言葉の森新聞2012年7月2週号 通算第1231号
文責 中根克明(森川林)

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■■構成用紙を使わない構成図の書き方

 今学期から構成用紙を廃止したのは、特殊なツールに頼らない勉強にするためです。構成用紙は枠が決まっているので書きやすい面がありますが、この枠に慣れていると、学校などで作文を書くときに、「構成用紙がないので書けない」という子が出てこないともかぎらないからです。
 作文の構成図は、作文用紙の余白でも裏でもいいですから、自由に短文と矢印だけで思いついたことを書いていくようにしてください。
 図は、作文用紙に書いた構成図の例です(4-6月の課題フォルダより)。必ずしも用紙を1枚全部使って書く必要はありません。しかし、1枚全部を埋めるぐらいまで書くという目安を決めておく方が目標が決まるので書きやすいと思います。
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■■うまく書けないときよくわからないときはすぐ相談を

 言葉の森の勉強は、毎日の自習があることと、課題が学年相応より難しいものが多いことから、ほかの国語・作文教室などの指導に比べると取り組みにくいことがあります。
 ドリルを解くような勉強や、穴埋めの短文を書くような勉強であれば、子供がひとりでもやっていけますが、しかし、そういう勉強では実際には力はつきません。実力のつく勉強だから、やりにくいところがあるのだと考えてください。
 ですから、子供さんが、先生の電話説明を聞いたあと、それでも書けないとか、わからないとかいう場合は、それは子供のせいではなく、教材のわかりにくさや先生の説明のせいであることが多いのです。
 そういうときは、言葉の森の事務局にご相談のお電話をください。指導の内容は、事務局で把握しているので、すぐに対応ができます。「子供を叱る前に、事務局に相談を」ということでお願いします。


■■予習はじっくり、評価はいつも明るく褒めて

 通学教室の生徒は、作文ノートに作文を書くようにしています。その方が作文の保管がしやすいからです。
 そのノートに、家庭で予習の構成図を書いてきてもらうようにしています。どの子もお父さんやお母さんに聞いた話などを盛り込みながら、事前の準備をよくしてきています。
 しかし、そのように事前の準備がしっかりできていて、お父さんやお母さんもその作文の内容に深くかかわっていると、また新しい問題が出てくることがあります。
 その日に作文を書き終えて家に持ち帰り、お父さんやお母さんに作文を見せたとき、事前に予習の対話でじっくり話をしているお父さんやお母さんの目から見ると、作文の内容が物足りなく思えることが多いのです。
 そこで、書き上げた作文に「もう少しこうしたらよかったのに」などと注文をするようになると、子供は、作文を書くことにプレッシャーを感じるようになってきます。すると、作文を書き出すときに、なかなかスタートできないということが起きてきます。

 通学教室で、なかなか書き出せないような子ほど、事前によく準備をしてきて、そして結果としてとてもいい作文を書くことが多いのです。子供たちは、自分なりにいい作文を書こうとがんばっています。家庭で作文を見る場合、あまり注文はつけずに、その作文のいいところだけを認めて褒めてあげるようにしてください。

