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AI森リン「森リー」
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AI森リン「森リー」
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今日では言葉という物の力を、一般に過信している。書いた物だけによって世の中を知ろうとすると、結局音声や「しぐさ」のどれぐらい重要であったかを、心づく機会などは無いのである。言語の万能を信ずる気風が今は少しばかり強過ぎるようである。現代では泣くという事を、どんなに泣きたい状況であったとしても我慢してしまう人もいるのではないか。そうだとすると、泣きさえしなければ子供は幸福であると、速断してしまうのも考えものである。 私は言語の力を過信しすぎている事が問題であると考える。その原因として第一に、通信機器の発達である。現代では、パソコンや携帯電話、またスマートフォンなど様々な通信機器が発達し、いつでもどこでも自分で情報を手に入れられるようになった。その反面に面と向かって人と話をすることが少なくなったのでは無いだろうか。メールというのは便利だが嘘をつけてしまうというのが難点でもある。たとえば「今日食べに行った、たこ焼きおいしかったね♪」というメールが来たとする。そのたこ焼きが自分にとっては美味しくなかったとしても、メールで「美味しかった。」と返してしまえば、相手は自分が美味しくないと感じている事など微塵も感じないだろう。しかし、面と向かって「たこ焼きおいしかったね♪」といわれれば、たとえ自分が「美味しかった。」と嘘をついたとしても表情から本当は美味しくなかったのかもしれない、と相手が察してくれる事もある。言葉には表情が含まれている訳ではない。さらにいうなら、文章というのは、自分の気持ちの余分な部分をそぎ落として相手に伝えてしまうものである。私が思うに、他人と親しい関係を作るためにはメールのように自分の気持ちをそぎ落とした物ではなく、面と向かった素顔の状態でコミュニケーションをとった方が良いと思う。 第二の原因として、付き合う人間を選べるようになったということである。最近、ネットの中などで、小さな集団を作り、その人達だけで会話するような事が増えている。自分の親しい人達と、関係を濃く持てるというのが、この集団のメリットである。しかしながら、この小さな集団に依存しすぎると、他の集団に入った時、また他の人と面と向かって話すときに上手くしゃべれなくなるのではないだろうか。言葉の力を過信するあまりに、人の表情を見て話す事ができなくなるように思う。日本の小笠原諸島では、そこにしかいない固有の動植物が数多く生息している。理由は、太古の昔に陸地と離れてしまったからだ。小笠原の環境を守る活動をしている人をテレビで見たが、固有の生態系を守るために他の所からは、一切動植物を入れないようにしているそうだ。この小笠原の事は、ネットの中の集団にも置き換えられると思う。 確かに、言語によって人は氷河期という試練を乗り越え、また大きく発展させてきた。また、重要な部分だけを相手に伝えられるという点では、無駄な争いが起こる事は少ないだろう。しかし、昔からあることわざの逆をいうならば、口は目ほど物は言わない。というのは、言語だけでは伝えきれない人の感情があるという事である。親しい関係の人ほど何も言わずとも目を見るだけで大抵のことは解るようになる。そういう人間関係がこれからはさらに少なくなっていくような気がする。だから私は、言語の力を過信しすぎていることが問題だと思った。
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