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言葉の森新聞2008年6月3週号 通算第1035号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.新学期の教材を発送します
  ■2.「反復」と「感動」
  ■3.ユーモア表現に挑戦!(ひまわり/すぎ先生)
  ■4.一つだけ願いが叶うとしたら……(たんぽぽ/たま先生)
  ■5.短歌(ぺんぎん/いのろ先生)
  ■6.命の輪(パンダ/なるこ先生)
 
言葉の森新聞 2008年6月3週号 通算第1035号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.新学期の教材を発送します 枝 4 / 節 3 / ID 12463
 新学期の教材を6月16日(月)〜18日(水)に発送する予定です。
 国内の生徒で25日になっても届かない場合はご連絡ください。
★項目・住所シールは
7月1週の山のたよりと
一緒に送ります。
6月末に発送予定です。★
枝 6 / 節 4 / ID 12464
作者コード:
2.「反復」と「感動」 枝 4 / 節 5 / ID 12465
 「バシャール」という本の中で、未来の教育のことが書かれていました。未来の教育は、「体験を中心としたものとなる」ということです。これを現在の勉強にあてはめてみると、例えば、英語では、「英語漬け」の生活をするのがいちばんいい勉強の仕方で、それが難しい場合は、できるだけ「イメージ化」して覚えるということだそうです。これは、よく納得できる考え方です。
 覚えることをイメージ化することについては、記憶術という方法があります。例えば、数字の「1」から「100」までの百マスの表を作り、そのそれぞれの数字にイメージ化できる言葉をあてはめていきます。「33」だったら「耳」というイメージです。そうすると、無味乾燥な数字がイメージ豊かに記憶できます。これは、だれでも多かれ少なかれやっていることですが、覚える勉強すべてについて意識的かつ体系的に取り組めばかなり成果が上がると思います。
 「体験」と「イメージ化」の本質は、知識が身体化することです。では、それら以外に、知識を身体化するものがないかというと、実はあります。それが、「反復」と「感動」です。
 まず、「反復」から。
 私は、本を読むときに、シャーペンで線を引きながら読んでいます。そうすると、二度目に読むときに、線を引いたところだけ読めば全体を思い出せるからです。そして、二度目に読むときも線を引くので、そこが二重線になります。三度目に読むときは、更に波線になったり、四角で囲まれたりします。そのように、何度も繰り返して読むと、読んだ本が自分の中に消化されてくる感じがします。逆に言うと、一度しか読まない本は、その本のかなりの部分が未消化のままだということです。
 何度も繰り返して読むような本があると、読む力が育つというのは、この反復の大切さから来ているのだと思います。
 同様のことは、勉強全体について当てはまります。参考書でも問題集でも、一冊の同じものを繰り返し五回勉強するというのが勉強の鉄則です。読むたびに大事なところや印象に残ったところに線を引いておけば、二度目、三度目と繰り返すたびに反復の時間は短縮されていきます。しかし、問題集の場合は、短縮されるとともに密度も濃くなってくるので、苦痛を感じる場合もあります。これは、どういうことかというと、一度目にできなかった問題を中心に二度目の問題を解くので、二度目は解けない問題ばかりが続くということです。三度目も同じです。解けない問題ばかりが続くので、この苦痛をのりこえないと問題集の反復学習はできません。
 私の個人的な経験では、一度目に解けない問題は、二度目も、三度目も普通は解けません。そこで、ほとんどの人は、「また、できない。何て自分は頭が悪いんだろう」とあきらめてしまうのです。しかし、実は、反復学習は、四度目ぐらいから急に解けるようになってきます。それが、「同じ参考書や問題集を五回以上繰り返す」という意味です。読書にあてはめれば、身につけたい本は、やはり五回以上繰り返し読む必要があるのだと思います。
 「反復」の次は、「感動」です。(つづく)
枝 6 / 節 6 / ID 12466
作者コード:
 
