みおさん、作文を読ませていただきました。

全体を通して、自然と人間との関係について深く考察している点が印象的でした。特に、自分の体験や家族の話を取り入れながら、その変化を感じさせる筆致(ひっち)は非常に素晴らしいです。それぞれの段落(だんらく)がしっかりと独自の視点(してん)を持っており、読む人に考えるきっかけを提供(ていきょう)しています。また、自然との直接的な経験が減少していく現代において、自然をどのように感じ、どのように関わっていくべきかという問いかけは、多くの読者にとっても共感を呼ぶ(よぶ)でしょう。

文章の流れも非常にスムーズで、主題に沿っ(そっ)て適切に情報が配置されており、読みやすい構成になっています。言葉選びも適切で、情感豊かな表現が散りばめられており、読む者の心に残る内容です。

また、「人間はみんなどこかで自然とつながっている」という表現は、一般(いっぱん)化の主題をうまく表しています。これにより、作文全体のメッセージが強調され、その重要性が際立っています。

項目(こうもく)評価:
1.構成と流れ:非常に良い
2.主題の表現と深堀(ふかほり)り:非常に良い
3.語彙(ごい)の使用:適切

語彙(ごい)力評価:
-字数が1200字以上書けています。
-考える言葉がよく使われています。

一般(いっぱん)化の主題がよく書けています。「人間はみんなどこかで自然とつながっている」

 構成◎ 題材◎ 表現◎ 主題◎ 表記◎

字数/基準字数:1398字/1200字
思考点:85点
知識点:65点
表現点:79点
総合点:83点
(新しい森リンで仮の点数を出しています)

作文字数1398字
目標字数1200字
総合点 83 点
思考語彙 85 点
 





79

知識語彙 65 点
 


■思考語彙 34個
と場合,場合によって,やろう,花いわゆる,だから,と思う,わからざる,。しかし,みると,抜かざる,。だから,と思う,。しかし,。だから,できざる,作るべき,と考える,考えるかも,と思う,だろう,。だから,わかるため,ないと,ないと,は思う,人間にとって,。たとえば,と思う,生えるべき,なければ,。だから,と思う,みよう,と思う,

■知識語彙 37種
一番,一部,人工,人間,共存,前者,動物,勝手,危険,場合,場所,変化,大事,大人,大切,大変,子供,年生,態度,最後,機会,気軽,理由,生命,町中,競走,結局,自分,自然,蓮華草,血眼,近所,道端,都会,関係,隙間,雑草,

■表現語彙 108種
おかげ,きっかけ,こと,ことわざ,さ,ざらい,そう,そこ,それ,それら,たち,ため,たんぽぽ,ちい,つながり,とき,どこ,ふた,みんな,もの,よう,わけ,エノコログサ,コンクリート,ゴミ,トマト,フナ,ベランダ,ミニ,一,一番,一部,上,人,人工,人間,今,何,全て,共存,前,前者,力,動物,勝手,匹,危険,回,場合,場所,変化,大事,大人,大切,大変,子供,家,川,年,年生,庭,当たり前,態度,数,日,昔,時,最後,機会,歩,母,気軽,水,理由,生命,町中,的,目,私,端,競走,結局,考え方,自分,自然,花,蓮華草,血眼,覚え,話,足,車,近所,通りがかり,遊び場,道,道端,達,都会,野,間,関わり,関係,限り,隙間,隣,雑草,頃,

■文化語彙 54種
あう,いける,おく,おける,かみ合う,くれる,しまう,しれる,せる,つながる,できる,でる,なくなる,ぬく,むける,やめる,やる,られる,れる,わかる,住む,作る,入る,出る,助ける,取る,取れる,含める,喜ぶ,引き抜く,思える,抜く,拾う,持ち帰る,教える,流れる,滑る,焼く,生える,生きる,生まれる,知る,考える,聞く,育つ,育てる,育む,落ちる,行う,触れ合う,触れ合える,調べる,遊ぶ,食べる,

 

人間はどこかで自然と
   小6 みお(aemio)  2025年2月2日

 筆者の家が面している路地はほそうされていず、道端に草が生えていて子供たちが草の葉を引っ張っているところを筆者はよく見かける。彼らは地球のかけらを発見しているのではないだろうか。しかし現在、下水道工事で車の振動によって下水道がこわれないようにしっかりとほそうされたしまった。もともと路地にいた雑草たちは工事以来、姿を消してしまい、路地はもう地球のカケラではなくなってしまった。ハイキングで緑が気持ちいと喜ぶ人も自分の庭の雑草は血眼で引き抜いてしまう。このように町中の雑草に対する人間の態度は時と場合によって変化するものである。



 私は5年生のとき家のベランダでミニトマトを育てていた。ある日、トマトに水をやろうとベランダに出ると育てた覚えのない見知らぬ花いわゆる雑草がトマトの隣に生えていた。雑草は結局抜かなかった。その理由は、大変だからと思ってやめたのか、雑草の大事さを知っての上でぬかなかったのか、それは今でもわからずにいる。しかし、今にしてみると、抜かず、そのままにしておいたおかげでその雑草が「ハルジオン」だとわかった。また雑草の生命力の強さと、人工的ではなく自然のかみ合いで生まれたものを人間の勝手で抜いてしまうのは良くないのではないかと思えるようになった。だからあのとき、実際どんな理由があったのかはわからないけれど、抜かなくてよかったと思った。



 私の母が子供の頃住んでいた家の目の前には川が流れたいたそうだ。近所の子供達は年に数回行われる川ざらいの日に川に入ってフナを取り家に持ち帰って焼いて食べたそうだ。子供達は何匹取れるかを競走しあっていて、その頃子供と自然の関係は近かった。しかし、そこは道が狭く車が落ちたら危険、子供が足を滑らせて落ちてしまったら大変、などという理由で川にふたがされてしまった。だから今では昔のように気軽にはフナを取ることもできず、またゴミ拾いなども一番最後にゴミが流れてくるような川の端でしかしなくなってしまったそうだ。私は、母から話を聞いて、川で遊んでいた人なら今の子供達にも自然と触れ合える遊び場を作るべきだと考えるかもしれないけれど、川で遊ぶ機会がない子供達はそれが当たり前だと思って大人になっても何か機会やきっかけがない限り前者のような考え方はしないだろう。だから自然を大切だとわかるためには話を聞くだけでなく実際に触れ合わないといけないと私は思う。



 自然とは人間にとって私たちに生命の大事さ、強さを教えてくれるものである。自然がなくなってしまったら人間は生きられない。自然は人間も含めて動物を助けてくれているものである。たとえ都会で育ったとしても全く自然と関わりがないわけではない。人間はみんなどこかで自然とつながっている。たとえばコンクリートとコンクリートの間の小さな隙間に生えているたんぽぽや、道端にいつの間にか生えているエノコログサなど、全て自然が育んだものである。それらを通りがかりに目をむけてみたり調べてみたりするのも自然とのつながりの一歩であると思う。「やはり野におけ蓮華草」ということわざがあるように、自然は生えるべき場所に生えてくる。また人間と自然は共存していかなければならない関係である。だから私はこれから、自分は自然の一部だと思って生きていき、自然ともっと触れ合ってみようと思う。