによって情報を得た方がバランスのとれた判断力が身につく。
 勉強の基本は平凡です。読書をしっかりしていることが第一で、それ以外のさまざまに目先の変わったやり方は、すべて、半分遊びのようなものです。
 新聞を読むことは、決してマイナスにはなりませんし、真面目に読めば、説明文の面白い記事がかなりあります。しかし、それで読書のかわりになると考えたり、国語の勉強にプラスになると考えたりすれば、それはやはり過大評価ではないかと思います。
 まず地道に本を読むという時間をしっかり確保していくことが大事で、読書さえしていれば、ほかのことはしてもしなくてもどちらでもいいのです。
 新聞を読む学習法をまだやっていない人が今から新しく始める必要はありませんが、すでに家庭で新聞を読む習慣があるという人は、次のような読み方をしていくといいと思います
 新聞というと、ニュースの時事的な記事を読むものだと思いがちですが、このニュースというものはあまり読む必要はありません。なぜなら、ニュースのほとんどは、1週間もたてば意味がなくなるものだからです
 また、1ヶ月間や1年間のニュースをまとめた新聞ダイジェストのようなものも読む必要はありません。そういう時事的な知識が直接役に立つというようなことはほとんどないからです。

 大きなニュースは、大きな文字のタイトルで書かれているので、つい読んでしまいがちです。また、テレビのニュースも同じように、そのときの最新の話題が大きな話題として放送されているとつい見てしまいがちです。しかし、それらのニュースは、そのときだけのもので、あとに残るものではありません。
 新聞やテレビは、与えられたものを惰性で見るのではなく、ポイントを絞って見ることが大事です。
 また、新聞の中の特定のコラム欄例えば天声人語や社説などを必ず読むというようなことを自分に課すのもあまりよいことでありません。そういう杓子定規の読み方は時間の無駄になることが多いからです。
 では、新聞のどういうところを読むかというと、それは枠で囲まれた解説記事になっているところです。一般紙の場合は、日曜日の朝刊の1面の左上によく解説記事が載っています。そういう記事が、枠で囲まれた解説記事です。新聞の内側にも、そういう囲みの解説記事がいくつもあります。
 ニュースは読まないが解説は読むというのが、新聞の最も役に立つ読み方です。
 例えば、惑星探査機はやぶさが帰ってきたとか、小惑星イトカワの微粒子が発見されたとかというようなニュースは、興味を引きますが、特に熱心に読む必要はありません。
 読むのは、はやぶさがどういう計画で、どういう意義があったのかというような解説の記事です。
 この読み方をするためには、新聞は必ずしも毎日読む必要はありません。読んでみたい解説記事があればそれを切り取っておき、あとで時間のあるときにまとめて読むようにすればいいのです。
 もし、保護者が、子供の新聞の読み方の手助けをするとすれば、保護者の方で、読んでおくといい解説記事を切り取っておくというやり方をしてもいいと思います。
 ところで、こういう新聞の解説記事を1年間分まとめたようなものがあります。それが、毎年の入試問題の国語の説明文の文章です。
 読む時間の密度の濃さという点から言えば、新聞の解説記事よりも問題集の問題文の方が読む力がつくと思います。


■■作文が苦手な子の自宅学習
 小学校中学年で作文が苦手だという子のお母さんからから問い合わせがありました。家庭でできる作文の勉強にはどういうものがあるでしょうか、という質問です。
 それは、ある意味でとても簡単です。読書と対話の時間を確保していくということだからです。そして、できればその子の書いた文章のいいところをどんどん褒めてあげることです。
 普通、小学校低中学年では、作文は苦手になりません。書くことは楽しいことですし、また、この時期は、本を読むことも楽しいことだからです。
 作文が苦手だと思っているのは、作文を比較されたことがあるからです。例えば、学校や塾で、「この上手な子のように書きなさい」などと言われたからです(笑)。
 作文は、小手先の技術だけですぐうまくなるものではなく、その子のそれまでの読書、対話、経験、そして文章を書く機会の総合化されたものです。特に、読書量の差は大人が考える以上に大きいものです。
 日常の会話は、どの子も同じような語彙を使って話していますが、抽象的な話題になると使える語彙の幅はかなり違ってきます。
 小学校低中学年で作文が上手だと思われている子は、ひとことで言えば語彙の豊富な子です。語彙が少なければ、どんなによい経験をしてもそれをうまく表現することはできません。
 ところが、語彙力は、漢字の学習のようにそれだけを単独で取り上げてできるものではありません。語彙力ドリルのようなもので身につけることはできないのです。
 語彙力は、読書や日常の対話を通して、実際の文章の中でその語彙を味わって理解することによって身につきます。
