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AI森リン「森リー」
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AI森リン「森リー」
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分析とは、外側から対象という特殊を、一般的な記号としての要素で理解するということである。そのため、オリジナルなもの、変化するものには適用できない。これを踏まえて、全てを記号で表せると過信することが将来問題になると私は考える。 原因としては、現代が0か1かの世界で構成されているからだ。私の学年から共通テストの科目として情報が必須となり、私ももれなくそれに巻き込まれている。情報をやっていて驚くのは、機械が全ての事象をアナログ化して、0か1かで処理していることだ。プログラミングは、一つ間隔が違うだけで正常に動かない。これを学んだ時、私はこれが同じ人間の頭から生まれたものだとにわかには信じられなかった。しかし、この世界で日々仕事をして食べている人が、現代で最も成長を見込める分野の人々なのだ。そう考えたとき、これからも、この世界では全ての事象を記号化できると過信する、つまり、社会にも0、1を投影して、「処理」できると考える人が増えるのではないだろうか。 記号化が激化すれば、社会はうまく回らないと考えられる。そこで、対策としては、思想史としての文系科目を、義務教育から消さないように努力することが挙げられる。例えば、現代の高校のカリキュラムでも、理数系分野、または英語が時間割を圧迫している。文系科目はいらないのでは、という人の声も少なくない。しかし、社会の構造は依然として古代ギリシアの時代から変わらず、データも機械も活用されない民主主義のままである。人間の営みは、遙か数千年前から驚くほど変わっていない。そう考えた時、考える、ということは民主主義での革命でも起こらない限り、なかなか捨てられないのではないか。考えるとは、分析と同じ過程を踏むとしても、もたらす結果が大きく異なるように思う。考えるその真意とは、白と黒の境目をなるべく大きくしていく作業という、記号化とは対極的な位置にあるのではないだろうか。 確かに、世界を記号化して理解していくことで、人間は神も驚くような発展をしてきた。しかし、世界が二色になったとき、世界から音が消えた、という名言のあるように、ある物事から定まった値を抽出し、他の要素を捨象するという作業を繰り返せば、いつしかそこでは有機的な営みが息を止めるだろう。よって、全てを記号で表せると過信することが将来問題になると私は考える。
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