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言葉の森新聞2011年5月2週号 通算第1175号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.ソーシャル・ネットワークの魅力。言葉の森ファンページのfacebookにぜひご参加を
  ■2.facebook登録の仕方(図解)
  ■3.受験の教育から、実力の教育へ(つづき)
  ■4.学校の教育から、家庭の教育へ
 
言葉の森新聞 2011年5月2週号 通算第1175号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.ソーシャル・ネットワークの魅力。言葉の森ファンページのfacebookにぜひご参加を
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 facebook(フェイスブック)というソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が話題になっています。
 この魅力を知っていただくために、ぜひ言葉の森ファンページにアクセスし、「いいね!」ボタンを押してfacebookに登録し、言葉の森ファンページに参加なさってください。
http://www.facebook.com/kotobanomori
 facebookには、登録に実名を使うという原則があります。これが実は、プライバシーの安全性を保障しています。
 ひとつには、ほかの人も実名なので、自分が相手を確実に友人や知人だと知ることができ、その中でつながりを持ちたい人とだけつながりを持つことができるからです。
 そして、自分のプライバシー設定を何段階にも分けて設定することができるので、自分の名前以外は、友達関係も、趣味も、経歴も、投稿欄も、すべてプライバシーを保つ状態にしておくことができます。
 このfacebookのような新しいSNSによって、インターネットの役割は大きく変化しようとしています。
 これまでのインターネットには、交流という要素もありましたが、検索や情報発信という要素の方が主に利用されていました。
 検索の精度を保証するものは優れたアルゴリズム(数式)と大きなシェアですから、これまでは、googleやYahoo!がインターネットの代表企業でした。
 「検索のためのインターネット」に対応して、情報発信する企業や個人は、SEO対策(いかに自分のページがgoogleやYahoo!で上位に表示されるようにするかという対策)に力を入れていました。その結果、検索の上位に来るものは、次第に、本来上位に来るような中身のあるサイトから、資金力と営業力にたけたサイトになっていきました。
 今後のインターネットは、検索から交流へ、ソフトから人間へ、アルゴリズムからクチコミへ移行すると考えられます。しかし、これまでのソーシャル(社会的なつながりの)サービスは、技術的な限界からまだその役割を十分には果たしていませんでした。
 ところが、ここに来て、facebookなどのソーシャルサービスが、ソフトから人間へという役割を担えるようなプラットフォームになってきました。これからのインターネットは、「検索のためのインターネット」から「交流のためのインターネット」へと大きく変化していきます。
 メールや掲示板に見られるこれまでのソーシャルサービスと、新しいfacebookなどのソーシャルサービスとの簡単な比較をしてみました。
メール、掲示板facebook
相手の返事や反応に時間がかかるリアルタイムで反応があることが多い
アプリを起動して件名を入れて、と手間がかかるいつでもすぐに操作できる
文字中心のやりとり文字中心だが動画なども簡単に利用できる
屋外で大声で叫ぶ形のコミュニケーションになりやすい室内で静かに対話する形のコミュニケーションになりやすい
 日本を代表するソーシャル・ネットワークであるmixiは、相手のページを訪問すると足あとが残るとか、自分が受けたコメントに関しては律儀に返信することを求められるとかウェットな人間関係になりがちでした。一方、facebookは足あとも残らないし、コメントも簡単なものや「いいね!」ボタンで済むなど、ドライな点が利用しやすい要因になっています。
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作者コード:
 
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 また、匿名のSNSは、コミュティの参加者の間でやりとりが激しくなって炎上することもありますが、facebookは実名で段階的なプライバシー設定ができるので、そういう可能性はあまりありません。