■■作文の勉強は小1、小2から
 国語の指導をしている人の中に、「作文は小4から」と言う人がいるようですが、小4からでは遅すぎるというのが本当です。
 小3や小4は、小学生がいちばん小学生らしく充実した勉強をする時期です。読書で言うと、読むのが楽しくなる本がたくさんあり、読書をする力もついてきます。作文で言うと、作文を書く力がつくとともに、作文に書く材料には事欠きません。ちょうど勉強の花が咲く時期なのです。
 ところがここできれいな花を咲かせるためには、まだ花の咲いていない小1、小2のころの準備が必要になってきます。書いたものを添削するだけの事後指導が中心の作文指導であれば、作文が上手に書けるようになってから赤ペンで添削するということしかできませんが、本当に大事なのは添削する以前に実力をつけておくことなのです。
 小3、小4のころは、どの子も生き生きと作文を書きますが、これが、小学校高学年になると、3、4年生ほど無邪気に、書くことや読むことに喜びを感じることができなくなってきます。コンクールなどに入選していちばん素直に喜べるのが小3や小4のころで、それよりも学年が小さいとうれしさという実感があまりありません。また、それよりも学年が大きいと今度は気恥ずかしさのようなものが出てきます。
 だから、作文の勉強が最も充実するのが小3や小4のころですが、しかし、だからこそそのころから作文の勉強を始めるのでは遅いのです。
 勉強の習慣のようなものは、小1や小2のころに形成されます。例えば、毎日の暗唱のような勉強も、小学校低学年で始めれば楽に定着しますが、小3や小4になってからだと、なかなか習慣になりにくいところがあります。
 また、小学校高学年になったり、中学生になったりして勉強や部活などが忙しくなると、作文の勉強が習慣として定着していない場合は、継続することが難しくなります。しかし、小学校低学年のころから作文の勉強をしている子は、そういう忙しい時期でも何とか工夫して続けることができるのです。
 小学校1、2年生は、作文の勉強だけに限っていえば、字数も少なく内容も乏しく、勉強の中身があまりないように見えるかもしれません。しかし、この時期は、外に見えない勉強が蓄積されている時期です。例えば、毎日暗唱をする習慣や、毎日本を読む習慣、毎週作文を書く習慣、書いた作文や音読する長文について毎週親子で対話をする習慣などが形成されています。
 昔から習い事は6歳6か月からと言われています。6歳台では、どのような習い事もお遊びのような感じになります。しかし、この時期に始めた習い事は、ずっと続くものになることが多いのです。
 作文の勉強は、特に言葉の森の場合は大学入試の小論文や現代文のレベルまで続いているので、ずっと続ける値打ちのあるものです。ほかの習い事にもそれぞれの価値はありますが、小学生から高校生まで続けられて、それが大学生になっても社会人になっても役立つ実力となるというものはあまりありません。
 だから、作文の勉強は、小1や小2から始めた方がいいのです。


■■中学生になって初めての定期テストが悪くても心配ない

 中学生になって初めての中間テストや期末テストがあると、ひどく悪い点数を取ってくる子がいます。しかし、それは心配ありません。勉強の仕方がうまくできていないから、成績が悪かっただけなので、やり方がわかればすぐにできるようになります。
 中学生と言っても、小学生から1学年上がっただけですから、勉強の仕方などはわからないのが普通です。特に今は、小学生のときに塾で教えてもらったとおりに勉強している子が多いので、中学生になって、自分で勉強の仕方を工夫することなどまだできないのが当然です。中学で、普通に授業で先生の話を聞いて、普通にわかった気になって、テスト前の勉強といっても何をしたらいいかよくわからないままに試験に臨み、結局あまりよくできなかった、ということなのです。
 だから、最初の定期テストでよくできた子は、親が勉強の面倒を見てあげた子で、あまりできなかった子は、子供が自分だけでやっていた子ということになると思います。
 一度定期テストを経験すれば、どういうところまで勉強しておかなければならないかがわかりますから、今度は、それに合わせた勉強をしていけばいいのです。しかし、その方法がまだ中学生本人ではよくわかりません。そこで、お母さんやお父さんが家庭学習の基本メニューをアドバイスしてあげることが必要になります。
 中学生の時期は、一般に、小学生や高校生の時期よりも忙しいので、家庭学習の時間がなかなか取れません。理科、社会は、試験前の集中学習でも成果は上がりますから、普段の勉強で時間を取る必要はありません。国語、数学、英語は蓄積の必要な勉強ですから、基本的なことを毎日継続していく必要があります。この継続した勉強がないと、試験前の一夜漬けでは点が取れないようになっていきます。
 国語の場合は、読書と問題集読書で読む力をつけておくことです。
 数学の場合は、1冊の問題集をできない問題がなくなるまで繰り返してやることです。ですから、通信教材でいろいろな教材が送られてくるものや、塾でいろいろな教材が渡されるものは、それらをきちんと保管し、できたものとよくできないものを区別しておくことが必要になりますが、そういうことができる子はまずいません。それよりも、自分にふさわしい1冊の問題集を買ってそれだけを徹底してやる方がいいのです。
 英語の場合は、教科書のCDを購入し、そのCDの真似をしながら教科書を毎日音読し、教科書の暗唱、暗写を目標にすることです。このときに、言葉の森で長文の暗唱をしたコツが生きてきます。その方法は、音読で、早口、棒読みで1ページを20回から30回繰り返し読むことです。(もう既に、中2や中3になっている人も、中1の教科書から始めます。)
 こういう形で基礎力をつけておけば、試験前の勉強は、簡単です。国語は漢字の書き取りや文法の問題演習、他の教科は、知識的なものは教科書を繰り返し読むこと、計算的なものは問題集をできないところがなくなるまで繰り返し解くことになります。
 軌道に乗るまでは、親が手助けしてあげることも必要になると思います。


