言葉の森新聞2014年4月1週号 通算第1316号
文責 中根克明(森川林)

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■■4月1日(月)から新学期
 4月1日から新学期が始まります。教材の説明は、課題フォルダの表紙の裏側に書いてあります。
 また、勉強の仕方の説明は、「学習の手引」に載っています。
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■■言葉の森のこれからのビジョン
 世界はこれから大きく変化しますが、新しい価値観の方向はほぼはっきりしてきました。それは、真に価値あるものは人間の創造であり、そのための教育がこれから重要になるということです。
 この創造性を育てる教育を推進するために、言葉の森は、プレゼン作文発表会など、子供たちの個性的、創造的な発表の場を広げていきたいと思っています。
 また、これからの初等中等教育は、学校や塾に全面的に委託する形ではなく、家庭における学習と地域でのバックアップが中心になってきます。そこで、言葉の森は、作文の学習だけでなく、漢字、長文、算数数学、英語などの家庭学習を、全国規模の学力テストと連動する形で進めていきたいと思っています。
 小中学校の学習教材は、既にほぼ完成されたものが存在しています。したがって、これからはその完成された教材の土台の上に、保護者が教材の編集に関与できるものにしていく必要があります。言葉の森では、オープン教育の場で、保護者の声や地域の文化を生かした教材を作成していきたいと思っています。
 家庭での個人学習は、学校や塾の一斉学習よりも、その子に合った密度の濃い勉強ができるという利点がありますが、小中学生の子供たちの学習意欲を支えるものは、友達や先生との交流です。そこで、家庭学習の意欲を支えるものとして、勉強をネットで共有する寺子屋オンエアを考えています。
 子供たちの学力の中心になるものは、日本語の豊かさです。その日本語は、読書以上に、家庭での親子の対話によって形成されます。小学1年生の時点で既に学力の土台となる日本語には大きな差ができています。そこで、親子の交流を対話を生かすための3歳児からの幼児作文コースを始めることにしました。
 言葉の森は、これまで作文小論文の指導と国語力の指導に力を入れてきましたが、これからは更にその範囲を広げていきたいと思っています。


■■卒業生からのメッセージ「言葉の森の思い出」

 今年、慶應義塾大学文学部に合格したKMさんが、「言葉の森の思い出」という話を書いてくれました。
 KMさんは、小1から言葉の森で勉強し、森リン大賞にも何度も選ばれていました。
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 私が言葉の森で作文の勉強を始めたのは、小学1年生の8月でした。
 やっと、電話で知らない人と、なんとか話すことができるようになったのが、そのころだったのです。
 初めは、本当に、聞かれたことに「はい」と返事をするのがやっとでした。「いいえ」すらも言いにくかったので、沈黙してしまったり。そうすると、先生が「じゃあこうだったのかな?」と逆の質問をしてくれて、やっと「はい」が言えるときに口を開くというような状態でした(笑)。
 それでも、先生の質問に答えるかたちで、書くことを決め、電話の後に、今度は母が同じような質問をするので、その答えを作文用紙に書いていったというような記憶があります。

