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言葉の森新聞2007年4月2週号 通算第978号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.生きた知識が作文を上手にする
  ■2.日本語のリズム、その後
  ■3.なぜ、書くの?(みのり/まこ先生)
  ■4.ぴったりの言葉(かな/やす先生)
  ■5.「このごろ、うまく書けないなあ」と思ったら(ぺんぺん/わお先生)
  ■6.春(ぺんぎん/いのろ先生)
 
言葉の森新聞 2007年4月2週号 通算第978号

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森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.生きた知識が作文を上手にする 枝 4 / 節 3 / ID 10924
 知識には、生きた知識と死んだ知識があります。
 受験期になると、よく時事問題の参考書が店頭に並びます。これらの参考書を読んで身につく知識は、クイズで聞かれたときに答えるのには向いていますが、生きた知識ではありません。その証拠に、いくらこれらの時事的な話題を参考書で覚えても、作文の中にそれらの知識をうまく生かすことはまずできません。
 小学生の場合の生きた知識は、主に大人との会話によって身につきます。だから、時事問題を生きた知識として身につけるためには、ニュースなどを話題にして、お父さんやお母さんが自分の考えを話してあげることが役に立ちます。お父さんやお母さんの知識は、参考書よりも精確ではないかもしれませんが、子供には身近な人の実感のこもった意見の方がずっと心に残るのです。
 知識のこのような仕組みを考えると、小学生の間は、子供を勉強部屋でひとりで勉強させるよりも、家族の中で勉強させた方が、より効果的な学習ができるということがわかります。長文音読なども、親が料理を作ったり新聞を読んだりしている横で子供が読むようにすれば、その長文に関する話題なども自然に生まれてきます。
 同じようなことが、高校生で書く小論文にも言えます。学校の勉強はしっかりやっているはずなのに、そこで学んだ知識を小論文にうまく生かせる人はほとんどいません。世界史や日本史などは、実例の宝庫のように思えますが、意外と小論文の実例としては使えないのです。
 では、どういう実例が使えるかというと、その人が読書の中で読んで身につけた知識です。だから、本をよく読んでいる生徒は、的確な実例を書くことができますが、本を読まずに勉強的な知識だけを詰め込んでいる生徒は、ありきたりの実例しか書けません。
 ところが、更に言うと、同じ読書でも、入門書や概論書のように知識が上手に整理されているものは、やはり実例にうまく生かすことができません。よく「○○入門」という書名の本がありますが、そういう本は、実は意外と生きた知識にはならないのです。
 それでは、どういう本が生きた知識になるかというと、それは原典です。どの分野でも、古典と呼ばれる定評のある本があります。書かれている内容が古くなっているように見えても、そこには、作者の生きた感情が流れています。それが、読み手にとって生きた知識につながるのです。
枝 6 / 節 4 / ID 10925
作者コード:
2.日本語のリズム、その後 枝 4 / 節 5 / ID 10926
 先日、日本語にはマス目の文化があり、それが音読のリズムを生み出しているということを書きました。
 そこで、自分で、音読をしているときの脳波を測定してみました。すると、音読をしていないときは、普通にβ波が多くなります。心を落ち着けていても、β波の割合は変わりません。
 しかし、暗唱した文章を音読で繰り返すと、たちまち脳波がθ波とα波ばかりになるのです。その変化は、だれが見てもはっきりわかるほど鮮明で、しかも何度やっても同じです。
 たぶん、昔の人は、日本語の持つこの特性に気づいていたのでしょう。
 ついでに、もう一つの実験をしてみました。これは、既に工学博士の政木和三氏が開発しているものですが、右の耳から入る周波数と左の耳から入る周波数に差を作ると、その差分がうねりとなって脳波と共鳴するというものです。パラメモリーという名前で売られている製品は3万円ほどします。私が用意したものは、メトロチューナーという楽器のチューニングをする機械で約3千円(笑)。右と左の周波数を変えて同時に聞くと、頭の中にうねりが発生します。これをつけて、やはり脳波を測ってみましたが、結果は、多少影響があるという程度でした。音読による劇的な変化には到底及びません。

 さて、言語の持つ特性の一つは、創造性です。ある文章を丸ごと暗唱し音読をしていると、そこから、文章と文章の間にある隙間を埋めるような創造性が出てくるのではないかというのが、今考えていることです。
 文章を書いていると、自分で考えたとは思えないほど面白い考えが浮かんでくることがあります。しかし、これはやはり自分のこれまでの考えの蓄積の中から生まれてきたものです。その創造的な考えにつながるものが、暗唱と音読ではないかと思っています。
枝 6 / 節 6 / ID 10927
作者コード:
 
枝 61 / 節 7 / ID 10938
3.なぜ、書くの?(みのり/まこ先生) 枝 4 / 節 8 / ID 10928
 どうしてわたしたちは文章を書くのでしょう。

 そんなこと、あらたまって考えたことがないという人もいるでしょうね。なかには書きたいことがあるから、伝えたいことがあるから、といっぱい理由をあげられる人もいるかもしれません。

 わたしが一つだけその理由をあげるとしたら「読む人がいるから」です。「なんだそりゃ」と思われるでしょうか。「だれにも読まれない文章もある」と反論する人もいそうですね。
 日記やメモなど他人の目にふれないと思われるような文章も、ほとんどの場合、未来の自分は読むものです。過去の自分は今の自分とは違います。つまり、書いているときの自分は、読んでいるときの自分と同じではない。わたしは、自分が書いた文章でも、ある程度距離のある客観的で新鮮な思いで読むとき、自分もまた、りっぱな読み手の一人になると思います。
 卒業文集の作文や日記、手紙などを何年ぶりかで見つけたとき、ほとんど第三者と変わらない気分で読んだ体験はありませんか? 自分を読者に数えるなら、読まれない文章はないことになる。読まれてこそ文章の役目は果たされるのです。

 みなさんは、作文をだれかに読まれることを意識して書いているでしょうか。もし、ひとり言のように、何の望みも期待もなく文章を書いているとしたら、壁に向かっておしゃべりしているようなもので、気楽な反面、おもしろくないのではないでしょうか。
 作文は、書きたいことをわかりやすく書くことが目的です。読む人がいることが前提なのです。書きたいことは、自分が表現したいこと、伝えたいこと、わかってもらいたいことです。読む人がいると思うだけで書く意欲が違ってきます。読まれると思うと緊張しますよね。はずかしい? 確かに、だれかに自分の思っていることを言うのは勇気がいります。自分からあいさつするときと少し似ています。でも、それが交流の始まりになるのです。

 わたしたちは、人や自然のつながりの中で生活しています。そのつながりの中で自分の存在を見出したとき、生きる喜びを感じるのではないでしょうか。作文は、わたしたちのまわりにあるさまざまなつながりを見つけるきっかけを与えてくれます。あなたも作文で、はじめの一歩を踏み出してみませんか。
 
