ログイン
ログアウト
登録
AI森リン「森リー」
送信中です。しばらくお待ちください...
AI森リン「森リー」
題名:
名前:
魏志倭人伝によると、当時、海をわたって中国と交通する際に、必ず持衰と称する男を一人伴っていたという。この男は、航海中決して頭を梳らず、のみ、しらみを取らず、衣服を洗わず、肉を食わず、婦人に近づかず、服喪中のひとのようであった。無事に航海が終わって港に着けば数々の財物を与えられたが、暴風に会ったりして難破すると直ちに殺されてしまった。こういう役割の男を持衰といったのである。持衰とよばれるこの男はどうやら一種のシャーマンであって、航海の安全を祈ったものであろう。シャーマンというものは、成功してはじめて評価されるもので、失敗すればたちどころに殺されてしまう。殺されることが呪力の持続の保証でもあったわけである。ところで、いかに呪力を持ったシャーマンとはいえ、航海中に一定の禁忌を守りさえすれば、船が目的地に安着するというのはどういうことなのであろうか。それは時の持続、出発地の時間が目的地まで持続すること、そういう流れない時のシンボルなのではなかったろうか。そして、そういった場合には、演劇的表現を生む以前のある時期には、流れない時のリアリティーがすべての人々に実感されていたに違いないのである。流れない時、時間をこえた時、そういう時はたしかにあった。創造というのは、そういう時に出逢うことである。竜宮城の浦島太郎はこういう時を日常の時として不老不死であったが、故郷に帰って玉手箱を開けたとたんに、一挙に時間が流れ去ったのであった。山川の流れにも、淀むときがあり、早瀬となって走るときがある。表層の水は白く泡立って流れていても、深層の水は静かにたたえている。時間も同じことである。時について考えるには、時をまずその原初の意味においてとらえ直す必要がある。そうすると、時は『もの』である。時はタンジブルなものである。桜の花の咲く時、梅の実の黄ばむ時である。そういう時に逢う時、それが時である。『もの』を離れて時はない。時は、あるいは時間は、われわれの人生がその上に展開する座標ではない。最近、宇宙船地球号というイメージが普及している。そういうイメージからすると、この地球に住む約三十八億の人間がそれぞれ腕に腕時計をはめて宇宙空間をただよっているような気分になるが、実はそんなことはない。日本の時間とボルネオの時間とは違うし、現代の時間と古代の時間はちがう。私の時とあなたの時はちがう。時間は決して一つになってはいない。
山
年
月
週
生徒コード:
パスワード:
講師コード:
パスワード: