ピシッ、ピシッ。ラケットが空を切るたびに、するどく羽根をはたく音がします。8月、高校総体のバトミントンの決勝試合を見に行ったときのことです。さすが全国トップレベル。ダブルスペアの息はぴったり。見事です。羽根がどこへ飛んでこようが、どちらかのラケットがすばやく飛び出してくるのにはびっくりしました。わたしが主人に「腕が何本もある阿修羅(あしゅら)みたいだね」と言うと、「すごい迫力。まるで格闘技だな」とのこたえ。選手の足元をじっと見ていた娘は「選手がシュートで踏み込むたび、床がダダンッって響いてびっくりした」と興奮した様子でした。
同じ場所にいても、なぜか少しずつ違う。それぞれの見方、感じ方があるものですね。
ところが、テレビ中継ではこうはいきません。みんな同じ画面を見ることになるからです。つまり、画面に映るのはしょせん「テレビ局の人が編集した光景」なのです。たとえば、自分がコート全体を見たいなと思っているときに、突然画面が切り替わって有名選手の顔がアップになったりして「アレレ?」と肩透かしを食らうことなどがあるでしょう?視線が意図的に誘導されるのです。手もとばかり、足もとばかりにこだわって見るというかたよった見方はできません。そう考えると、やはり試合は生で見るのが一番。五感で感じ、自分の視点で場面を自由に切り取れる方がいい。「切り取り名人」になれば試合を見るのが何倍も楽しくなります。
「風景や場面の一部を選んで切り取る」という作業は、もちろん試合観戦に限りません。作文でもとても大切です。みなさんは、「話の中心を決める」や、「自分だけが思ったこと」という課題項目を勉強していますね。この項目がその作業にあたるのです。たとえば「林間学校の思い出」というテーマで書く場合でも、みなさんそれぞれ印象に残った場面は違うはずです。「わくわくして眠れなかった前の晩のこと」を書く人もいるし、「おいしかったお弁当」に焦点をあてる人もいるでしょう。どの場面を切り取るかでその人の個性が出て、おもしろい作文になるのです。
とはいえ、みなさんは、すでに相当の「切り取り名人」です。たとえば、つい先日のこと。1年生の生徒さんが「夕方、雲をみていると、巨人のきずぐちにみえるよ」と教えてくれました。夜になると「『かさぶた』みたいになる」のだそうです。「へえーそんなふうに見えるの」。わたしは、子どものころ、無心にながめた空を思い出して懐かしい気分に浸りました。彼女は「雲」の切り取り名人。雲を見て、ほかの人には見えないものを切り取ったのです。電話のあと、翌日の空を見上げるのが楽しみになりました。こうして考えてみると、「自分で切り取ること」、そして「切りとったものを人に見せてあげること」。これが作文を書くことや、「何かを表現する」ということの本質なのかもしれませんね。
作文の入った封筒が今日も行ったり来たり。毎週の小さな「やりとり」を通じて、みなさんが、「自分にはこんなふうに見えたよ、こう感じたよ」と表現する楽しさにめざめてくれれば、こんなにうれしいことはありません。
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枝 6 / 節 16 / ID 12884 作者コード:utiwa
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