枝 6 / 節 9 / ID 10929
作者コード:mako
4.ぴったりの言葉(かな/やす先生) 枝 4 / 節 10 / ID 10930
           
 とてもとても美しい夕日を見ました。この美しさをどう作文に書きましょうか。今年はじめての雪を見ました。この雪を書きあらわすのに、一番ぴったりの言葉はなんでしょう。作文を書くとき、いちばん楽しくいちばん苦労する瞬間ですね。
 いろんな人がぴったりの言葉を一生懸命考え、工夫をこらしてきました。たとえば、太宰治の「千代女」という短い小説に、こんな一節があります。主人公の女の子に、作文を教えている先生の言葉です。
「雪がざあざあ降るといってはいけない。雪の感じが出ない。どしどし降る、これもいけない。それではひらひら降る、これはどうか。まだ、足りない。さらさら、これは近い。だんだん、雪の感じに近くなってきた……いや、まだ足りない」
 この先生は、自分はたいして作文がうまくないのに、無理矢理この女の子の家に来て、おしかけ家庭教師をしているのです。そのせいか、かなり苦労しているようですね。その点、小林一茶という俳人は、みごとに雪を表現しています。
 「うまそうな 雪が ふうわりふわりかな」
 どうです? ぼたん雪が空から落ちてくるさまが、ありありと目にうかぶような表現ですね。「うまそうな」という言葉が、とても心に響いてきます。
 他にも、すてきな表現を紹介しましょう。
 松谷みよこさんの童話、「モモちゃんとプー」の中の一節です。
「あかちゃんは大きな口をあけ、なみだをふりとばして、おう おう おう れいい れいい れいい となきだしました」
 はじめてこの文章を読んだとき、私は首をかしげました。赤ちゃんは、「おぎゃあおぎゃあ」と泣くはずです。「れいい れいい」なんて泣くわけはありません。ところが自分で赤ちゃんを産んでみて、驚きました。たしかに「れいい れいい」と聞こえるのです。松谷みよこさんは、昔からある「おぎゃあ」という表現にまどわされず、自分の心の耳で赤ちゃんの泣き声を聞いて、みごとに書き表していたのでした。
 最後に、日本を代表する詩人、谷川俊太郎さんの詩を紹介しましょう。
「人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き ときどき火星に仲間をほしがったりする
 火星人は小さな球の上で 何をしているか 僕は知らない 
(あるいは ネリリし キルルし ハララしているのか)
 しかし ときどき地球に仲間を 欲しがったりする
 それは まったく たしかなことだ 」
 谷川俊太郎さんは、ふざけているのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。火星人が火星の上で、私たちに計り知れない、何か不思議なことをしている。それをどう言葉で表現するのか。
 やはり、ネリリし、キルルし、ハララしている というのが、一番ぴったりするような気がしてきました。
 みなさんなら、どのように、表現しますか? 今晩寝ながら、考えてみてくださいね。
               
枝 6 / 節 11 / ID 10931
作者コード:yasu
5.「このごろ、うまく書けないなあ」と思ったら(ぺんぺん/わお先生) 枝 4 / 節 12 / ID 10932


先日、スーパーの文具売り場で、ボールペンを探していたところ、“消しゴムで消せるボールペン”という文字が目に飛び込んできました。消しゴムで消せるとは、なんて画期的アイデア! と感心したのですが、よく考えてみると、書いた字が消えるようでは困るから、ボールペンを使うのですよね。でも、そんな常識など、見事にくつがえしているところがこのボールペンのすごいところです。商品化されているくらいですから、「書いた字を、消しゴムで消せるボールペンがあったらいいなあ」と思うのは、どうやら言葉の森の生徒さんだけではないようです(笑)。

最近は、このボールペンのように、「こういうものがあったら、便利なのになあ。」と思うようなものが、どんどん商品化されてきています。それだけではありません。もともとある商品でも、いろんな機能がつき、ますます便利になっています。

便利なものに囲まれて暮らすというのは、みなさんにとっては当たり前の生活ですが、私が子どもの頃は、こんなに便利ではありませんでした。洗濯機はまだ全自動ではありませんでしたし、おふろも、薪(まき)や石炭でわかしていました。テレビはありましたが、まだリモコンはありませんでした。みなさんのおじいちゃんやおばあちゃんの世代だと、子どもの頃は、テレビや洗濯機もなかったはずです。みなさんからすると、想像すらできないことかもしれません。

数十年の間に、世の中は大きく変わりました。今は、スイッチ1つで、いろいろなものが動かせるようになり、大変便利になりました。このような便利な生活は、快適な毎日を送れるのですが、反面、よくないところもあります。すぐに結果が出ないことに取り組むのが苦手になってしまうのです。「このごろの子どもは、がまんができない」と言う大人も多いですが、そうなってしまうのも無理からぬことです。大人たちが子どもだった頃とは、まったく違う世の中なのですから。

