入試問題の中には、やさしい問題と難しい問題があります。
易しい問題とは、知識の有無を問うような問題です。ある意味で、条件反射的にこたえられるような問題が易しい問題です。このやさしい問題は、勉強した量に比例して点数がよくなります。例えば、漢字の書き取り、算数数学の計算問題、又は社会科で知識の有無を問うような問題です。
難しい問題とは、思考力を必要とするものです。これは勉強の量というよりも、勉強の質に比例して点数がよくなります。例えば、国語の長文問題です。しかも、難関校の入試問題は、かなり長い長文が出題される傾向があります。英語も同様です。単語や文法の問題よりも、やはり長文を読み取る力が要求されます。数学も同様です。単純な計算問題ではなく、考える図形問題や考える文章題が思考力を要求される問題です
国語のかなり長い長文を見たときに、長くて大変だと思う人と、長くても大丈夫だと感じる人がいます。椎名誠は、細かい活字がびっしり詰まった文章を見ると、それだけでワクワクしたと述べていますが、普通の人は、活字がびっしり詰まった文章見ると、それだけで読む気がしなくなります。この活字が詰まった文章でも平気で読めるというのが、国語における思考力を表しています。
毎日の生活の中で、思考力を育てるものと思考力を育てないものがあります。
思考力を育てないものは、断片的な知識や条件反射的な思考を必要とするものです。その典型的なものはテレビです。もちろんテレビには、考える内容を報道するものもあります。必要な情報を手に入れるという面もあります。しかし、テレビの多くは思考力を必要としません。なぜなら、テレビでは画像をや音声が助けとなるので、考える力をあまり必要としなくても見ていくことができからです。
テレビと同じようなものは、ほかにもあります。例えば、漫画、ゲーム、メールなどです。これらに共通しているのは、断片的反射的な人間の能力を必要とするというところです。逆に言うと、そういう能力しか必要としません。
もちろん、テレビや漫画やゲームやメールがいけないというのではありません。しかし、それらが多すぎると、断片的反射的な環境に人間の能力が適応してしまい、そのことによって思考力が育たなくなるのです。
思考力を育てないものは、ほかにもあります。実は、読書や勉強の中にもそういうものがあるのです。
頭をよくするものは、考える力をつけるものです。頭を悪くするものは、考える力をつけないもので、それは条件反射的な能力を必要とするものです。
断片的な情報によって反射的な能力を必要とするものに、テレビ、ゲーム、漫画などがあります。
さらに、学習漫画や絵本や図鑑なども、年齢によっては考える力を低くする要素があります。もちろん、それは、「読みすぎれば」という条件と、「年齢によっては」という条件をつけてです。
例えば、小学校低学年のころは、漫画を読むことも語彙力と思考力を育てます。しかし、小学校中学年で漫画しか読まないとなると、思考力を必要としない状態に自分の能力が適応してしまうのです。
さらに読書についても、やさしすぎる本は思考力を必要としない面があります。例えば、会話が続くような文章です。会話の多い本は内容は面白くても、思考力を必要としないので、読む力がかえって低下します。もちろん、内容が面白い本は、その内容を味わう娯楽として読むのはいいのですが、その読書が読む力を助けるというふうに考えないことです。
さらに勉強でも反射力を必要とするような勉強をしすぎると思考力は育ちません。家庭での対話も同じです。単に条件反射的に話し合うような対話では思考力をかえって必要としなくなります。テレビの娯楽番組には、こういう反射的な会話がよく出てきます。
ところが、子供は、こういう反射的な勉強を好みます。「日本でいちばん長い川は」「はい、信濃川です」というような勉強は、子供にとってできたという実感があるのでうれしいものです。しかし、こういう勉強をいくらしても考える力はつきません。それどころか、こういう勉強をしすぎると、思考力が低下するのです。知識は大事です。しかし、知識は勉強の材料であって、勉強そのものではないのです。
では、思考力を育てるものは何かというと、一つは考える勉強です。もう一つは考える読書です。それに、考える対話というのもあります。
本多静六は、今の高校生のときに家の仕事をしながら四書五経を暗唱しました。今の大学入試に相当する山林学校の入試では、作文の点数が高かったために合格しました。それまでは家の仕事を手伝っていたので勉強はほとんどできず、数学のテストは山が当たっただけというまぐれの合格でした。だから、合格の順位は50人中の50位、つまり最下位でした。
