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言葉の森新聞2011年5月3週号 通算第1176号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.保護者の皆様へのお願い
   ●1.ちょっとした時間の変更も、先生に直接頼まずにふりかえ授業で
   ●2.先生の自宅への直接の電話はせずに、事務局を通して
   ●3.先生の授業のあと、先生との長い電話相談はせずに事務局へ
   ●4.フェイスブック(facebook)への登録を
  ■2.点数の教育から、文化の教育へ
  ■3.競争の教育から、独立の教育へ
  ■4.創造のコンテンツは日本から
 
言葉の森新聞 2011年5月3週号 通算第1176号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.保護者の皆様へのお願い
枝 4 / 節 3 / ID 16201
 保護者の皆様の中に、決して悪気があるではなく、下記のようなことを自然にされている方がいらっしゃると思います。
 これらは、すべて担当の講師にとっては心理的にかなり負担になるものですので、事情をご理解いただき、必ず事務局を通してご相談やご連絡をしてくださるようお願い申し上げます。
枝 6 / 節 4 / ID 16202
作者コード:
1.ちょっとした時間の変更も、先生に直接頼まずにふりかえ授業で
枝 5 / 節 5 / ID 16216
 先生の電話指導の曜日と時間は決まっていますが、保護者の皆様の中に、「来週は帰りが遅いので、普段より15分ぐらい遅めに(又は早めに)電話をしてください」などと頼まれる方がいらっしゃいます。
 こういう依頼を受けると、講師は断りにくいので、そのまま依頼を受けてしまうことがあります。
 しかし、講師は、電話指導の際に、その時間に合わせてかなり気合いを入れて説明のための準備をしています。電話を受ける方は、ただ時間を変更するだけと考えがちですが、教える側の講師は、電話指導の前後の生活時間も調整する必要が出てきます。
 ですから、曜日や時間の変更は、講師に直接頼まずに、必ず事務局を通してふりかえ授業として行ってくださるようお願いいたします。
枝 6 / 節 6 / ID 16217
作者コード:
2.先生の自宅への直接の電話はせずに、事務局を通して
枝 5 / 節 7 / ID 16203
 保護者の皆様の中に、先生に連絡をとりたいときに、電話の着信記録に残された番号で直接講師の自宅にお電話をされる方がいらっしゃると思います。
 講師の日常の生活時間はプライベートな時間ですが、その時間帯に保護者から電話があると、どうしても仕事モードに切り替えて対応しなければならなくなります。
 これは、仕事をされている方にはわかると思いますが、家庭でくつろいでいるときに突然会社から仕事の電話があって対応しなければならないのと同じ状態です。
 ですから、講師の自宅には直接の電話はせずに、必ず事務局を通して連絡をとってくださるようお願いいたします。
枝 6 / 節 8 / ID 16204
作者コード:
3.先生の授業のあと、先生との長い電話相談はせずに事務局へ
枝 5 / 節 9 / ID 16205
 保護綾の皆様の中に、通常の電話指導のあと、先生との電話を引き継ぎそのまま電話での相談をされる方がいらっしゃると思います。
 次の担当生徒の時間に重なっていない場合、講師もそのまま普通に電話対応をすることが多いと思いますが、講師と家庭の間の電話は、原則として講師の仕事の時間になります。
 保護者の方と講師の間に長いおつきあいがある場合、講師はそれを内心負担に思い、早めに切り上げたいと思っていても、普通の友達関係のように、「今日は忙しいから、またあとでね」と言うようなわけにはいきません。
 たとえ、講師がにこやかに気長に対応していても、その背後にある気持ちを推測して、電話相談は事務局との間で行ってくださるようお願いいたします。
枝 6 / 節 10 / ID 16206
作者コード:
4.フェイスブック(facebook)への登録を 枝 5 / 節 11 / ID 16207
 言葉の森では、現在、フェイスブック(facebook)を利用した対話の機会を作っています。
 例えば、ちょっとした質問や相談、あるいはわざわざ電話で伝えるほどでもない事柄も、フェイスブックであれば気軽に書けます。そして、ほとんどの場合、その気軽なひとことにもほぼ即座に反応があります。
 フェイスブックは、アメリカで発達したソーシャルサービスで、現在、日本人に合わせて仕様の改善が進んでいます。これまでは、インターネットの利用というと、メールを使ったり、グーグルの検索エンジンを利用したり、ヤフーのポータルサイトを利用したりという使い方が中心でしたが、これからは、フェイスブックが日常生活の中で最も頻繁に使われるプラットフォーム(土台、基盤)になっていくと思われます。
枝 6 / 節 12 / ID 16208
作者コード:
 
枝 61 / 節 13 / ID 16219
 個人的な話になりますが、私(森川林)も、フェイスブックを利用して2、3週間になります。これまでに、ほぼ10年前、20年前、30年前ごろに、それぞれ教室で教えていた生徒と再開しました。そして、みんなの近況が毎日わかるので、急に社会生活の範囲が広がった感じがします。こういう形で、長期間の継続するコミュニケーションを築けるのがフェイスブックのいいところだと思います。(もちろん、プライバシー設定によって、外部とのつながりを持たない設定もできます)
 保護者の皆様も、ぜひフェイスブックに登録され、言葉の森のフェイスブックページにご参加くださるようお願いいたします。
http://www.facebook.com/kotobanomori
枝 6 / 節 14 / ID 16220
作者コード:
2.点数の教育から、文化の教育へ
枝 4 / 節 15 / ID 16209
 未来の教育の大きな戦略目標として、「受験の教育から、実力の教育へ」、「学校の教育から、家庭の教育へ」と書いてきました。今回は、「点数の教育から、文化の教育へ」という話です。
 教育は、個人の側から見れば、自己の向上です。社会の側から見れば、社会の再生産です。その両者の出合うひとつの形が点数です。社会は、社会自身を再生産する方向に向かって100点を用意します。個人は、自己の向上のバロメータとして、その100点に近づくことを向上の目標とします。
 ところが、教育の目的が、実力をつけることから受験に合格することに狭められることによって、この点数による評価が極大化したというのが現代の教育の特徴です。点数が評価の中心になるにつれて,逆に、点数化しやすいものが教育の中心になっていきました。
 例えば、小学校から高校にかけての教科には、国語、数学、英語、理科、社会、音楽、美術、体育などがあります。このうち、音楽、美術、体育などは、点数化しにくいので、一般的な受験勉強の中心にはなっていません。理科や社会は、点数化しやすい教科ですが、そこで求められる知識は比較的平板なものなので、記憶力を中心としたものになります。国語、数学、英語は、理科や社会に比べると、知識が立体的な構造を持っているので、記憶力以外に思考力が必要になります。そのため、国語、数学、英語が受験勉強の主要な3教科になり、そこに、理科、社会を付け加えて5教科の勉強が教育の中心になるという体制になっています。
 教育とは、社会の再生産ですが、その再生産が点数化されやすいものに絞られることによって、自己の向上も点数化されやすいものに絞られるようになってきました。点数が教育の評価の中心になることによって、社会と自己の両者がともに質の低い目標に甘んじるようになってきたというところに、現代の教育のひとつの問題があります。
 例としては少し飛躍しますが、例えばドッグショーという犬の評価があります。そこで評価されるものは、姿形や血統が中心です。外面からは判断しにくい、性格のよさや頭のよさは評価の中に出てきません。そして、そういう内面的なものが出てこないばかりか、外面的なものが極端に重視されると内面的なものが低下する面も出てくるのです。人間の教育も似ています。点数化しやすいものによる評価は、ある程度までは有効ですが、それが極端に重視されるようになると、かえって人間の成長と社会の発展を妨げる面も出てきます。
 社会も人間も、その多くは、点数化されにくいものによって運営されています。例えば、江戸しぐさのような文化があります。座る場所が混んでいたら互いにちょっと詰めてあげるというような文化です。道でときどき出会う人には、相手のことをよく知らなくても会釈を交わします。災害のあった場所でもそれをいいことにして物を略奪するようなことはしません。見知らぬ人どうしでも分け隔てなく相手の立場に共感してものを考えます。自然と一体感を感じ、自然を味わうことに喜びを感じます。こういうことは、すべて社会の中で再生産されている文化です。しかし、これらの中で点数化されるようなものはほとんどありません。
 こういう例は、挙げればきりがありません。例えば、言葉だけで列挙すると、親孝行、自然への信頼、祖先への尊敬、日本語脳、よい姿勢、早寝早起きの習慣、清潔に対する感覚、色彩を表す表現、昔話に伝わる文化、助け合いの文化、譲り合いの文化、自己主張のない文化、誠実さや正直さに対する価値観、道を追求する文化、八百万(やおよろず)的な考え、オープン性、平和志向、静かな文化、清貧の思想、明るさに対する価値観、手先の器用さ、謝ればすぐに水に流す文化など、こういう日本の社会に伝わる文化のほとんどは、点数による評価とは無縁のものです。
 しかし、これらの文化は、点数評価を中心とした社会の中では、軽視されるどころか否定されてしまうこともあります。例えば、テスト勉強のコツとして、子供たちが、「時間がなかったら、選択問題はとにかくわからなくても埋めておけ」というようなことを教えられたとします。しかし、これは、日本文化の中にある正直さや潔さ(いさぎよさ)に対する価値観とは対極にある考え方です。
 日本文化は、以前、無の文化だと書いたことがあります。(「新たな知のパラダイム」)。それは、西洋における有の文化とは正反対の哲学に立脚しています。西洋の有の文化とは、個人のエゴを社会の構成原理としている文化です。そして、このエゴ的なものほど、点数化されやすいという傾向があります。
 点数は、どこができていたらプラス何点で、どこができていなかったらマイナス何点だというふうに、特定の場所を基準として誰にとっても共通に客観的に採点されるので説得力があります。無味乾燥な説得力というのが、点数文化の特徴です。
 それに対して、点数化されない文化は、全体の雰囲気の中で承認や共感を受ける形で評価されます。未来の教育のひとつの大きな方向は、この「点数の教育から、文化の教育へ」という流れの中にあるのだと思います。
枝 6 / 節 16 / ID 16210
作者コード:
3.競争の教育から、独立の教育へ 枝 4 / 節 17 / ID 16211
 現代の教育を特徴づけているもののひとつは競争です。競争は、勉強の意欲づけに欠かせないもののように思われています。
 競争による意欲は、数多くの意欲のきっかけのひとつに過ぎませんが、競争だけが突出して重視されているように見える原因は何でしょうか。この原因を知らずに、競争を否定することも、競争に没頭することもどちらも、正しい対応の仕方ではありません。
 競争に力を与えているものは、現代の社会の中にあります。それは、限られたイスを取り合う社会の仕組みです。
 例えば、なぜ人間が、よりよい学歴をめぐって競争するかというと、それはその競争に勝つことが、将来の社会生活における、よりよい職業、よりよい会社、よりよいポストなどに結びついているからです。そして、これまでの日本では、いったんよいポストにつくことは、その後の人生の安泰を保障していたからです。
 競争によって社会生活のポジションが決まる社会では、教育も含めてすべてが競争の中に置かれます。だから、教育の分野だけが競争を否定することはできません。たとえ外見上の競争を抑えたとしても、それはただ競争を潜伏化させるだけです。
 教育と競争の問題を考える場合、競争があることをまず前提にする必要があります。しかし、その競争に邁進していいのではありません。それは、なぜかというと、ひとつには、これまでの競争社会が崩壊しつつあるからです。そし、もうひとつには、競争を必要としない新しい社会が生まれつつあるからです。(以下省略)
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 文章が長くなるので、最初の部分だけを掲載しました。続きは、下記のページでごらんください。 
http://www.mori7.com/index.php?e=1250
http://www.mori7.com/index.php?e=1251
http://www.mori7.com/index.php?e=1252
枝 6 / 節 18 / ID 16212
作者コード:
4.創造のコンテンツは日本から
枝 4 / 節 19 / ID 16213
 インターネットのコンテンツは、今後、個々のホームページからソーシャル・ネットワーキング・サービスに移行していくようになると思います。
 なぜかというと、クラウド化の流れの中で、自社サーバーの中にコンテンツもプログラムも全部入れてきっちりと管理運用することは時代後れになりつつあるからです。(容量の限界、プログラム開発の限界、スペックアップの限界、検索しやすさの限界などのため)
 ワールドワイドのインターネットのクラウドの中に、どのコンテンツも全部投げ込んで、それを検索エンジンで探していくか、又はフェイスブックなどのつながりを拠点にして探していくかという形になってくと思います。
 この流れを別の言葉で言うと、Consistency(一貫性)から、Eventually−consitency(結果オーライ)への流れということになります。
 途中の過程で論理的に無矛盾の一貫性を保つ必要はなく、結果的につじつまが合えばいいということです。だから、どこかのページを探す場合も、「AからBに行ってCをクリックすれば確実に行けます」という形ではなく、「あのへんで探すか、このへんの人に聞けばわかるんじゃないかなあ」でいいということです。
 こういうアバウトな発想は、日本人ではまずできなかったと思います。しかし、グーグルの処理が1日2万テラバイトを超え、百万万台のサーバーにデータを分散している状態では、途中経過の一貫性などはもう望めません。そして、こういう規模のスケールは、今後多かれ少なかれどの企業にもやってきます。
 このクラウド化の流れの先にあるものは、コンテンツの創造の世界です。
 インターネット技術では、日本は大きく立ち遅れていました。その最も大きな原因は、日本語処理の難しさから(文字コードが4種類もあり、どれも多少不備がある)、若い人がコンピュータの世界に入る最初の敷居が高すぎるところにあったと思います。
 しかし、インターネットの技術は今後も発展していくでしょうが、もうすでにコンピュータのソフトやハードでできる世界は、量子コンピュータなども含めて見通しを想像できるものになっています。
 人間は、未知のものに最も惹かれますから、たぶん世界の最も優秀な頭脳は、もうだいぶ前からコンピュータやインターネットの世界とは別の科学分野の研究を進めていると思います。
 そういう優秀な頭脳を持たない人にとっても、コンピュータやインターネットのソフトとハードの世界は、もう既に日常生活のインフラになりつつあります。ちょうど、家の前に舗装道路があるとか、家の中で水道や電気が使えるというのと同じ感覚です。大昔は、自分で山の中に人の通る道を作ったり、近くの川に水を汲みに行ったり、まきを拾ったりしたのでしょうが、今はそういうことはすべて基本的なインフラとして提供されています。人間のすることは、そのインフラを前提にして豊かな生活をすることです。
 ところが、その「豊かな生活」というものが、これまでのアメリカ型消費社会の発想では、豊かな消費生活でしかなかったのです。おいしいものを食べて、いい服を着て、広い家に住み、テレビでのんびりスポーツ観戦を楽しむとか、たまに家族で海外旅行に行くとかという消費生活は、確かに魅力あるものです。しかし、そういう生活のもたらす満足感には限界があります。
 消費文化の国々では、内心満たされないものを感じながら、そのような消費生活を更に豊かに続けるという方向にしか進みようがありませんでした。より豊かな食事、よりきれいな服、より長い休日、より豪華な自動車や住居、あるいはより激しい刺激という方向です。
 しかし、日本人は、豊かな生活のよさは認めても、その先に限界があることをすぐに理解できるだけの文化を持っています。それは、縄文時代や江戸時代の長い豊かな生活をすでに何度も経験して、その中で人間が幸福に生きる方法を模索してきた歴史があるからです。
 逆に言うと、日本以外の国々では、豊かさの限界を大衆的なレベルで歴史的に経験したことがないので、いまだに豊かな消費生活の幻想から脱却することができないのです。
 インターネットは、これからコンテンツの時代に入ります。
 しかし、そのコンテンツの内容は、これまでの消費生活の延長にあるコンテンツではありません。言い換えれば、検索エンジンで探して手に入れるという消費のコンテンツではなく、ソーシャルサービスで自ら作り出して友達と共有するという創造のコンテンツと言ってもよいでしょう。
 その創造のコンテンツの文化を世界で最も豊かに持つ国が、この日本なのです。まだ、だれもそのことに気づいていないようですが(笑)。
 しかも、創造のコンテンツは、日本の過去の文化から引っ張り出してくるだけではありません。日本人は創造の文化というものを経験しているので、現代の環境に合わせた創造のコンテンツを新たに作り出していくことができます。
 その創造のコンテンツを作り出すプラットフォームが、今、フェイスブックなどを中心に世界中に広がっているソーシャルサービスなのです。
(注)創造のコンテンツ
 日本における創造のコンテンツとは、例えば、折り紙を折ったり、綾取りをしたり、短歌や俳句を作ったり、百人一首をしたりするような文化に象徴されるコンテンツです。
 これらのコンテンツの特徴は、
(1)習得するために時間がかかるという向上の要素がある(折り紙や綾取りや百人一首には学習が必要)、
(2)決まった枠内で行うというルールのようなものはあるがその中身は自由に工夫できる(例えば、折り紙は1枚の紙で、綾取りは1本のひもで、短歌や俳句は決められた字数で)、
(3)個人が創造したものは個性や交流を楽しむ面が強く、勝敗や優劣に還元されない(百人一首も家庭で行う場合は交流のため)、
(4)一般庶民から支配階級までの格差がなくどの階層でも共通している(費用をかけて行うようなものは少ない)、
などです。
 これに対して、欧米の文化は、一方で、学習や習得をあまり必要としないトランプゲームのような大衆的な娯楽があり、他方で、プロを目指して勝敗や優劣を競う学問や芸術やスポーツやビジネスの分野があるという形で文化が二極化しています。これは、欧米のこれまでの歴史のほとんどが、支配と被支配の格差に基づいたものだったからです。
 このように考えると、世界に創造のコンテンツを広げるのが、これからの日本の役割になると思います。
枝 6 / 節 20 / ID 16214
作者コード:
枝 9 / 節 21 / ID 16214
 
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