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AI森リン「森リー」
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AI森リン「森リー」
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日本の法律、政治、経済の学者たちはあまりに専門的に分化し、他方あまりに理論の整合性を喜びすぎて、人間をトータルに把握するという、いちばん平凡な、しかもいちばん肝心のことを忘れていたのではないだろうか。日常生活の中でたえず自分の学問をためしてゆくことによって学問がそれだけ豊かに立体的になり、逆にまた自分の生活と行動とが原理的な一貫性を持ってくるだろう。しかし、今日の学問はテストのため入試のために必死で頭に詰め込むだけのものになりがちだ。私は、社会の問題に取り組むよりも、学問自体が目的となっているところに問題があると思う。 その原因として第一に、学問の内容自体が膨大になり、全体像がつかみにくくなったからである。日本の学生は毎日様々な授業を受けなければならない。チャイムの合図で授業を終え、すぐに次の準備をする。授業もせわしなく進んでいく。一年間のノルマをきっちり終わらせるため、とにかくこなすだけの授業になりがちである。高校一年生の数学は特にそのように感じた。私は得心クラスに在籍していたため、標準クラスよりも早く進めていくためにスピード重視で勉強していた。ところが授業中に納得いくまで理解できたことはほとんどなく、山のように課される宿題プリントを必死で解き、小テストの結果はいまいちなのだ。しっかり理解できていないことは分かっていても、授業は先々進んでいくためゆっくり立ち止まってなどいられない。本来数学は日常生活に大きく影響する大切な教科であるはずだが、日常生活に結び付けて考える間もなく、テストで点数を取るためだけに必死になっている。大切なのは、表面的な教科書の勉強だけでなく、実生活に結び付けた生きた学習を深めていくことだと思う。 また第二の原因としては、これまでの社会が、経済成長に役立つ分野以外に、学問の役割をあまり期待していなかったからだ。会社は新入社員に対して、大学で学んだことを生かしきらずにまた一から学ばせる。学生時代に学んだことは、生きていくうえで基礎となり社会人になってからも大切であるはずだ。しかし難しいことばかり押し付けると、基本となる足場が崩れてしまい、ますます難しくなってしまうだろう。海に戻ったイルカは、陸上生活のころに使っていたはずの足の痕跡がほとんどない。役割を期待されていないものは消滅するのである。このように無駄だと思われるものを切り離そうとするとどんどん難しいものばかりが残ってしまうのだ。 確かに、学問には、その時代の社会に求められたものは独立した意義もある。しかし、「雨だれ岩をもうがつ」と言うが、大事なことは、どういう岩をうがつべきなのかということである。つまり、「受験のための学問」という岩ではなく「人間の幸福のため社会に生かせる学問」という岩をうがっていくべきであろう。だからこそ、学問自体が目的となっている現代の社会は問題である。実生活につながるような生きた学習をするべきである。
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