意見の尊重
   中3 あかれり(akareri)  2025年2月1日

  テレビの時局討論会などを聞いていると、司会者が、「イエスかノーかで答えてください」と言っているのに、長々と意見を述べる論者が多い。自分の心中を尋ねてみて百対ゼロの確信でイエスが言える場合もあれば、五十五対四十五でからくもイエスに傾いている場合もある。もかかわらず、「イエス」と答えたとたん、すべて百対ゼロのイエスのような印象をふりまくことになってしまう。その誤解を避けるあまり、簡単に答えることができない。

 確かに多数決で物事を決めることも悪いことではない。多数決は身の回りのあらゆる場面で使う採決方法だろう。例えば友人間である。グループで遊ぶ話になった時グループの一人が何をして遊ぶかなど勝手に決めることは少ない。遊ぶ友達たちにドッチボールがいい人、鬼ごっこがいい人、室内遊びがいい人などと聞き結局は多数決で決まることがほとんどである。また、多数決は政治の場でも広く用いられている。有名なところで行くと、国会で行われる会議である。出席議員の何分の何賛成だったら、可決され、結果がその基準未満だとしたら否決される。これは私たちのすぐそばにある事例でないため想像しにくいかもしれない。では、選挙を考えてみてほしい。衆議院選挙や都道府県知事、市長など政治の責任者は国民によって決められるため身近なものだろう。去年も衆議院の選挙などが行われたのは記憶に新しいだろう。詳しく言えば衆議院選挙は小選挙区比例代表並立制がとられている為すべての議席が多数決で決まるわけではないが半分以上の議席は多数決によって取られている。このように国全体として多数決が使われている点から多数決を使用して物事を決めることは悪くないことだといえる。

 しかし全会一致の採決をとることも大切だ。多数決をすれば必ず賛成派反対派に分かれる。言い換えれば必ず自分の意見が通らない人もいるということだ。しかし全会一致の採決をとることでそのような人を出すことは少なくなる。日本では昔全員一致を組織運営の原則とするという伝統もあった。村の方針を決める話し合いなどでは、多数決で決めずに何日も何ヶ月も話し合いを続けることによって最終的に全員一致になるまで話をするというやり方が採られていたようである。みなさんの中にも、「多数決で決めたことなら反対者がいてもゴー」という割り切り方に抵抗を感じる人が多いはずだ。日本人は、「一応、かたちの上だけでもみんなが賛成してくれなきゃ」というメンタリティを持っているとかんがえることができる。昔話の桃太郎でも桃太郎と家来たちが全員一致で鬼征伐に向かったからこそ力をあわせて鬼を退治することができたのだ。皆の意見を一つにして一つの出来事に取り組んだというわけだ。

確かに「賢明な決定とは、多数の声に耳を傾けつつ、全員が納得できる道を探ることである。」という言葉があるように多数決で物事を決めることも全会一致の採決が良いこともある。しかし「もっとも価値のある決定は、その結論ではなく、それに至る議論な中にある。」という言葉があるよう最も大切なことは良い結果だけを求めすぎずにその過程を大切にすることである。人生も最後だけでなく今まで生きてきたことに意味があると考え、やることなすことに価値を見出し生きていきたい。