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AI森リン「森リー」
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AI森リン「森リー」
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映像の価値は映像自体にあるのではない。既存の言語体系に挑戦し、言語に強い刺激をあたえて、それを活性化することにあるのだ。映像で方法は語れない。そして、言語の壁は、想像以上に堅固なものである。小説家もまた、言語破壊のダイナマイト造りに参加する義務があるだろう。 映像が映像の独自性を持たずに、言語と同じ土俵でますますステレオタイプ化されつつあることが問題だ。 対策としては、パターン化された映像に対する自由な批判を保証することだ。本来は、映像が抽象的作用に対抗する手段になるはずが、映像を提供する側の人もそのステレオタイプの発想で映像を提供していることがある。映像は本来ありのままを伝えるツールであるが、人が発信する情報を選んでしまったり、主観が入ってしまっているため、ありのままをそのまま伝えることは困難である。人伝てに聞く話がそうではないか。話をしていた人の話を一言一句そのまま伝えることは難しく、その人なりにアレンジしてしまっていることが多いだろう。人を通してしまうとどうしてもその人の主観が入ってしまい、そのまま情報を伝えることが難しい。 またもう1つの対策として、世界を理屈で解釈しようとするのではなく、自分の目でありのままに見ていく必要がある。 映像で放送していることは、全てが事実なわけではない。映像を提供する側は事実をそのまま伝えたいという思いはあると思うが、そのまま伝えることが出来ない場合が多い。 伝える人がその場に行き、伝えていることがたまにあるが、その状況に自分が置かれているわけではないので、理解するのは難しい。そのため、映像で映っているもの全てが事実だと思い込み、信じることは危険である。1番理解するのに適しているのは、自らその場に出向き、体験することなのだ。自ら体験してみることで映像を見ていた時には気づくことができなかったことにも気づくことができるはずだ。私は韓国で4ヶ月間生活をしていた。韓国に行く前から、韓国ドラマを見ていて韓国のイメージは掴めていたが、やはり実際に行って生活するとその抱いていたイメージは覆された。もちろん日本とは異なる文化もあり、日本人のあたたかさが良いということにも韓国で生活することで気づくことができたが、韓国人もあたたかい人は沢山いて、救われた。韓国に行く前には思ってもいなかったことばかり経験できた。国境なき医師団で海外派遣に参加した方は、「現在はメディアのグローバル化で世界の状況がすべて解ると錯覚するが、実際現地に行くと、果たして日本の報道はどこまで事実を伝えられるのか?と感じる。自分の目で見て、体験して、初めて世の中を多少は評価できるようになるのではないかと思う。」と話している。 確かに、知識の裏付けが映像をより深める場合もある。しかし、映像は言語とは異なる価値を自覚すべきだ。「百聞は一見にしかず」ということわざもあるように、映像を通して得たものを信じるのではなく、実際にその場に行き、見たことを信じるべきだ。実際に出向くことは難しい場合もあるが、映像に映っているものが全てだと思いこまないことが大事である。
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