自然の種類
   小5 ゆき(aonari)  2025年2月2日

生きたチョウチンアンコウがどのようにして光るのかは、長らくだれも知らなかった。この生きたチョウチンアンコウは今までのいろいろな謎を解いてくれた。このような機会はおそらくもうないであろうそのことごとくがまだ水族館では飼えないでいる。東海大学海洋科学博物館では、千九百八十九年以来生きた化石と言われているラブカを中心に、駿河湾の深海魚の飼育に挑戦してきた。しかし、正直言って前途遼遠である。深海魚が水族館で飼えないのは、それが深海にすむという事実よりも、深海に棲んでいるためだけに皮膚や内臓が傷つきやすい、体がもろくてこわれやすい、環境の変化に弱いという理由のほうが大きいようだ。



 私の家では鰻を飼っていたことがある。全然エサを食べなくてどんどん痩せていくから、大丈夫かなと心配していると、ある朝玄関の靴の横でカラカラに干からびていた。水に戻したら少し元気が出たから、鰻の生命力はすごく高いんだなとびっくりしたが、すぐに死んでしまった。多分、おなかがすいたのとストレスで棚の上にある水槽から自分で飛び降りたのだと思う。鰻がいた場所と同じ環境にするのはとても難しいんだなと思った。調べてみると、自然にはもっと生命力の強いプラナリアという生き物がいて、体を切っても再生するらしい。この生き物は、体を三つに切られても再生してさらに三つに増える。切られたところが再生して、増えるなんてまるでアニメの切ったら増える敵キャラみたいだと思った。そんな生き物がいるなんて自然はまだまだ奥が深いなと思った。



 人間は進歩して、今では人工の生き物を作れたり人間にとても似ているロボットを作ったりしている。でも、まだ自然は操れていないし、自然にいる全ての生き物すら見つけられていない。そうは問屋が卸さないということわざがある。意味は、自分勝手に都合の良いことを言っていても物事はそれほど簡単に思い通りになるものではないというたとえで、自然は思い通りにはならないということだ。自然は、人が手を加えなければ綺麗なままなのに、人が手を加えてしまうと、コンクリートに変わってしまう。最初に比べて、科学はどんどん進歩して発展している。だが、災害を未然に防いだりは出来ないし、天候を変えたりもできないから、自然には到底かなわない。自然にはまだまだ不思議やまだ知らないことが沢山ある。人間にとって、自然は雲の上の存在だ。自然は操作出来ないもので、それを受け入れることが大切だと分かった。