 この語彙力が最もよく表れているのが、森リンの点数です。特に、表現語彙の点数は、その子の語彙力とほぼ比例しています。そして、それは学力の可能性とも比例しています。
 特に、中学生や高校生の論説的な文章では、森リンの点数はそのままその子の学力と同じと考えてもよいと思います。
 では、家庭でこのような語彙力や作文力をつけるためには、どうしたらいいでしょうか。
 作文力の土台にあるのは、読む力です。それは、読解力というよりも読書力に近いものです。なぜなら、国語の読解問題の成績がいい子が、必ずしも作文が得意なわけではないからです。
 しかし、読書が好きで本をよく読んでいる子は、ほぼ例外なく作文も好きです。たとえ、今は作文があまり得意ではなくても、読書好きな子は少しのアドバイスですぐ上手になります。
 しかし、もちろん読書だけではカバーできない作文力独自の分野もあります。その一つは、速く書く力と長く書く力です。これはある程度慣れによるものなので、実際に作文を書かないと身につきません。
 もう一つ、書かないとわからないものは、誤字と誤表記のチェックです。それは、勘違いして覚えていることが多いので、実際に書いてみないとチェックできないからです。また自分でいいと思っている表現が、読む人にとってはそうでないということもよくあります。
 ところが、家で作文を書く練習すると、数回で子供が嫌がるようになります。作文は、負担が大きくしかも成果が見えない勉強だからです。
 これが、ドリルなど行う勉強との違いです。漢字ドリルや計算ドリルは、負担がそれほど大きくなく、やりとげたあとがページ数として残ります。作文はやりとげた感覚を持ちにくいのです。
 また、親が作文の勉強で成果を出そうとして書き方の注意をすると、次から次へと注意が出てきて、親も子もくたびれる結果になることがよくあります。
 更に、上手な子の作文を見せて、こんなふうに書けばいいなどと教えると、子供はかえってやる気をなくします。それは、子供にとっては多くの場合不可能なことだからです。
 だから、作文は家庭ではあまり教えないのが基本です。楽しく読書をして読む力をつけていくことが、家庭での勉強の中心になります。
 しかし、文章を書くことに何か意味を持たせれば、家庭でも作文の練習を続けることはできます。
 その一つは、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに手紙を書く練習です。その手紙の構成は、書き出しがあいさつ、結びもあいさつ、しかし本部の中身は作文という形になります。
 しかし、この場合にも大事なことは、子供が作文を書いたあとは極力直さずに褒めるだけにするということです。


■■森リンによって評価される作文のうまさとは
 森リンは、作文小論文の自動採点ソフトとして2004年11月26日に特許を出願し取得しました(特許第4584158号)。
 それまでの作文小論文の自動採点ソフトは、平均的な文章の平均値からどれだけ離れていないかということを評価の基準としていました。
 その結果、うまくない文章はすぐにわかりますが、それがそのまま、「うまくない文章の度合いが低いものほどうまい」とは言えないところに問題がありました。ややこしい書き方ですが。(^^ゞ
 これは、美人コンテストのようなものを考えるとわかりやすいと思います。
 人間の平均的な顔の数値を求めて、その平均値から外れていれば、確かに変な顔だということはわかります。しかし、最も平均値から外れていない顔が最も美しいかというとそうとは言えません。
 従来の作文小論文ソフトがどうしてそういう発想で評価の基準を決めたかというと、プログラムを作る人が、「うまい」ということの基準を決めることができなかったからです。
 文章のうまさというものには、主観的な面があります。そこで、客観的な、誰もが納得するような基準として平均値を評価の尺度にしたのです
 これに対して、森リンは文章のうまさという基準を先に考えました。それは、言葉の森には、これまでの作文指導の中で、上手な文章の蓄積というものがあったからです。
 言葉の森の考える文章のうまさの基準は、まず第一に語彙が多様であるということです。
 第二は、しかし、バランスがとれているということです。
 そして、第三は、論説文として理路整然としているということです。
 この三つは、それぞれ相反する面があります。
 語彙が多様になりすぎると、バランスがとれなくなり、冗長な文章となってしまいます。
 また、一般に易しい言葉だけでなく、難しい言葉もある方がいい文章とはいえますが、難しい語彙がありすぎると重い文章になってしまいます。
 理路整然としている文章はわかりやすい文章ですが、その度合いが過ぎると硬い文章になってしまいます。
 また、森リンの評価は論説的な文章を対象としているので、小学校中学年までの事実中心の生活作文では評価がずれる面があります。更に、字数が短いと、森の点数の誤差が大きくなるので、1200字程度の長さが必要になります。
 言葉の森で毎月発表している森リン大賞は、言葉の森の生徒が毎月の清書で書いた作文の中から森リンの上位の人を掲載しています。
 ここには人間の評価は何も加えていませんが、上位の作品を見るとかなり妥当性があります。人間が評価して上位の作品を選んでもあまり変わりないと思います。
 それなのに、採点にかかる時間は、人間の百倍ぐらい速いのです。
 ところで、厳密にいうと森リンで評価しているのは、その作文の上手さというよりも、その作文に表れた、書いた人の作文力です。だから、森リンの点数は、その人の学力と比例している面があります。
 森リンの点数を上げるためには、小学生の場合は読書で、中学生や高校生の場合は問題集読書のような難しい読書で、使える語彙をふやしていくことが必要になります。
 森リンの開発の動機は、作文に対する客観的な評価を行いたいということでした。
 現在の言葉の森の指導でも、項目指導という客観的な評価のできる勉強の仕方を中心にしています。しかし、項目指導では、表現の形を中心とした評価になり、中身についての評価まではできません。
 例えば、「たとえ」という項目でも、個性的なたとえを使える子と、ありきたりのたとえしか使えない子がいます。ありきたりの表現とは、例えば、「怒った」だったら、「鬼のように怒った」、「寒かった」だったら、「南極のように寒かった」というような表現です。それはそれでいいのですが、やはり少し物足りない感じがします。
 個性的なたとえを使える子は、たとえ以外のほかの文章も、自分なりに考えた表現を使って書きます。ありきたりのたとえしか書かない子は、たとえ以外のほかの文章も、やはりありきたりの表現になることが多いのです。
 そして、個性的な表現を使う子は、内容も個性的であり、平凡な表現を使う子は、内容も平凡なものになりがちです。平凡な内容とは例えば、遠足に行った話でも、「遠足に行きました。とても楽しかったです。また行きたいと思いました。」というような表現が次々と出てくる作文です。これももちろん全く書けないよりははるかにいいのですが、やはり物足りない感じがします。
 ところが、小学校低中学の作文では、この個性と平凡の差は人間が見てもはっきりしていますが、小学校高学年や中学生、高校生の作文になると、個性的な表現と平凡な表現の差は、人間の目ではわかりにくくなります。
 実際に二つの文章を読むと、一方は漠然と中身が濃いような感じがし、他方は漠然と中身が薄いような感じがします。しかし、それは漠然とした印象で、どこがその箇所なのかということは言えません。
 ですから、小学校高学年以上の文章では、上手な作文と上手でない作文の評価は漠然とした印象では言えるが、それを指導に生かすことができないという事情があったのです。指導するとしても、上手な作文を見せて、「みんなも、こういうふうに書いてみよう」というのがせいぜいでした。
 ところが、それが、森リンにかけると、はっきりとした数値としての差になって出てきます。
 子供たちの作文の森リンの点数のグラフを数年間にわたって見てみると、個々の作品の出来不出来による点数の上限はあるものの、どの子も平均して1年間で数ポイントずつ点数が上昇しています。これは、それだけその子が新しい語彙を吸収し、それを作文に生かせるようになったということです。
 もちろん、一方には、森リンの点数がほとんど変化しない子もいます。これは、学校に通って勉強は進んでいても、本当の意味での学力が向上していないということになると思います。
 このように、森リンは、作文の評価という微妙な分野をはっきりと客観的な数値として表せる方法になっています。
 森リンの利点は、一つには作文の進歩というわかりにくいものを数値化したことです。
 もう一つは、高速大量に作文の採点ができるようになったことです。
 例えば、1000人の生徒の1200字程度の作文の採点を頼まれたとします。もしこれを人間が行うとすれば、1人の作文を2分で読むとしても30時間以上かかります。しかも、それらの作文に点数をつけるとなると、読んでいるうちに点数が甘くなったり辛くなったりしてきます。
 更に、この採点を複数の人間が分担するとなると、甘い採点の人と辛い採点の人との差がでてきます。それらを調整して一応客観的な点数を出したとしても、同じ作文を同じように別の日に採点すれば、また違った点数が出てくるはずです。
 ところが、森リンで採点を行えば、ゆっくり採点しても1人の採点にかかる時間は数秒です。文字どおりあっという間に採点が終了します。採点の妥当性を見るために、人間があとからその作文を読んで作品と森リンの点数の対応をチェックしてもいいと思います。
 これがどういうところで役に立つかというと、学校教育の中で作文の時間を大幅に増やすことができるということです。
 現在の作文教育の最大の問題は、書く機会がないことです。森リンで採点をすれば、中学生、高校生でも毎日1時間作文を書くというような授業が可能になります。(つづく)


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