言葉の森新聞2011年4月2週号 通算第1171号
文責 中根克明(森川林)

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■■小6生の書いた構成図

 小学6年生の生徒が2月の作文で書いた構成図を紹介します。よく考えて書いていることがわかります。
 構成図は、慣れてくると7、8分で書けるようになります。しかし、時間の制限はありませんから、考えを深めるために自分が納得できるまでじっくり書いていってもかまいません。中には、カラーペンで書いたり、漫画を入れたりして楽しく書いている人もいると思います。自分なりの書き方で書いていきましょう。



■■創造産業の広がり方(その5のつづき)

 前回は、日本にこれから必要な新しい産業は創造産業だと書きました。
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 そして、この創造産業の生み出す経済的価値は、これまでの農業や工業やサービス業が生み出すものとは比較にならないほど大きなものになります。例えば、工業製品の中で価格の高いものの代表ともいえる自動車は、せいぜい数十万円から数百万円です。ところが、ピカソの絵やロダンの彫刻は、ひとつの作品で数千万円から数億円にもなります。創造産業が発展するにつれて、日本の中に、ピカソとゴッホとマチスと運慶と快慶と正宗と千利休と芥川龍之介と島崎藤村と……無数に挙げられる独自の才能を持つ天才が数百万人の単位で生まれると考えると、この創造産業が持つ価値の大きさがわかると思います。

 しかし、ここで問題になるのは、創造産業の出発点となる呼び水がどこにあるのかということです。流鏑馬(やぶさめ)が将来大きなスポーツ種目となるとしても、今、突然、流鏑馬教室を始めて、人が集まるかといえばそのようなことはありません。ここで、日本が持つ巨額の使い道のない資産が生きてくるのです。日本は、国だけでなく企業でも個人でも、大きな資産を抱えています。しかし、これまではその資産の使い道がなかったために、資産はただ貯蓄されているか、アメリカの国債を買わされるか、又は、将来の展望のない場当たり的な公共投資に使われていたのです。
 この資産を、新しい創造産業の創出に振り向けることができます。その方法は、国がバックアップして、創造産業の山頂にあたる部分にまず資金を投入することです。それは例えば、全国文化祭典のようなものになります。毎年、日本の中で独自の創造性を発揮した個人に、その人が一生困らないぐらいの賞金を提供するのです。最初は、その創造性はそれほど高いレベルのものでなくてもかまいません。できるだけ多くの人が自分の独自の個性を文化として生かす分野を見つけていくことが大事だからです。
 そして、いったんひとつの山の山頂に資金が注がれると、その資金は山頂から山腹に向か
って多くの草や木々の芽を育てます。そして、それらの草木の生長によって、山頂からの資金は更に有効に活用されるようになります。木々の生長はやがて山腹から山麓へと広がり、いつしかその山は、新たな資金の投入がなくても独自に存在する緑の山となるのです。例えば、再び流鏑馬の例で言うと、流鏑馬コンクールで巨額の資金を手にした流鏑馬道の創始者は、その資金を使って流鏑馬道場を作ります。その流鏑馬道場から育っていった人が、全国各地に流鏑馬スポーツを広げていき、いつの間にか、流鏑馬はひとつの確固とした産業になって利益を生み出すようになるということです。
 江戸時代の多様な創造産業も、これと同じように作られました。安定した社会の中で、富裕な武士階級が、殿様の御用達(ごようたし)のような形で、民間の優れた技術に資金を投入し、それが文化産業を花開かせる出発点となりました。しかし、やがて、国内の豊かな富は、発展する町人階級の側に移っていき、それに伴い相対的に貧困化した武士階級が、奢侈を抑制するという名目で文化産業の発達を押しとどめる側に回るようになりました。もし江戸時代に、経済の発展に対応した民主主義が成立していれば、日本の江戸時代は、当時でも世界一の知的文化的水準を持っていましたが、更にそれ以上の飛躍的発展を遂げたと考えられます。そして、日本は、今その世界最高の文化を、新たに21世紀の社会で作ろうとしているのです。(つづく)


