言葉の森新聞2024年6月1週号 通算第1805号
文責 中根克明(森川林)

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■■日本を復活させるために、創造教育文化を育てる
 ●動画 https://youtu.be/3a-9iX31TBE

 工業化の時代が、終焉を迎えようとしています。

 もちろん、いろいろな例外がありますが、歴史的に見れば、工業化の時代が終わりを迎えつつあるということです。

 工業は、これまで世界の経済を牽引してきました。

 しかし、多くの国では、すでに工業生産物が行きわたるようになりました。
 一方、工業の供給先は、多くの国に広がっています。
 これまでのように、旺盛な需要が新しい供給を引き出すというような関係ではなくなってきているのです。

 現在の軍需産業や医薬品産業の需要は、作られた需要であって、本当の需要ではありません。

 しかも、工業生産による環境破壊さえ問題になっています。

 一方、情報産業は、GAFAとかFAANGとか呼ばれる頭文字の一部のメガテックが独占しています。
 しかし、この繁栄は一時のあだ花です。

 必要な情報は、今後、個人間のやりとりで行われるようになります。

 そして、人間は、興味本位の広範な情報に興味を持つよりも、自分のしたいことに興味を持つようになるのです。

 新しい時代の人間の関心は、物でも情報でもなく、自分自身になります。
 最初は、健康とか美容とかファッションとかいう外形的なものに関心が向きますが、やがて、関心は、自身の成長とか新しい体験とかいうものに向かっていきます。

 そこで、文化の時代が始まるのです。
 文化の時代は、また学習と教育の時代にもなります。

 江戸時代の平和な300年間にさまざまな文化が生まれたように、これから地球規模で新しい文化が生まれる時代になるのです。

 その先端を行く国が日本です。

 YouTubeでも、Xでも、Facebookでも、使用される言語の割合は、もちろん英語がトップですが、日本語もかなりの割合を占めているはずです。
(この具体的なデータは、昔はありましたが、残念ながら今はありません。)

 日本では、ただ見るだけや聴くだけの人よりも、発信する人の割合が多いのです。

 それは、8世紀後半という今から1250年も前に、日本で万葉集が作られたのと同じような文化的土壌が日本にはあるからです。

 額田王(ぬかだのおおきみ614年)は、大海人皇子(後の天武天皇)に歌を送りました。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
(あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる)

 意味は、
「そんなに私に向かって袖を振っていたら、見張りの人に見られてしまって、秘めた恋がばれてしまうじゃないの」
です(笑)。

 すると、大海人皇子は、歌を返します。
「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」
(むらさきのにおえるいもをにくくあらばひとづまゆえにわれこいめやも)
 意味は、
「美しい紫草のように輝くあなたを、たとえ人妻であったとしても、私は憎むことができない。だからこそ、まだあなたを愛している」
です。
 いいですねえ(笑)。

 つまり、人間どうしのやりとりが、短歌という文化を通して行われていたのです。

 同じように、江戸時代の庶民の娯楽のひとつは、手紙のやりとりでした。
 つまり、見る文化や聴く文化だけでなく、作る文化、発信する文化があり、それが歴史的に続いていたのです。

 この発信する文化が、時代ととともに、文学の世界だけでなく、多様な分野に広がります。

 茶道、華道、鯉の養殖、ウズラの鳴き合わせ、和食、和服、関孝和(せきたかかず)の数学、伊能忠敬(いのうただたか)の測量、更には種子島に届いた鉄砲の国内製造などがそうです。

 つまり、作る文化が、日本の文化の特徴だったのです。

 そして、これがこれからの世界の新しい文化になります。

 大事なことは、この作る文化が一部のエリートによってではなく、庶民のレベルで行われてきたことです。


 しかし、日本の戦後の教育は、日本本来の作る文化よりも、「欧米に追いつき追い越せ」のキャッチアップ文化を優先してきました。

 正しい答えは、欧米にあるから、それを学ぶことが第一だという考えです。
 それは、教育のすべての面で広がりました。
 そのひとつの終着点が、今の科挙化した受験勉強です。

 教える先生は、正しい答えを覚えることを生徒に求め、生徒はその要求に応えるために勉強時間の多くを費やします。

 本当は、基礎の勉強は、もっと短時間で済ませ、そのあとは自分の個性や創造性を活かす学び方をすることが大事なのです。

 しかし、その教育の転換が、今起きつつあります。
 それが、高校における探究学習や大学入試における総合選抜などの広がりです。
 大学に入ったあとも、意欲のある学生は、どこかに就職するよりも、自分で起業することを目指すようになりつつあります。

 しかし、その新しい起業は、これまでの工業時代の起業でも、情報時代の起業でもありません。

 能力のある学生は、第二第三のビッグテックを目指し、新しいユニコーン企業を作ることを夢見るかもしれませんが、これからは、もうそういう時代ではありません。

 これからは、ローカルの時代であり、地産地消の時代であり、人と人との関わりのある時代になります。
 その関わりの中で、新しい文化を作る時代になるのです。

 その文化が、たまたま広がる場合もあるので、それが新しいビッグ文化になるかもしれません。
 しかし、基本は人間どうしの関わりで多様な文化が生まれていくということです。

 そういう創造的な文化を作り出せる子供を育てることが、これからの教育のひとつの目標です。

 そのためには、もちろん基礎的な教養は必要です。
 しかし、それは、家庭学習で十分にできるものです。
 その家庭学習を時々チェックしてくれるところがあればいいのです。
 それは、例えば、基礎学力クラスや総合学力クラスや全科学力クラスです。
 特に、力を入れたい教科がある場合は、国語読解や算数数学や英語のクラスに参加すればいいのです。

 大事なのは、基礎的な教養以外に、自分で発信する学習をすることです。
 発信する学習強には、発表する場が必要です。
 それが、作文クラス、創造発表クラス、プログラミングクラスなどです。

 創造的な教育が進むと、やがて、その子供たちが社会に出て、創造的な文化を作り出すようになります。
 新しい創造文化が、更に新しい創造教育を生み、相互作用で日本全国が創造的な文化の国になります。

 インターネットの時代には、創造文化が国境を越えて広がります。
 そして、世界中が、創造文化の時代になるのです。

 これが、日本復活の道筋です。
 日本の未来は、創造教育文化立国を目指すことなのです。


■■作文が上手になるには、書く力+書き方、読解ができるようになるには、読む力+解き方――読書と対話と作文と創造発表が勉強の重点
 ●動画 https://youtu.be/Q3A1diSkMT8

 作文が上手に書けるようになるには、まず書く力が必要です。
 書く力は、書く練習をすることによってつきます。
 だから、毎週、作文を書いていくことが大事です。

 書く力がついたあとに、必要なのは、書き方です。
 構成の仕方考え、表現の仕方を工夫し、主題を深め、題材を個性的なものにしていくことです。

 小学生の場合は、題材の個性に、お父さんやお母さんへの取材が入ります。
 似た話を取材すると、その対話の中で、子供の語彙力が伸びます。

 語彙力のある子は、感想の部分を長く書くことができます。
 語彙力のない子は、感想の部分が、
「とても楽しかったです。これからもやってみたいと思いました。」
のようなパターン化されたもので終わることが多いです。


 作文を書く力の土台になるものは、読む力です。
 「書くことがない」とか「書けない」とか言う子のほとんどは、本をあまり読んでいません。
 読む量が増えれば、自然に書くことが楽になります。

 ただし、もし本をよく読んでいるのに作文が苦手という子がいたら、それはそれまでの作文の勉強の仕方が悪かっただけです。
 子供が書いた文章に、いろいろな注意をする先生やお母さんがいたということです。
 そういう子は、言葉の森で勉強すれば、すぐに作文が得意になります。


 学力の基本は、読む力です。
 漢字の書き取りや計算の練習や英語の発音などは、学力ではなく、勉強的な作業です。

 読む力をつけるためには、絵本や漫画だけでなく、字の多い本を読むことです。
 また、物語文とともに説明文意見文の本を読むことです。

 読む力のある子は、熱中して本を読みます。
 小学生では、人が話しかけても気づかないくらい本を読むことに熱中していることがあります。
 そういう子は、何の勉強をしてもすぐにできるようになります。
 勉強する力の基本は、読む力なのです。


 読む力があっても、国語の成績があまりよくない場合は、国語問題の解き方がわかっていないことが原因です。
 言葉の森の読解検定で、×になったところを、お母さんと一緒に考えれば、解き方のコツがわかります。

 国語の問題は、センスで解くものではなく、理詰めで解くものです。

 しかし、大学入試レベルの国語の問題は、次第に科挙化しています。
 それは、入試の国語は、実力を見るための国語ではなく、受験生に点数の差をつけるための国語になっているからです。

 国語の実力を評価するためにいちばんいいのは、国語の問題ではなく、作文の問題を出すことです。
 しかし、作文は、採点者が評価するのが大変なので普及していません。

 国語力を評価するためのもうひとつの方法は、口頭試問です。
 しかし、これも、評価が大変なので普及していません。


 さて、ここまでが普通の話です。
 ここからあとは、予測の話です。

 将来は、AI技術によって、作文や口頭試問が、人間の手を借りずに行われるようになります。
 人間が評価するのは、最終段階だけになります。
 これは、今の段階の技術でもできることです。

 しかし、その後は、オンライン教育の普及によって、入試自体がなくなります。
 学校の定員がなくなるので、誰でも好きな学校に入れるようになるからです。

 勉強は、どこかに合格するために行うものではなく、自分の成長のために行うものになります。

 そして、勉強の目的は、社会に出て、自分らしい創造によって社会に貢献することになります。

 と、ちょっと先の話を書きましたが、今、子育て中のお母さんお父さんは、目の前の成績だけでなく、こういう先の展望を考えて子供を育てていくといいと思います。

 そのための勉強の優先順位は、第一に読書、第二に親子の対話、第三に作文、第四に創造発表、第五にいろいろな体験、第六に国語算数数学英語理科社会になると思います。


■■外国ルーツの子供たちに日本語を教えるには、漢字を教えるよりも、まず、ふりがなつきの文章を読ませることを中心に
 ●動画 https://youtu.be/ShzGJrpKyC8

 外国人が日本語を覚えるときに、いちばんネックになるのが漢字だと思われています。
 確かに、常用漢字2000字は、普通の大人の日本人であれば楽に読めますが、日本語を知らない人にとっては、それが大きなハードルになってしまうように思えます。

 しかし、ここで大事なことは、日本語を教える教育の方法です。
 教えることを先に考える人は、まずネックになっている漢字や個々の単語や文法を教えようとします。
 これが、間違いなのです。

 野口悠紀雄さんは、学習の基本として、まず全体を学ぶということを述べています。
 これが、教育の基本です。


 例えば、文章の読解が苦手な生徒がいたとします。

 分析主義、と敢えて言いますが、分析主義的な教育をする人は、文章を個々の段落に分け、それぞれの段落の内容を理解させようとします。

 それぞれの段落の中で意味のわからない言葉があれば、その言葉の意味を辞書を引いて理解させようとします。

 そして、言葉の意味がわかり、段落の意味がわかり、文章全体の内容がわかるようになると考えるのです。

 これは、最も遠回りな方法です。
 この方法では、文章全体を理解する前に、ほとんどの生徒は文章を読むことが嫌になってしまいます。
 そして、読解力は身につきません。

 本当の教育法は、その文章を丸ごと何度も繰り返し読むことなのです。
 国語読解クラスの勉強の基本は、問題集の問題文を繰り返し読む学習法です。
 それで、本当の読解力がつくのです。

 漢字を覚えさせたり、個々の言葉の意味を覚えさせたりするのは、分析主義的な教育法です。
 それは、教える側の発想であって、学ぶ側の発想ではありません。

 日本語を学ぼうとする子は、まず日本語の全体を学びたいと思っています。

 そのための方法は、ふりがな付きの日本語の文章を読むことです。
 その文章が、面白い内容であれば、子供はどんどん読み進めます。
 そして、自然に日本語をマスターするのです。


 毎日小学生新聞5月23日号の記事に、「外国ルーツの子に漢字を」という記事が載っていました。
 この試みをしているNPO法人の人たちの志は尊いと思います。

 しかし、教育の基本は、分析主義的な方法ではなく、まず全体から入るという方法であるべきだと思ったので、敢えてこの記事を書きました。


■■独立起業の力をつけるための創造発表クラスの勉強
 ● 動画 https://youtu.be/TESrS1VFQKw

 子供たちの将来の夢を聞くと、お医者さんになりたいとか、幼稚園の先生になりたいとか、パティシエになりたいとか言いますが、それは、そういう職業名しか知らないからです。

 これから、世の中には、多様な新しい仕事が生まれます。
 本当は、自分がその新しい仕事の創始者になるのが子供たちの夢なのです。


 関連する記事がありました。

▽「東大生の就職先「本当の1位は外コンでも楽天でもない」面白い人生を送るためのキャリア論」
https://www.businessinsider.jp/post-287615
(全部読むには有料会員になる必要がありますが、前半の部分だけで十分に内容が理解できます。)
====
……
7年ほど前に一流企業の内定者データを分析した本が某出版社から出た時のことです。その本で、僕が東大生の人気就職先ランキングについてコメントしたんですよね。

そのときの人気ランキングは、1位マッキンゼー、2位がボストン・コンサルティング・グループ(BCG)、3位がアクセンチュア……というように、見事に外資系コンサルだの外資系金融がずらっと並んでいました。

当時、その本の担当編集に「入山先生、この背景をどう分析しますか」と質問されたので、「これは超簡単ですよ」と答えました。これらは、つまり「究極の腰掛け」なんです。

「腰掛け」というと、すぐに辞めるつもりで就職するということですか?

そうです。7年前も今も、東大生が就職で目指すのは「究極の腰掛け」なんですよ。

何が言いたいかというと、たぶん荒幡さんや小倉さんのような若い世代は、誰も終身雇用なんて信じていないじゃないですか。だから最初から転職を視野に入れている。
……
====

 子供たちというか、大人も含めて、みんな自分の人生を模索しています。

 その模索のひとつのかたちが、今の大学生の場合は、コンサルタント会社に就職するということになっていまです。

 しかし、就職の時点で、そういうコンサル会社に就職するようでは、すでに先は見えています。
 準備の時間が長ければ長いほど、準備だけで終わってしまうのです。

 もっと早い時期から、自分の仕事を見つけることです。
 大学生の時代でも、高校生の時代でも、もっと早ければ中学生や小学生の時代でもいいのです。

 自分のやりたいことがあるというのが、これからの人生の基本です。

 特にやりたいことはないが、とりあえず勉強と部活を一生懸命にやるというのは、その場限りの生き方です。

 今、やりたいことを今の時点で始めるというのが、生き方の基本になります。

 創造発表の勉強は、これまでの勉強の基準から見たら、勉強とは言えないかもしれません。
 自分の好きなことを研究し、創造し、発表するのですから、定期テストの対策にはなりません。
 しかし、その勉強が、将来の自分の人生に生きてくるのです。


■■答えのある勉強は、参考書や問題集を1冊決めて繰り返し読むだけ。大事なのは、答えのない勉強に取り組む時間を持つこと。そのために役立つ方法が散歩
 今、学校でやっている勉強の中身は、すべて答えがあります。
 答えがある勉強でないと、先生が教えられないからです。

 だから、AI時代には、先生という仕事はなくなると思います。
 残るのは、教える先生ではなく、作文や創造発表やプログラミングなど、生徒どうしの発表を司会する役割としての先生です。

 今の勉強の答えは、参考書や問題集の中にすべて用意されています。
 教科書だけは、先生が教えることを前提に作られているため、答えが用意されていません。
 学校の宿題なども、答えが用意されていないことが多いのですが、答えの用意されている勉強を中心にやっていくことが大事です。


 一方、答えのない勉強もあります。
 人生は、そもそも答えがありません。
 その答えのない勉強に取り組む時間をもつことが大事です。

 しかし、答えのない時間は、惰性に流されることがあります。
 そのときの解決策のひとつは、とにかく本を読むことです。

 本を読むことは、ある種の作業なので、すぐに取り組めます。
 そして、自分の考えが深まります。
 ただし、その本は、物語文の娯楽の本よりも、説明文の考える本であることが大事です。