機械は、働きかけたことに対し、すぐに結果を出してくれることが多いと思います。でも、人間は機械ではありません。取り組んだことの結果はすぐには出ないし、成長のスピードも個人差があります。国語や作文の勉強の場合は、特にそうです。

作文の勉強を続けていると、思うように上手にならなくてイヤになる時期が訪れるかもしれません。でも、忘れないで下さい。勉強を続けている限り、目に見えないところで、少しずつですが、確実に成長しています。ただそれが表面に出てこないだけなのです。作文は、勉強だけでなく、読書、日常の経験、精神的な成長によっても伸びていきます。勉強だけで、どんどんうまくなるわけではありません。なかなか上達しない時期というのは、みなさんの心の中に、今までなかった新しい引き出しが作られている時期、と考えるといいと思います。新しく出来た引き出しの中身を取り出す日は、そのうちきっと来るはずです。

「このごろ、うまく書けないなあ」と思うときが来たら、ぜひ、この学級通信のことを思い出してくださいね。

枝 6 / 節 13 / ID 10933
作者コード:wao
6.春(ぺんぎん/いのろ先生) 枝 4 / 節 14 / ID 10934
 こんにちは、みなさん。3月ですね。春です! 今年の冬は「暖冬(だんとう)」と言われ、地球全体が少しあたたかすぎるかな? おかしいのかな? と心配されていました。だからこそ、今自然が伝える小さな声に耳をすまし、あわい色に目をこらし、ただよう香りをよくすいこんで、身のまわりにある「春」の本当のすがたを知っておきたいですね。
 春を見つけてみよう

 春だからこそ、ひょっこりあるもの見つけてみよう。先生が見つけたのは、うすいむらさき色のはなびらをしたスミレ。メロンシャーベットのようなきみどり色をしたフキノトウ。そしてもちろん、タンポポ。「じゅけん」がおわったじゅけんせいのうれしそうな笑顔! それから、それから……。あ、今年はまだ、ツクシを見つけていなかったな☆ みんなはどこかで見つけましたか?
 春を表現(ひょうげん)してみよう

 「まるで〜ように」、「まるで〜みたいに」という項目(こうもく)がありますね。見つけた春を「たとえの表現」であらわしてみましょう。
 さっき先生が書いた“(まるで)メロンシャーベットのようなきみどり色をしたフキノトウ”というのがあるね。ほんっとうに、ほんっとうにフキノトウのきみどりは「ふつうのきみどり」ではないなと先生は感じるのですよ! おいしそうですし、すきとおるような色ですし、ふつうの野原にはえていたらピカッとひかってうかびあがるような、さわやかな「きみどり」なんです!(ゼイゼイ) ……と、こんなに力いっぱい説明しなくてもいいので「たとえの表現」はとても便利です(笑)。
 親子で会話するときにも、「まるでコショウのように花粉が飛んでいて、鼻がムズムズするよ」とか、「お母さんは、まるでウサギのように春キャベツが大好きだよ」など(なんだかうまくないたとえですが(^^;) 自由に表現してみると意外な「春」をあぶり出せそうです(笑)。たとえた言葉は、そのまま作文で使ってみることもできます。ふだんの会話がたとえの決め手に!?
 みんな自身が「春」!

 もうすぐ新学期です。1つずつ学年が上がりますね。どきどき、ワクワク、ふわふわ、ハラハラ、うきうき……いろんな気持ちが私たちをつつんでいます。実はみんな自身が「春そのもの」、なのかもしれないね。
 少しお兄さん・お姉さんになる生徒さん、卒業・進学を迎えた生徒さん。つうしんぼ、春休み、新しいカバン、新しい教室、制服、新しい友だち……。いろいろな春が、みんなをかこんでいるよ。その感じ、その春は今の季節にだけ書いておくことができます。「今年の春」を作文にたっぷり書いていきましょうね。先生もみんなの作文を読みながら、おすそわけにあずかります(笑)。「言葉の森」の中で、この季節をたっぷり感じていきましょう。
枝 6 / 節 15 / ID 10935
作者コード:inoro
枝 9 / 節 16 / ID 10935
 
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