枝 61 / 節 7 / ID 12475
3.ユーモア表現に挑戦!(ひまわり/すぎ先生) 枝 4 / 節 8 / ID 12467
 今学期の項目に、またユーモア表現が出てきて、張り切っている人がいますね(笑)。また、ダジャレ表現に●がついたので、ダジャレのレベルを上げるために日々精進している人もいるかもしれません(笑)。ダジャレもユーモアの一種です。
 ユーモア表現は、なぜわざわざ作文の項目(それも●の項目)になっているのでしょう。もしかすると、笑いの要素などまったくない真面目な硬い文章を書くほうが、ずっと格調高いのではないかと考える人もいるかもしれませんが、実は、笑いの要素というのは、文章でもスピーチでもとても大切なものなのです。
   たとえば、欧米ではスピーチにユーモアは絶対に欠かせないそうです。気の利いたジョークの一つでも言って注目を集めなければ、なかなか本題も伝わりにくいのです。学校の授業でもそうでしょう。教科書に書いてある内容を、先生が堅苦しく説明するだけの授業よりも、冗談交じりの話で笑いながら勉強したほうが、頭に残るものはずっと多いはずです。笑うと眠気も吹っ飛びます。そして脳が活性化します。
 同様に、作文にユーモア表現が入っていることで、より読み手に注目させ、自分の文章を印象づけることができます。本当に伝えたい自分の主張が、より強いメッセージとして伝えることができるはずです。
 もう一つ、ユーモアの大事な面があります。それはサービス精神です。人間は、もともと他の人を楽しませることに喜びを覚える生き物です。自分のジョークがウケたときの嬉しさを思い出してみましょう。少しでも笑ってもらえたら、次はもっともっとみんなを楽しませてあげようと思いませんか? 人間は社会の中で生きる生き物ですから、このようなサービス精神は大切です。すべての人が、常に周りの人を楽しませようと思うサービス精神を持ったら、世の中はどんどん明るく楽しく、健康的になるでしょう。
 先日、テレビのバラエティ番組で見た、究極のサービス精神の話を一つご紹介しましょう。江戸時代に『東海道中膝栗毛』などの滑稽本を書いた作家、十返舎一九は、67歳で病死しました。亡くなる前に、弟子たちに「自分が死んだら火葬にしてくれ」と言い遺したのですが、そのころはまだ土葬が一般的だったので、弟子たちは首をひねったそうです。一九が亡くなると、遺言どおり火葬を行いました。すると、なんと火葬場で威勢良く花火が次々に上がったというのです。
 一九は亡くなる前の日、自分の死を予感して、着物の下に花火をたくさんしのばせ、体に巻きつけておいたのでした。弔いの人々はたいへん驚き、また一九の粋な演出にたいそう感心したそうです。これは、究極のサービス精神と言えそうですね。

 「名言を入れれば、ユーモア表現を入れなくても◎がつくし……。」などと言っていた人も、ちょっぴりサービス精神を発揮してみましょう。もちろん、一九ほど気合を入れて周到な準備をしなくても大丈夫です(笑)。作文の中に一か所、どこかに『(笑)』マークを入れられればOK。肩の力を抜いて、挑戦してみましょう。
枝 6 / 節 9 / ID 12468
作者コード:sugi
4.一つだけ願いが叶うとしたら……(たんぽぽ/たま先生) 枝 4 / 節 10 / ID 12469

 「お誕生日に買ってほしいものがあるねん。いろいろあるから迷ってるねんけど…。」誕生日が近くなった娘(小2)は、嬉しそうに、しかも真剣に悩みながら、私に相談を持ちかけてきました。
「そうかあ。いっぱいありすぎて困るねえ。でも1つだけね。」と私。
「えーっ。迷うなあ。うーん、どうしよう。決められへん。ああ、ぜーんぶあったらいいのになあ。」と頭を抱える娘。何とか望み通りにならないものかと、必死です(笑)。
 