 facebookに代表される新しいソーシャルサービスの利用によって、今後、言葉の森の勉強の仕方も大きく変わっていきます。ひとことで言うと、作文の勉強がより容易になるとともに、より充実するだろうということです。
 なぜかというと、言葉の森の行っている作文の勉強は、ほかの教科の通信教育に比べると、教材を渡しただけでは済まない人間的な工夫が必要だったからです。
 作文の勉強というものは、教材がどれだけ充実していても、教材だけで子供に勉強をさせることはできません。教材だけで勉強できるのは、作文の勉強に入る前段階の国語的な勉強までです。
 このため、言葉の森の勉強は、活用すれば大きな成果がありますが、実際には使いこなせない場合もあったのです。
 家庭によっては、子供にとっても親にとっても負担が大きく、なかなか力がつかないように見えるというところもあれば、逆に、毎日楽しく勉強できて、ぐんぐん力がついているというところもありました。同じ教材の同じ学力の子供であっても、勉強スタイルに大きな差が出てくることがあるのが作文の勉強でした。
 この大きな差を生み出す微妙な人間的な工夫が、新しいソーシャル・ネットワークによってカバーできるようになります。ソーシャル・ネットワークを使った新しい通信指導は、従来の通信教育や通学教育ではできなかったきわめて細やかな対応を実現すると思います。
 言葉の森の保護者の皆様も、ぜひ言葉の森ファンページにアクセスし、「いいね!」ボタンを押してfacebookに登録し、言葉の森ファンページにご参加いただければと思います。
 現在、書店では、facebookに関する本が多数発行されていますが、下記の本がビジュアルでわかりやすいと思います。
「これ1冊で完全理解facebook」(日経BP社2011年3月19日発行)980円
枝 6 / 節 6 / ID 16197
作者コード:
2.facebook登録の仕方(図解) 枝 4 / 節 7 / ID 16177
言葉の森HPでファンページをクリック。ファンページで「いいね!」ボタンをクリック。
するとfacebookの登録が始まります。
枝 7 / 節 8 / ID 16195
3.受験の教育から、実力の教育へ(つづき)
枝 4 / 節 9 / ID 16191
 前回は、受験のための勉強が、できる子にとっても、できない子にとっても、勉強のゆがみをもたらしているのではないかという話を書きました。その続きです。
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 こう考えると、日本の社会の今後の教育の方向がわかってきます。それは、受験のための勉強から、実力のための勉強へという転換です。
 今、首都圏では小学生の約20パーセントが中学を受験すると言われています。その子供たちを教える塾が何をいちばん大事にしているかというと、最難関校への合格者数です。大学受験の予備校の場合は、もっとはっきりしています。東大の合格者数が何人かということがそのまま予備校の評価になっています。
 しかし、そういう華やかに見える競争のかげで、もっとはるかに多くの子供たちは、塾や予備校で勉強しているとはいっても、その内実は学校の勉強の延長のようなことをやっているだけなのです。それは、結局、学校が子供たちに実力をつけるという最も大事な機能を果たせなくなっているからです。
 今後必要なのは、日常的に子供たちの実力の向上を測定できる仕組みを作ることです。学校や塾や予備校の評価も、トップクラスの子がどこに合格したかでなく、生徒全体がどれだけ実力を向上させたかで行われるようにならなければなりません。
 トップクラスの子供の合格結果だけを教育の目的にしているかぎり、先生は、できのよくない生徒をテストの評価でおどして勉強させるという役割を持つようになります。また、子供たちも、テストという競争の中で、友達どうしをライバルと考えて勉強への意欲をかきたてるということになりがちです。
 しかし、全体の実力を上げることが教育の目的になれば、先生と生徒は同じ目標に向かって協力する関係になります。また、生徒どうしも、同じ目標に向かって助け合う関係になります。勉強の目的は、他人と競争して相手よりもいい点数を取ることではなく、学ぶに値する本当に大事なことを、みんなができるように努力するということになるからです。
 しかし、受験のための勉強が、実力のための勉強に変わると言っても、それは受験のための勉強を否定することではありません。逆に、実力という大きなものを目的にすることによって、受験という小さな目的もその中に含まれていくような勉強を進めていくということなのです。