 できあがった、確か100字程度の作文は、作文と言えるようなものでもありませんでしたが、返却された作文を見ると、先生が、作文用紙いっぱいに花丸をつけてくれていて、たくさんの「上手!」「うまい!」「すごい!」という文字が踊っているのを見て、大変満足し、「これからも続ける!」と宣言したのでした。
 低学年の間は、基本的に毎週そのような調子で気分よく書いていたのですが、字数ランキングに燃えて、ひたすら長く(内容の薄い作文を)書いていたこともありました。かなり時間もかかりましたが、「すごく長くかけたねえ!」と、先生に褒めてもらえるのが嬉しくて、とにかく長く、1000字、2000字と書いていたのです。今思うと、先生にご迷惑だったような。思い出してみると、母もいつも先生に謝っていたような記憶が蘇りました(笑)。
 中学年になると、題名が決まっていたので、最初は書きにくく感じましたが、このころは、課題について、父や母や祖母に取材をするのを楽しんでいた時期でもありました。感想文課題は、内容も難しいし、書くのが大変でしたが、先生もいつもヒントを与えてくれたし、両親も、協力してくれました。
 5年生になると、長文の内容はさらに難易度が上がり、そのときの私にとって、「難しい」というより「分からない」文章になってしまいました。しかし、たとえ長文全体をよく理解できなくても、感想文を書くことができるように説明してもらえたし(実際、それでなんとか形になっていたと思います)、また、何度も音読をしているうちに、最初は全く分からなかった文章が何となく理解できるようになる、という経験もできました。おかげで、難しい文章に取り組むのが怖くなくなったというか、落ち着いてくり返し読めば分かる、と信じて読めるようになりました。この経験は、その後の中学受験でも、大学受験でも役に立ったと思います。
 また、私は、低学年のころから自分でパソコンで作文を書いていたのですが、「今読んでいる本」の欄を利用して、担当の先生と雑談をしたこともいい思い出です。例えば、当時流行っていたドラマの原作小説を読み、それを読書欄に書くついでに、お気に入りの主演俳優の話を書くと、先生も講評の中で返事をくれて、翌週の電話でまた好きなアイドルの話をしたり……といった具合に盛り上がったのも、とても嬉しかったです。言葉の森では、学校の先生よりも長く一人の先生に習うこともあるので、そのような交流が深まるのも楽しいことだと思います。
 中学受験を挟み、言葉の森をお休みした時期がありましたが、再開後に取り組んだ勉強は、より具体的に受験小論文に役立ちました。小論文の構成を教えてもらって、どんな形で、どんな順番で書いていけばいいのか、という枠を決められるようになり、中学3年間で勉強した書き方で、ほぼどんなテーマにも対応できる自信がつきました。
 実際の第一志望校の小論文課題は、制限字数が短かったのですが、基本的には、言葉の森で教わった「構成」「題材」「表現」「主題」を意識することで、対応できました。そのおかげで、他の教科の勉強に多くの時間を割くことができ、また、例えば、英語の長文を読む際にも、言葉の森の勉強で身につけた日本語読解力に助けられたと思うので、やはり、作文の勉強は、多くのアドバンテージを与えてくれたと思います。
 本当に感謝しています。ありがとうございました。