 読書の時間を確保しないと、人間は、空いている時間に、YouTubeを見たり、LINEでお喋りしたりすることになりがちです。

 人間には息抜きの時間が必要なので、娯楽の時間も大事です。

 しかし、娯楽の時間と勉強の時間だけでは、何のために生きているのかわかりません。
 本当は、答えのない勉強をするために、考える時間が必要なのです。


 答えのない時間を確保するためのひとつの方法が、散歩です。
 歩くという動作は、人間の身体の最も自然な使い方です。

 人間には、角も、牙も、走る速さも、大きい体もありません。
 その人間が何十万年か何百年前も生き続けてきたのは、歩くことにくたびれなかったからです。

 狩猟民族の場合、弁当を持って歩き続ければ、どんな獲物も追い詰めることができます。
 シートン動物記にある野生の雄ヒツジ クラッグの話はそのひとつの例です。

 また、人間は、どんな遠くにも歩いて行くことができます。
 人類が、地球上のどこにも広がったのは、いつまでも歩くことができたからです。

 だから、散歩は、人間にとって本質的な運動です。
 散歩しているときは、余計なことは入ってきません。
 だから、考えることがある場合は、散歩によって考えが深まることが多いのです。

 ニーチェが、「ツァラストラはかく語りき」の構想を描いたのは、近くの大きい湖の周りを一周しているときでした。

 歩いていると、YouTubeを見たり、LINEの返信を気にしたりすることなく、自分の考えだけに集中できます。


 今の学校の勉強は、退屈なことが多いです。
 その退屈な勉強に慣れて、勉強生活に適応する必要はありません。

 勉強に飽きたら、近所を一回り歩いてくることです。
 できるだけ信号のないところで、考えずに歩けるところがいいです。

 そうして、自分が本当に考えたいことを考える時間を持つのです。


■■国語の得意な子、算数数学の得意な子
 ●動画 https://youtu.be/Pcx3b29GO44

 国語と算数数学は、頭の使い方が少し違います。
 国語は、問題文を読んで実感として感じられることが大事です。

 長い物語文でも、読んでいるうちにその文章に感情移入ができるので、その後の設問にもすぐに答えることができます。

 設問を先に読んでから、問題文を読むというのは、感情移入が苦手な人の場合です。

 読書好きな子は、普通に問題文を読んで、それから選択問題を選びます。


 しかし、算数数学はそうではありません。
 例えば、
・分数の割り算はひっくり返して掛けるとか、
・比の問題で内項の積と外項の積は等しいとか、
・未知数の数だけ複数の等式があればその未知数は解けるとか、
・a2-b2=(a+b)(a-b)
とかいう因数分解の式などは、実感でとらえることはできません。

 それらをもし実感で捉えることができるとしたら、その人は数学の天才です。
 そういう人も、もちろんいます。
 確か、昔、インドにいたと思います。

 二次方程式の解の公式は便利な式です。
x=(-b±√b2-4ac)/2a

 しかし、私は、昔の人がよくそういうことを考えついたと思います。
▽ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F%E3%81%AE%E8%A7%A3%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F


 ところで、ほとんどの数学の得意な人は、算数数学の問題を、実感の学問ではなく操作の学問として解いています。

 国語は、実感で考えていいのですが、算数数学は操作として解くと割り切っていくのです。

 その算数数学のいちばんいい勉強法は、1冊の問題集を5回繰り返して、できない問題が1問もなくなるまで解くことに慣れるということです。

 これは、数学で赤点を取った本多静六が一念発起して編み出した勉強法で、清六はその後すぐに、先生から数学の天才と呼ばれるよになりました。


 一方、国語の勉強法は、問題の解き方を理詰めに解く方法を身につけることですが、それ以前に、ほとんどの人は、難しい文章を読むことに慣れていません。
 だから、まず読書、特に説明文読書をすることが大事です。


 算数数学の勉強法は、1冊の問題集を決めて、それが100%解けるようにすることです。
 しかし、多くの人は、ある問題集が8割から9割できたらそれでやめて、次の問題集に移るような勉強をしています。

 学校や学習塾などで渡される大量のプリントも、そういう8割から9割の勉強法を助長しています。

 算数数学は、解けなかった問題が解けるようになることが大事で、解ける問題をいくら数多く解いても力はつきません。


 このように考えると、勉強の方法は簡単です。

 しかし、実際に、子供たちにとって勉強が簡単でなくなっているのは、学校や塾が、子供たちに差をつけるために、解きにくい問題を出しているからです。

 その根源には、受験勉強が、受験生に差をつけるために行われているという事情があります。

 実生活では、普通の問題が普通に解けることが大事で、間違えやすい問題を間違えずに解けることはほとんど必要ではありません。

 やがて、将来はオンライン少人数教育が広がり、受験勉強自体がなくなります。

 合格者の人数を絞って選別しなければならないのは、リアルな教室の机の数や先生の数に物理的な制約があるからです。

 というのは、ちょっと先の話ですが(笑)、子供たちは、まともな国語の勉強と、まともな算数数学の勉強をしていってほしいと思います。


■■4月の森リン大賞――力作が多くて感心しました
 ●動画 https://youtu.be/tNCxQwPKkeo

 4月の森リン大賞を発表します。
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php

 森リン点の点数が高い作品であっても、要約の部分が多いものは森リン大賞の対象にはなりません。

 それは、要約の部分が多いと、森リンの点数が上がるからです。

 4週目の清書は、要約の部分をそのまま書くのでなく、要約を省略するか、自分なりの状況実例にして書いていってください。

 なお、対象に選ばれた作品の中で、固有名詞があるものは、匿名にしておきました。

 森リン大賞の作品の中のいくつかを紹介します。

▼小5の部

 実例も個性的ですが、感想の部分が長く書けているので、考える力があります。
 小5以上の生徒のみなさんは、この作文のように、第四段落の感想を長く書く力をつけていってください。
 そのために必要なのは、親子の対話と読書です。
====
   思い出の品
          みさ
 みなさんは、整理整頓は得意だろうか。私の友達は、みんな掃除が好きなのかどうかは知らないが、少なくとも下手でないのに部屋が汚いよ。とみんなして言う。友達の家でなんどか遊んだことがあるが、全て綺麗なのだ。そんなものを見せられたら自分の家なんか到底見せられないと思う。因みにわかると思うが、私の家庭は「捨てる」ということが苦手だ。もう使わない物だし、価値も無いものなのに可愛いから、珍しいからと何でも取っておいてしまうのだ。私が言えた事じゃないが、特に姉の部屋は散らかっている。よくこんなところで生活できたものだと毎度、姉の部屋を見るたびに思っている。

 私も、「捨てる」ということが苦手だ。そのせいで引き出しがまるで会場のように混雑している。母はいつも
「バーゲンセールみたいに混んでいるね。」
と冗談めかしていう。しかし全然笑いごとではない。最近は、意を決して要らないものを処分している為、結構綺麗になった。要らない物を捨てるだけで家は新品の様に綺麗になったことに少し驚いている。母は、床に物を置かない方がいいのよといつも言っていた。私は半信半疑だったが、それが本当だったので、疑っていたことを少し申し訳なく思った。

 比較的私達より整理整頓が上手な私の母にも捨てられないものがあるそうだ。それは、この話にも関連している、くずかごのことだ。母が結婚した当時、私のお父さんの方のおばあちゃんに良かったら使ってくれないと貰ったのが、今あるくずかごだそうだ。母は
「結構使ったし少し見た目もイマイチだし可愛いのに買い替えたいね。」
とだいぶ前から話しているが、一向に換えようとしない。母は、忘れているのだろうか。やはり、くずかごはどんなに汚くても気になりもしないものなのかもしれない。それに、家具屋にいってもくずかごは他の魅力的な家具にセンターを奪われ、端っこの目立たない所にちょこんと座っている。

 私は、捨てる決心が大切なことがよく分かった。けれどまだ必要ではないはずなのに捨てられない物がたくさんある。少し言い訳っぽいが、多分その物の中には素敵な思い出が残っているからだと私は勝手に思っている。だから要らないからといって捨ててしまうのではなく少しは思い出を取って置いて欲しい。私の勝手な妄想だが、将来大人になってから思い出の品が無いのは少し寂しいと思う。他の思い出のとり方も色々あるが、一個でもいいから一番の思い出の品を取って置いて欲しい。