■■作文力は、大学入試でも、大学に入ってからも役立つ

 先日、東京工業大学の後期試験で小論文を受けるという人に、書き方のコツを何回か教えました。教える回数が少なかった分、1回の説明に20分から30分かけてしまいました。
 その受験生のは、小論文の試験を受けるというぐらいですから、基礎的な書く力はもちろんあります。しかし、例年出されるテーマは、あまり一般的なものでなく、時事的な知識を知らないと書けなさそうなものばかりでした。赤本と呼ばれる過去問の解説にも、「予備知識を増やしておくことが大事」などと書かれていますが、大学入試に臨む人が後期試験のために予備知識を幅広く増やしておく余裕などありません。
 そこで、指導のポイントは、何しろ論理的に書くということに絞りました。文章力というのは、高校生の場合、思考力とほぼ同じですから、予備知識がなくても論理を構築する力があれば何とか書けるものです。逆に、論理を構築する力がないと、材料に頼る書き方になるので、予備知識がないと手も足も出ません。
 論理的に書くというのは、例えば次のような書き方です。
 2008年の小論文の問題は、食品産業における偽装が頻繁起こるようになったのはなぜか、という課題でした。
 これは、全体を4つぐらいに分けて、第1に中国などからの低価格食材の追い上げ、第2に内部告発意識の高まり、第3に顧客志向から利益志向へと企業文化の変容、第4に保存加工技術の進歩、などと大きくまとめて論じます。このように全体の設計図を書くような形で構成を考えることができれば、これでもう既に合格圏内に入る作文(小論文)を書くことができます。
 2009年の小論文の問題は、経済成長率と社会における相互信頼感の関係を国別にプロットした図を見て何が読み取れるか、という課題でした。
 これも、やはり図を眺めたあと、全体を4つぐらいに分けて、第1に成長率高・信頼感高の国、第2に成長率低・信頼感低の国、第3に成長率高・信頼感低の国、第4に成長率低・信頼高の国について、それぞれ背景を考え、最後に日本の現在と未来について論じるという形で考えることができます。このように、全体の構成がわかる形で書ければ、予備知識に頼らなくても合格圏内の作文を書くことができるのです。
 さて、今年の実際の入試で出た課題は、環境問題の例を一つ挙げ、そのプラス面からの見方、マイナス面からの見方を書くというようなものでした。練習したのと同じようなスタイルで、論点を、「第1に……。第2に……。第3に……」といくつかに分けて書くことができたそうです。その結果は、前半の数学の試験はうまくできなかったものの、後半の英語と小論文で気を取り直して取り組み見事に合格したということでした。
 言葉の森で今作文の勉強している小中学生のみなさんは、まだ大学入試など全く念頭にないと思いますが、読む力、書く力、考える力があると、大学入試はもちろん、ほかにもいろいろなところで役に立つのです。
 昨日(3月28日)は、今年、慶応大学を卒業した昔の生徒が教室に尋ねてきました。聞くと、所属する学部の論文集に自分の書いた論文が掲載されたという話でした。賞金は10万円だったそうです(笑)。
 「これも、先生に作文を教えてもらったおかげです」などと言っていましたが、今ごろになって、小中学生のころの作文の勉強のおかげということでもないでしょう(高3のときもしばらく通っていましたが)。しかし、小さいころの作文の勉強を通して、考えることや書くことの面白さを学んだということはあるだろうと思いました。
 作文は、息の長い勉強です。本当に、書く力が重要になってくるのは、高校生、大学生、社会人になってからです。そのために、小学生の特に低中学年のころは、作文についてはあまり勉強的な見方はせずに、何しろ楽しく書くということを中心に見ていくことが大事です。楽しく長く続けることによって、いつの間にか作文を書いたり考えたりすることが得意になっていくのです。


■■知的な対話が共有できる家族を目指す
 小学校低中学年のころは、学校の勉強にはあまり差がつきません。どの子も同じように大体のことができます。しかし、小さいころから、少しずつ差が生まれ、それがあとあとまで続いていく分野もあります。それが、考える力です。考える力のある子は、学年が上がるほど実力がついてきます。
 考える力の中心は、日本語を駆使する力ですから、作文を書いてみると、その子の考える力がどのくらいあるかがわかります。
 ゲームの一種で、「いつどこ作文」というようなものがあります。紙を短冊型に切り、1枚目は「いつどこで」、2枚目は「だれが何をしているときに」、3枚目は「何がどうだったので」、4枚目は「何がどうした」などと書くのです。文の形を変えれば、人数に合わせて、短冊を細かく分けることも、おおまかに分けることもできます。
 その短冊をばらばらにして、ほかの人の書いた短冊と混ぜ、そのまぜこぜになった文をひとりずつ発表します。こういうときには、普段いたずらな子が大活躍します。真面目な子が集まると、面白くも何ともない文ばかりになりますが、脱線する子がいると、大笑いするような文ができあがるのです。
 このときに、そういう文をなかなか書けない子と、すぐに書ける子と、平凡に書く子と、ちょっとひねって書く子の差が出てきます。小学校3、4年生で、こういうゲームを面白がって、「もう一回やろう」と何度も催促するような子は、考える力のある子です。自分の考えた文が、ほかの文脈の中で別の意味を持ってくるということが面白くてたまらないのです。
 しかし、家庭生活の中では、いつもこういう作文作りのゲームをしているわけにはいきません。考える力は、もっと日常的につけていく必要があります。そのときに必要になるのが、家庭における親と子の知的な対話です。
 外国では、宗教の聖書などをもとにした対話が、親子の知的対話になっている場合があります。しかし、日本にはそういう宗教に基づいた対話の習慣はほとんどありません。また、もし宗教的な対話が家庭の中で行われたとしても、日本の社会ではそれはあまりよい結果を生みません。というのは、日本社会の基本的なルールは、「かたいことは言わない」ということですから、宗教的な信念を持っている人は、日本のような柔軟性に富んだ社会では生活しにくいのです。
 しかし、親子の共通の話題が、テレビを見て一緒に笑うようなことだけだとしたら、そこにはあまり知的な要素はありません。テレビのニュースも同じです。ニュースの性質上、深い掘り下げはできないので、表面的な知識を共有するだけで終わってしまいます。
 日本の社会には、かつて四書五経を中心にした、親、子、孫とつながる共通の知的話題がありました。今後、日本の社会がもっと落ち着いて成熟したら、またそのような過去の古典が親子の共通の文化になるような時代は来るかもしれませんが、それはまだずっと先のことでしょう。
 そこで生きてくるのが、言葉の森の課題の長文をもとにした親子の対話です。言葉の森の長文は、現代の社会で、親子が共通の知的話題を話すきっかけになる材料を提供しています。この親子の知的な対話の習慣が、子供の思考力を育てるいちばん大きな要素になります。
 子供の将来を大きく左右するのは、考える力を育てることです。言葉の森では、毎日の自習として、暗唱と読書をすすめていますが、このように毎日何かを読む練習とともに大事なことは、親子が折に触れて知的な対話をするような習慣をつけていくことです。
 しかも、親子の対話は、単に思考力をつけるだけではありません。親と子という人間どうしの対話を通して、子供たちは、生きていくのに必要な感受性や人間関係の理解やユーモアの精神なども育てていくのです。