■■MOOC(大規模公開オンライン講座)とは対極にある幼・小・中の教育が未来の産業の土台となる

 MOOC(Massive Open Online Courses 大規模公開オンライン講座)の動きが世界的に広がっています。世界水準の優れた教材と授業が、ほぼ無料ですべての人に開かれるようになるという動きです。すると、今後、その優れた授業を受けるための、つまりよりよい学校に入るための塾や予備校は不要になっていくことが考えられます。しかし、現在起きているのは、塾や予備校が不要になる前の過渡期における、塾や予備校のMOOC化です。
 これまでの教育は主に、いかに学ぶかではなく、いかに合格するかということを目標としていました。現在のMOOCは、まだその方法は革命的でありながら、その立脚している土台は旧社会のものです。つまり、MOOCの講座の修了証が企業への就職に役に立つ、あるいは企業が優れた人材を採用するためにMOOCに出資するという、企業社会の枠内での大学教育の変革となっているのに過ぎません。つまり、よい会社、よい仕事、よい給与のための大学の予備校化の中で発展しているのがMOOCです。
 この教育の変革運動は、今後急速にグローバルに広がり、世界の大学教育は、大きな変容を迫られます。しかし同時に、このMOOCとは正反対の動きも広がっていくのです。それは、ひとつの理由としては企業社会がこれから変容していくからです。もうひとつの理由は、何を学ぶかということ以前に、いかに学ぶかということが教育の焦点になってくるからです。
 企業社会の変容ということについては、今後の世界の大きな変化を考える必要があります。既に、アメリカドルのデフォルト、中国バブルの崩壊は、多くの人に予測されています。それは、偶然に起こる何かの事件又は事故をきっかけに、一気に誰の目にも見える形で現象化するでしょう。
 しかし、それらの破綻に対する対策は既に考えられているはずです。それは例えば、徳政令、中央銀行の国有化、政府紙幣の発行、国際機関による国際通貨の維持、あらゆる技術公開と情報公開などです。その結果、その後の社会では、不要になるか縮小されるかする産業が出てきます。また、一時的な物価高とそれに対応するための配給制、生活保護の拡大が起きてくるでしょう。短期的には高付加価値産業が衰退し、長期的には価値を創造しない産業が衰退していきます。
 その破綻とそれの続く復興のあと、何が起こるかというと、工業生産はやがてすぐに立ち直り、生産と生活のインフラを提供するようになります。そして他方、農業、教育、政治、医療の分野で、自給自足化の流れが生まれます。この自給自足化の流れが、第二の「いかに学ぶか」に結びついているのです。
 MOOCは、優秀な能力を持ちながらその能力に応じた教育を受ける機会を持たなかった若者に、世界レベルの優れた教育を受ける機会を提供しました。しかし、ここで新たに問題になってくるのは、どうしたら優秀になれるか、つまり、「何を学ぶか」以前に、「いかに学ぶか」ということになるのです。これが、小中学校の教育の課題であり、更には、幼児教育の課題になります。
 幼・小・中の教育のスタイルを、MOOCになぞらえて言うならば、SOOC(Small Open Offline Courses 小規模公開オフライン講座)と言うことができるかもしれません。スモールとは、幼・小・中の教育は、優れた教材や授業によってではなく、身近な指導者、手作りの教材によって多様に行われるべきだからです。というのも、中学校までの義務教育の内容は、根本的に難しいことや時代の先端につながるようなことはなく、既に確立されていて誰でも理解できる基本的なことが中心になるからです。
 しかし、現代の画一化された一斉授業のもとで、基礎教育は、上の方向にも下の方向にも授業に合わない子を生み出し、子供たちの間に格差を生み出しています。だから、これからの教育の目指す方向は、土台は家庭と地域のオフラインになり、しかし、優れた教材はオープンかつオンラインでどこからでも自由に利用できるものになるでしょう。
 そして、それらの教材は、それぞれの家庭や地域で容易に手作りで編集できるものになります。幼・小・中の教材は、誰でも編集に参加でき、誰でも自由に利用できるものになります。同じような動きが、教育にとどまらず、農業、政治、医療の分野にも起きてくるでしょう。そして、これらの発展のあとに生まれるものは、文化の自給自足化です。それは、文化の自主的な創造化と言ってもよいでしょう。
 例えば、俳句、茶道、華道などは、生活の必要から必然的に生まれたものではありません。個人の好みが発展して、普遍性を持つ文化になったものです。同様のことがこれから、文化の大爆発現象として起こることが考えられます。
 一方で、機械化されインフラ化された工業と工業的農業があり、その生産力を土台として、多様で自主的で創造的な文化産業が成り立ちます。
 そのとき、人は、これまでの半分は消費者であり半分は給与労働者であるような時代を去り、自らが文化創造的な生産者であるような時代に入ります。
 そして、それに伴って、教育も、創造性のための教育に変わっていくのです。


■■言葉の森の音読と、ほかのところの音読との違い

 言葉の森では、齋藤孝さんなどが音読の本を出すずっと前から、教室で音読の自習をしていました。当時は、そういう自習をしているところがなかったので、最初は保護者のみなさんからいろいろ質問を受けました。「なぜ音読をするのですか」「黙読でいいのではないですか」という質問です。
 言葉の森が音読の自習を行っていたのは、貝原益軒の「和俗童子訓」など過去の日本の優れた教育の蓄積を生かすことを考えていたからです。
 昔は、音読の意義や方法を説明するのが大変でしたが、言葉の森が音読の効用をホームページなどに書いていると、次第に音読の理解者が増えてきました。
 しかし、音読をすすめる人の中には、齋藤孝さんのように有名な文章なら何でもいいというような文化的な音読をすすめる人も出てきました。そのため、何のために音読をするのかということが曖昧なまま、音読をすること自体が目的であるような音読も増えてきました。
 その結果、今は、「学校で音読をしているので、言葉の森の自習の音読とぶつかってしまうのですが」という相談も受けるようになりました。そういうときは、「学校の音読は夕方やって、言葉の森の音読は朝ご飯の前にやるようにしてください」と言っています。
 子供にとって、音読を2種類やるというのは、意外と負担なのです。しかし、時間を分ければあまり抵抗はありません。何だか朝三暮四のような話ですが本当です。
 言葉の森の音読は、その音読の長文をもとに感想文を書くというところが、ほかのところでやっている音読とは違います。つまり、言葉の森の音読は、文化的な音読ではなく教育的な音読なのです。
 音読を繰り返すことによって、長文の全体像が頭に入ります。それをお父さんやお母さんに説明し、家族で対話をしてその長文の理解を深めていきます。その対話を土台にして感想文を書くので、読む力、書く力、考える力が育つのです。