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▼中3の部

 実例が個性的です。
 また、自分なりに調べた社会実例も入れているので、題材の幅がひろがっています。
 結びの意見も、前向きです。
 意見は、このように自分の問題として考えていくことが大事です。
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   時間に操られる自分
          なおや
 紀元前3000年前から時計の歴史は始まる。この日時計が発明されてから、人類は時間とともに生きている。今、現代人は時間に追い立てられるように生活しているが自然と調和している人たちは、時間を意識することなく生活している。また、今現在この世では、水原通訳が保釈金約400万円で保釈されるなど、金で物事は解決できる方向にある。だが金で買える幸せには限界がある。私は時間にとらわれない生き方をしたい。

 第一の方法としてあまり時計を見ないように常に心がけることだ。僕はあまり時間に厳格ではない。そのため、塾帰りの電車で予定の時刻に間に合わなくなってしまうことが度々ある。実際少し、時計を確認していなかった自分を恨んでしまうが過去に戻ることは僕でさえもできない芸当である。しかし、次の電車で素敵な女性が乗っていて、そのとなりに座ることができれば、素敵なひとときを10分間過ごせる。そして、その日は必ずハッピーな夢を見られる。確かに時計を見ずに生活するのは現代人にとっては無理な話かもしれない。だが、偶然を装い、一期一会の素敵な出会いを大切にしたい。また、家でも僕は時計を一切見ない。そのため、夜は寝るのが遅くなってしまうのだが比較的まったりと過ごせる。反対に朝は友達との集合時間に間に合わなくなり、朝ごはんを残してしまうこともたまにある。その都度、母を苛立たせる。時計を見ない生活スタイルを取り入れれば、時間を意識する必要がなくなり、何かやらなくてはいけないことなど、自分に降りかかる問題に慎重に対応する事ができるだろう。

 第二の方法として時間に対してもう少しルーズに接していくことだ。僕の祖父は田舎で農業を営んでいるが時間を意識する概念がないように思える。朝、6時に起きるのではなく朝頃に起き、12時に昼食を食べるのではなく昼頃に食べ、夕方頃に仕事を引き上げて一日が終わるのだ。彼ら、田舎者は素肌で自身の時間基準を作っているのだ。すべての国が時間にルーズだという訳では無いがよくインドやイタリアは約束の時間を守らないということで有名だと思う。特にインドは人口が多いのもあり、電車が遅れ、「時間通りにいかないのが当たり前」という感覚を持つ人が多いのだそうだ。地中海に住むとある老人は手帳に日記を記しているのだそうだが、その手帳は年数が10年前のものだったそうだ。彼にとって、グリニッジ標準時は意義を持たず、彼自身が時間の基準なのだろう。このことから、様々な解釈ができると思うのだが、この老人の時間を超越した考え方に深く感動してしまった。海外の人は良い意味でも悪い意味でも時間にルーズなのだ。アメリカの偉人、ベンジャミン・フランクリンは卓越した外交交渉能力を備えた政治家でもあり、雷の中に電気があるのを発見した科学者でもある。しかし、彼はこの偉大な生涯に似合わず、仕事に関して会食のとき以外はスケジュール通りにこなすことは一切なかったようだ。僕はベンジャミン・フランクリンのように、社会に調和しながら生きていきたい。

 確かに、時間とともに生きることは、ことをスムーズに進ませたり、時間に対して「分」という基準が定まっていると相手との誤解が減る。しかし、「悪書を読まないことは、良書を読むための最初の条件である。」というように、人は時間を的確に読むことで本来の自分の生き方を忘れてしまっているのではないだろうか。今、わたしたちの住む世界では至るとこに時計が電子機器に内蔵されている。私達はテレビを見ていると隅に表示されている時計から視線を感じてしまってならない。この社会で分単位の世界から秒単位の世界になった時、リラックスとはなんなんだろうと疑問を問うようになってしまう未来が果たしてきてしまうのではないだろうか。したがって僕は時間に支配されることなく自分自身が主体となってこの世界を堪能していきたい
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