 そこで思い出したのが、ドイツ民話の「魔法の指輪」というお話です。内容は次の通り。

 若くて貧しい百姓が、ふとしたことから魔法の指輪を手に入れます。その指輪を回しながら願い事を言えば何でも叶うのだが、使えるのは一度きりだというもの。
喜んだ百姓は、早く奥さんに見せてあげようと家路を急ぎますが、途中で悪い男に騙されて、ただの指輪とすり替えられてしまいます。騙した男はすぐに「山ほどの金貨を」と指輪に願いますが、金貨の山に押しつぶされ、結局一枚も使わずに死んでしまいます。
 
 そんなことは知らずに家に帰った百姓は、奥さんに指輪のことを話します。奥さんは「畑をもう一つ願いましょう。」と提案しますが、「一生懸命働けば、畑は買える。」と百姓は言います。力を合わせて働き、畑を手に入れた二人は、「こんなに嬉しいことはない。なんて運がいいのだろう。」と喜びます。
 
 そして奥さんは次の提案をします。「牛と馬を願いましょう」。しかし百姓は「自分の力でできるうちは、指輪に頼らずにやっていこう。」と言い、奥さんもそれに賛成。働いて貯めたお金で牛と馬を買い、畑も増やしていきました。魔法の指輪をあてにせず、真面目に働いた二人は、お金持ちになり、髪が白くなるまで長生きをして、一緒に息を引き取りました。
 
 お棺の前で、百姓の子どもたちは、亡くなったお父さんとお母さんがずっと大切にしていた指輪を見ながら話します。「お父さんがとても大切にしていたから、お墓の中に持って行かせてあげよう。」「お母さんも、ひまさえあれば、じっと見ていたね。」「きっと若い頃の楽しい思い出がいっぱい詰まった指輪なのでしょうね。」と。

 お話は、「さて、みなさん。百姓は、指輪を使わなくてよかったと思いますか?」という問いかけで結ばれています。

 このお話の「一度きりの願い」は、ある者を不幸にし、ある者を幸福にしました。あれが欲しい、こうなりたい、願いが叶えばどんなに幸せだろう…と、私たちはついいろんなことを願ってしまいますが、「一つだけ叶えてあげる」と言われたら、いったい何を願うでしょう? 娘に質問され、私も一生懸命に考えてみましたが、結局たどり着いた答えは「今のままでいい」でした。

 人それぞれに基準は違うかもしれませんが、幸せとは人の心そのものにあるのだと、このお話は教えてくれます。

 話を聞いたあと、娘はまた一人で何かを考えていました。誕生日までに、どんな答えを出すのか楽しみです。

                   
枝 6 / 節 11 / ID 12470
作者コード:tama
5.短歌(ぺんぎん/いのろ先生) 枝 4 / 節 12 / ID 12471
生きるとは 手をのばすこと       
           幼子の指がプーさんの鼻をつかめり
みなさん、こんにちは。今日の学級新聞は「短歌」で始めてみました。歌人・俵万智(たわらまち)さんの歌集『プーさんの鼻』(文藝春秋社)より。この歌はその題名ともなった一首です。
 俵万智さんの短歌は、私たちにもわかりやすく、すぅっと心に入ってくるような気がしませんか。特に、まだ小さい子どもがいるの先生には、共感できる部分が多い歌集でした*^^*。いくつかご紹介してみましょう。
 
・蒸し栗のような匂いに汗ばめる 
   子どものあたま 五月となりぬ
(みんなの頭も、こんな香り? お父さんやお母さんは、そんな匂いもふくめて(!)とてもいとおしく思っているのですよ。みんなのことを……。)

・平日を足しても足しても週末に
    ならない夢を我は見ている
(毎日毎日忙しいと、早く土日が来ないかなぁなんて、みんなも思いませんか? 笑)

・しがみつきながら体をかたむけて
      子は犬という生き物を見る
(先生の子どもが今、本当に今こんな感じです。生まれて初めての何かを見つけたとき、抱っこの腕から落ちんばかりに身を乗り出す・・・・・・目に浮かびますね。)

・子を真似て 私も本を噛んでみる
    確かに本の味がするなり
(これを読み、さっそく先生はおもちゃを噛んでみました(笑)。みんなは鉛筆の後ろを噛んでいるかな?)