枝 6 / 節 10 / ID 16192
作者コード:
4.学校の教育から、家庭の教育へ
枝 4 / 節 11 / ID 16178
 これからの教育を考えた場合、受験のための勉強から実力のための勉強へ、というひとつの流れがあると書きました。(前回の記事)
 もうひとつは、学校で先生に教えてもらうような形の勉強から、家庭で自分自身で学ぶ勉強への流れです。
 現在、教育というと、学校で先生に教えてもらうものというイメージがすぐにわきますが、実はそういう形は、決して普遍的なものではありません。学校で先生が生徒に教えるというスタイルの勉強は、近代のヨーロッパで生まれた特殊な勉強の形態がただ世界中に広がっただけだったのです。
 日本で、この学校制度が教育に取り入れられたのは明治時代からです。それまでの日本では、教育は、主に寺子屋という形で行われていました。武士階級では、藩校のようなものもありましたが、そこで行われる教育も、学校というよりも寺子屋のスタイルに近いものでした。
 寺子屋のスタイルの勉強というのは、生徒ひとりひとりが思い思いに教材を学ぶという形の勉強です。先生が一定のカリキュラムに沿って、全生徒を並べて一斉に授業をするという形の勉強ではありません。先生が、全員を集めて一斉に講義をするという形の勉強は、子供への教育というよりも、既に成人した人に対する講演のような形で行われていました。
 ところで、日本の江戸時代の識字率が70−80%だったのに対して、当時のヨーロッパの先進国の識字率は20−30%しかありませんでした。江戸時代の勉強法は寺子屋方式で、ヨーロッパの勉強法は学校で先生が教える方式でした。
 なぜこのような違いが出てきたかというと、日本では、教育が一般大衆の生活と密接に結びついていたからです。江戸時代の庶民は、毎日の生活の中で文字を使い計算をする必要に迫られていました。仕事ももちろんそうですが、かるた遊びや、短歌、俳句、手紙のやりとりなど、毎日の生活の中で文字が頻繁に使われていたのです。江戸時代の日本は、それだけ社会全体の知的水準が高かったのです。
 ところがヨーロッパの教育はそうではありませんでした。ヨーロッパでは、教育を必要としたのは社会を支配する一部の階級だけで、一般の庶民は教育とは無縁の生活を営んでいました。一握りのエリートの子弟を教える方法として、学校で先生が一斉に教えるという形がとられていたのです。
 江戸時代までの日本で、既にヨーロッパよりも優れた教育が行われていたにもかかわらず、明治政府がヨーロッパの学校制度をとりいれたのは、当時の日本人が新しく学ばなければならないヨーロッパの近代科学が、それまでの日本の文化からはかけ離れたものだったからです。子供たちが学ぶための教材自体が、新しい教科書を作らなければ用意できませんでした。そして、子供たちが新しく教科書で学ぶ知識は、親の伝統的な知識の中にはないものがほとんどでした。短期間で急速に欧米に追いつくために、日本はヨーロッパの学校制度を取り入れざるをえなかったのです。
 この学校制度も、やはり当初は大きな成果を上げました。日本は、明治時代からずっと教育の先進国でした。日本の社会全体が教育に対する関心が高く、庶民の平均的な知的水準も先進国の中で最も高かったのです。底辺が高いために、一般大衆とエリートの知的水準の違いがほとんどないというのが、日本の社会の特徴でした。
 しかし、OECDの学習到達度調査(PISA)が行われるようになった2000年ごろには、日本の教育力には、既にかげりが見られるようになっていました。今、日本における学校教育は、生徒の実力をつけるのにあまりよく機能しているようには見えません。教育関係者の多くは、その原因を先生1人が教える生徒の多さにあると考えているようですが、昭和の中ごろまでは、1学級の人数はもっと多かったのです。少人数学級になれば、教育の質は確かに充実するでしょうが、問題の根本的な解決策はそこにはありません。40人学級が30人学級になっても20人学級になっても、また、ひとりの担任から複数担任制になっても、今の学校の教育機能低下に歯止めはかからないでしょう。それは、なぜかというと、これまでの日本の子供たちの学力を支えてきたものが、学校制度ではなく、学校制度をとりまく家庭の環境や文化だったからです。
 日本の家庭には、江戸時代の昔からずっと続く伝統的な教育文化、特に優れた文字文化がありました。例えば、昔話を聞かせる、しりとり遊びをする、カルタ取りをする、百人一首をする、年賀状を書く、書き初めをする、本を読む、雑誌や新聞を読む、という文化です。このほかに、折り紙を折る、お絵かきをする、九九の暗唱、十二支の暗唱、いろはの暗唱、春の七草の知識、故事やことわざの知識など、日常生活の中で自然に行われる文化が、日本人の知性を育てることに役立ってきました。この家庭における文化によって、日本の子供たちは、学校に上がる前から既に一定の知的水準を共通に持つようになっていました。
 このような共通の知力がある子供たちに、学校の先生が宿題を出せば、ほとんどの家庭では、日常生活の延長でその宿題をこなしてきます。例えば、小学校低学年で学ぶ九九も、学校の授業だけでは到底全員に徹底させることはできません。家庭での練習が前提になって初めて、日本人の全員が九九を言えるようになっているのです。
 ところが、昭和の後半から、この家庭の文化が崩壊し始めました。それは、夫婦が共働きをせざるを得なくなるような経済環境の変化もあったと思います。しかし、それ以上に家庭の文化を崩壊させたものは、テレビ、そしてそのあとに続く、ゲーム、インターネット、ケータイなどの情報娯楽文化だったのです。もちろん、今でもほとんどの家庭は、その家庭なりの文化を保持しています。共働きで忙しくても、子供たちのテレビやゲームやインターネットの時間が多くなっても、何とか時間を捻出して親子の対話の時間を確保している家庭です。しかし、その度合いはまちまちです。
 そして、この結果、それらのまちまちの知的水準にある子供たちを受け入れる学校は、既に小学校1年生のころから、一斉に授業を進めることを前提にした教育ができなくなってきたのです。これが、公立学校に見られる学級崩壊の根本的な原因です。一斉の授業を効果的に進めるためには、子供たちの知的水準を同じ程度にしなければなりません。だから、私立小学校、私立中学校のように、テストで選抜された子供たちを教えるところでは、昔ながらの一斉授業スタイルの勉強を生かすことができます。しかし、公立小中学校のように子供たちの水準に差があるところでは、いくら少人数学級にしても、一斉指導の授業では限界があるようになってきたのです。つまり、家庭文化の崩壊が、学校教育の崩壊の本当の原因になっているのです。
 問題の根本的解決は、勉強の中心となる場所を、学校から家庭に移すことです。それは、今のほとんどの人にとってはなじみのない教育スタイルだと思います。しかし、江戸時代までの寺子屋教育は、この家庭を中心とした教育でした。寺子屋というのは、今の学校のように、生徒を集めて先生が一斉に授業をするような場所ではありません。そこでは、子供たちは思い思いに自分に決められた勉強を行い、時間が来ると家に帰りました。その間、先生はただ子供たちが羽目をはずしすぎないように見守っているだけで、子供たちの勉強が新しい段階になるときだけ、手短に次の勉強の仕方を指示しました。寺子屋というのは、家庭でもできることを、スペースや教材のうえでより能率的に行うために設けられた場所だったのです。
 現在の家庭は、インターネットや電話を利用すれば、この昔の寺子屋環境をそのまま家庭に移すことができる条件を持っています。もちろん、すぐにそのような変更はできませんが、これからの歴史の流れを大きな目で見ると、教育の中心は学校や塾から家庭に移ってきます。学校は、教育の場というよりも、集団活動や交流を楽しむ場として活用されるようになるでしょう。
 この変化は、小学校や中学校のようなところだけではなく、高校や大学にも広がっていきます。大学での勉強も、わざわざ遠くまで通って授業を聴いてレポートを書くというような学習の仕方に、多くの人は内心疑問を感じています。能率よく勉強しようと思えば、ネット環境を利用して自宅で学び、本当に会って話を聴きたい人にだけ会いにいくという形の勉強が最も合理的です。このような形が作られれば、勉強の目的は、受験のための勉強から実力のための勉強へと大きく変化していきます。そして、この勉強の目的の変化に応じて、勉強の場所も、学校から家庭へと大きく変化していくのです。
 (2011年4月8日加筆)
 勉強の場所が、学校や塾から家庭へと変化したあとに、その家庭での学習を能率化するために、ひとつの家庭に複数の子供が集まるような状態が生まれてきます。次第に多くの子がひとつの場所に集まるようになると、家庭の教育は、地域の教育に発展していきます。それが、新しい時代の寺子屋です。
 集団で学ぶという外見は、一見今の学校に似ていますが、学校が家庭から切り離されて存在しているのに対し、寺子屋的な地域の教育は、家庭での教育の延長にあります。未来の教育は、正確に言えば、学校から、家庭と地域に移っていくのです。
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