言葉の森新聞2013年9月2週号 通算第1288号
文責 中根克明(森川林)
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■■9月16日(月)・23日(月)は休み宿題
9月16日(月)・23日(月)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時ー午後7時50分。電話0120-22-3987)
電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php
■■7月の森リン大賞から
――作文は先取り学習ができないからこそ実力になる
森リンの点数は、作文の点数というよりも、作文力の点数です。80点台後半の点数を取れるということは、作文力があるということです。
どのくらいの点数がどのくらいの作文力かということをわかりやすく言うと、森リン点90点が大学で言えば東大レベルです。これは、これまで森リン点でたまに90点を取るぐらいの生徒が、そういう学力を持っていたからです。
もちろん学力が成績になるためには、それなりの勉強の量と方法が必要です。しかし、森リン点が高いということは、それだけの潜在力を持っているということです。
ところで、森リン点は、点数を上げることを意識して書くこともできますが、本当は点数は結果に過ぎません。森リン点の結果を生み出す源は、読書の質と量とこれまでの思考の蓄積です。だから、大事なことは、作文を上手に書くことではなく、本を読み自分の考えを深めていくことです。その読んだり考えたりした結果が、作文として表れてくるのです。
今回の高1のピルルさんの作文を見ると、複数の方法という構成も、取り上げている実例も、反対意見への理解を含む主題も、結びの自作名言も、高校生としてとてもよく書けています。これは、その場で努力してできるものではなく、普段からの読書と思索の蓄積があるからできることです。
同じことは、前に森リン大賞として載せた中2のききほさんの「みんなちがってみんないい」にも、小6のりすっぴさんの「お米は命!」にもあてはまります。どの作文も、その背景に、その生徒の日本語力の蓄積があるのです。
今高校生のピルルさんが言葉の森を始めたのは、小学生のころです。そのころに、自分が高校生になってこういう文章を書けるようになるとは思っていなかったと思います。誰にでも途中に様々なスランプがあります。しかし、勉強を続けていく中で、考える力や表現する力は確実についていきます。
他の教科、例えば算数数学や英語や漢字の書き取りなどでは、学年を越えた先取り学習ができます。しかし、作文はそういうことができません。
時々、よくできる低学年の生徒の保護者で、もっと先の学年の勉強をさせてほしいと言ってこられる方がいますが、作文はそういう先取りはできないのです。それは、この高校生の作文を見ればわかると思います。どんなに優秀な小学生でも、高校生のレベルの文章は、高校生にならなければ書けません。そして、それで充分なのです。
だから、小学校中学年のころに、塾の勉強が忙しくなったからという理由で、作文の勉強をやめてしまう生徒がいるのは、本当にもったいないと思います。それは、たとえて言えば、料理の最も栄養のある中身を、噛むのが大変だからと言って捨てて、表面の栄養のない着色した部分だけを満腹になるまで食べているようなことだからです。
何年かたったあとに、栄養のあるものを消化していた生徒と、栄養のない表面だけを食べていた生徒とでは、考える力に大きな差が出てきます。そして、その差は、大学に入り、社会に出るころには、更に大きな差になっていきます。
小6や中3の受験期に、一時的に作文の勉強と受験の勉強が両立できなくなることはあります。しかし、その受験の一時期が終わったら、またすぐに再開するという長い展望で作文の勉強を続けていくことが大事なのです。
■■7月の森リン大賞から(高社の部137人中)
ちがうということ
ピルル
私たちは多種多様な互いの差異を示し合う生き方をすべきだ。
そのための第一の方法は、極端に平等を良しとする発想をやめることだ。私が好きなイラストレーターに中原淳一という人物がいる。彼は男性だが、女の人の良さがとてもよく表現された華やかで可愛らしい作品をたくさん残している。私が読んだ彼のエッセイの一部に男女平等の考えについての彼の考えが書いてあった。彼は、男女平等とは、女らしさや男らしさの良さが混同され、消えることではないと書いていた。同等の機会が与えられるのは良いことだが、それぞれの違いがなくなるのはよくないと考えていたわけだ。私はこの考えにとても共感した。確かに男女ではまず体のつくりが違う。構造という基本的な根本の部分が違えば周囲の物事への感性や対応の仕方が違ってくる部分は大きいだろう。しかし、そうした違いが魅力であると彼は主張していた。部分的には差異が劣って見えることもある。しかしそれは固定観念が優越をつけるだけで、全体的にはどちらにも欠けた部分は無いとする考え方は、私にはとても自然で心地よく感じた。現代では、男女の違いは一方的な差を生み、またその差が悪いものであるとする風潮があるように思う。だが、元々あるものの事実から生じる違いを認めることが、それぞれの違いが光り、皆が幸せになれる本来の平等への道なのだと思う。
