ありふれた空間になる世界
   中1 のんのん(auhoha)  2025年2月2日

 演劇、音楽、催し、人についてなど、こうした、自分が知っているからこそ隠れた意味が明らかになるといった事実は、なるべるそれらしくないところにおいてあった方が良い。実際、私はドラムを習っていて発表会の時に出る時にそれを実感することが多い。発表会の時、ドラムは一人ではメロディを作ることが難しいためピアノの先生や、マリンバ(木琴のような楽器)先生との共演するのだが、私の見せ場やこれからの盛り上がりを作るために演奏時、絶対にどちらかの音が止まる。一見すると単なる曲としての音の途切れで見逃してしまうような瞬間が人間の情報の極限化の欲求の表れになるのだ。つまり、物事の間に挟まった空間は私たちの想像の倍以上に複雑かつ些細でもっと目があたるべき存在なのである。

 第一にこの世界の娯楽は知らず知らすのうちに空間によってコントロールされている。例えば「ミッケ!」や「ウォーリーをさがせ」などをはじめとする隙間ない空間から広がる遊びと空間しかないところを埋めていく塗り絵。相対する二極の遊びも空間から来るという共通点がある。「ミッケ!」などのさがしっこ絵本も空間を作れば塗り絵へと変化し、塗り絵も空間を彩れば独自の世界を探すことだってできる。全てものは白紙の空間の上から始まり、おったり切ったり彩ったり、そういう楽しさを加えて人々を悦にしていく。空間とはコントロールされるためにあり、食べたものによって体色が変わるカメレオンのようにさまざまな色を見せてくれるのだ。

 第二に人々は自然と疲れない方にいく傾向にある。誰しも、できれば苦労しないように思うのが普通である。そこに重たい荷物があったのなら代車やら、他の人の手を借りるやら知恵を絞りながら自分への負荷が少ない方を選ぶ。読書に関しても同じで、全世代複合で読んでいる書籍は圧倒的に多く、小説を読むのが苦手な人に対して行ったアンケートでは文章を読むのは疲れるといった意見が多く上がったのだ。こうなった理由は小説と漫画の空間の使い方のつがいが反映されていると思われる。小説は、日常にある大量の情報を全て文字で表現しないといけないため空間を狭めて文字がより多く入るような創りになっている。そのため、パンパンに膨れ上がった文字に頭がキャパオーバーし、その状況から苦手だとか疲れる思ってしまうことが多いのだ。対して漫画は、言葉に加えて描写も描かれるため動作に使う文字は少ない。そのため、一つのページにも小説と比べて大量の空間ができる。なので、空間が多い分頭の限度が守られ隣に立った小説と比べて、こっちの方がいいと思われやすくなるのだ。

 確かに私たちは生活を満たすためのものを求める。私たち人間の誇るべき科学も求められたものの一つだ。しかし、「私は、理詰めで考えて新しい事を発見したことはない。」というアルベルト・アインシュタインの名言にもある通り、詰められた箱の中では見えない空間を出すことによって、人生はとってより快適、より新たなものにあふれたものになるのだ。