・あの赤い花がつつじで
    この白い花もつつじと呼べる不思議さ
(言われてみれば確かに不思議。少し哲学的な歌ですね。言葉は物事をじっと考えたいとき、便利だね。)
短歌も作文も同じ言葉。こんな風に、自分の気持ちや小さくとも大事な出来事を言葉にすることができたら楽しいな、と改めて思った先生でした。色々なものを読んで良い刺激(しげき)を受け、「言葉」にちょっと欲ばりになれたら、書くことのできる毎日がさらにおもしろくなりそうですね。
枝 6 / 節 13 / ID 12472
作者コード:inoro
6.命の輪(パンダ/なるこ先生) 枝 4 / 節 14 / ID 12473
 「人間はなんてちっぽけな存在なんだろう…。」 『マザーツリー母なる樹の物語』(C・Wニコル著)を読んで、つくづく感じたことです。樹齢500年のミズナラの木と、火山の噴火で山の天辺から転がり落ちてきた大きな岩は、山の自然の営みをただ静かに見守り続けています。
「太陽や風、雪、雨、土、石、生きもの。すべてが大きな輪の一部だ。わしらは宇宙の中を星と共にぐるぐる、ぐるぐると回る終わりのない旅をしている。」(本文より)
と、大岩は若いミズナラに語りかけます。
「互いに感謝をしないと、その大切な命の輪が切れてしまうのだよ。」(本文より)
 しかし、人間はいつしか自然への感謝の気持ちを忘れて、自分の欲望のために争い、傷つけ合い、他の生きものの命だけでなく、お互いの命までも犠牲にしていきます。そんな人間を、「なんとおろかな生きものだろう」とミズナラはなげきます。しかし、母なる樹は全てを受け入れ、その年輪に刻み込んで、ただずっと事の成り行きを見守るだけです。自然の大きな流れの中で、一人の人間の命はほんのわずかな儚いものでしかありません。しかしその命は確実に、次の世代へとつながっていくのです。樹や岩や川や森、私達の回りにある大きな命は、人間がその短い一生をいかに生きるかを静かに見つめ、見守り続けています。途切れることのない命の輪がいつまでも続くことを願いながら…。
 地球規模の環境問題を考えるとき、私達がそれらを自分の生活を脅かす身近な問題としてとらえるのは、なかなか難しいことだと思います。なぜなら、地球の生命に比べて、人間の命があまりにも短すぎるからです。とりあえず自分が生きている間は、環境はそう大きく変わるわけではないだろう…、という思いが誰の心にも少なからずあるのではないでしょうか? 確かに、現代の人間社会は、自然との直接的なかかわりを持つことが少なくなっています。また、核家族化で世代間の交流も希薄になっているといわれます。スピードや効率が重視され、あらゆる情報が飛び交う社会では、ともかく今自分の置かれている空間、時間を懸命に生きることが最優先され、前の世代を振り返ったり、次の世代のために考えて行動する余裕がないのは仕方のないことかもしれません。語り継がれるべき歴史や風土、生活の慣わしが伝えられなければ、自分がまわりの人々や大きな自然によって生かされているということは実感しづらいかもしれません。
 最近、「スローライフ」ということばがよく聞かれるようになりました。町ぐるみでの取組みも進んでいるようです。一見、ライフスタイルの一つとしてとらえられがちですが、人間全てが本来そうあるべき生き方を意味しているのではないでしょうか。それは何も、田舎で暮らすということだけをさしているのではなく、ゆったりと地に足の着いた生活をすること、そして自分がこの世に生を受けたことの意味を考えて、命の尊さ、自然の偉大さを知るということだと思うのです。
枝 6 / 節 15 / ID 12474
作者コード:naruko
枝 9 / 節 16 / ID 12474
 
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