第二の方法は、子供たちに具体的な行動の方向性を社会が示すことだ。西郷隆盛の出身地である鹿児島県の加治屋町という集落に、郷中教育という教育方法がある。これは、集落の子供たちの年長者が年少者を指導、教育をするというものだ。指導をする範囲は広く、私生活から剣術、学問などを年長者は後輩たちに教えた。また、この教育方法では、剣術に優れないなら学問の能力を伸ばすというように、一つの型にこだわらず、多様性を認めていた。子供たちは個性を認められていたのだ。年長者は自分が幼い時、年上の子供に世話をしてもらったのだから、年少の子供たちにも同じように世話をする。この繋がりがずっと続いてゆき、信頼し合える頼りがいのある人間へと育てられてゆくのだ。問題を起こさせないよう、違いを目立たせずに教育しようとすれば、こうした教育はできない。はっきりとしたやるべきことの規定を周囲の社会が決めているからこそ、年齢の違う縦の繋がりの中、自分の立場を役割を見据えて自主的に行動できるのだ。もちろん、示された行動が子供たちの未来を限定するようなものでは意味が無い。周囲の環境が安定していることも大事なのだ。
確かに、違いはあっても同じ機会を与えることは大切だ。個性が人それぞれであるように、可能性もそれぞれで、必ずしも差異によって可能性は限られるものではない。しかし、差異とは他者と比べて欠点になるものではなく、比べる必要の無い美点である。自らの持つ特徴をいかして高いレベルへ登り詰めようとする行動は周囲にとってもその人自身にとっても利益となる。面倒事が起きないように差異をならして全てを同じにすることは、表面的には管理が楽かもしれないが、どこかでひずみが生じる。一人一人の差異を、偏見無くただの事実として認めることが、のびのびとした自分らしさとまとまった社会をつくるのだ。
◆表はウェブでごらんください。
https://www.mori7.com/mori/mori_web.php?ki=20130902#19735
■■7月の森リン大賞から(中2の部68人中)
「みんなちがってみんないい」
ききほ
「障害は不便である。しかし、不幸ではない」
という言葉を聞いたことがあるだろうか。乙武洋匡さんという、手足のない、先天性四肢切断症の方を知っているだろうか。乙武さんの「五体不満足」という有名な本がある。明るく前向きな乙武さんの痛快なエッセイだ。
「僕には誰にも負けないことが一つある。それは、手と足がないこと」
この言葉を小学生のころに初めて読んだ。今でも分かっているとは言えないが、前よりは理解できた気がする。障害は一つの個性と言うことだろうか。私は、そう思う。「かわいそう」という目で見たくなかった。
障害を持つ人と遊園地に遊びに行ったらどうするか?聞かれた時、難しい問題だなと思った。双方が嫌な思いをせずにいられる方法と言うものは、案外出てこない。乗りたいアトラクション、乗れないアトラクション。私が思いついたのは、「折り合いをつける」ことだった。その一人が楽しめなければ意味がない。しかし、その一人が楽しめるものだけをピックアップして乗るというのはどうだろう?私が、その一人だったら、心苦しいな、と思う。その一人に合わせすぎる気もする。過ぎたるは及ばざるがごとしである。例えば、ちょっとしたお礼に高級菓子をもらったら、「え、」と、感謝より先にいぶかしい気持ちが湧いてくると思う。それと同じことだ。みんなで乗れるアトラクションと、乗れないアトラクションの数を考えたり、グループを二つに分けて、一方がジェットコースターに乗ってくる間一方はゆったりファンタジックなものを楽しんだりする。個性だと言っても、出来ることとできないことを区別することは誰にだって必要だ。クロール25メートルを泳げない人に、100メートルの選手になれとは、誰も言わないし、本人だって立候補しない。
傷つけられる権利という言葉も、私にとって衝撃的だった。過保護になってはならないのだと、知った。小学生のころ、何かで、性同一障害の方のインタビューを見た。彼女はタレントとして活躍中だという。想像もつかない大変な苦労をしてきたと思う。親は、当然テレビに出ることを、反対したらしい。それでも、彼女はテレビに出続けることを選んだ。度はあるけれど、苦しいことも経験なのだなと思った。辛い時期を乗り越えて、と言ってしまえば簡単だが、その機会は絶対に誰でも、経験しなければならないんだな、と思う。そうだ、その記事の見出しは「コンプレックスは個性に変えられる」だった。
傷つけあうことなく、平穏な毎日が続いていけば良いのだけれど、そうはいかない。心ない言葉を言われること、言ってしまうこと。日常茶飯事だ。傷つけてしまうことは、ある意味仕方がないことかもしれない。でも、その日から、時間がたてば、傷つけた自分の浅はかさに気付くのだと思う。この先、人に悲しい思いをさせないで生きていける自信はまったくない。しかし、時が経った後、過去の自分の過ちに気付ける人になりたいと思う。
障害者と健常者。それは、「差別」ではなく、「区別」だ。どちらも寛容に穏やかに過ごせる日が来てほしい。上と下ではなく、対等な立場として、語り合えたら、その時は、幸せだなと思う。
◆表はウェブでごらんください。
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■■7月の森リン大賞から(小6の部142人中)
お米は命!
