盲目的な特別視
   高1 かずま(auyoto)  2025年2月1日

  作者は、心の中に奇怪な観念が横行してどうしようもなく持て余した少年の晩期の頃、しゃべることがどうしても他者と通じないという感じに悩まされていた。過剰な観念をどう扱ってい良いかわからずん、しゃべるこことは、自分を表し得ないということに思い煩っていたのだ。そうして、しゃべることへの不信から書くことを覚えたそうだ。それは同時に読むようになったことを表している。自分の周囲を見渡しても、同類は全くいないように思われたのに、書物の中では、たくさん同類が見つけられた。深入りするにつれ、読書の毒は全身を犯し始めた。と今でも思うらしい。ところで、そういうある時期に、作者はふと気が付いた。自分の周囲には、あまり自分の同類は見つからないのに、書物の中にはたくさんの同類が見つけられるというのはなぜだろうか。一つの答えは書物の書き手になった人間は、自分と同じように周囲に同類は見つからず、また、しゃべることでは他者に通じないという思いに悩まされた人たちではないのだろうか、ということである。もう一つの答えは、図分の周囲にいる人たちもっみな、実はしゃべることでは他者と疎通しないという思いに悩まされているのではないか、ただ外からはそう見えないだけではないのか、ということである。私は、自分を知り、自分を特別扱いするべきではないと思う

 その方法として第一に他者のことを知ることだ。他者の実力を知るうえで最も手っ取り早いのは、テストの結果などであろう。他者の実力というのは、なかなかに図るのは難しい。それが、自分と近しい立場で生活しているものとあればなおさらだ。人間というのは完璧になれるものではないと思う。必ず、大半の人が自分と比べて劣っている個所はあり、人間は他者のそういう面を見たくなる。しかし、それで他者が一方的に自分より劣っているかというと、もちろんそうではない。あくまで、一か所欠点を見つけたからと言って、その人の持つ別の長所が、自分のそれより低いとは限らないし、劣っていると思われる人を、その人の輝ける場所に置けば、それ相応の輝きを見せるのかもしれない。その点で、テストは様々な教科の結果が一目瞭然なので、分かりやすいといえばわかりやすい。教科ごとに、友達と見比べ、平均点と比べれば、おのずと自分がどのようなポジションにいるかが分かるだろう。しかし、テストだけで人の優劣が決まるわけでもない。当たり前だが、テストは、一部の、勉学の実力を図る物であって、人間性や、学校にない授業の良し悪しが図れるものではいないからだ。それに、学校というのは、同じ実力の人が集まる所でもあるので、自分は頭がいいと中学生の頃に思い、さて高校に入ってみれば、自分はさしてテストで好成績を残せず、顔をしかめることもあろう。それを補うためには、他者との親睦を深めることだ。他者と親睦を深めれば、おのずとその人の人間性も見えてくるだろう。他者を知らなければ、自分のことを理解することは難しい。他者とのかかわりあいも、テスト同様、自分を知ることの手助けとなるだろう。

 その方法として第二に、己を知ることだ。当然ながら、自分を特別扱いするべきでない理由は、それによって招じる認識のずれで、損害を被る危険性があるからだ。このくらいの仕事なら、期限内までに間に合うだろうと安請け合いをしてしまい、大目玉を食らったことは一度や二度ではない。おそらく、多くの人が一度は経験しているだろう。それは、自分の実力を見誤ったからであろう。己を知ることはこのような参事を未然に防げる可能性を持っている。自分を特別扱いせず、認識のずれを起こさせないための最も重要な方法だと思う。己を知るということ、それは自分の出来ること、出来ないことを知るということだ。それさえ知れば、出来るものはより自信をもって出来る様になり、出来ないものは出来ないなりに対策を講じることが出来る様になる。それは、基礎を固めるという大切な行為だ。これがなければ、思うように家は建てられないだろう。ではどうやって己を知るべきなのだろう。それは自問自答を繰り返すことだ。なぜ自分はあの時ああしてしまったのか。なぜ自分はあの時こうしなかったのか。自分が何が出来て何が出来ないか、ただ偶然できたのか、それとも努力の結果なのか。運が良くなかったのか、もとよりできないのか。原因を探り、考えて正しい判断をしなければ、たとえ何が出来て何が出来ないかを知れたとしても意味はない。そんなところも含めて、我々は己を知らなければならないのだ。出なければまた大目玉を食らうことになるだろう。

 たしかに、先に挙げた方法は、一部の人にはむしろ逆効果な面もあるし、そもそも自分を特別扱いしない人生は、何か彩をうしなうのではないかということも挙げられるだろう。それは、まったくもってその通りだとおもう。人間は一人一人かけがえのない存在だと習う。それは何も間違っていないと私は思う。実際、似たり寄ったりな人は大勢いるが、必ずみなどこかで人と違ったところがあるからだ。だから、自分を特別だと思うこと自体問題はない。問題なのは、自分は特別だというあふれる思いで、盲目的になってしまうことだ。勘の鋭い人ならきづいたかもしれないが、この文の構成はとある名言に大きな影響を受けている。敵を知り、己を知れば百戦危うからず、だ。孫子の名言だが、これは現代の戦が、少なくとも日本国民が直接的に巻き込まれていない現状でも大いに役立てることができると思う。何事も、狂信的に信奉してしまうと自分の視野を狭め、そこにある罠に気が付かず墓穴を掘ってしまうことがある。特に、自分を特別な存在だと思うと、そのような墓穴や、思わずアッと言いたくなってしまうような思い出を作ってしまうことも多くなる。それを防ぐためには、やはり敵を知り、己を知るしか方法はないだろう。この場合、敵ではなく他者ではあるが。他者と自分を比べ、自分は何が勝るのか、何が劣るのかを分析して、それに対応した行動をとるべきだ。自分を特別視することに限らないが、人間は、狂信的信仰の悪い面にも築かなければならない。狂信的信仰で、盲目的に物事をとらえてはいけないからだ。盲目的思考が、なぜ悪いかは、歴史が証明している。