余白が及ぼす力
中1 あかるら(akarura)
2025年2月2日
私は新聞を読む際には行間と余白の読み手となる。新聞を縁日として見て一番楽しく、ぴったりしているのはやはり広告欄という名の夜店通りかも知れない。縁日であるなら思ってもみなかった種類の商品に出会う面白さはできるだけあった方が良い。情報も個人がひそかに培養している「私」文化といった、あまり人と分かち持ちたくないものに直接プラスになるものの方が、意外性の面ではより高いように思われる。私は、行間や余白により目を向けるべきだと考える。この理由は二つある。
第一に、視野を広げることができるからだ。私達が情報を得て自分の考えを広げるきっかけは中身からだけでなく余白にも多いと思う。身近な「学校の授業」という視点から考えると分かりやすいだろう。先生の授業が最も重要な中身の部分であり、周りの先徒が話すことや先生の雑談などが余白だと言える。学校では余白と大切な中身の両方を楽しむことができる。特に社会の授業はそのー例だ。この教科では授業はもちろんだがグループワークが多いことや先生の余談によってより多くの価値観を得ることができる。雑談からは新しい知識を、また友人との会話からはその友人の特徴を知った。以前、東北地方の自然について学んだ際、白神山地の話が出たが、その雑談として白神山地が日本初の遺産となったことやその経緯などを先生が教えてくれた。この話は試験などには出ないだろう。しかしこの話を通して私は東北地方の自然とその美しさについてより深く知ることができたことを今でも覚えている。この話を起点にその他の地域の自然に興味を持って調査するようになった。この一つの雑談が私の視野を広げてくれたのだ。まずは余白であれ、中身であれ全てに目を向け考えることが新しい物事を築き、自分の世界を広げる土台となるのだ。
第二に余白を上手に活用することで、余白でない方により集中することができるからだ。人間は休息と余白がなければ持続的に作業を行うことは不可能だ。私は英語と数学を学ぶ塾に通っている。短い時間ではあるものの、勉強する内容はとても充実しているため時には脳の疲労によって理解が追い付かなくなってしまうことがある。しかし雑談という余白によってその疲労が吹き飛ぶ。先生の余談は新たな知識を得られるものから失敗談までその種類は多く私はいつも楽しんでいる。例えば英語の発音について学ぶ授業では歓談として、以前イギリスに住んでいたという先生の経験を元に、ある面白い有名な文を用いてイギリスとアメリカの発音の違いを知った。これによって集中を継続させて勉強することができた。もしこのとき、このような話がなければ最も大切である授業の集中が途切れてしまっていただろうと今思う。産業保健新聞のデータによると、様々な研究で長時間座る人、つまりあまり休憩を取らない人はそうでない人に比べて15年以内に死亡するリスクが約40%高いことが分かっているそうだ。このことからも、次世代に亘って持続的に課題を進めるためにも休息つまり余白が必要であることがわかる。余白に支えられて私達はやらなければならない事柄を積み重ねることができるのだ。
確かに中身からの情報を読み取ることが私達の目的である。しかし「本当の知識は、事実を知ることではなく、行間を読むことにある。」というオスカー・ワイルドの言葉がある。行間を楽しむことで中身を持続的に楽しみ、かつ吸収することができるのだ。私はこれからも行間や余白の効果にも注目しながら、やるべきことを継続し達成していきたい。このことから行間や余白により目を向けるべきだと私は考える。