■■創造する子供たち、対話のある家庭、自助の教育 3

 (連載の記事ですが、1と2はまだ掲載していません)
 今の大人の世代は、これまで歯車としての教育を主に受けてきたために、創造的に提供できるものをあまり持っていません。しかし、互いにほどほどに創造的である者どうしが、自分の作ったものを与え合い、自分の学んだことを教え合い、少しずつ働く中身に喜びを感じ、その中身が家族にとってブラックボックスでないような生活を目指していく動きが生まれています。
 ここに、日本の社会が未来に向けて切り開く新しい経済の芽があります。つまり、先進国で生まれる新しい需要と新しい供給は、創造的な文化産業という形で全国各地でこれから生まれていくのです。
 このような社会の底流の変化の中で、子供たちの教育も、大きな変化を求められています。それは、ひとことで言えば、これからの教育の中心は、創造の教育になるということです。しかし、もちろん創造の教育は、知識の教育や理解の教育と対立するものではありません。知識や理解の土台の上でなければ、価値ある創造は生まれないからです。
 創造の元になるものは個人の個性です。しかし、個性はもともとだれにでも生まれつきあるものです。その個性が社会にとって普遍的に認められる創造性となるためには、知識や理解の土台とともに、個性を磨き上げる時間が必要です。ところが、今の教育は、知識や理解そのものが目的となり、それが点数化されることによって受験の選抜基準に使われるようになっています。その結果、知識や理解が「重箱の隅」化し、受験の科挙化が進む中で、知識や理解の過剰なノルマが、個性を創造にまで高める余裕を奪っているのです。
 だから、これからの教育が目指す方向は二つあります。一つは、知識や理解の効率のよい習得で、それが古来から読み書きそろばんと言われてきた、初等教育の単純で幹の太い学習法です。
 義務教育である小中学校の教育は、受験の科挙化に合わせた複雑な枝葉ばかりの教育で子供たちの時間を勉強で埋め尽くすべきではありません。枝葉は大学の専門教育に入ってから自分の興味に合わせて思う存分茂らせていけばいいのです。幹の太い単純な基礎教育を行うためのこれもまた単純で強力な教育の方法が、音読の反復による暗唱です。
 江戸時代の寺子屋教育の方法は、素読となぞり書きでした。それは、今の学校の宿題で行われている音読のような回数の少ないものではなく、素読は百回繰り返して暗唱できるぐらい行うものであり、なぞり書きは、筆で半紙が隅から隅まで真っ黒になるまで続けるものでした。この単純な方法の復活が今の教育に求められていることの一つです。
 これに対して、現在学校や塾で行われている教育は、カラフルで複雑な教材によって子供たちに知識と理解の教育を枝葉まで徹底させることを目指したものです。だから、コストのかかる教材や教室や先生が必要になっているのです。
 従来の知識と理解を最終目的とした教育が、音読や暗唱を教育の方法として導入する場合、暗唱の対象となる知識それ自体を目的化する傾向が出てきます。つまり、「枕草子」の暗唱ができたら、次は「平家物語」だというような暗唱の自己目的化です。