■■寺子屋オンエアの構想

 輸出というのは、相手に何かを売って、その見返りに自分が利益を上げるという面から見るものではありません。相手国に幸福を送ることによって、その見返りに自国が感謝を受け取る、というのが輸出の本質です。
 日本のこれからの輸出産業は、教育です。それは、ただ勉強を教えるという教育ではなく、日本の文化も含めた広義の教育です。
 しかし今、日本と世界の教育には逆風が吹いています。
 第一は、早期からやりすぎる英語教育です。語学は、小4からで十分です。低学年から英語をやりすぎると、日本語の力が低下します。英語がどんなに得意であっても、日本語が苦手か普通であったら、いい仕事はできません。日本語だけは、得意に(できれば超得意に)しておく必要があります。そうしたら、英語は普通で全く問題ありません。
 第二は、受験に特化したテクニックの詰め込み勉強です。しかし、これはもう多くの弊害が出ているので、次第に緩和されていくでしょう。弊害というのは、ひとことで言えば、成績はよいが仕事ができない人が増えているということです。
 第三は、これがこれからのいちばんの逆風になると思いますが、人間の動物性を助長する形のネット教育です。この場合の動物性というのは、感覚的な刺激にすぐに反応し、衝動的に行動する人格になるという意味での動物性です。その衝動的な行動の方向が勉強になっているので、いかにも効果のある教育法に見えますが、そういう勉強を繰り返すことによって、人間の情緒性が失われていくのです。
 これらの逆風をくつがえす大きな風が、日本文化を土台とした新しいネット教育です。これが、寺子屋オンエアの構想です。
 ネットは、限りなく低価格で、いつでも、どこでも、誰でも、そしてどんな僻地にいても活用できるツールです。これを日本文化の蓄積を持つ寺子屋教育と結びつけることによって、先進国だけでなく、途上国にも、低開発国にも、世界中に広げていくことができるのです。


■■経済の動きのおおもとには、人間の感動があり、その感動が変化しつつある

 経済は、資本の論理で動くと言いますが、資本の論理のもともとは人間の感動です。人間の感動とは、わかりやすく言えば「わくわくすること」です。
 昔は、より豊かになること、より時間の余裕ができることが、わくわくすることでした。だから、給料がよくて休みが多い仕事がいい仕事と思われていました。
 今でもその土台は変わりませんから、給料がよくて休みが多いということは誰にとってもうれしいことですが、それはもう特別にわくわくすることではなくなっています。
 では、現代のわくわくは何かと言えば、それは、自分の個性を生かして何かを創造すること、そのために自分が向上すること、そして、その結果世の中に貢献できること、その創造、向上、貢献の場としての交流があることです。
 今はまだ多くの人は、個性を生かして創造するほどの余裕はありませんから、当面は交流が先行しています。しかし、いずれ、その交流の先にある創造が感動の源だということがわかってきます。そのとき、資本主義は、なくなるのではありませんが、新しい主義の単なる背景となっていきます。
 その新しい主義の名前は、パーソナリティを生かすということで人格主義のようなものになるでしょう。資本主義の単位がマネーだったように、この人格主義にも単位が生まれます。その将来の単位の候補に近いのがシェアです。
 今の資本主義の世界だけ見ていたので、これからの世の中の動きはつかめなくなってきます。



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