りすっぴ
お米はとてもいいものだ。おなかにたまって、少しの量で満足できるし、たかなければ長持ちする。それになんといっても、私が食べられるのである。世界の主な主食のひとつである小麦がアレルギーで抜けている私にとってはとても大切な食べ物だ。だから、おそらく私の家は普通の家よりお米を重宝していると思う。私の家ではそのような細かい事情があるため、お米は大切に大切にされ、ご飯に関する暗黙の了解のルールができている。まず一番大切なのは、一粒もご飯を残さないようにすることだ。できるだけ、できるだけのこさないようにするのである。おかげで私はお弁当の時のご飯はもちろん、おにぎりのアルミホイルについたお米の一粒まで食べるようになった。それにもし体調が悪くて残してしまっても、残ったご飯をラップでくるんで冷凍しておく。後で、急いで食べなくてはいけないときなどに電子レンジで温めて食べるのだ。まさに『お米は命』の我が家らしいルールだと思っている。
私がこんなにお米を大切にするのにも理由がある。大切なことをよく知ったのは、五年生の時だった。五年生の時に、総合の学習の時間に稲を育てた。それは近くの田んぼで育てたのだが、余ってしまった苗を先生達は私たちにくれた。私は、苗をもらってベランダで育てることにした。育てていると、ちゃんと実って、少ないながら米ができたのである。だが、そこからが大変だった。まず、茎から米を採って、そこから脱穀機などないので全部手作業で皮をむいた。むき終わってほっと一息ついて、さあ食べようと思ったが、茶碗1杯分も米がなかった。むかしの人はどうやって米を食べていたんだろうね、と話しながら食べたのを覚えている。まるで修行のように大変だったが、大切なことがたくさんわかって良かった。
私の家の主食は米だが、世界中の主食を比べるとみんなちがう。それを少し紹介しようと思う。まず、小麦。地中海の周りの国々では、ドーナツ型のパンが食べられているようだ。また、インドやイランなどでは、小麦粉をのばして焼いた物が食べられる。次に、米。米はアジアの国々で多く作られている。日本のようにそのまま食べたり、麺などに加工もするようだ。また、トウモロコシは、中央アメリカ・南アメリカなどで主食になっている。なんと、ネイティブ・アメリカンの人達は、トウモロコシのパンを食べるそうだ。
私は、日本人にとって、米は命だと思う。食糧自給率が低い中、唯一自給率の高さを誇っている食物だ。「三つ子の魂百まで」とも言うので、昔から続くお米の栽培をこれからも続けていきたい。
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■■森リン大賞の点数について
作文力は、進歩するのに時間がかかるため、上達の結果がなかなか目に見えるようになりません。また、作文力というものを客観的に評価する基準がそもそもありません。そこで、言葉の森では、森リンという自動採点ソフトを作成し、生徒のパソコン入力作文が森リン点で表示されるようにしてきました。
この森リン点の経過を見ると、どの生徒も学年が上がるにつれて少しずつ点数が上昇していきます。しかし、森リン点は、点数を上げることを目的にして作文を書くためのものではありません。毎週長文を読んで考える力をつける中で、自然に点数が上がってくるのですから、森リン点は勉強の結果や目安であって、勉強の目的ではないのです。(つづく)
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