■■創造する子供たち、対話のある家庭、自助の教育 4
 暗唱の目標を決めることは大事です。しかし、それは暗唱の目的ではありません。暗唱の目的は、知識と理解の土台を単純に大きく育てていくことです。だから、暗唱の素材は必ずしもだれもが知っているものである必要はありません。「枕草子」の次が「平家物語」である必要もないし、「百人一首」の百枚が順番である必要もないのです。もちろん、そうでない必要もまたないので、わかりやすくだれもが知っている古典を暗唱の素材とする方が一般的な方法になるでしょう。しかし、それは暗唱の目標であって目的ではなく、暗唱の目的は、知識と理解の土台を作ることなのです。
 暗唱によって作られる知識と理解の土台は、また知識力と理解力の土台でもあります。暗唱によって身につくものは、暗唱の対象となる知識だけではなく、暗唱の方法となっている知識を習得する力です。つまり、寺子屋で行われていた素読・なぞり書きなどの教育は、江戸時代の子供たちに論語や孟子の文章を知識として定着させただけではなく、欧米から急激に押し寄せてきた科学技術の知識を習得し理解する力も育てていたのです。
 暗唱が知識や理解だけではなく、知識力や理解力も育てているという例を、私たちは、本多静六のエピソードに見ることができます。静六は、家が貧しかったために勉強する時間や場所がありませんでした。そこで、皆が嫌がる退屈な米搗き(こめつき。玄米をついて白米にする作業)の仕事を選び、米をつきながら自分の覚えた文章を暗唱する練習を続けました。上の学校(今の高校と大学の中間のようなところ)を受験する機会を得た静六は、暗唱の成果によって作文の試験で高得点を取り合格することができました。しかし、他の教科はそれまでの勉強の蓄積がなかったため、最初の年に数学で赤点を取り落第します。
 一時は井戸に身を投げて死のうとした静六は、その後一念発起し、数学の問題を片端から暗唱することに決めたのです。すると、見る見る成績が上がり、やがて数学は学年のトップになり、数学の先生から、「おまえは数学の天才だから、もう勉強はしなくてよい」と言われるほどになりました。
 数学というと、理解だけで成り立つ勉強のように思われていますが、大学入試までの数学は、理解の方法を知識として習得することができるのです。


■■創造する子供たち、対話のある家庭、自助の教育 5

 今西錦司は、同じ文系の仲間である友人たちから、文系なのに数学ができるということで一目置かれていました。あるとき仲間の一人が、今西に、なぜ数学ができるのかと聞くと、今西は、「数学は暗記すればいいんだ」と答えたそうです。
 暗唱によって得られる知識と理解は、知識と理解の習得にとどまらず、知識力、理解力という学力も形成しているのです。
 しかし、そこで得られる知識力、理解力は、勉強の両輪の一つの輪でしかありません。
 これからの教育に求められているものは、寺子屋式の単純な教育で幹の太い学力をつける一方、その能率的な低コストの勉強法によってできた余裕の時間を創造の勉強に向けることです。
 子供たちが教育の中で創造性を育てることができることによって、未来の創造文化産業に基づく経済は、本格的に稼働を始めるのです。
 では、その創造の教育とは何かを言えば、それは何よりも言語における創造性の教育です。音楽にせよ、スポーツにせよ、絵画にせよ、その創造の根幹には必ず言語的な思考が働いています。科学技術や学問の世界においては、更にその言語的な思考が創造性の土台となっています。
 だから、まず言語において創造性を発揮する教育が子供たちの創造性の教育の中心となるのです。豊富な知識と理解の上に、あるテーマについて創造的に思考を組み立てる勉強が作文小論文の勉強です。
 これからの社会に求められ人材は、クイズ番組のような知識が豊富で、「ああ言えばこう言う」式のディベートの話法だけが得意な人間ではありません。自分の持ち場である仕事や学問の世界において、独自の創造的な分析と提案のできる人が求められているのです。
 そして、そういう人材が単に一部のエリートだけに限られるのではなく、大衆的に生まれるような社会がこれからの日本が目指す社会です。
 これまでの欧米流消費文化は一部の人だけが主人公で、大多数の大衆は、雇用されるだけの受け身の労働者であり、与えられたものを選択するだけの受け身の消費者でした。
 これから生まれる創造文化の社会は、すべての人が主人公であり、創造者であり、また、その創造の発展に向けて向上を図る学習者であるような社会です。そこで初めて人間の生活は、幸福と向上と創造と貢献が結びついた本来の姿を回復するのです。


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