しかし、作文が得意だったということに見られるように、本多静六には読む力と考える力がありました。この作文力、読解力、思考力が、本多静六の真の実力でした。
静六は、入学後の数学の試験で赤点を取り、落第し自殺を図ります。しかし、そのあと一念発起して数学の勉強すると、次の年から数学が学年トップの成績になりました。つまり、思考力という真の実力があれば、そのほかの勉強は、あとからいくらでも間に合うということなのです。
このように考えると、思考力をつける勉強は、ある程度の長さと難しさを持った文章を読むことだとわかります。
そのような勉強は、学年が上がってから出てきます。小学生よりも中学生、中学生よりも高校生の方が、考える力を必要とする勉強になります。だから、勉強の仕方も、学年が上がるほど力を入れるようにしていく必要があります。言い換えれば、低学年のうちはそれほど勉強には力を入れなくていいということなのです。
ところが、日本の社会では、低学年のときに勉強をしすぎる傾向があり、中学生、高校生とだんだん勉強をする子としない子が分かれていき、大学生になるとほとんどの子は勉強しなくなるという逆転現象があります。理想の状態は、小学生のときはたっぷり遊び、高校生になってしっかり勉強し、大学生になって自分の好きな学問に目覚めるという形です。
しかし、反射的な勉強では思考力がつかないように、遊んでいるだけでももちろん思考力はつきません。小学生のときの勉強は、基礎的な知識や技能をつけること以外は、やはり読書です。そして、基礎的な学力をつけるのにはそれほど多くの時間は必要としないので、もっぱら勉強の中心は読書になります。
今の大人の世代で、小学生のころ、家で勉強をしたり塾に通ったりしていた人はむしろ少数派です。ほとんどの人は、学校から帰ってきたら、すぐにかばんを置いて遊びに行き、夕方の食事まで帰ってこないという生活を続けていたはずです。そして、夕方はテレビやゲームなどの娯楽がないので、本を読むかゴッコ遊びをするかして過ごしていたはずです。中学生のころも、似たり寄ったりで、放課後も塾に行って勉強をするというのは、よほどできない子か、よほど特別なところを受験する子だけでした。しかし、それで今の子供たちよりも学力が低かったかというと、全然そういうことはありません。
頭をよくするというのは、思考力をつけることであって、条件反射的な知識や技能を身につけることではありません。知識や技能は勉強の材料や手段として必要なのであって、それ自体が勉強の中身ではありません。しかし、小学校の低中学年のころは、そのような材料や手段を身につけることが勉強の中身です。それは、小学校低中学年のころは、まだ思考力を本格的に育てるような年齢ではないからです。
思考力は、言語能力と不可分のものです。だから、本を読むことが思考力を育てるいちばんの近道です。小学生のころは、勉強よりも読書を優先するというのは、こういう意味なのです。
勉強が忙しくて本を読む時間がとれないという子がよくいます。しかし、その忙しい勉強の内容が条件反射的な勉強であれば、その勉強をすればするほど頭は悪くなります。
百マス計算や漢字書き取りは勉強の基礎力をつける点で価値のある勉強ですが、そういう勉強をやりすぎることは、頭の使い方を勘違いしていることになります。点数やスピードを競うことは、集中力をつけますが、それもある程度以上になると意味のないことになります。
ここで大事なのは、試験に勝つための勉強と、実力をつけるための勉強は違うということです。受験などの試験に勝つためには、ある程度反射的な勉強に慣れておく必要があります。そのために、読書の時間がなかなか取れなくなるということは、やむをえません。しかし、将来のことを考えると、試験に勝つための勉強ではなく、実力をつけるための勉強を優先しておく必要があります。つまり、重要度から言えば読書が第一で、勉強が第二です。しかし、試験ということを考えた場合の緊急度から言えば、勉強が第一で、読書は番外です。
この区別を、人生経験の豊富な親がしっかり把握しておき、ともすれば反射的な勉強に流されがちになる子供の生活の軌道修正を行っていく必要があるのです。
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枝 6 / 節 15 / ID 13563 作者コード:
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