■■言葉の森で、書くことが好きになり、読解力、作文力がついて、受験にも勝つ
 言葉の森で勉強をして、どんなことが身につくのでしょうか。
 まず、書くことが好きになり、苦にならなくなるこことです。これは、些細なことのように見えますが、実はとても重要です。
 学校や塾で一斉指導の作文が行われると、多くの場合、先生は個々の生徒に個別的にアドバイスをするよりも、上手な作文をひとつ印刷して、「みんなも、このように書きましょう」というような指導をしがちです。
 ところが、上手な作文を読んで、すぐに同じように上手に書ける子はひとりもいません。これは、大人が自分の身になって考えてみればすぐにわかることです。だれか、上手な人の文章を読まされて、これと同じように書いてごらんなさいと言われてすぐに書ける大人の人はひとりもいません。
 ところが、先生も、親も、子供に作文を教えるときに、上手な作文を模範として書くような指導をすぐにしてしまうのです。子供は素直ですから、言われたとおりに努力しようとしますが、もちろん同じように上手に書けるはずがありません。
 その結果、作文指導に熱心な先生や、熱心な保護者に教えられた子供ほど、作文が苦手になるという現象が起きてきます。特に問題なのは、こういう比較する指導が高学年で行われる場合はまだいいのですが、ほとんどの場合、低学年のときに重点的に行われることが多いということです。
 学校によっては(特に、私立小学校に多いようですが)、年齢的に明らかに無理な作文指導を行っています。小学校低学年の生徒に、題名を与えて書かせたり、読書感想文を書かせたりする学校がときどきあります。しかも、それを家庭での宿題のような形でやらせると、熱心な親はかなり手助けをして子供に作文を書かせます。その結果、上手な作文がいくつかできあがると、担任の先生は、それを上手な作文の見本として印刷し、生徒に配るというような指導をします。このようにして、作文嫌いの子が次々と生まれてくるのです。
 言葉の森の指導は、こういう教え方とは正反対です。ひとりひとりの子供に対して、他人の作文との比較は一切関係なく、「今日の作文では、これとこれをこれをがんばろう」というような説明をし、その目標ができていればたくさん褒めるという教え方をしています。
 通学教室で体験学習をすると、最初のころは、どの子も、「作文の勉強なんてしたくないなあ」という顔をして緊張してやってきます。しかし、先生が、その日の作文の目標を教えて書き方を説明すると、どの子も喜んで作文を書き始めます。そして、体験学習を一緒に見にきたお父さんやお母さんが驚くほど、その子らしい作文をたっぷり書いて帰るのです。これは、通信教室の体験学習でも同じです。
 このようにして小学校低学年で書くことが好きになった子は、毎週楽しく作文を書いているうちに、読解力と作文力がついてきます。そして、中学受験や高校受験や大学受験のときに作文や小論文の試験があると、これまでの言葉の森の勉強の延長で、安定した実力で合格圏内の作文を書いてくるのです。
 ただし、これは、学校側の採点の仕方の問題だと思いますが、受験の作文では、ときどき、実力のある子が落ちて、実力のない子が受かるということがあります。本当は、森リン(作文自動採点ソフト)などで客観的に評価すれば間違いがないのですが、入試では短時間に人間が採点する形をとるので、中にはかなり疑問の残る採点の仕方もあると思います。
 しかし、作文の実力のある子は、大学生になっても、社会人になっても、文章を書くことが苦にならないので、その文章力をさまざまなところで生かしていくことができます。



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